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6月9日


■まことのキリスト教信仰

「ヨハネの手紙 第三 1章:1節〜4節」
1:1 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。

1:2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

1:3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。

1:4 私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。




わが国の一人の有名な小説家が、キリスト教に対して、「数多くの信者たちが、キリスト教本来の信仰である、天の道から離れ、自分の救いとか、霊の救いとは関係がない、地の道である事業の繁栄とか、疾病の癒しなど、現実的利得に信仰の目的をおき、ここを信仰の出発点とするようだ。」と言いながら、このような現実的祝福を受けようとするのは、純粋の信仰真理ではない、と批評した文が新聞に掲載されているのを読んだ事があります。

私は、このような問題に対して、聖書中心、イエス中心、そして十字架の救い中心から確実な解答を提示させていただきたいと思います。

先ず、『人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。』(マルコの福音書8:36〜37)と言われる事によって、人間にもっとも重要なのが「たましいの救い」である事を明らかにしてくださいました。

それで主は、私たちがどのような動機からその前に出て来ようと、叱る事なく、私たち全部をふところに抱いて十字架を見上げるようにしてくださるのです。そして、主の血潮できれいに洗いきよめてくださる事によって、私たちのたましいが先ず幸いを得るようにしてくださるのです。

聖書はまた、「すべてに幸いを得る」事を記録しています。神様は、霊的世界だけでなく、物質的世界も人間のために美しく、豊かに造られました。ですから、信仰とは天の道だけ追求しなければならず、地の道を追求してはならないと言うことは、聖書的思考ではありません。

神様中心に正しく立って、先ず第一に神の国とその義とを求める人には、たましいが幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得るように祝福してくださるのです。

イエス様は、私たちが健康であるようにと望んで居られれます。イエス様は、公生涯の期間3分の2を、病を癒される事に費やされました。それだけでなく、弟子たちを2名ずつ送り出されながら、彼らにも、悪霊を追い出し、病とすべての弱さを癒す権勢を与えられたのです。

そして、天に昇られる前には、『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』(マルコの福音書16:17〜18)と言われました。この約束の御言葉通りに、こんにちも、病人に信仰で手を置いて祈れば、病が癒されて、健康になるのです。

このように、主は私たちのたましいと肉体とすべての事が幸いを得るようにと願っておられるのです。ですから私たちは、天の道は勿論の事、地の道においても豊かな主の祝福を受けて享受する人にならなければならないのです。




お祈り

愛であられる、わが父なる神様!

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」と、祝福してくださる神様のお恵みに心から感謝申し上げます。これからも、私たち家族がみな、たましいと肉体とすべてに幸いを得る人生を生きて行けるように助けてください。

イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン!