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5月13日


■邪悪な者の終末

「士師記 9章50節〜54節」

9:50 それから、アビメレクはテベツに行き、テベツに対して陣を敷き、これを攻め取った。
9:51 この町の中に、一つ、堅固なやぐらがあった。すべての男、女、この町の者たちはみなそこへ逃げて、立てこもり、やぐらの屋根に上った。
9:52 そこで、アビメレクはやぐらのところまで行って、これと戦い、やぐらの戸に近づいて、それを火で焼こうとした。
9:53 そのとき、ひとりの女がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕いた。
9:54 アビメレクは急いで道具持ちの若者を呼んで言った。「おまえの剣を抜いて、私を殺してくれ。女が殺したのだと私のことを人が言わないように。」それで、若者が彼を刺し通したので、彼は死んだ。




一人の人の人生がどうであったかは、その人の終末を見れば分かると言います。義人は、一生涯を苦難の中で暮らしたとしても、その終末は美しいです。しかし邪悪な者は、初めと過程は良いこともあり得ますが、その終末は悲惨である場合が多いです。聖書は、アビメレクを通して邪悪な者の終末をよく見せてくれています。


第1に、邪悪な者は、災難を避けることができません。アビメレクは、テベツの人たちがみな逃げて町の中のやぐらの屋根に上った時、そのやぐらを火で焼こうとする決定的な瞬間に、ひとりの女が投げつけたひき臼の上石に打たれて、彼の頭蓋骨が砕かれました。このように邪悪な者の終末は、目的が立派に達成されそうであっても、決定的な瞬間に回復することのできない致命傷を負うようになるのです。


第2に、邪悪な者は、最後まで真実であることができません。アビメレクは、女によって殺されたと言われるのが恥ずかしくて、道具持ちの若者に「私を殺してくれ。」と頼み、自分が戦死したように見せかけようとしました。多くの人々は、一生涯を悪を犯しながら生きてきたとしても、死の間際には後悔し、自分の姿をありのままに見せながら、真実に戻ります。ところが滅亡されるべき邪悪な者は、死の間際になっても真実に戻ろうとしません。それは良心がなく、曲がった自尊心と体面を捨てることができないからなのです。


第3には、邪悪な者には、慰めてくれる人がいません。今日の本文(奉読箇所)を見ますと、イスラエル人たちは、アビメレクが死んだのを見たとき、一人一人自分のところへ帰った、と記しています。聖書に、彼の死を悲しみ嘆いたという表現がないのです。このように、邪悪な者の終末は孤独なのです。彼のために悲しみ泣く人がいないのです。


ですから私たちは、間違った人生を暮らし、ついには慰めてくれる人が一人もいなく、公義の神様の審きを受けてこの世を去って行くようになる邪悪な人たちの、一時的な幸いをうらやんではいけないのです。




お祈り

慈しみ深い、わが父なる神様! 邪悪な心の持ち主であるアビメレクの終末を見ました。私たちの心から邪悪な心を取り除いてくださり、主だけが私たちの救いとなられことを告白する信仰と、これからは真実で謙遜な心で生きて行けるように助けてください。 イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!