■神様が与えられる鍛錬
「ヨブ記 28章:20節〜28節」 30:16
今、私は心を自分に注ぐ。悩みの日に私は捕えられた。
30:17 夜は私の骨を私からえぐりとり、私をむしばむものは、休まない。 30:18
それは大きな力で、私の着物に姿を変え、まるで長服のように私に巻きついている。 30:19 神は私を泥の中に投げ込み、私はちりや灰のようになった。
30:20 私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。
神様は、時に従ってご使用なさろうとする人に形容することのできない苦難を与えられる場合があります。ヨブが会った凄い苦難も、神様が与えられた鍛錬でありました。神様は、ヨブに水と火を通過するようになさることによって彼を鍛錬なさいました。
ヨブは、「神は私を泥の中に投げ込み、私はちりや灰のようになった。」と言いました。ヨブは凄惨極まりない苦難の中で、神様から捨てられた、という絶望に瀕するようになりました。イエス様も十字架の上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27:46参照)と絶叫なさいました。
このように神様は、私たちが“見捨てられた”と思うほどに、私たちを鍛錬なさいます。しかし、ヨブの結果とイエス様の復活の勝利を思う時、甚だしい鍛錬の中でも希望がある、ということをはっきりと知ることができます。
また、ヨブは神様に叫び呼ばわりましたが、答えていただけませんでした。ちょうど神様は彼から遠くに離れておられて、彼を顧みてくださらないように見えました。しかし、その裏面には試練を通るようになさることによって、彼の信仰をもっと堅固になさる神様のご意志があったのです。
たまに、私たちが熱く神様に呼ばわり祈るのにも拘わらず、何の御答えもない場合があります。しかし、その時にも、神様が共に居てくださって、神様のご計画を徐々に成しておられるということを知らなければなりません。
更に、ヨブは、「あなたは、私にとって、残酷な方に変わられ、御手の力で、私を攻めたてられます。あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私をきりもみにされます。」(ヨブ記30:21〜22)と言いました。これは、彼が苦しみで死ぬほどになったということを表現します。
神様は、たまに私たちに、極限の苦難を与えられます。それで、神様から見捨てられたと思うようにもなり、祈っても、神様がなんの御答えもくださらないので前途が真っ暗くなり、甚だしくは死ぬほどの苦しみに会うようにもなります。このように、神様が私たちに死に目に会うほどの鍛錬をなさるのは、私たちが多くの実を結ぶようになさるためなのです。
「ヨハネの福音書12章24節」に、『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』と記録されています。
ですから、私たちが死に目に会うほどの鍛錬を受ける時にも、その鍛錬の裏にある神様の善なるご計画を測り知って、最後まで忍耐しなければならないのです。
お祈り
苦しみの中でも共に居てくださる、わが父なる神様!
ヨブは、形容することができない鍛錬を受けながらも、神様に対して恨みとか不平とかを一切口にしませんでした。それは、鍛錬を通して忍耐を教わり、希望の神様を見つめ、待ち望んだからです。私たちがどのような鍛錬を受けようとも、希望を失わないように助けてください。
イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン!
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