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「苦難の主イエス・キリスト」
 






■聖書箇所

「イザヤ書 53章 1節〜12節」
53: 1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
53: 2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53: 3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53: 4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53: 5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53: 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53: 7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53: 8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53: 9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。




今日、私は皆さんと共に『苦難の主イエス・キリスト』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

神様の独り子が処女の胎を通して人として来られ、彼の短い33年の生涯が苦難に点綴されたものでありました。そして終局には、この世の犯罪者の一人として捕らえられて十字架の処刑に会いましたが、三日目によみがえり、人類の救い主となられた、という事実はあまりにも驚きであり、奇異なことなので、人の想像を超越した出来事でありました。聖書「イザヤ書 52章13節〜15節」に、この事実が克明に記録されています。

「イザヤ書 52章13節〜15節」の御言葉です。『見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 多くの者があなたを見て驚いたように、・・その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。・・ そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。』

これは、いかに驚くべき宣言でしょうか。イエス様のお顔は、ひどく殴られ、そこなわれて人のようではなく、その姿も、傷ついて人の子らとは違っていたので、人々はその顔を見て目をそむけ首を振りました。しかしその後、この方こそ王の王、主の主、人類の救い主であることが伝えられるや、多くの国々は驚き、王たちは口をつぐむと言うのです。それは告げられなかったことを見、聞いたことも無い事を悟るようになるからだと言うのです。

皆さん、「イザヤ書 53章」はイエス様の一生に関して、主が来られる600年〜700年前に、あまりにもはっきりと予言しています。その予言の御言葉を今日、勉強してみようと思います。




第一、イエス様の出生と生涯

第1番目に、「私たちの聞いたことを、誰が信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。」と、イエス様の出生と生涯の啓示をいただいたイザヤは、あまりにも驚くべき事実に彼はショックを受けて、頭を振りながら叫びました。この事実を伝えたところで、誰が信じてくれるだろうか・・・?

「イザヤ書 53章 2節」に、神様の御子の出生と身分をイザヤが説明しています。『彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。』

イザヤが幻の中で見ると、イエス様は「若枝のように芽生えた。」と言います。神様の御子、天と地と世界とその中のすべてのものを造られた方が、乙女マリヤの体から弱々しい赤子として若枝が芽生えるように誕生されることに感嘆したあまりに、そう言ったのです。

また、「砂漠の地から出る根のように育った。」と言いました。イエス様が誕生なさったその土壌が、砂漠の地のようであったと言うのです。言い換えれば、彼は大きなお金持ちの家に生まれたのでもなく、権威ある高い地位の人の家に生まれたのでもなく、祭司長や知識のある人の家に生まれたのでもなく、蔑まれ卑しめられるナザレの貧乏な一人の乙女の体から生まれたのですから、その生まれた土壌が砂漠の地から出る根のようだと言ったのです。

それで、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもなかった。」のです。お金持ちの子供らしい風采も、権威ある人の子供としての威光もありませんでした。知識がある人の子供らしい堂々さもなく彼は生まれたのですから、誰も関心を傾けず、誰もその子の泣き声に特に耳を傾けようともしない、至極平凡で卑賤なところで生まれたと言うのです。

それで村人たちが、キリストのご誕生をみて、彼に見とれるとか、慕うとかするようなことが全くなかったと、イザヤは嘆息しました。神様の御子がこのような姿でお生まれになったのだから、神様の御腕が現れて特別に啓示を与えて下さらない限り、誰がこの事実を受け入れるだろうか、と言うのです。

「イザヤ書 53章 3節」に、『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』と記されています。イザヤはここで、イエス様の短い生涯の概要を説明しています。イエス様は、人たちからさげすまれ、のけ者にされ、ユダヤ人の宗教団体からは完全に異端視されました。ローマの政治圏からは「要注意人物」とされました。上層社会のお金持ちや知識人たちからも蔑まれ、卑しい者扱いを受けました。従って彼は、人たちが顔をそむける程にさげすまれ、のけ者にされる一生を送られました。

イエス様は、艱難辛苦をいやというほど味わいました。しかしイエス様は、病と悲しみとを知っておられました。心や体に病のある人を見てそのまま過ぎ去ることはなさいませんでした。またどこへ行かれようとイエス様は、見捨てられた人、貧しい人、罪を犯した人、卑しい者と烙印を押されている税吏、遊女たちの友になって上げられました。それで人たちは顔をそむけるほどにイエス様をさげすみ、尊びませんでした。偉大な人物であるとか、尊敬すべき人物であるとは誰も思いませんでした。




第二、イエス様の十字架の苦難の意味

第2番目に、イエス様の十字架の苦難の意味を、「イザヤ書 53章 4節」は次のように記録しています。『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』

イエス様の人生の意味は、実に私たちの病を負い、痛みを担い、心や肉体の病気の人々を癒し、人類の悲しみを背負われる事でありました。皆さん、肉体の健康は私たち人生の基本です。人がお金を失ったら、それは「少し」失った事になります。名誉を失ったら、「たくさん」失った事になります。健康を失ったら、「全部」を失ってしまった事になります。健康でない事には、私たちの存在はありません。神様は私たちの健康に対して凄く関心を持っておられ、重要視しておられますので、『まことに、彼は私たちの病を負った。』と記されているのです

そして『私たちの痛みをになった。』と記されています。私たちはアダムとエバ以後、この世の旅人か寄留者として生きておりながら、「喜びの日」は短く、「悲しい日」は長いです。すべての人たちは、いつも胸の中に苦い水の泉を持っています。イエス様は、この私たちの痛みを解消して下さる為に私たちの痛みを主が代わりに担って下さいました。それでイエス様の一生は苦難の一生であり、痛みの悲しい一生でありました。

それは、いつも人類の痛みをご自分の痛みとしてたましいの中に深く受け入れて生きられたからです。それにも拘わらず人たちは、イエス様に対して誤解していました。彼は神様から罰せられ、見捨てられたのだと。神様が愛するのなら、何故、神様の御子があのようにまで疎外され、襤褸をまとい、飢えにあえぎながら苦しめられるのか。彼は神様から打たれ、苦しめられるのだと誤解しました。

イエス様が、私たちの為に贖いの痛みと苦難の目に会っている意味を人たちが知らないので、イザヤは嘆息しています。皆さん!聖書「マタイの福音書 8章16節〜17節」を見ますと、『夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々を皆お直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と記されています。イエス・キリストの十字架の苦難こそ、私たちの為のものであることを私たちは悟らなければならないのです。

「イザヤ書 53章 5節」に、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記されています。私たちの咎と罪と懲らしめを代わりに担われたイエス様の姿を見せてくれます。

人たちは全くそれを知りませんけれども、キリストが来られてこの世で暮らされたのは、そのように深い贖いの内容があると言うことです。イエス様が十字架に架けられ、両手と両足に釘が打ち込まれました。私たちもビデオを通して見ましたけれども、どんなに痛く耐えられない苦痛であったでしょうか。

『私たちのそむきの罪の為に刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。』と記されています。手で犯した罪、行為を通して犯した罪…、罪のない人がどこにいるでしょうか。はたいて塵(ごみ)が出ない人はありません。私たちのすべての罪を、イエス様が刺し通されることによって皆背負ってくださいました。それで彼のたましいが神様の前で捨てられ、殴られて傷を負い、人としての姿を失いました。彼がそのようになったのは、私たちの罪の所為なのです。

アダムとエバ以後、神様にそむき、逆らった私たちの罪を初めから最後まで、すべて主が責任を負ってそのように殴られ、砕かれたのです。主がそのように十字架の上で懲らしめられる時、神様を「父」と呼ぶことができませんでした。イエス様はいつも神様を「父」と呼んだのですが、十字架に架けられた時には、懲らしめられ、神様から見捨てられました。それで神様を「父」と呼べずに、「わが神」と呼びました。

「詩篇 21篇 1節〜2節」を見ますと、『わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。』と記されています。全的に神様から見捨てられました。何故?私たちの故です。

人類が神様にそむき、逆らった罪をすべてイエス様が代わりに背負われて、神様の御子イエス様が神様から懲らしめられ、追い出され、見捨てられました。『どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも…。』彼が懲らしめられる事によって、私たちは神様から罪を赦していただき、神様との和解を得、平安を享受するようになり、神様のふところに抱かれるようになりました。

主イエス様が、ピラトの庭でローマ兵士たちから39回もの鞭打ちに会って背中が裂かれ、肉切れが飛散し、だらだらと血が流れました。聖書は言います。「彼が偶然的に鞭に打たれたのではなく、彼が鞭に打たれてこそ私たちが癒される。」と言うのです。私たちが患っているすべての病を、イエス様が代わりに鞭に打たれ傷を負うことにより、その代価として私たちが癒される、と言うのです。

「イザヤ書 53章 6節」に、『私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』と記されています。私たちに対する神様の愛を、この聖書の御言葉がはっきりと説明しています。羊たちは、自分たちが好む草を探して勝手に散って行きます。それと同じく、私たちは肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求しながら勝手に生きて行きます。神様は念頭にありません。神様の戒めは踏みにじり捨てました。

それにも拘わらず、神様は私たちの罪と咎をすべてイエス様に負わせました。神様の人類に対する大いなる愛です。「ヨハネの福音書 3章16節」の御言葉です。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』皆さん、神様の愛がどこにあると言えるでしょうか。神様の愛は、遣わされた御子イエス様によって証明されたのです。

皆さん!愛は言葉でできるものではありません。行動を通して証明されなければならないのです。神様は私たちに対する愛を、言葉でだけ言われたのではありません。証明して下さったのです。神様は実に、そのひとり子をお与えになった程に世を愛されたのです。私たちはみな羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行きましたが、主である神様は私たちのすべての咎を彼に負わせた、とイザヤは叫びました。




第三、イエス様の苦難と死の御姿

第3番目に、イエス様の苦難と死の御姿を、イザヤは私たちにはっきりと見せてくれます。「イザヤ書 53章 7節」を見ますと、『彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。』と記しています。

父なる神様の御心に、絶対従順に聞き従う姿を見せて下さったのです。イエス様は死ぬためにこの世に来られました。ゲッセマネの丘で、『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』と祈られました。

父なる神様が、「あなたがこの杯を飲んで民たちの為に代わりに死ぬことがわたしの心です。」と知らせてくださった以上、捕らえられて行く時から、生きようとして弁明するようなことはしませんでした。ピラトの庭で色々と質問されても、あらゆる偽証言があっても、彼は口をつぐんで一切答えませんでした。生きようとしたなら弁明をしたでしょうが、主は既に死ぬことに決めたお方でありました。それで、イエス様は殴られ、つばきをかけられ、痛めつけられ、苦しめられても、沈黙で押し通しました。ほふり場に引かれていく子羊のように、毛を刈られる雌羊のようにイエス様は黙っておられました。

「ピリピ人への手紙 2章 6節〜8節」を見ますと、『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』と記録されています。

イエス様は、あらゆる毒舌の混じった質問と悪意に満ちた偽証言に一切答えず、沈黙を守られました。それは、イエス様が神様の御心に死を通して従順に聞き従うことに決意したからでありました。

「イザヤ書 53章 8節」を見ますと、『しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。』と記録されています。

彼はしいたげられ、裁判にかけられ、引っ張って行かれて、ついには十字架に釘付けられて死にました。彼がそのような悲惨な死の目に会うのは、この世にいる自分の民たちの罪に代わって死ぬのだ、という事実を誰も悟ることができなかったと言うのです。異端の烙印を押され、邪説を主張する人、ローマ帝国に抵抗する人を処刑するのだと思ったと言うのです。彼が人類の為の贖いの供え物となったと言う事実を、当時、誰が悟ったかと言うのです。

「詩篇 22篇 6節〜8節」に、『しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」』と記されています。このように人たちは、イエス様が自分たちの為に犠牲の供え物になって、自分たちを火の中から救い出そうとして来られたのに、それを理解することができずに、かえってキリストを侮辱し、非難し、嘲弄したのです。

「ルカの福音書 23章34節」に、『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』と記録されています。皆さん、無知が人を殺します。『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』と聖書に記されています。

こんにち、イエス様を信じる人は偉大な知識を持った人なのです。世の人が持っていない偉大な知識を持っています。神様が居られることを知っている知識であり、神様が御子イエス様を私たちに遣わされ、私たちの為に十字架の上で贖いの供え物にならせたことによって、彼を信じることにより救われる、という知識を私たちは持っているのです。驚くべき知識です。主である神様の御手が現れて啓示して下さらないことには、このような知識を得ることはできません。

「イザヤ書 53章 9節」を見ますと、『彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。』と記録されています。イエス様は、暴力を振るったこともなく、人を傷つけたこともありません。またイエス様は、人を欺き、騙し、害を加えたこともありません。それなのにイエス様が十字架で死なれてから葬られた墓は、悪者たちが埋葬される共同墓地であり、一人の金持ちが掘って置いた墓穴に入れられると、イエス様が来られる600年前にイザヤは予言しました。

皆さん、「マタイの福音書 27章57節〜60節」に、『夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。』と記録されています。

イエス様は、悪人たちと同じ共同墓地に運ばれましたが、アリマタヤのヨセフが自分が死んだら入ろうとして掘って置いた、その金持ちのヨセフの墓に入れられました。これは本当に驚くべき予言です。神様は明々白々と、イエス様の死をその墓のことに至るまでイザヤに予言してくださいました。これをみて、イザヤは感嘆せざるを得ませんでした。誰がこの事実を信じたか。神様の御子が来て、死んで、墓に埋葬されることを誰が信じるだろうか?主である神様の御腕、啓示が現れる前には誰がこの事実を知るだろうか、ということです。




第四、神様の夢と願いを成し遂げられたイエス様

第4番目に、神様の夢と願いをイエス様はこれで成し遂げられたのです。「イザヤ書 53章10節〜11節」を見ますと、『しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。』と記録されています。

ここで神様の夢を、イエス様が十字架を通して成し遂げたと言うのです。イエス様が、神様の夢を成し遂げるためにこの世に来られました。神様の夢は何でしょうか?それは、イエス様を砕いて痛めることであり、それによって私たちの痛み、病を、彼、即ちイエス・キリストに担わせることであると言うのです。皆さん、病が癒されても良く、癒されなくても良いのではありません。皆さんの病を癒すために、神様はイエス・キリストを砕き、痛めたと言うのです。

イエス様が、神様の前にご自分のいのちを罪過のための生け贄として、身を裂き血を流して捧げたら、末長く子孫を見るようになると記されています。イエス様を信じることによって救われます。これがイエス様のいのちの種になるのです。それで主である神様の御心を成し遂げるのです。

皆さんが『たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である。』ことが、父なる神様の御心であり、願いです。この父なる神様の御心と願いを成し遂げるためにイエス様が十字架に上られて、私たちの病を負い、私たちの痛み、私たちの呪いを担われたのです。

イエス様が死なれてからよみがえられ、父の御座の右側にすわられて、『自分のいのちの激しい苦しみの後を見て、満足する。』と言われました。イエス様がご自分の十字架の上で痛みつけられ、激しい苦しみにあわれ、身を裂き血を流してくださった結果によって、そのイエス様を信じることにより数多い罪人が赦され、救っていただき、悪霊が追い出され、病が癒され、呪いから解放されるのを見て、主は満足するのです。わたしが苦しみに会って良かった!わたしが苦難の目に会い、激しい痛い目に会ったその結果によって、このような恵みが人類に臨むのが、まことに嬉しい…! ですから私たちは、神様がイエス・キリストを通して、神様の願いを成し遂げさせたと言う事実を知らなければなりません。

「イザヤ書 53章12節」は、神様のお喜びと誇りを記録しています。『それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。』

この世の凶悪な犯罪者の一人として扱われ、右の強盗、左の強盗の間で十字架の極刑に処せられて死に、陰府にまで下って行ったが、しかし実は、彼が人類の罪を代わりに負い、犯罪者たちの為に祈った。イエス・キリストは罪人ではない。他人の罪を身代わりとなって背負い、人類のたましいが救われる為に祈った。それで神様が、それらをあまりにも美しいとされて、『それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。』と言われました。

『彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。』とは何のことでしょうか。罪悪に溺れ、悪霊に奪われたたましいを分捕って、その民たちを神様と一緒に治め、神様と一緒に支配すると言うことです。イエス・キリストは、神様の喜びであり、誇りなのです。

「ピリピ人への手紙 2章 9節〜11節」に、『それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』と記されています。

『バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。』イエス・キリストが十字架の上で身を裂き血を流して、その代価で私たちを贖って下さいましたが、赦しと義を私たちは奪い取らなければなりません。天国と聖霊充満、心の平安と健康、アブラハムへの祝福とイエス・キリストの恵み、復活と永遠のいのちを、私たちは信仰をもって奪い取らなければならないのです。

これが為に、イエス様が苦しみに会われました。私たちが何故、その苦しみを無に帰して良いでしょうか。キリストが私たちを自由にしようとして、お恵みを施されました。ですから私たちは信仰に堅く立って、またと奴隷の頚木を負うことがあってはなりません。




お祈り

全知全能であられる、我が父なる神様!私たちは「苦難週間」を迎えて、イエス様が如何に私たちの為に大きな犠牲を払われ、神様がその切なる願いによって御子をまで与えてくださりながら、私たちをこの世から救い出そうとなされたかを聖書「イザヤ書 53章」を通して悟りました。

イエス様がこの世に来られる600年乃至700年前に、神様はイザヤを通してこの啓示を与えてくださり、イザヤはこの啓示をいただいて、手で口をふさぎ、彼は気絶するほどに驚きました。誰が、この事実を信じるだろうか。誰が神様の啓示を受け入れるだろうかと、彼は痛く嘆きました。

しかし、こんにち、イエス様はその予言通りに、2000年前にすべて成し遂げて天に昇られました。この事実を私たちが悟り、信じたら、私たちは神様が備えておかれたすべての恵みと祝福を享受するようになります。

愛であられる、我らの天のお父さま!有り難うございます。こんにちもこの知識が、あまりにも高邁です。父なる我が神様!私たちがみな、聖霊さまの御働きによってこの真理を悟り、心に深く受け入れ、あつく信じるように助けて下さい。そしてみんなが、今日、死と陰府と悪霊から解放を得るように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!