教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「幸福な家庭の条件」
 






■聖書箇所

「コロサイ人への手紙 3章12節〜21節」
3:12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
3:14 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。
3:18 妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。
3:19 夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。
3:20 子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。
3:21 父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。




今日、私は皆さんたちと一緒に『幸福な家庭の条件』という題目で、家庭の週間に恵みを分かち合いたいと思います。

この世のオアシスは、家庭です。このオアシスでは、安心してすべての緊張を解き、ゆっくりと安息する事ができます。しかし、現実は必ずしもそうではありません。悪魔は初の家庭であるアダムとエバの「エデンの園」を、紛争と罪と破綻に引っ張り込みました。こんにちも、悪魔は私たちの家庭を紛争と破綻と滅亡に引っ張り込もうとして奔走しています。

日本の統計をみますと、1998年度の自殺者の数が32,836名でありました。それも半分以上が50代以上の男女だと言います。家庭が幸せであったら、何故このように多くの人が毎年自殺するでしょうか。我が国(韓国)の1998年度の自殺者総数は、8,569名でありました。男性が6,200名、女性が2,369名です。前年度に比べて42%が増加しており、10年前よりは2.3倍が増加した数です。これは、それ程に家庭の幸福が消え去りつつあり、家庭が破壊されて行きつつあるという証拠です。これは、必ずしも家庭が人生のオアシスであり幸福の巣になっていないということです。

神が願われる家庭は、互いに信じ、頼り合い、赦し、愛し、慰めと力を得るところになることです。そのような家庭を作るためには、私たちが不断の努力を傾注しなければなりません。幸福な家庭を作るためには条件があります。この条件が充足される時に幸福が近づいてくるのです。そのまま捨て置いたとして、偶然に家庭に幸福が訪れるものではありません。




第一、神様とイエス様を信じ、仕える家庭

幸福な家庭を作るための条件として、第一に、父なる神様とイエス様を信じ、仕える家庭にならなければなりません。何故かと言えば、神様が元来人間を造られるときに、父なる神様とイエス様に仕え、礼拝しながら生きていくように造られたからです。これが秩序です。人生のまことの調和と秩序は、父なる神様とイエス様に仕えることから出発します。それなくしては秩序が崩れます。

皆さん、エデンの園で悪魔は、まさにこの秩序をひっくり返しました。アダムとエバが神様と同等になろうとしました。父なる神様とイエス・キリストに仕え、礼拝しながら天の御国の家庭を成すようになるのですが、父なる神様とイエス・キリストと同等になろうとしたのですから、秩序と調和が壊れるしかありません。神様と人間とのあいだの秩序と調和が壊れましたから、アダムとエバとのあいだも秩序が壊れて、アダムはエバに責任を転嫁し、エバはアダムに責任を負わせ、その次に長男は次男を石で打ち殺し…、家庭が滅茶苦茶になってしまいました。

こんにちも、私たちが幸福な家庭を成すためには、人間創造の基本要求である父なる神様とイエス・キリストを信じ、仕える家庭を作ってこそ幸福な家庭であると言うことができます。それ以外には決して幸福な家庭の基礎がありません。

その上に、御言葉と聖霊充満と祈りの祭壇から喜びを生産しなければなりません。喜びがない家庭は家庭ではありません。旦那さんの顔に喜びがなければならず、奥さんの胸に喜びがなければならず、お子さんたちの生活に明るく笑う喜びがなければなりません。喜びがない家庭には幸福はあり得ません。その喜びはまさに、神様の御言葉を一緒に勉強し、一緒に祈って、聖霊充満なる祭壇が築かれる時、主が彼等を喜びに変化させてくださるのです。

「詩篇 16篇11節」に、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記されています。ですから、幸福な家庭には必ず父なる我が神様とイエス・キリストに心から仕え、礼拝し、御言葉を読み、聖霊充満になって祈りを捧げる祭壇が築かれ、神様が喜びを溢れるまでに生産して下さらなければならないのです。したがって喜びがある時、幸福な家庭になれるのです。「ローマ人への手紙 14章17節」に、『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。』と記されています。




第二、生活の規範が確かな家庭

第2番目に、幸福な家庭になるためには、生活の規範が確かでなければなりません。罪と腐敗が入ってくる家庭は破壊され、幸福は去って行きます。旦那さんが博打にふけり、淫乱放蕩し、嘘を言って回る…、奥さんは放縦で友たちと遊びまわり、子供たちは外で過ごす…としたら、そうのような家庭が完全な家庭となり、幸福な家庭となることは絶対にできません。こんにち、数多くの家庭がそれで破壊されていきます。

道徳的破壊と混沌は、家庭に不幸をもたらします。家庭には、倫理と道徳が正しく立っていなければなりません。そうなる為には、「主の祈り」と「十戒」を各自の胸に刻みこんでおかなければなりません。こんにち、主の祈りや十戒が私たちの生活にはっきりした規範を提示してくれます。幸福な家庭を成すが為には、旦那さんにも、奥さんにも、お子さんたちにも、生きていく為の確かな心の規範がなければなりません。

皆さん、アメリカの学校と、こんにちのアメリカの実相をご覧下さい。学校が麻薬、セックス、暴力、銃器乱射で滅茶苦茶です。最近も、アメリカの学校で幼い学生に向かって銃を乱射し、たくさんの子供たちが死にました。何故こうなったでしょうか。1963年、Kennedy大統領の時に、米最高裁が「公立学校で聖書勉強をしてはならない。」と判決、現在までジョージア州の高等学校を除いては聖書勉強をする公立学校がありません。学校で「主の祈り」と「十戒」を教えて来たのですが、それを止めさせました。

その結果、教育学者であるデイビッド・バトンが調査したところによると、公立学校で授業を始める前にしてきた「祈祷」を廃止するや、青少年たちの進学適性試験検査成績が急激に落ち、婚前性関係、麻薬、銃器事故等が8倍から13倍に増え、家庭で子供たちが親に不服従、または父母に抵抗して家庭を破壊するといった要素が顕著に現れたといいます。只今、韓国もそうであり、日本もそうです。青少年問題はこんにち、アメリカをはじめとして世界的な問題になっています。それは何故でしょうか。彼等に生きていく為の倫理と道徳と規範がないからです。

世俗が氾濫するこの世の中で、誘惑は限りなく増大していきます。競争が甚だしく、人間が生きて行くための倫理と道徳と規範がありません。それで青少年たちが思うがままに自分勝手に振舞うようになるのです。ですから、若い人たちに「主の祈り」を唱えさせ、「十戒」を教えてこそ生きて行く道が明るく見えるようになるのです。

ある日、私が聖徒さんのお宅を訪問しました。一人になられた姉妹さんが、息子と娘の二人を育てておりました。子供部屋に入ってみて驚きました。家が小さいので彼等は上・下二重になっている寝台を使用しておりました。下では娘が、上では息子が寝るようになっていましたが、両方ともに「十戒」が壁に貼り付けられてありました。必ず、寝る前に「十戒」を読んでから寝るようにし、朝起きてからは「十戒」を読んでから下りてくるようにしていました。私は感心してしまいました。

それから幾らも経たないで、その姉妹さんが天に召されました。それでその息子と娘が孤児になりました。彼等が父母もなしにどう成長して行くか、少なからず心配でありましたが、二人が力を合わせて立派に成長してくれました。母親がそんなにまで徹底的に「十戒」を教え込んだので、堕落することもなく、今は二人とも立派な大人になって社会生活を営んでおります。教育がいかに重要であるかを、私はそこで痛感しました。

「詩篇 127篇 3節」に、『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。』と記されています。子供は自分の所有物ではなく、主である神様が与えて下さった賜物ですから、よく育てなければなりません。子供たちに、この世を生きていくことができる道を確かに教えてあげなければならないのです。『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。』と、「箴言 22章 6節」に記されています。幼い時に正しく教えれば、100歳になってもその教えに基づいて生きるのです。

腐敗した世俗の文化の中で、限りない「肉体の快楽と堕落」に勝ち抜き、聖く、完全な人生を生き抜くためには「十戒」を必ず守らなければなりません。「詩篇 119篇 9節」に、『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたの言葉に従ってそれを守ることです。』と記されています。主の御言葉があってこそ青年が正しく生きていくことができ、壮年も同様です。

「エペソ人への手紙 4章24節」に、『真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』と記されています。「新しい人を身に着る」ためには、私たちが「十戒」をはっきりと見つめ、それに自分自身を映して見ながら、正しく暮らすことができるように努力しなければなりません。そうしてこそ幸福な個人になり、幸福な家庭を作ることができるのです。倫理と道徳の土台が崩れてしまったら、幸福も何もみな吹っ飛んでいってしまいます。




第三、お互いのために暮らす家庭

第3番目に、極端的な個人主義と利己主義を捨てて、お互いのために暮らさなければなりません。こんにちの学校教育と社会教育とは、極端的な個人主義、自由主義です。自分個人の利益のために暮らし、自由主義によって何の拘束も受けずに暮らそうとするのがこんにちの教育であり、社会風土なのです。したがって、このような風土が家庭にも入ってきて父親は父親、母親は母親、子供は子供なりに個人的、利己主義的にながれ、家庭が家庭らしくなく、合宿所になってしまったのです。

家族たちの間で、お互いに理解し合おうとする努力がなければなりません。相手側の立場になって考えてみる習慣が必要です。自分だけの考えを主張せずに、お互いのために一つとなる…、このような生活を営もうとする努力が必要なのです。自分だけのために、自分の欲、自分の喜びだけを追求するとしたら、ほかの人たちは皆、犠牲の生け贄になってしまうのです。

私たちが一緒に生きて行こうとするなら、同情し合い、憐れみ合わなければなりません。律法的に相手を批判してはいけません。律法を通して見たら、正しい人は誰もいません。律法の前に義人は一人もいない、と聖書に記されています。ですから、律法を通して旦那さんを見たら「咎」だらけです。律法で奥さんを見たら欠点だらけです。律法で子供たちを見たら子供たちは不良者であり、律法を通して父母を見たら、不足だらけで醜いことだけが見えます。

夫婦間も互いに憐れみをもって見なければなりません。過ちを犯したら、赦すにしても涙が出るほどに赦さなければなりません。ただ赦すのでなく、赦すことが余りにも辛く苦しいので涙をぽろぽろ流しながら赦すことです。容赦が無くては家庭は維持できません。人たちの集合体です。天使たちの集まりでないので完全であることはできません。旦那もしくじりがあり、奥さんも間違いを犯し、父母も子供たちも過ちをしでかします。罪も犯します。それでも赦さなければなりません。そうしてこそ、和解し合うことができるのです。

赦しが数多い咎をカバーします。精神的傷を癒し、再度和解し合う慈しみになるのです。赦さずに、「よし、お前がそうしたから、覚えておく。お前をそのままにはしておかないぞっ。」家庭でこうしあったら、その家庭は壊れてしまうのです。家庭はイエス様が仰せられたように、70回ずつ7度までも赦さなければならない共同住居です。

「コロサイ人への手紙 3章13節」の御言葉です。『互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。』イエス様が私たちを赦してくださったことは、そんなに容易いことではありませんでした。十字架に釘付けにされて肉を裂き、血を流し、あらゆる苦しみに会いながら、主は私たちを赦してくださったのです。私たちもそのようにしなければなりません。また、「ルカの福音書 11章 4節」に、『私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』と祈りなさい、と言われました。

そして、犠牲的に愛しようと努力しなければなりません。愛には仕えるという労苦が伴います。愛するのに、労苦と犠牲が伴わない場合はありません。口先だけで「愛する!」と言うのは、何の意味もありません。何か労苦が伴うことで愛を表現する時、それが相手に感動を与えるのです。犠牲的な愛をしようと、私たちは努力しなければなりません。

「エペソ人への手紙 5章22節〜24節」に、『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。』と記されています。

妻が夫に服従することは、犠牲的であり労苦が伴うものです。彼も自分も全く同じ人格者であり、同等な人として同じ家庭に住んでいるのに、何故、自分にだけ服従せよと言うのか? それは神様が立てられた秩序です。ですから服従すると言うことは、愛を表示することです。同時に、服従することは犠牲を意味するものです。気持ちはそうでないのに、服従する?何故…?奥さんが夫に服従し、尊敬しながら仕えたら、子供たちがそれを見て、「あ、お父さんはとても重要な方だな…!」父親の権威がたちます。そうしたら、家庭の秩序がたもてます。

妻が夫に服従せず、夫が何かと言えばそのことに癇癪的に反発し、尚且つ夫を無視したりすれば、子供たちが見るとき、「あ、お父さんは何でもないんだ。案山子みたいなもんだ。」と思います。そうなったら、父親が何か言っても権威がたちません。母親が父親の代わりに権威をたてようとしてもたちません。子供たちは母親を尊敬しません。私も幼い時、お父さんが何かと言えばぶるぶるふるえましたが、お母さんが鞭を振り回しながら追っかけて来ても、笑いながら逃げたものです。

父親の権威が地に落ちたら、子供たちは家庭生活の規範を失ってしまいます。妻が夫に服従すること、これは家庭の秩序を保つためにも、また子供たちの教育のためにも奥さんが犠牲的にしなければなりません。

そして「エペソ人への手紙 5章25節」に、『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。』と記されています。夫たちも、妻を愛することはとてもの犠牲です。イエス様が教会のために十字架にかけられました。そのような苦痛を耐え忍びながらも教会を愛する…。愛とは胸に感動を覚えるようなロマンチックなものだけが愛ではありません。イエス様が十字架に釘付けになられて血を流し、肉を裂かれる苦しみを受けられました。そこにロマンチックなどはありません。

愛とは、心の決定です。絶えがたい悩みや苦痛が伴いますけれども、犠牲になるのです。イエス様が私たちのために犠牲になられ、私たちを愛してくださったように、夫たちも妻をそのように、ロマンチックな心が湧き起こらなくても自分を犠牲にしながら、妻を愛して上げなければならないのです。妻を愛したら、子供たちがそれを見て、「あ、お父さんがお母さんを愛しているんだな。」子供たちが見る前で抱擁して上げ、子供たちが一緒にいる前で「愛します!」と言ったら、「お父さんが、お母さんを凄く重要にしているんだ。」と思うようになり、子供たちも母親を尊敬し、母の言いつけに従順に従うようになります。

夫が、妻を軽蔑し踏み躙ったら、子供たちも母を母として尊敬しなくなります。無視するようになります。夫が妻を愛し、尊敬して上げてこそ家庭で子供たちも母親を尊敬するようになるのです。

それから、相手のために神様に数限りなく感謝する生活を営まなければなりません。皆さん、私たちがこの世を生きていくとき、良い事だけがあるのではありません。悪い事も多いのです。しかし悪い事は感謝を通して克服することができます。他のことでは、絶対に克服することができません。難しい問題、悪いことが生じたとき、怨んだり不平したりしては絶対に打ち勝つことができません。怨みと不平が積み重なっていくだけです。

しかし感謝をしたら、怨みと不平が次々と消え去って行くようになります。ですから、悪い夫が苦しめたら、「父なる神様!悪い夫を下さって有り難うございます。私を苦しめることに感謝します。」また、毒々しい妻がいてしきりに苦しくしたら、「主よ!毒々しい妻を与えて下さって有り難うございます。しきりに苦しめさせて下さって感謝します。」逆説的ですが、絶えず感謝を捧げたらそのような雰囲気が徐々に消え去ります。

聖書に、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』(詩篇 50篇23節)と記されています。感謝したら、神様が現れます。ですから、私たちが家庭生活においても、社会生活においても、どうしてもできない事に対して一生懸命に感謝を捧げたら、できない事が順次に去って行くのです。「エペソ人への手紙 5章20節」にも、『いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』と記されています。特に家庭では、難しい問題にぶっつかった時には怨んだり不平を呟いたりせずに、感謝してください。これが問題解決のカギとなるのです。




第四、礼拝と対話がある家庭

第4番目に、家庭礼拝と対話の場をつくらなければなりません。忙しいスケジュールのために家族全部が集まることができなくても、集まった家族だけででも家庭礼拝を捧げなければなりません。そしてお互いのために祈るべきです。2〜3人が集まったところにもイエス様は親しく来られて、祈りを聞いてくださるのです。家庭で私たちが集まって家庭礼拝を捧げたら、「マタイの福音書 6章33節」に、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記されている如く、恵んで下さるのです。みんなが集まって神様に礼拝を捧げたら、そしてその次に父親のために、母親のために、子供たちのために祈ったら、その祈りは聞き叶えられるのです。

「マタイの福音書 18章19節〜20節」に、『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。/ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』と記されています。2〜3人が集まって礼拝を捧げ、そして祈ったら、天に居られる神様がそれを叶えてくださる、と言うのです。

幸福な家庭の最大共通点は、信仰観が一致することです。一緒に信じ、礼拝を捧げ、賛美することです。そして、そのような機会を利用して対話の時間を持つことです。お互いに顔を向け合って、良い事も分かち合い、苦しい事も分かち合い、もどかしく切ない事も共に対話を通して分かち合ったら、心が和やかになり温かくなります。

「ピリピ人への手紙 2章 3節」を見ますと、『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』と記されています。「ルカの福音書 6章37節」には、『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。』と記されています。愛はすべての咎をカバーします。父母と子供たちとの間の対話が殆どない現実が大きな問題です。

家族たちがお互いに幸福に暮らすためには、互いに褒め合い、感謝し合わなければなりません。お互いの対人関係にあって、真実な褒め言葉と激励は特効薬になります。旦那さん方がもっとも聞きたがる言葉が何か、ご存知でしょうか?「やっぱり、あんたが最高よ!」と言う言葉です。旦那さんを「財布」と見なさずに、旦那さんを見上げながら微笑み、褒め言葉を浴びせ、旦那さんを家庭で王様のように待遇したら、その旦那さんは奥さんを王妃のように待遇してくれます。

旦那さんを「取るに足らない人間」のように扱う奥さんを、王妃のように待遇する旦那さんはどこにもおりません。奥さんが先に、旦那さんに対して明るく、優しく、柔和に接しながら慰めて上げてください。短所をしきりに指摘したり責めたりせずに、しきりに褒めてあげ、高めて上げてください。そうしたら旦那さんは奥さんを高め、愛するようになるのです。ですから、「主よ!私たちに幸福を与えて下さり、家庭が喜びで満たされるようにして下さい。」と、絶えず祈らなければなりません。

最近の、韓国人の幸福指数は65であると言われています。幸福の要因は「家庭の親睦」が第1位であり、健康、肯定的思考、親友、対人関係…等、社会的成功は僅か2.2%に過ぎません。地位、名誉、富貴、権威があるとして家庭が幸福になるのではありません。そういうのは家庭の幸福に2.2%しか寄与しないのです。家庭の親睦が第1位です。貧しい藁葺きの家に住んでいても、お互いに愛し、睦まじかったら、これが幸福の第1位であると統計に現れているのです。事実です。

豪壮な邸宅に住み、毎日のように美食で腹を満たしながら暮らすとしても、互いに争い、妬み、いがみ合いながら暮らすとしたら、それが一体何でしょうか。何の幸福もありません。互いに理解し、同情し、愛し、犠牲しながら、互いに親しく、睦まじく暮らす…、これが最大の要件であることを知らなければなりません。

家庭が幸福であったら、すべての点でも幸いを得ます。家庭が活気にあふれ、生活力が向上し、神様が祝福してくださるからです。家庭で幸福と喜びを得なければなりません。ほかの所では得ることができないからです。私たちは誰彼なく、幸福な家庭をつくるために努力しなければなりません。この世に生まれて暮らす以上は、私たちは幸福を追求しながら生きて行かなければなりません。幸福は、代価を払わないことには得ることができません。

そうした後に、天の御国の家庭、父なる神様と、我が主であるイエス・キリストと共に暮らす永遠なる天の御国の家庭に入って行かなければならないのです。そこは永遠なる喜びと平安と幸福が満ち溢れる私たちの永遠なる住まいなのです。




お祈り

愛であられる、きよき我が父なる神様!この世の私たちに、神様が家庭を持たせて下さって有り難うございます。父、母、子供たち、夫、妻…と、このような家族たちも与えて下さり、そこで私たちが幸福を追求することができ、慰めと力と勇気をもって生きて行くようにしてくださって有り難うございます。

全知全能であられる天のお父さま!しかし、幸福な家庭は何もせずに黙って座っているところに訪れるものではなく、努力してこそ得ることができるものです。こんにち、主の御前で努力して幸福な家庭を作り上げることができるように助けて下さい。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!