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10月20日



■人生の夜が来る時

「イザヤ書 21章11節~12節」
21:11 ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」
21:12 夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」




ある人が、夜回りに、「今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」と訊きました。すると夜回りが、「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」と答えました。この御言葉を通して、私たちは重要な教訓を発見することができます。

第1番目に、人生には、朝と夜があると言うことです。言い換えれば、人生に朝が来たら、夜も来ることになっており、人生に夜が来たら、また朝も来ると言うことです。従って私たちは、人生の朝を迎えたと言って、得意の絶頂にあってもならず、また人生の夜に出会ったとして落胆する理由もありません。

私たちが人生の朝を迎えた時には、夜に対応する知恵を持たなければならず、人生の夜に出会ったとしたら、希望の中で朝を迎えるようにならなければならないのです。

第2番目に、私たちは人生の夜を迎えた時には、悔い改めなければならないと言うことです。人生の朝には仕事に酔って、神様の御心を切に求め、神様の御心を深く落ち着いて考えると言うことは、とても容易なことではありません。それで、人生の朝には神様を忘れ、離れる実例がいくらでもあります。

しかし、人が夜に出会ったら、静かに落ち着いてその日の出来事を反省し、整理する時間を持つようになるのと同じく、私たちは人生の夜が来たら、私たちの信仰を振り返って、神様の御心に反した点を探し、悔い改めなければならないのです。これに対して、今日の奉読個所では「あなたがたは、もう一度、来るがよい。」(21:12)と言っているのです。

第3番目に、私たちが人生の夜を迎えた時には、目を覚まして忍耐するようにしなければなりません。そうであるなら、どのように目を覚ましていなければならないのでしょうか?

 祈りと感謝をもって、目を覚ましていなければなりません。祈りは、私たちの霊が眠らずに、いつも目を覚ましているようにしてくれます。また感謝は、私たちのたましいが患難の中にあっても、落胆しないようにしてくれます。

ですから、使徒パウロ先生も、“コロサイ人への手紙で、「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」(コロサイ人への手紙4:2)と勧めているのです。

また、私たちが人生の夜を迎えた時には、忍耐しなければなりません。忍耐とは、無条件的に耐え忍ぶことではありません。希望をもって忍耐するのです。希望のない忍耐は、実がありません。私たちが人生の夜を迎えて忍耐するのは、朝を期待する希望をもっているからです。

このように、目を覚まして朝を見つめながら忍耐する時、私たちは燦爛たる夜明けを迎えることができるのです。





お祈り

全知全能であられる、我らの父なる神様!

人生には、朝と夜が予期することができないまま、休みなく訪れて参ります。私たちが夜を迎えた時、心から悔い改めながら、希望の中で忍耐し、燦爛たる夜明けを迎えることができるように、導いてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!