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「王である祭司」
 






■聖書箇所

「ペテロの手紙 第一 2章 9節」
2: 9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。




今日、私は皆さんと一緒に、『王である祭司』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

元来、神様がアダムを造られた時には、アダムを「王である祭司」に造られました。祭司とは、神様に供え物を捧げる職分です。アダムには罪がなかったので、「罪の為の供え物」を捧げる必要はありませんでした。しかしアダムは、神様に礼拝を捧げ、感謝の供え物、讃美の供え物を捧げる職分は果たさなければなりませんでした。

一方、アダムは地球の上にあるすべての生き物を支配する権威を与えられていましたので、アダムはすべての生き物の王様でありました。

しかし、アダムが神様に反逆の罪を犯してエデンの園から追い出された時に、祭司の職分も王の職分も、みな奪われてしまって、ただ、罪と死と悪魔の奴隷に転落した存在になってしまいました。

2000年前に、神様の御子イエス様が救い主としてこの世に来られ、30歳の時に「天の御国の働き」に臨まれた時も、イエス様は「まことに王であり、祭司であられる」ことを人類にはっきりと見せて下さいました。

イエス様はいつも、父なる神様に感謝と讃美と礼拝と供え物とを捧げられました。そして、最後にはご自分の身を十字架の祭壇に捧げ、血を流して生け贄となられました。

一方、イエス様は悪魔と病気と環境を絶対的に支配する王様でありました。ところが聖書は、イエス様を信じて新しく生まれた私たちも、「王である祭司」にして下さったと記しているのです。私たちがこの御言葉の意味を深く悟り知ったら、私たちは信仰生活をする中で素晴らしい力を得るようになります。




第一、祭司の職務

まず、祭司とは何を意味するのでしょうか?皆さん、旧約の祭司の職分を見ますと、民たちのために神様に供え物を捧げ、神様の律法を保存し、解釈し、執行することでありました。ところで、イスラエルの民たちが律法を守ったでしょうか?律法を守らず、いつも罪を犯したので、祭司はイスラエルの民たちの罪のために毎日、神様に供え物を捧げ、礼拝し、讃美を捧げました。

旧約を見ますと、イスラエルの民たちが神様に犯した罪を贖うために「罪の為の供え物」を捧げました。「罪の為の供え物」は、律法と戒めを犯したとか、神様の御心に反するすべての罪を赦していただくために捧げる生け贄です。アダムとエバが罪を犯して以後、すべての人類はみな、根本的に「原罪」を負っています。

その罪を絶えず赦していただかなければなりません。それで、その罪を赦していただくためには獣を持って来て、そこに祭司から按手して貰い、それを屠(ほふ)って血を流し、祭壇に供え、その生け贄を火で焼く「罪の為の供え物」を祭司が捧げてくれてこそ、罪が赦されました。

次には、「罪過の為の供え物」があります。神様と隣人に対する罪の解決及び補償を言うのですが、言い換えれば、人たちが神様への奉納物とか供え物とか十分の一とかを盗んだ時、そのような実際的な供え物に損傷を及ぼした時には、「罪過の為の供え物」を捧げ、補償をしなければなりませんでした。

または隣人に罪を犯して、肉体に、あいは財産に損害を負わせた時に、罪を赦していただき、罪に対する補償をしなければなりません。こうした時に「罪過の為の供え物」を捧げるのです。「罪過の為の供え物」も獣を屠って血を流し、そして損害賠償をする供え物を捧げる儀式を祭司が執行しなければならないのです。

また、「和解の為の供え物」があります。「和解の為の供え物」は感謝の供え物とも言いますが、神様と特別な交わりをする時、即ち、救贖の恵み、または切なる祈願を捧げる時に、この「和解の為の供え物」を神様に捧げました。そうして神様と人の間が和解し、感謝が溢れるようにする、そのような供え物を捧げたのです。

その次には、毎日朝夕捧げる「全焼の供え物」があります。この「全焼の供え物」は神様の前に献身し、従順に聞き従うと言う意思表示として毎日、獣を屠って皮を剥ぎ、完全に火で焼いて、神様に香ばしい香りを供え物として捧げました。

それから、「穀物の捧げ物」を捧げました。それは地の産物を豊かにして下さった神様に感謝し、全人類の人生を主張する主権者が神様であることを認める供え物です。これは血を流すことなく、穀物の粉を焼いて、神様に香ばしい供え物を捧げることです。

以上のすべての供え物はみな、将来来られて私たちの為に十字架に釘付けられ、身を裂き血を流して、私たちの代わりに生け贄となられるイエス様を象徴するものです。ですから、こんにち私たちが祭司となったと言うことは、私たちはもう獣を屠って血を流しながら供え物を捧げるのではなく、イエス・キリストにあって讃美する祭司になったのです。

新約時代には、イエス様が私たちの為に永遠なる生け贄となられましたから、もう獣を屠って血を流し、それを供え物として捧げる必要がありません。「ヨハネの福音書 19章30節」に、『イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。』と記されています。イエス様がその一身を生け贄とされて捧げられたことによって、すべてを完了なさったのです。

また「ヘブル人への手紙 10章11節〜14節」に、『また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』と記されています。

主がただ1回だけ、生け贄を捧げられましたが、主の生け贄は永遠の生け贄であり、また主を信じることによって永遠に、そして完全に救って下さる驚くべき生け贄なのです。従って、私たちが祭司になったと言うことは、私たちが毎日のように生け贄を捧げなければならないのですが、この生け贄はまさに私たちのイエス様なのです。イエス様を神様に捧げながら礼拝と賛美を捧げるのです。

私たちは、イエス様が「罪の為の生け贄」となられたことを、毎日神様に感謝しなければなりません。私たちは祭司として、イエス様が人類の原罪のために十字架に釘付けられて、血をながして死なれたことに感謝し、その血潮を持って神様に礼拝を捧げ、讃美するのが、祭司としての私たちの職務なのです。

また私たちには、神様の十分の一を横取りし、聖日も守らず、あいは隣人に損害をこうむらせ、嘘をつき、盗んだりした・・・、色々な罪がたくさんあります。このような私たちの罪を代わりに背負ってイエス様が十字架に釘付けられました。それは私たちの「罪過の為の生け贄」となられる為であり、私たちの代わりに刑罰を受けられたのです。ですから、私たちの罪に対する赦しに感謝しながら、キリストの血潮を持って神様に讃美と悔い改めを捧げる「罪過の為の生け贄」を捧げなければなりません。

そしてイエス様が、神様と人類を和解させて下さり、人類が神様の恵みと愛を受けるようにして下さいました。イエス様がご自身の十字架の血潮を通して神様と和解させて下さった事に私たちは感謝し、讃美しながら、私たちは唇の感謝を「和解の為の生け贄」として捧げなければなりません。

イエス様はまた、朝夕の「全焼の生け贄」となって下さいました。ですから、主を通して私たち自身を献身し、神様に忠実に仕え、感謝しながら礼拝を捧げる祭司にならなければなりません。またイエス様が「穀物の捧げ物」となられて、私たちの生活が驚くべき祝福と恵みに与かるようになったのですから、イエス様が私たちの祝福の根源となられたことを神様に感謝し、讃美を捧げなければならないのです。

それだけではなく、私たちの人生自体が聖い、生きた供え物となる祭司にならなければなりません。「ローマ人への手紙 12章 1節」を見ますと、『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』と記されています。

これからは私たちが祭司となった以上、私たちの生活全体が聖い生きた供え物にならなければならないのです。聖い、生きた供え物になるためには、私たちが罪をいつも赦していただき、罪を犯さない生活をしなければなりません。自己中心の生活をことごとくに砕いて、断固としてその内容が神様に仕えるものとならなければならず、また、神様に全面的にお委ねした生活をしなければなりません。そのように暮らすとき、私たちは祭司としての人生を生きるようになるのです。

「ガラテヤ人への手紙 2章20節」に、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と記されています。

それだけではありません。私たちは善を行なうことと、互いに持ち物を分かち合う「生け贄」も、毎日のように捧げなければなりません。「ヘブル人への手紙 13章16節」に、『善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。』と記されています。このように、‘善行'も‘救済'も神様に生け贄を捧げることになるのです。

ですから私たちは、神様が聖い祭司として下さったのですから、いつも神様にイエス・キリストの十字架の犠牲を通して、イエス様の血潮で罪の赦しを得たことを賛美し、感謝し、また、イエス様の血潮を通して主に献身し、忠実にお仕えすることができるようになったことを感謝し、イエス様を通して祝福していただいたのですから、その「生け贄」となられたイエス様にさらなる感謝を捧げなければなりません。

それだけではありません。私たちは自分の体を聖い生きた供え物とし、私たちの人生・全生涯を通して善を行ない、持ち物を分かち合う「生け贄」を通して、聖く尊い祭司らしく暮らさなければなりません。

皆さん!私たち一人一人がこの世の中から神様に選ばれ召されたのは、このように神様の前に、イエス・キリストを通して供え物を捧げ、礼拝を捧げるためなのです。ただ救いを受けて天国に行くことだけではありません。私たちは神様に供え物を捧げる祭司として神様のお召しに与かったのですから、私たち一人一人が毎日、神様に供え物を捧げなければならないのです。

その供え物が、私たちの唇で捧げる供え物です。イエス・キリストが永遠なる生け贄となられましたから、イエス様を通して神様に礼拝と、感謝と、讃美と、信仰告白を毎日捧げなければなりません。そればかりではなく、聖書は、私たちを「王である祭司」とされたと記しています。イエス・キリストを通して神様に供え物を捧げる祭司とされ、この世を生きる間、王様のように生きるようにして下さったと言われたのです。

「ヨハネの黙示録 5章 9節〜10節」を見ますと、『彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」』と記されています。

ここに、私たちを祭司とされた私たちの主は、私たちを王とされ、地上を治めるようにされたと言われました。天国に上って王となるのは言うまでもなく、この世でも王とされたと言うのです。こんにち、数多くの人たちがこの世を暮らしながら、奴隷になって暮らしています。

聖書「ガラテヤ人への手紙 5章 1節」に、『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』と記されています。ところが皆さん!如何ですか?数限りなく多くの人たちが奴隷のくびきを負って苦労し、苦しみながら暮らしているではありませんか?こんにち、私たちは「神様から王とされている」のですから、私たちは主の前で「王として支配しながら」暮らすようにならなければなりません。

それでは、私たちが支配する「領土」は何でしょうか?イエス様が十字架の血潮で買って下さった「領土」です。私たちはその「領土」を支配する王なのです。イエス様は十字架の上で、罪を退けて「義の領土」を確保して置かれました。ですから私たちは「義」を支配しなければなりません。私たちの生活の中で「義」が主張するように、王として断固として主張し支配しなければなりません。

主が十字架の上で、世俗と悪魔を追い出して、聖霊充満と聖潔の領土を確保して下さいました。私たちはキリストの御名によって、聖霊充満と聖潔を主張し、それらを所有する王とならなければならないのです。

またイエス様は、十字架の上で悲しみと病を追い出して、喜びと癒しと健康の領土を確保して下さいました。ですから、私たちはその領土を支配しなければなりません。私たちはその領土を所有しなければならないのです。

イエス様は、十字架の上で呪いと貧乏を退けて、アブラハムへの祝福と、イエス・キリストの恵みと言う領土を確保して下さいました。私たちは十字架の下で、主が確保して下さったその領土を支配する王とならなければならないのです。私たちはすべての幸いと祝福をもって支配しなければなりません。

イエス様は、十字架の上で死と陰府を撤廃して、私たちに永遠のいのちと復活と天国と言う領土を与えて下さいました。私たちはそれを断固として所有し、支配しなければなりません。どこに所有しなければならないでしょうか?心の中に所有しなければならないのです。私たちは、現在の環境の中でこの領土を所有するのではありません。私たちはその領土を、私たちの心の中に所有しなければならないのです。

『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』(箴言 4章23節)と言われました。私たちが「王である」のは、私たちの心の中で「王である」のであって、私たちの肉体や環境にあって「王である」のではありません。心の中でこれを所有し、断固と信じて立ったら、神様のみわざが私たちの生活と環境の中に現われるようになるのです。

皆さん、王は「民」を支配します。それでは、その「民」が誰でしょうか?皆さんがまさにその「民」であり、我が聖徒さんたちがまさにその「民」なのです。ですから私たちは、自分と聖徒さんたちの中でこの領土が確保されるように、心と思いを正しくして祈り、唇で祈りながら王として支配しなければなりません。

罪とサタンが入って来て、主が私たちに与えて下さったこの麗しい領土を奪って行こうとします。「ヨハネの手紙 第一 4章 4節」に、『子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。』と記されています。この世にあるすべてのものより大きい主が私たちの中に来て居られます。私たちは主と共に、神様が与えて下さったこの領土を王として守らなければなりません。

ところが、私たちが王として生きるためには、私たちの考えと話しと行動に権威がなければなりません。王には権威があるのです。しもべとか奴隷には権威がありません。皆さん、「ルカの福音書 10章19節」を見ますと、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』と記されています。

権威は力ではなく、力を支配する能力です。例を上げれば、私たちの家庭には父やお年よりが居られます。父やお年よりは年を取って居られるので、若い人のような力がありません。荷物を背負うこともできず、飛ぶように走ることもできず、力がありません。しかし父や老人は権威を持っておられます。父としての権威、母としての権威、お祖父さん、お祖母さんとしての権威があります。

この権威があるので、若い人たちがいくら力が強くても、従います。権威ある言葉で、行けと言えば行き、来いと言えば来ます。座れと言えば座り、立てと言えば立つのです。

この頃はペットが流行っていて、特に犬を部屋の中で育てたり、抱いて寝たりもします。しかし私たちが幼かった時、田舎で暮らした時には、犬は部屋に入って来てはいけませんでした。犬が部屋に入って来たら、権威をふるって「出て行けっ!」「向こうに行けっ!」と怒鳴りつけます。すると犬は出て行きます。しかし犬が部屋に入って来たのを見て、優しく柔和な声で「出て行きなさいよ。」「入って来てはいけませんよ。」と言ったら、尾を振りながら益々奥まで入って来ます。権威を使用しなければならないのです。

私たちは権威を持っています。皆さん、私たちに力はありません。私たちは弱く、病気に罹っており、無能で、力はありませんが、イエス様を信じることによって神様が私たちを「王」として下さったのですから、私たちには権威がなければならず、肯定的で堂々たる存在でなければなりません。私たちが否定的で消極的になったら、王としての権威を発揮することができません。

王は、肯定的であり、堂々と振舞わなければなりません。堂々と義の世界を所有し、聖霊充満と聖潔と喜びを所有し、癒しを所有し、健康を主張し、堂々と祝福と繁栄を自分のものと主張し、永遠のいのちを自分のものと主張しなければなりません。王ですから、王らしく行動しなければなりません。

これは、私のものである。これは、私の所有物である。これは私の領土だ。お前たちサタンは引き下がれ。罪は退け。世俗は離れ去れ。悲しみ、呪い、病気は消え去れ。死は退け・・・。王らしく、権威ある命令を下し、支配し、威風堂々と振舞わなければなりません。

自分個人の感情も支配しなければなりません。積極的、肯定的に自分の心も支配するようにならなければならず、失敗とか敗北意識、否定的な感情とか挫折感に喘いでは絶対にいけません。「箴言 4章23節」に、『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』と記されています。いのちの泉が、私たちの中に入って来ているのです。

十字架を通して、主が私たちに下さった領土である「五重の福音」と「三重の祝福」が私たちの心と思いの中に入って来ているのです。ですから、これは私たちが権威と威厳をもって堂々と守らなければならないのです。私たちは権威ある人であることを忘れてはなりません。

「マルコの福音書 9章23節」に、『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』と記されています。これは、私たちが王であるからなのです。「ピリピ人への手紙 4章13節」には、『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』と記されています。

ですから、「私は駄目です。」「私はできません。」「私には見込みがありません・・・。」こう言うのは王ではありません。これは、奴隷が言うことです。これは、敗北者や絶望者が言う言葉なのです。王は堂々と、そして大胆に「できる!」「可能だ!」「信じます!」「これは私のものだ・・・!」と言わなければなりません。このように自信と権威を持って行動してこそ、王として生きることができるのです。

聖徒はこの世を暮らす間、どこに居ようと「王である祭司」の身分で暮らさなければなりません。皆さんは祭司として、神様と深い交わりを持ち、賛美と感謝の供え物を捧げ、生きた供え物として生活しなければなりません。イエス様は私たちの永遠の供え物であり、生け贄です。

「主の血潮によって、私たちのすべての罪を赦して下さって有り難うございます。」 「主の血潮を通して、私たちが神様に献身し、忠実に仕える事ができるようにして下さって有り難うございます。」 「主の血潮で、私たちが神様と和解するようにして下さって有り難うございます。」 イエス様が「私たちの罪の為の生け贄」となって下さいましたから、いつも、「罪の為の供え物」「罪過の為の供え物」「全焼の供え物」として、また「感謝の供え物」として捧げ、私たちはイエス様をいつも讃美し、イエス様を通して神様に礼拝を捧げ、感謝する、このような祭司の役割を果たさなければならないのです。

そして、私たちはこの世を暮らす間、キリストが与えて下さった王権を保存し行使しながら、自分の運命と環境を支配する人生を暮らさなければならないのです。私たちは各々が皆、神様がキリストの十字架を通して私たちに与えられた領土を所有している王たちです。ですから、確実な信念と確固たる信仰をもって心から王として支配したら、皆さんの個人、家庭、生活、事業、そして環境にその実が現われるようになります。

心を支配したら、それが外に現われます。心が奴隷の心であったら、私たちの生活環境にも奴隷の「くびき」が現われるようになるのです。『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』(箴言 4章23節)と言われました。

皆さんの各々の心の中に、キリストの十字架の贖いを通して与えて下さった領土を所有し、それを立派に保存し、それを発展させる王としての権威ある人生を暮らすようになりますよう、主の御名によって祈願致します。




お祈り

聖く、栄光であられ、我らの主であられる神様!私たちを「王である祭司」として下さったことに心から感謝申し上げます。

全知全能であられる、天のお父さま!主が十字架の上で血を流して私たちを「王である祭司」として下さいましたが、こんにち、余りにも多くの人たちが祭司としての役割を果たそうとせず、王としての役割も果たそうとしません。主である神様に、イエス・キリストを通して絶えず讃美と感謝の供え物を捧げることもせず、人たちは心の中に支配する堂々とした権威と信仰を持たずに、いつも奴隷のように、環境に左右されて挫折し、絶望の中で喘いでおります。

愛であられる、我らの天のお父さま!願わくは、聖霊さまがすべての聖徒さんたちの胸の中に、この真理の御言葉を啓示して下さって、皆が「王である祭司」として生きて行くように助けて下さい。一人も残らずみんなが、「王である祭司」としての人生の道を力強く、堂々と歩んで行くように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!