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「死の陰の谷と主」
 






■聖書箇所

「詩篇 23篇 4節」
23: 4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。




今日、私は皆さんたちと一緒に、『死の陰の谷と主』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

喜びは、みんなと分かち合えばもっと大きくなり、悲しみは、みんなと分かち合えば小さくなる、と言われています。私たちは、この地球の上でひとりで暮らすように造られていません。神様も、『人が、ひとりでいるのは良くない。』(創世紀 2章18節)と仰せられました。また、45歳以上の独身男性は、そうでない男性より病気などで死亡する可能性が23%もっと高い、とイギリスの統計庁が発表しています。従って、一人で暮らすということが心理的、肉体的にすごい損失をもたらすということを知ることができます。

何よりも、骨が折れ、苦しい時を過ごす時には、その重荷を分かち合い、背負い合うことができる隣人が切実に必要です。なぜなら、一緒に苦しみを分かち合ってくれる隣人がいる時、力となり、慰めになるからなのです。今日、この聖書の御言葉を通して、我が神様は、私たちに偉大な恵みを施してくださいます。




第一、「死の陰の谷を歩く時」

第1番目に、『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。』と聖書に記録されています。皆さん、アダムの人生はまさに、光と暗闇が重畳された人生でありました。エデンの園に彼が暮らしていたときは、あまりにも栄光に満ち、燦爛たる人生でありました。神様が、アダムとエバの為にエデンの園で何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、どのように暮らそうか…、とするすべての問題を全部解決してくださり、備えておいてくださいました。

アダムとエバは心配し、懸念することが何もなく、いのちの源泉であられる神様に仕え、神様と共に、神様と交わりながら暮らすとき、彼等は、たましいが幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても溢れるばかりに得、そして死亡とは影も形もありませんでした。

ところが、彼らが神様に背き、神様が「取って食べてはならない。」と言われた'善悪の知識の木の実'を取って食べて、神様のようになろうと傲慢に振舞った故に審きを受けてエデンの園から追い出されました。彼らは堕落したことによってエデンを追い出されたその時から、死の陰の谷に下って行きました。神様がおられない人生は、それ自体が死の陰の谷でありました。

聖書「創世紀 3章17節〜19節」に、『また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』と記録されています。

彼が神様から離れて出会った'死の陰の谷'は、呪われた地であり、いばらとあざみが生えた地であり、苦しみと汗を流す地であり、結局には塵(ちり)に帰らなければならない悲劇的な地であるのです。それで、アダムがもたらしたこの世は、まさに聖書が言う'死の陰の谷'なのです。私たちが暮らしているこの世は、罪悪が幅を利かせている'死の陰の谷'です。

「ローマ人への手紙 3章23節」に、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、』と記されています。この世には神様の栄光がありません。誰ひとり残らずみな罪を犯して、神様に反逆するところです。ですから、死の暗闇が覆った罪悪の谷なのです。私たちが暮らすこの世、アダムが作っておいたところは、貪欲と世俗と悪霊が群がり蠢いている'死の陰の谷'なのです。

「ヨハネの手紙 第一 2章16節」に、『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』と記録されています。情欲と貪欲な心でいっぱいの世の中です。人たちは自分の有益の極大化を計らって、噛み合い、奪い合い、殺し合っています。ですから私たちが暮らしているこの世界は、絶望と虚無と無意味の暗い死の陰の谷なのです。

私たちが生きているこの世界は、病気と苦痛の真っ暗い死の陰の谷です。貧乏と飢えの死の陰の谷に私たちは置かれています。皆さん、こんにち、世界でよく食べ、よき暮らしをしている文明国はべつに多くありません。飢えているアフリカ大陸をご覧ください。東南アジア、あの南アメリカ・・・、世界はまさに死に陰の谷・・・襤褸をまとい、飢えの苦しみに瀕しています。私たちにも経済的に寒い風が覆い被さってきています。貧乏と飢えは、この世界がアダムとエバが堕落した以後、今まで経験する苦しみなのです。

そして最後に、死と無意味の絶望的な死の陰の谷に私たちは瀕しております。人間には、一度死ぬことが定まっています。皆さん、人生は草と同様です。草はしおれ、花は散ってしまうのです。「ローマ人への手紙 5章12節」に、『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。』と記されています。

人間は世界という死の陰の谷で生まれて、一生涯存在的絶望を抱いて暮らし、結局は一握りの土に帰ってしまうのです。この死の陰の谷は、全般的な世界の現象ですが、また、各々個別的に人生を暮らしていくのにも死の陰の谷があります。大小様々な個人的、家庭的、社会的、国家的に死の陰の谷があるのです。




第二、訪ねて来られた私たちの隣人・イエス・キリスト

第2番目に、この死の陰の谷を通るとき、私たちはどのようにしてこの谷に耐え得ることができるでしょうか。私たちに良いことがあるときには、数多い人たちが友になってくれて共にいようと願いますが、私たちが失敗し、失望して死の陰の谷に下って行くときには、それこそわびしくなります。友も兄弟も、甚だしくは父母までも、一緒に行くことができないわびしい谷を歩いて行くようになるのです。

このような死の陰の谷を下って行きながら、目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなく、前途が漆黒のように真っ暗いときにも、私たちがいつも心の中に記憶しなければならないことは、私たちを離れず、私たちを捨てずに共にいてくださる方が居られると言うことです。この死の陰の谷を共に歩いてくださる方がおられるのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。

彼は天にあって、私たちに悟りや、解脱や、諦念の知識を啓示してくれるのではありません。彼は親しく天の栄光の御座を捨て、人間のからだを着て、死の陰の谷であるこの世、また私たち個人が経験する失敗、失望の死の陰の谷を訪れて来られて、私たちと共に荷を背負い、私たちと共に歩いてくださる方なのです。

「ヨハネの福音書 1章14節」に、『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』と記されているのです。その神様の御子イエス様が、親しく死の陰の谷を訪れて来られて、皆さんと一緒に手を取ってこの谷を通ってくださるのです。

彼は、私たちを苦しみから救い出すがために死の陰の谷で十字架を背負われました。誰かが強制的に背負わしたのではありません。ご志願なさって、私たちの苦しみをかばってくださるために、私たちの苦しみを代わりに清算するがために、彼は十字架を背負われたのです。それで彼は死に陰の谷を通る私たちに、私たちの避け所となり、私たちの砦となり、私たちが信頼する神様となってあげようと願っておられるのです。

彼は贖いの死を通して、こんにち、この時間、両手をいっぱいに差し伸べて、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と言われます。どのようにでしょうか?「わたしが、あなたがたの避け所になってあげよう。」「わたしが、あなたがたの砦になってあげよう。」「わたしが、あなたがたが信頼する神になってあげよう。」と言われるのです。

ですから、いくら暗く、真っ暗闇であり、四方八方が暴風に取り囲まれたとしても、私たちに助けを与えるために来ておられる神の御子イエス・キリストが居られると言うことを私たちは忘れてはならないのです。彼は十字架の下に避けるように、私たちを招いておられる神様です。「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」の御言葉です。『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』

彼はまた、私たちが悪魔とこの世を避けて聖霊充満に与かることができる避け所です。悪魔とこの世の嵐を避けてキリストの下に入って行ったら、彼は、私たちに聖霊充満と平安を与えてくれる避け所であり、砦であり、信頼する神様となられます。「テトスへの手紙 3章 6節〜7節」に、『神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。』と記されています。

私たちは、心の苦痛と肉体の疾病の中で身もだえしながら、この風浪をどのように乗り越えたらよいか知らないとき、この死の陰の谷に忽然として現れた私たちの避け所であり、癒しの砦であり、信頼する神様、イエス・キリストがおられます。私たちがイエス様のもとに駆け寄ったら、キリストが私たちの癒しの避け所、砦、信頼する神様になってくださいます。

「イザヤ書 53章 5節」に、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記されています。このイエス様が、私たちに両手を差し伸べて「避け所」になってくださると言うのです。「わたしの所に避けなさい。ほかには避け所がありません。私のふところに避けなさい。わたしが信頼する神様になってあげます…。」と言っておられるのです。

このイエス・キリストは、真っ暗い餓えと貧乏がある世界の中で、私たちに祝福の避け所であり、砦であり、信頼する神様となられるのです。聖書「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記されています。

従ってイエス様は、真っ暗い、呪われたこの地で私たちが避難することができる唯一の避け所であり、砦であり、信頼することができる神様です。その方が私たちを捨てられず、私たちを離れられずに、死に陰の谷を通るとき、私たちと共にいてくださるのです。それだけではありません。イエス様は、永遠のいのちの天国の避け所であられ、砦であられ、信頼する神様であられます。

死の陰の谷を通るとき、残酷な絶望の竜巻が荒れ狂って、永遠の地獄に数多い人たちが落ち葉のように落ちて行くのです。その中で、イエス様は『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』と言われます。

私は最近、白血病に罹った娘を癒してくださった神様に対する証しをなさった龍山大教区の「キム・ソジュ」執事様に関する記事を読みました。お嬢さんが中学校1年のときに、遠足に行って来てから、からだに熱があり、健康状態が良くありませんでした。ただの風邪であろうと思って薬を調剤して服用させましたが、状態はだんだんと悪くなる一方でありました。それで病院に連れて行って検査を受けてみたところ、白血病であることが判明しました。

白血病はたやすく直る病気ではありません。未だ医学的には不治の病と言われています。抗がん剤を使用しましたが差がなく、からだは益々弱くなっていき、髪も脱毛してしまいました。これを見る家族たちの心は苦痛そのものでありました。嫁ぎ先の親類の勧めで'呪符'を買って来て娘のからだに張り付けましたが、効果があるはずがありません。

それから1年半後、まったく絶望的な状況におちいり、家族全部が死の陰の谷を通るようになりました。その時、たまたまお隣に住んでいるヨイド純福音教会の地域長が訪ねてきて伝道しました。神様はお娘さんの病気を直してあげることができるから、私たちの教会に行きましょう、と言いました。水に溺れた人は藁にも縋ります。娘を助けてあげると言うので、その母親が教会に出席するようになったのです。それで、教会に出席するようになってからは、区域、地域の聖徒さんたちが集まって熱心に祈ってあげました。

ある日、その母親は早天祈祷会に出席することに決めました。その前の夜、娘は水を少し飲んだだけで、一晩中、寝もせずに苦しみました。しかし、その娘を家に寝かしておいたまま、母親は早天祈祷会に出席しました。父親が娘を見守っておりました。寝もせず、熱が出て苦しんでいた娘が突然、言いました。「私たちの家から鬼婆が出て行きながら、私に、交通費をくれ、と言いますよ…。」その時が、母親が教会に来て祈る時間です。

夢か現実か知らない中で、鬼婆が現れて、「もう、私はあなたの家から出て行くから、交通費をくれ。」と言ったというのです。その事を告げた後に、娘は深い眠りに吸い込まれていきました。そして、家族たちが死の陰の谷で小さい光を見るようになりました。娘の病気が直るかも知れない、という希望を持つようになりました。

1999年5月の第3日曜日に、母親が娘を背負って主日礼拝に参加しました。ところがその日、説教が終わってから、「白血病で出席した人がおります。神様がその人を癒してくださいました。」と言う、癒しの言葉が告げられたと言います。その言葉を聞く瞬間、その母親も「私の娘なのだ…!」と思い、母親の背中におんぶされて座席に座っていたその娘さんも「これは、私をみて言うのだ…!」と思ったと言います。

その日以後から、その娘さんのからだに肉がつきはじめ、血色も良くなり、髪の毛も生え出しはじめました。健康が快復しはじめました。病院に行ってみたところ、お医者が「これは本当に、想像することもできないことが起こった。白血病は跡形もなくなくなって、完全に健康になりました…!」と言いました。まことに、全家族が白血病という死の陰の谷を通り、苦痛の中であらゆることに拠り頼んでみてもすべてが空しかったのですが、その死の陰の谷においても共にいてくださるイエス様を発見して、イエス様に拠り頼んだとき、主が彼らを死の陰の谷から救い出してくださったのです。

皆さん、私たちは死の陰の谷を通るとき、そこでイエス様を探さなければなりません。イエス様に会ったら、死の陰の谷が消え去るようになるのです。イエス様こそ、こんにち、まことに私たちの避け所であり、砦であり、信頼する神様となられます。イエス様を信頼し、その懐に抱かれるとき、主の権威と御力によって、死の陰の谷を天国の栄光に変化させてくださるのです。水をぶとう酒に変化させたイエス様は、私たちの運命と環境を変化させてくださるのです。

今、私たちがどのような死の陰の谷を通るとしても、主は聖霊を通して私たちと共におられます。「ヨハネの福音書 14章 1節」に、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』と言われました。「ヨハネの福音書 14章18節」には、『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。』と記されているのです。

また「ヨハネの福音書 16章33節」に、『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』と記されています。死なれてからよみがえられたイエス様は、勝利者として、私たちと共にいてくださるのです。




第三、主の鞭と杖

第3番目に、聖書には、死の陰の谷を通るときに、主を発見して拠り頼んだら、主は、主の鞭と杖をもって私たちを慰めてくださると記録しています。皆さん、鞭と杖は牧者の道具です。牧者が羊を導くとき、鞭と杖は羊を導くのに使用され、野の獣を追い払うことに使用されます。イスラエルの民たちがエジプトから出て来たとき、主は鞭と杖をもって導いてくださいました。昼は雲の柱、夜は火の柱で彼らを導かれましたが、これがまさに、主の鞭と杖なのです。

「イザヤ書 43章 1節〜2節」に、『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』と記されています。

「詩篇 28篇 7節〜9節」の御言葉です。『主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。 主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。 どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。』

「詩篇138篇 7節」に、『私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。』と記されています。いかに驚くべき牧者であり、救い主であられるでしょうか。この主は、今も、私たちをかえりみてくださる主の鞭と杖をもってみわざを働かしておられるのです。神様の御言葉は、私たちを導く鞭と杖です。聖霊さまが御言葉を通して、私たちを導いてくださるのです。

「詩篇107篇20節」に、『主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。』と記録されています。また「詩篇119篇105節」には、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』と記録されています。御言葉を通して私たちを導いてくださり、御言葉が私たちの足のともしび、光となって、私たちがまことに行くべき道に導いてくださるのです。

「ヨハネの福音書16章13節」には、『しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。』と記しています。

こんにち、御言葉と聖霊さまは、私たちを導いてくださるが為に来ておられます。それで、私たちが御言葉を読み、口ずさみ、御言葉を聞き、祈ったら、聖霊さまが私たちの知恵となられ、聡明となられ、明哲となられ、力となってくださって、皆さんと私を暗闇から導き出して明るい大地に出られるようにしてくださるのです。「詩篇118篇 5節〜6節」に、『苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。』と記されています。

私たちが患難に遭い、苦難に遭う時に、主の前にひれ伏して祈り、呼ばわり求め、信じたら、こんにちも主の権能の鞭と杖が現れるのです。なぜかと言えば、主は牧者であられるからです。牧者が眠ったら、獣が来て羊を噛み殺します。私たちが牧者を眠らせてはなりません。私たちの牧者であられる主に仕え、礼拝し、崇めたら、牧者が私たちを導いてくださるのですが、その御手には私たちを導き、守ってくれる鞭と杖があるのです。故に私たちは、道に迷い、獣に襲われる心配がありません。

「エレミヤ書 33章 3節」に、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と言われました。こんにちも、主に呼ばわり祈る人にだけ、理解を超えた大いなる事が告げられます。

「コリント人への手紙 第一 2章 9節」には、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』と記されています。神様は、私たちの一生のために、既に私たちの行くべき道を備えて置かれたのです。祈り、信じ、従順に聞き従うときに、私たちは神様が備えて置かれた道を探していくことができるのです。

「マタイの福音書 21章22節」に、『あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』と記されています。私たちが思う事よりはるかに主は、私たちの近くにおられて、私たちの祈りに耳を傾けておられるのです。私たちはこの世と言う死の陰の谷で傷だらけになって生きています。人間自らの力では、どこを見ても救いがありません。

しかし、ここに余りにも希望と喜びを与えてくれる福音があります。それは、神様の御子イエス様がこの死の陰の谷に来られて、十字架を背負われ、私たちのまことの避け所、砦、信頼する神様になられるが為に、両手をいっぱいに広げて、私たちを招いておられると言うことです。雌鶏がひよこをその羽の下に抱くように、こんにち、主は皆さんを羽でカバーしてあげようと願っておられるのです。神様は、全能の鞭と杖をもって私たちを導き、私たちに大きな心の慰めと平安を与えようと願っておられるのです。

ですから、今、この時間、風の音、波の音、恐ろしい戦争と戦争のうわさが天地に広がっても、真っ暗い死の陰の谷に私たちを捨ておかず、決して私たちから離れない、私たちの牧者であられる主が共におられると言うことを知らなければなりません。皆さんが主を探し、尋ねて出かけるのではありません。主が死の陰の谷であるこの世を訪ねて来られました。皆さんが呼ばわり祈るので来られたのではありません。皆さん個人の死の陰の谷に、主が自ら訪ねて来られて、皆さんを助けようとして待っておられるのです。

天地万物を造られ、世界とその中のすべてのものを創造なさって支配し、私たちの生死禍福をつかさどる、全能なる天のお父さまとその御子イエス様が、こんにち、皆さんと共におられるのです。恐れないで下さい。驚かないで下さい。強く雄雄しく、大胆になって、砕かれ、悔い改めて、主に拠り頼み、仕えて下さい。主は、皆さんと共に今から永久(とこしえ)まで共にいてくださいます。




お祈り

聖く、愛であられる父なる神様!私たちは死の陰の谷だけを見つめ、真っ暗い周囲を見つめて、見捨てられらたと挫折し、絶望して死にます。全知全能なる主よ。人間の知性や感覚はその程度でしかありません。しかし、時間と空間を超越し、私たちの感覚や理性を超越して、主は、死の陰の谷を通る私たちと共にいて下さって有り難うございます。

既に十字架を背負われ、死の陰の谷のすべての敵たちを滅ぼされたイエス様は、私たちのまことの避け所であり、砦であり、信頼する神様となられます。あなたがその翼で私たちを覆われるので、私たちがその翼の下に留まるようになります。主の真実は、大盾であり、砦です。私たちは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れません。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも恐れません。

全知全能であられ、愛であられる、父なる神様!お金に拠り頼めばお金によって滅び、権力に拠り頼めば権力によって滅び、青春に拠り頼む者は青春と共に滅びますが、萬軍の主であられる我が神様と、私たちの主イエス様に拠り頼む者は、永遠に保護されて天国の栄光の中に入って行くようになります。

主である我が神様!ですから、夜も昼も、眠っても覚めても、イエス・キリスト我が主に心から仕え、拠り頼み、主と共に同行する私たちすべてとなるように助けてください。イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!