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火で燃えていた柴の教訓




■ 火で燃えていた柴の教訓

「出エジプト記 3章 1節〜5節」
3: 1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3: 2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3: 3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3: 4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
3: 5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」




モーセは、彼の年40歳の時に殺人をし、ミデヤンの荒野に逃げました。彼はその熱い砂漠で40年の間羊を飼い、柴を友として過ごしました。そうするうちのある日、羊の群れを引き連れてホレブ山にやって来た時、彼は消えずに燃え続けている柴の火の炎の中で自分を呼ばれる神様の御声を聞きました。その時、神様はモーセに「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と仰せになりながら、彼に民族の救いという使命を与えられました。その後、モーセはエジプトの抑圧に苦しんでいるイスラエルを救い出した民族の指導者、また、旧約の最高の人物になりました。

それで、今日は神様が、燃えていた柴の中でモーセに与えられた教訓が何であるかを見ることにより、重苦しい現在の生き方を清算し、新しい人生に変えていく道を考えてみたいと思います。

第1番目に、神様は外見だけで人を判断されることはなさいません。神様はなぜモーセの前に現われる時、荘厳な環境の中で現れてくださらずに、みすぼらしい柴の中から現われたのでしょうか。それは「荒野に捨てられた柴にも神様の栄光が燃えあがるように、私があなたを通して私の栄光を現す。心配することはない。」という意味が含まれています。それで、私たちは世の中で捨てられ、私たちに関心を注いでくれる人がいなくても、主は私たちを尊く思われ、たずねて来てくださることを信じ、どんな場合にも気を落とすことがないようにしなければなりません。

 第2番目に、神様が私たちに与えられる愛と恵みは永遠なものであるということを知らなければなりません。モーセが見た柴についた火は消えることなく燃え続けました。そのように、神様が私たちに与えられる愛と恵みは決して消えることはありません。すべての人生は草のようで、その栄えは草の花と同じくやがてはなくなりますが、私たちに臨んだ神様の愛と恵みは、かえって日増しに燦爛と燃え上がっていくのです。

第3番目に、神様は私たちを最後まで責任を負ってくださるという事実を知らなければなりません。神様はモーセに「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と仰せられました。当時の中東地域の風俗では、足のくつは責任を意味しました。中東地域では責任を負わせる時、くつを脱ぎ、それをあげます。それでこの御言葉は、神様がモーセを最後まで責任を負ってくださるという意味があるのです。今日も神様は私たちに向かって、「あなたを、最後まで責任を負ってあげる。足のくつを脱ぎなさい。」と仰せられます。

ですから、私たちの人生がどんなに荒野のように荒れすさんでいるとしても、私たちを訪ねて来られる神様を信じ、拠り頼まなければなりません。神様は信じて拠り頼む者を、とこしえまで愛と恵みで責任を負ってくださいます。





お祈り

愛であられる、父なる神様!  年寄りのモーセを呼ばれ、慰めと勇気と使命を与えてくださった神様!この時間、わたしたちに訪ねて来られ、助けてくださることに感謝します。モーセを召される時、柴についた火が燃え上がるように、神様が私たちに与えられる愛と恵みは、日増しにもっと素晴らしく燃え上がることを信じます。今日も主にすべてを委ね、拠り頼むように、私たちを導いてください。  イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン








マザーテレサ 愛のことば

 
NO.05041