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12月26日



■信仰の試練

「ゼカリヤ書 2章 6節~10節」
2: 6 さあ、さあ。北の国から逃げよ。─主の御告げ─天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ。─主の御告げ─
2: 7 さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ。
2: 8 主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。
2: 9 見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる』と。このとき、あなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。
2:10 シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。─主の御告げ─




この世で、試練と患難を通さずに結実を得ることのできることは、何もありません。貴重で良いことであるほど、尚そうです。農夫たちが秋に収穫することができるのは、春から多くの苦労があったからです。聖書は、『涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。』(詩篇126:5~6)と記録しているのです。私たちの信仰もこれと同様です。私たちの信仰は、試練を通してこそもっと強くなるのです。

試練と患難を通る時、人間は神様中心に立ち返るようになります。人間が最初に堕落するようになった動機は、まさに自己中心的な我執のせいでありました。神様は、アダムとエバをエデンの園に置かれて、あらゆることを許容なさいましたが、善悪の知識の木の実だけは取って食べることを禁じられました。ところが彼らは、悪魔の誘惑に惑わされて、神様の命令よりも貪欲が先立ち、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。

このように人間の我執は、自己中心的な属性を露わにします。それで神様は、患難と試練を通して私たちの我執を砕かれ、神様中心に立ち返るようになさるのです。ですから、私たちに試練が押し迫って来る時、神様を恨んだり、神様に不平をこぼしたりしてはならないのは、それこそ、神様の方へもっと近づいて行くことのできる近道であるからです。

それだけではなく、私たちの信仰は試練を通してこそ、さらに強く堅固になります。学問は、絶え間ない探求を通して成就し、技術と機能は、反復訓練を通して高度の域に達します。私たちの信仰も同じです。私たちの信仰の程度は、試練に襲われた時、その深さを知ることができます。「箴言17章3節」に、『銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。』と言われています。試練を通っていない信仰は、小さな問題の前でもたやすく揺れ動き、疑うようになります。しかし、鍛錬と試練を通して堅固になった信仰は、どんな危機の前でも後ろに退かず、揺れ動かされないのです。

何よりも重要なのは、苦難と試練に揉まれ、それを経験するほど、私たちは益々もっとイエス・キリストのかたちに似て行くようになる、と言うことです。銀を精錬する時、先ず銀をるつぼに入れて滓を漉し出します。このような精錬過程を通して純粋な銀を作るのと同じく、私たちの信仰も苦難のるつぼの中に入ってこそ、高慢と不従順の滓が取り除かれます。肉体の滓が漉し出されるほど、私たちの信仰は純粋になり、私たちの姿はキリストのかたちに似て行くようになるのです。

ですから、試練と患難に遭う時、かえって感謝してください。そして、聖霊様に拠り頼んでください。そうしたら必ず、聖霊様が勝利の道へと導いてくださるようになるのです。





お祈り

全能なる、我らの父なる神様!

試練を通して純金のような信仰を与えてくださり、神様中心に生きるように導いてください。そして、私たち家族が全部、イエス様のかたちに似て行くように助けてください。

イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン!