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12月24日



■まことの悔い改めとは何でしょうか。

「ゼパニヤ書 2章:1節~3節」
2:1 恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。
2:2 昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。
2:3 主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。




今日の本文(奉読個所)で、神様はイスラエルの民たちに悔い改めるようにと勧めておられます。神様は罪に対して審かれますが、その審きは究極的に「滅亡させるための審き」ではなく、「命を与えるための審き」です。そして、この命は、悔い改めことを通してだけ得ることができます。それでは、まことの悔い改めとは何でしょうか?

まず、まことの悔い改めとは、自分自身の羞恥を知ることです。本文「1節」に、『恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。』と記録されています。これは、自分の罪悪を知らず、自分の羞恥を認識し得ない状態の人たちに対する神様の警告です。自分の不条理と腐敗性に対して羞恥を感じることが悔い改めの出発です。

ダビデは、バテ・シェバと姦淫した以後、自分の行為に対して激しい羞恥を感じながら、「侮辱が私の顔をおおっていますから。」(詩篇69:7参照)と告白しました。ダビデは、このように自己省察と悔い改めがあったので、罪を赦していただき、救いの恵みを再び回復することができたのです。

自分の羞恥を隠したり、それを知っていながらも苦しまず、悩まない者に対して聖書は、「自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。」(ユダ書1:13)と記録しています。ですから私たちは、神様の戒めの鏡に私たち自身を絶えず映して見ながら、恥ずかしいことはないか、を省察しなければなりません。

また、まことの悔い改めとは、神様を尋ね求めることです。人間は、自分の問題を自分の力で解決することができません。特に、罪の問題に対しては尚更のことです。中世の宗教改革者マルチン・ルターが、ペテロ聖堂の階段を膝で這い上がりながら凄絶に悟ったことが、実に人間は自分の能力や良い行いによって義となれることはない、という事実でありました。聖書を見ますと、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10)、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ書17:9)と記録されています。人間がこのような絶望的な状況を克服することのできる唯一の方法は、神様を尋ね求めることです。

更には、まことの悔い改めとは、神様の戒めを守り、行うことです。本文に記録されている悔い改めの最終段階は、神様の御言葉を実行することです。本文「3節」を見ますと、「主の定めを行う者」という言葉があります。これは、イスラエルの民たちに、罪悪の道から離れ、神様の御言葉を守り、実行しなさいと言うことです。悔い改めの完成は、行動を通して現われます。

今までは“怒りの対象の子どもたちであった者”が、キリストの中にある命の約束によって“光”の生活をすることです。自分の羞恥を見つめながら流す涙が、私たちの悔い改めの真実さを保証することはできません。変化された行為だけが、私たちがまことに悔い改めたか、どうかを決定することができるのです。

聖殿の前にどうしても出て行けずに、後ろの方で自分の胸をたたきながら悔い改めの涙を流したひとりの取税人(ルカの福音書18:13~14参照)の姿が、実に私たちの姿とならなければならないのです。





お祈り

愛であられる、我らの父なる神様!

腐敗した私たちの心を聖潔にしてくださり、神様の定めを守り、行う、まことの神様の子どもたちとなれるように助けてください。

イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン!