■私たちの誇りはひとえにイエス
「サムエル記 第二 19章:20節〜23節」 19:20
このしもべは、自分の犯した罪を認めましたから、ご覧のとおり、きょう、ヨセフのすべての家に先立って、王さまを迎えに下ってまいりました。」 19:21
ツェルヤの子アビシャイは口をはさんで言った。「シムイは、主に油そそがれた方をのろったので、そのために死に値するのではありませんか。」
19:22
しかしダビデは言った。「ツェルヤの子らよ。あれは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。あなたがたは、きょう、私に敵対しようとでもするのか。きょう、イスラエルのうちで、人が殺されてよいだろうか。私が、きょう、イスラエルの王であることを、私が知らないとでもいうのか。」
19:23
そして王はシムイに、「あなたを殺さない。」と言って彼に誓った。
今日の本文(奉読箇所)は、状況によって自分たちの立場をかえて妥協する二重人格者に関する内容です。
ダビデ王が、自分の息子アブシャロムを避けて逃げるとき、バフリム住んでいるシムイという人は、ダビデを呪いながら、石までも投げつけました。ところが、ダビデが戦争で勝ち、エルサレムに帰還するようになるや、シムイは急いでダビデ王を迎えようとして出て来て、ダビデの前に赦しを乞いました。このような、シムイの卑劣な態度を見て腹が立ったアビシャイは怒り、ダビデに“主に油注がれた方をのろったシムイは、死に値します。”と主張しました。しかしダビデは、シムイを寛大に赦してあげ、「あなたを殺さない。」と言って、彼に誓いました。
シムイがダビデをのろったことは、ダビデに油を注がれた神様をのろったことと違いがない、悪い行為でありました。従ってダビデを呪ったシムイの行為は、死んでも当然の罪でありました。それにもかかわらず、ダビデは自分を呪ったシムイを寛大に赦してあげたのです。
当然のことながら、死ななければならに罪人であるシムイを赦してあげたダビデ王から、私たちの罪を赦してくださったイエス様の大きな愛を伺い見ることが出来ます。イエス様は十字架の上で、ご自分をのろい、唾を吐きかけながら、殴りつけるローマ人とユダヤ人たちのために、『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカの福音書23:34)と、神様に祈られました。
私たちは罪人です。ところが、イエス様の十字架の血潮の御力によって、イエス・キリストにあって赦された義人となったのです。ですから、私たちは神様の御前でほこることが何一つありません。私たちの誇りは、ひとえにイエス・キリストお一人だけなのです。
お祈り
愛であられる、わが父なる神様!
罪によって死んだ私たちに、赦しと愛をほどこして、救って下さったイエス様のお恵みに感謝いたします。今日も私たち家族が、ひたすらにイエス様だけを誇りながら生きて行くように助けて下さい。
イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン!
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