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愛 着




■ 愛着

「ルカの福音書 14章21節〜24節」
14:21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』
14:22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
14:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
14:24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」




国語辞典を見ますと、「愛着」とは「今まで慣れ親しんだものから離れたくないと思う心」と説明されています。人間の心の中にある愛着は、恐るべき力を持っているのです。それで神様は、間違った愛着に関してはっきりと警告しておられます。

本文を通して、イエス様は次のようなたとえを話されました。あるお金持ちが盛大な宴会を催して、多くの人々を招きました。ところが、宴会に招かれた人々が様々な理由と忙しいということから招きを断りました。すると怒った主人は、しもべたちに「早く街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。」と言いながら、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」と、付け加えました。このたとえは、天国に向かって行く聖徒さんたちに、愛着に対する貴重な教訓を与えています。

この世に対して愛着を持っている人々は、主がいくら天国の宴会を用意して、招いておられても応じません。それで主は、選んだ民を呼ばれる時、彼らが持っているこの世に対する愛着を全部捨てるようになさるのです。 実際に宴会に招かれた人々は、街の貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々と足のなえた人々でありました。主人がこれらの人々を連れて来るようにしたのは、彼らはこの世の中に愛着を持つほどの何物も持っていない人々であったからです。彼らは頼るところも頼るものもなかったので、かえって天国の宴会に参加することができた人たちでありました。

主が「ここに来なさい。」と言われる時、直ぐにすべてを捨てて駆けつけて行く姿勢こそ、天国の宴会に参与することができる確実な秘訣です。
ところが愛着には、捨てなければならないものと、最後まで守らなければならないものがあります。「金持ちとラザロ」のたとえ(ルカ16:19〜31)を見ますと、金持ちは贅沢に暮らしながら、世の遊びにだけ愛着を持って生きましたが、ラザロは門前乞食をしながらも、とこしえの天国に対する愛着を持って暮らしました。それで彼らが死ぬや、金持ちはハデスに落ち、ラザロは天の楽園・アブラハムのふところに連れて行かれました。

こそのたとえは、私たちがこの世の中で暮らしながら、瞬間的な快楽に愛着するか、もしくは、とこしえの喜びに愛着すべきかをはっきりと見せています。私たちは砂漠のようなこの世の中で暮らす間、世のことに愛着を持たずに、とこしえの天国を見つめる神様の国の民とならなければなりません。





お祈り

愛であられる主よ!神様が、備えておかれた天の御国をイエス様にあって信仰の目を通して見ることができるようになさいましたが、愚かな私たちはこの世の安楽と驕慢に溺れて、永遠なる審きを受けるしかない存在になりました。 主である神様!私たちはどんな事に愛着を持っているでしょうか?この世の快楽に溺れて滅亡される事がなく、とこしえの天の御国を見つめながら生きて行く神様の御国の民となるように、助けてください。 イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!







マザーテレサ 愛のことば

 
NO.05001