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11月15日



■患難に会う時

「エレミヤ書 44章:1節~3節」
44:1 エジプトの国に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパヌヘス、ノフ、およびパテロス地方に住む者たちについて、エレミヤにあったみことばは、次のとおりである。
44:2 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下したあのすべてのわざわいを見た。見よ。それらはきょう、廃墟となって、そこに住む者もない。
44:3 しそれは、彼らが悪を行ってわたしの怒りを引き起こし、彼ら自身も、あなたがたも先祖も知らなかったほかの神々のところに行き、香をたいて仕えたためだ。』」




私たちの人生は、清く、晴れた日だけがあるのではなく、黒雲に覆われたり、台風圏に入って暴風雨に見舞われる時もあります。ところが、神様は、どんな理由であろうと、私たちの人生が患難に見舞われて絶望に落ちた時には、神様を呼び求めなさい、と仰せられました。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15) 。それでは、私たちは患難の日にどのように祈らなければならないでしょうか?

極限の厳しい患難に遭った時には、まず心を砕いて罪を告白し、悔い改めなければなりません。聖徒さんたちに極度の患難が近づいて来るのは、信仰を練るため来る時もあり、犯した罪のために来ることもあります。ところが、どのような理由であろうとも、患難に遭う時には、神様の御前に出て、謙遜にへりくだり、悔い改めの祈りを捧げなければなりません。

なぜなら、聖なる神様の御前で、罪のない、きれいな人は一人もいないからです。「ヨエル書2章13節」を見ますと、『あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。』と記録されています。ですから、患難が近付いて来る時、“なぜ、そんなことが私に及ぶのだろう…?」と嘆く前に、神様の御前に、知りながら犯した罪と知らずに犯した罪とを残らず告白し、悔い改めなければならないのです。

また、患難に遭った時には、断食しながら祈らなければなりません。患難の日に、肉体の安逸を追求しながら、「主よ!主よ!」と呼ばわる人は、神様から御答えをいただくことができません。患難の日は、断食しながら呼ばわり、祈る時です。断食の祈りは、人間の命に直結する食べ物の摂取を中断した祈り、すなわち命懸けでの祈りですので、大きな力が現れます。

このような断食の祈りの時には、食べ物の断食だけではなく、行為の断食、生活の断食が併行されなければなりません。私たちが患難の日に、体と心と生活全般で断食しながら祈る時、神様は、患難を祝福の前奏曲としてくださるのです。

それだけではなく、患難に遭った時には、みんなが一緒に集まって、心を一つにして祈らなければなりません。患難の中に置かれている時、独りで祈るよりは、家族たちと、また区域の聖徒さんたちと共に祈れば、大きな力を現すことができます。主は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイの福音書18:20) と仰せられました。

それだけではありません。聖書には、「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させた。」(申命記32:30参照)と記録されています。ですから私たちは、患難の日には、心を一つにした祈りを通して患難を克服して勝利を博さなければなりません。





お祈り

全能なる、父なる神様!

神様の御前で、いつも謙遜な心を持つことができるように導いてください。人生の旅路の中で暴風雨に出会うとしても、堅固な信仰を持って、神様の御前に祈りを捧げながら力強く生きて行くように助けてくださり、私たち家族全員が、信仰でひとつになるように祝福してください。

イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン!