前へ    次へ

1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月


2006年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
             


1月11日


■ 祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい

「マルコの福音書 11章20節〜24節」
11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。


イエス様が弟子たちとともにエルサレムの宮に入って来られる時、空腹を覚えられ、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれました。ところが、葉のほかには何もないのに気づかれました。イエス様は、その木に向かって「今後、いつまでも、誰もおまえの実を食べることのないように。」と言われました。

翌日、再びその所を通りがかる時、弟子たちは根まで枯れているいちじくの木を見つけ、「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」と言いました。するとイエス様は、「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と言われました。

それでは、私たちはどのようにしたら、このような奇跡を体験することができるでしょうか。

第1番目は、信じることです。聖書に、「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と記録されています。現実的に可能なものを望み、見るのは信仰ではありません。現実的にはとても不可能に見えるものを、既に成就したと信じて、見つめる時、不可能が可能に変化する奇跡を体験するようになるのです。

第2番目に、祈って、求めなければなりません。大きく堅固な信仰があっても、求めなければ、何の御業も起こらないのです。スロ・フェニキヤの女がイエス様の前に出て、汚れた霊につかれた娘を癒してくださいと願ったとき、イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われました。しかしスロ・フェニキヤの女はあきらめずに、「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子供たちのパンくずをいただきます。」と答えながら、せつに願いました。 このように確固たる信仰を持って、切に求める祈りに感動された主は、その場で答えてくださいました(マルコ7:25〜30)。このように信じ、切に求める祈りは、信仰の偉力を現わします。

第3番目に、疑ってはなりません。疑いは誰にでもありますが、疑いの中に落ち込むか、または、疑いに勝つかによって、祈りに対する御答えが左右されます。聖書は、「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブ1:6〜8)と言われています。それで、私たちが信仰を持って求めたものは、すでに受けたと信じ、疑わずに進んで行く時、偉大な奇跡を体験する創造的な人生を歩むようになるのです。




お祈り

天の父なる神様!信じて求めるものがすべて、まことに答えていただく信仰生活をして来たか、私たちが信仰状態を再点検することができるように助けてください。祈り求めたものはすでに受けたと信じ、疑うことがない大胆な信仰を持つようにしてくださり、神様の奇跡を体験する信仰生活をすることができるように導いてください。 イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!