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「祈りと失望」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 18章 1節〜8節」
18: 1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18: 2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18: 3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18: 4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18: 5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18: 6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18: 7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18: 8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」




私は、今日、皆さんたちと一緒に『祈りと失望』という題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

祈りを捧げたことのある人なら、応答をしていただく祈りがそんなにたやすいものではないことを体験しているはずです。イエス様のゲッセマネでの祈りを見ますと、大きな慟哭と涙で祈るとき、額から落ちる汗が「血の滴」となったと聖書に記録されています。

祈りは、霊的戦争です。戦争とはそんなに容易に終わるものではありません。私たちが神様の前に行く道を遮っている悪魔や悪霊たちと一方(ひとかた)ならぬ戦いをするのが私たちの祈りなのです。それで、骨が折れ、忍耐が必要です。余りにも骨が折れるので、失望するときがあります。それでイエス様は、「いつも祈るべきであり、失望してはならない。」と言われました。




第一、祈りは骨が折れる事を言われた譬え

「ルカの福音書 18章 1節〜3節」に、『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。』と記されています。

皆さん、ある町に、神を恐れない裁判官がいた、と言います。勿論、無神論者たちは神様がおられるとは考えませんので、神様を恐れません。しかし神様は、天地と万物を造られた神様であり、全知全能なる神様であり、宇宙の偉大なる裁判官です。そのような神様がおられるということを知るようになったら、誰も神様を恐れない人はいないはずです。

神様を知る人は、神様を恐れますので、自然と心を正しくし、敬虔に暮らし、また神様の形通りに造られた人たちを慎重に待遇します。ところがこの裁判官は、神様を信じず、神様を恐れないので、彼には敬虔さがありませんでした。彼は自分勝手に行動しました。人を尊敬するとか、貴重に扱わない人でありました。彼には正義や憐れみがなく、無情であり、無慈悲な人でありました。ただ彼は、権力とお金と力がある人にだけ良くしてあげ、それ以外の人には無関心な人でありました。傲慢であり、人間差別が甚だしい人でありました。

それで、その裁判官の前では、平凡な人は人間扱いをしてもらえません。ところが、その裁判官の前にやもめが現れました。皆さん、やもめはどんな人ですか。孤独な人です。保護者がない気の毒な人です。何の力もありません。人たちが無視します。社会的にも蔑みと卑しみを受けます。このやもめが、傲慢この上もない裁判官の前に現れて、「私の相手を裁いて、私を守ってください。」と願いました。当然至極な事ながら、その裁判官は耳も傾けず、まったく無視してしまいました。

皆さん、私たちが祈るとき、拳で岩を叩くみたいな息苦しさを感ずるときが少なくありません。天におられる神様の前に出て来てひざまずきはしたものの、私たちが呼ばわり祈ろうとするとき、胸が苦しく、あまりにも荷が重過ぎて、神様が果たして私のような者の祈りを聞いてくださるだろうか?と、気が遠くなるときがあります。

主は、このような私たちの為に譬えを話してくださいました。私たちが、いくら無能力であり、挫折と絶望に陥ろうとも、傲慢で不正な裁判官の前に立ったやもめに比較することができるだろうか、と言うことです。到底不可能な、そのような状況にあっても、やもめは果敢に裁判官の前に出て来て、自分の切な心の訴えをしたように、私たちも、どのような難しさと苦痛と不可能だという思いが襲ってきても、失望せずに、神様の前に出て来なさいと言うのです。




第二、絶対無関心の壁にぶっつかったやもめ

第2番目に、聖書を見ますと、絶対無関心の壁にぶっつかったやもめの絶望的な立場を見せております。裁判官が少しでも耳を傾けてくれたらよいのですが、叱りもせず、答えてもくれず、そのまま聞き捨てにしているのです。絶対絶望を突破しようとするこのやもめの態度をご覧ください。このやもめから私たちが教わるべき事柄が凄く多いのです。

このやもめは、不正な裁判官のところに出てくるとき、取り返すことがない決断を下したのです。もうこれ以上、残念・無念な人生は生きて行かない…。皆さん、これが人生の大きな変化の動機になったのです。答えてくれたらよし、答えてくれなくてもよい、と言った心構えであったら、このような人は不可能を可能にすることはできません。

病気に罹った数多くの人たちが、私に按手祈祷をしてもらいに来ます。44年間牧会するあいだに得た体験ですが、一つの共通した「応答していただく原理」を発見しました。それは何か、病気に罹って祈祷してもらいに来た人が、「私はもう、これ以上、病気によって苦しみたくはない。」「このような苦しい人生は、もう生きたくない。」「もう、このような病気に引きずり回されはしない。」といった、悲壮な覚悟の人は皆、病気が癒されます。

このやもめが、不正な裁判官の前に出てくるとき、その心に恐ろしい決断を下したことを私たちは記憶しなければなりません。このやもめは、「死ぬとしても、このような無念・残念な人生は生きていかない。」とした決断と覚悟をもって出てきました。皆さん、私たちが祈るとき、大小を問わずに心に決断を下さなければなりません。大きい問題だろうが、小さい問題だろうが、「私は、どんな事があってもこの問題を解決してしまう。」「このような人生は生きない。」とする心の決断と覚悟が必要なのです。そうしたときに、巨大な変化のみわざが起こるようになるのです。

それでこのやもめの訴えは血が滲んだ、切実なものでありました。彼女の訴えは平凡な訴えではありませんでした。腹の底から湧き出る呼ばわりでありました。「私の相手を裁いて、私を守ってください。」同じ訴えでも、腹の底から湧き出る「恨みに徹したような」訴えと、頭の中から出てくる生温い訴えとは違います。

皆さん、イエス様がゲッセマネの丘で神様に助けを祈り求めたとき、血が滲んだ切実な祈りを捧げられました。大きな慟哭と涙で祈られたのです。いかに切実な祈りであったか、毛細血管が破裂して、汗が血となって滴り落ちました。たくさんの人たちが、ヨイド純福音教会の聖徒たちはあまりにも騒々しく祈る。大きく声を出して騒がしく祈る…、として非難しました。最近はそうではありませんけれども、過去には相当に非難しました。

切実な問題にぶっつかった人は、声に出して祈ります。血が滲んだ、泣き喚くような訴えをするように祈るのです。その理由は、ヨイド純福音教会に切実な問題にぶっつかった人たちがたくさん集まったと言うことです。切実でない小さな問題を抱いて祈る人は、平穏で静かな教会に行き、苦しく切実なあまり血が滲んだ祈りを捧げる人は、泣き喚くように叫び祈るために、私たちのヨイド純福音教会に来られたという訳です。そして、身もだえしながら泣き叫び祈った結果、神様から応答していただいたのです。

このやもめは、失望しない事に覚悟しました。失望すると言うことは、派手なことです。死ぬか、生きるか、の壁にぶっつかったら失望するいとまがありません。決死的という言葉は、このような場合に使用するものです。決死的な人には、失望がありません。思うとおりにならなかったら、死ぬのです。失望はありません。

そして彼女は、継続して呼ばわりました。春、夏、秋、冬…、裁判官の家の前にひれ伏して、「私の相手を裁いて、私を守ってください。」と、喚きました。それに対する裁判官の態度は、「ルカの福音書 18章 4節〜5節」に次のように記録されています。『彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」と言った。』

裁判官は、当初は無関心でありました。やもめが家の前に来てひれ伏して訴えようが、叫ぼうが、どこの犬かと無関心でありました。裁判所から出るときに、後ろからついて来ながら訴えても、聞き捨てにしました。しかし、これが春、夏、秋、冬…と継続するや、うるさくなってきました。それが次第に憤怒に変わって来ました。ところがその怒りも遂には煩わしいことに変化してきました。夜には、そのやもめが夢に現れます。朝の食事のときにも、そのやもめのことが思い浮かびます。裁判所での執務中にもやもめのことが去りません。

もう大変なことになりました。外に居たやもめが、いまは頭の中に入ってきております。24時間、離れずに彼につきまとうので、煩わしくてたまりません。ついに裁判官は両手を上げるようになりました。「どうも、このやもめは、うるさくて仕方がないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくて仕方がない、と言った。」

裁判官はそのやもめのために問題を解決してあげたのではなく、自分のためにその問題を解決してあげました。そしてやもめは、問題を解決してもらえるようになったのです。このような、霊的・心理的戦争は、一日や二日で終わるものではありません。皆さん、私たちが神様の前に出て行って呼ばわり祈ることは、このような戦争です。このような戦争が一日や二日では終わりません。数限りない挫折と失望の丘を越えなければならないのです。しかし、このような試練と苦痛を断固として耐えながら進めば、私たちに勝利は近づいて来るようになるのです。




第三、不正な裁判官の言っている事を聞きなさい。

第3番目に、主は、この不正な裁判官の言っていることを聞きなさい、と言われました。祈る人たちは、この不正な裁判官の言っていることを聞いて、そこから教訓を教わりなさい、と言われたのです。なぜ不正な裁判官が手を上げたか、深く考えてみなさい、と言うのです。

「そんなに不正で、冷酷で、無情な裁判官が、どのようにして手を上げたか、一回、考えてみなさい。このやもめがどんなに悲壮な覚悟と決心をして出てきたか、よく考えてみなさい。あなたがたも、私のところに来て祈るとき、このように、断固とした、悲壮な覚悟と決心をして出て来なさい。応答していただくか、そうでなかったら死ぬか、悲壮な覚悟をしなさい。決断を下しなさい…。」

こんにち、あまりにも数多くの人たちが決断をくださない祈りをします。耽美的な祈りをします。芸術的な祈りをするのです。応答していただいても良し、応答していただかなくても良いといった、中間地帯に立っています。断固として丘を越えようとしません。悲壮な覚悟と決断で主に縋らなければなりません。そのようにする祈りが皆さん、結局には、徹夜祈祷もするようにし、断食祈祷もするようにするのです。平安な時に誰が徹夜し、断食祈祷をするでしょうか。悲壮な覚悟をするようになったら、徹夜するようになり、断食しながら祈るようになるのです。恨みに徹したような祈りをしなさい、と言うのです。

黙想する祈りも良いでしょう。それは主と交わるときに良いです。静かに祈るのも、人たちが見るときには美しく見えます。しかし皆さん、甚だしく、息苦しいほどに苦痛な時には静かに祈ることができません。恨みが骨髄に徹した人は、主に呼ばわるのです。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』神様が呼ばわりなさいと言われました。神様が静かにしなさいとは言われなかったのです。

皆さん、聖書に、イエス様がまた他の譬えを言われました。真夜中に、一人の友だちがお隣の家に来て戸をたたきます。「君、パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中に私の家に来たんだが、生憎、出してやるものが何もないのだ。」すると、彼は家の中からこう答えます。「面倒をかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子供たちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。」

その友だちはどうしたでしょうか?そのまま引き返したでしょうか。そうではありません。「パンを貸してくれ。」「パンを貸してくれ。」と戸をたたきながら、継続頼みました。あとには、悲鳴のような一声(ひとこえ)を出して願いました。恨み徹したような祈りには、荘厳で、美しい形容詞が修飾された、そのような言葉がでません。「パン!」「パン!」「パン…!」悲鳴のような一声(ひとこえ)だけを出します。「病を癒してください。」「病を癒してください。」「病を癒してください。」

すると、家の中の友人が呆れてしまいました。子供たちも、自分も目が覚めてしまいました。そのまま過ごすことができません。それで、その人はパンを三つ手にして、戸をあけて、渡しました。イエス様も言われました。『あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。』

皆さん、ですから、神様に祈り求めるとき、私たちが切実に、恨み徹したような心で祈り求めなければならないのです。「ルカの福音書 11章 9節〜10節」に記されている御言葉です。『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』ここに、主が強調して言われました。「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」これは猛烈な祈りを指して言われたのです。求め、捜し、たたき…、猛烈で集中的な祈りを言うのです。

また、主が私たちに教わるように願われることは、失望をしない態度です。このようなやもめの態度を教わりなさい、と言うことです。無視され、さげすまれ、無関心であっても、その次には脅迫され、恐喝されても、このやもめは失望しませんでした。ひとえに一つの目標、応答をして貰うという一つの目標をもって前進することを教わりなさいと言うことです。

私たちが祈りを捧げるとき、中々応答してもらえず、問題はますます悪化し、環境がもっと難しくなっていったら、私たちは失望します。皆さん、環境が応答してくれるのではありません。応答は神様からいただくものです。ひとえに神様に集中して祈り求めなさい、と言うことです。なぜ?神様が応答してくださったら、できないことがどこにあるでしょうか。全知全能なる神様に、何ができないことがあるでしょうか。死んだ者も生き返らせ、無い物もあるが如くに呼ばれる神様です。

神様にはできないことがありませんので、神様に呼ばわり、祈り、求めなさい、と言うことです。「ヘブル人への手紙 10章38節」に、『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』と記されています。

「ヤコブの手紙 1章 6節」には、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。』と記されています。ですから、失望しない態度を教わらなければなりません。

聖書「マタイの福音書 15章21節〜28節」を見ますと、ツロとシドンの地方にいる'スロ・フェニキヤ'という女の祈りを見ることができます。イエス様が弟子たちを連れて、シドン地区に行かれました。ところが'スロ・フェニキヤ'の女が飛び出して来て、叫びました。異邦人の女性です。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」主は無関心に通り過ぎようとなさいました。

イエス様は、彼女に一言もお答えにならなかったのです。そこで、弟子たちが御許に来てイエス様にお願いしました。「あの女を帰してやってください。叫びながら後について来るのです。」しかし、イエス様は答えて言われました。「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」

しかし、その'スロ・フェニキヤ'の女は来て、イエス様の前にひれ伏して願いました。「主よ。私を助けてください。」それに対して、イエス様は衝撃的なお答えをなさいました。「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」この犬のような人よ。退け!と言うことです。侮辱的な言葉です。普通の人がそのような言葉を聞いたら、「何だと?犬だと…?」として怒ったことでしょう。

ところが、この'スロ・フェニキヤ'の女がひれ伏したまま、答えて言いました。『主よ。その通りです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』(マタイ15:27)イエス様が感動なさいました。イエス様は彼女に答えて言われました。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願い通りになるように。』(マタイ15:28)

わあ〜、イエス様を感動させたこの'スロ・フェニキヤ'の女の祈りをご覧ください。神様の心を感動させた女です。神様の御心が、この女の言った言葉に感動されました。皆さんも、絶対に失望せずに、後ろに退かずに、自分を至極へりくだらせてまでも、犬扱いをされながらでも、主の前に出て来て最後まで祈り願って、応答をしていただく、そのような失望をしない態度をもつようになられますよう、主の御名によって祝福します。

聖書「ルカの福音書 18章 6節〜8節」を見ますと、『主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」』と記されています。

主は、この不正な裁判官とやもめの譬えを言われながら、私たちが信じる神様は、この不正な裁判官のようにそんなに無情でもなく、冷酷でもない、と言うのです。良き神様であられると言うのです。その神様が私たちを愛しておられるというのです。そのような神様に祈り求めるのに、応答してくださらないはずがあるでしょうか。

皆さん、聖書には「選民の為に」と記されています。聖書「ペテロの手紙 第一 2章 9節」を見ますと、『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』と記されています。皆さんは、神様が直接選んでくださったのです。

皆さんは、百貨店に行って商品を選ぶとき、どのような物を選びますか?皆さんが好むものを選びます。神様がなぜ、皆さんを選ばれたでしょうか?神様は皆さんが好きだから選ばれたのです。神様は数多くの人たちの中から、皆さんが好きであり、愛されるので選んで立たせたのです。したがって皆さんは、神様から愛されている人たちなのです。

不正な裁判官は無情で冷酷ですが、神様は私たちが好きであり、私たちを愛しておられます。「マタイの福音書 7章 9節〜11節」に、『あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』と記されています。

神様は、パンを下さいと言うときに、石を与えることをなさらず、魚を下さいと言うときに、蛇を与えることはなさらない、と言うのです。この世の父もそうであるのに、まして神様がそのようになさることがあるだろうか、と言うのです。皆さん、父母は子どもを愛するので、子どもの要求は大部分聞き叶えてあげます。子どもに勝つ親はありません。なぜ?愛するから…。

神様は、私たちをどう見ておられるでしょうか。その御子イエス様を遣わされ、身を裂き、血を流すようにまでして、私たちを贖ってくださいました。神様は、私たちの最大の幸福のためにみわざを働かしてくださるのです。祈祷に応答してくださらないことも、私たちの幸福となるようにするために応答してくださらないのです。応答してくださらないのも、応答です。

神様は、断絶することがない祈りを喜ばれます。神様は、私たちが少し祈ってから直ぐに止めてしまうことを願われません。神様は、最後まで、このやもめのように、春が来てからは過ぎ去り、夏が来ては過ぎ去り、秋が来ては過ぎ去り、冬が来て過ぎ去っても、断絶することなく継続して捧げる祈りを喜ばれるのです。聖書は、『夜昼神を呼び求めている選民』と記しています。

「ルカの福音書 21章19節」に、『あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。』と記されています。失望するな、と言うことです。また「ヤコブの手紙 5章11節」には、『見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。』と記されています。

私は昨日、私の事務室に信仰相談に来られ、按手祈祷を受けに来られた、第3聖殿のイム・ジョン・スク執事さんの証しを聞いて、相当な感激を受けました。9年間も長引いた問題を宇宙の裁判官であられる神様に、その残念さを訴え、根気強く祈って、ついに応答していただいたのです。彼女は神様を裁判官とし、自分を原告にし、悪魔を被告にして、そしてイエス様を弁護士として、初めから文章を作って神様に呼ばわり祈りました。

1994年度に、旦那さんの退職金をもって、3年後に建築が終わったら入って住む「組合アパート」を契約しました。そして、その「組合アパート」が不渡を出したのも知らずに、中渡金6,300万ウオンを納付しました。あとでその事実を知りましたが、もう後の祭りです。それから8年間、死ぬほどにつらく苦しい生活をしました。旦那さんが色々な商売をしましたが、生活が至極苦しく、その時はほかの教会に出席しておりましたが、1996年2月に私たちの教会の第3聖殿に登録して、私たちの教会で礼拝を捧げ、説教を聞き、祈りました。

聖書を読む途中に、神様は宇宙の裁判長であられ、サタンは盗み殺し滅亡させるだけの盗人であり、イエス様はいのちも財産も回復してくださる良き神様であられることを知って、祈祷文を作成して、天の神様であられる裁判官に訴えだしました。神様は裁判長であり、サタンは被告であり、イエス様は弁護士だと考えて、彼ら夫婦は、何の力もなく、拠り所もないまま、イエス様の十字架の血潮に拠り頼んで、怨めしく残念でたまらない問題を解決してください、とイエス様の御名によって切実に祈り、また根気強く祈りました。

ところが2000年4月の主日に、教会に来て説教を聞いている途中、「神様が、とても難しい裁判をしている人を勝つようにしてくださいました。」と、私が言ったそうです。それで急いで「アーメン!」と受け入れてから、「組合アパート」から返してもらったら宣教献金を捧げます、と神様に誓いました。去る2月6日、朝の断食祈祷を終えたときに、「組合アパート」の事務室から電話がかかってきました。『事務室に来て、お金を貰って行きなさい!』という内容の電話でありました。

到底、返してもらえないお金でありました。ところが根気強い祈りをささげ、失望せずに、不退転の祈りを捧げた結果、9年ぶりに、400万ウオンを控除した5,900万ウオンを返してもらいました。根気強い祈りを通して、神様である裁判官から勝訴判決を下していただいたとして、神様に約束した献金を持参して、私のところに祈ってもらいに来ました。

皆さん、この姉妹さんは、9年間祈り続けました。そのお金は、到底返してもらえないお金でありました。ところが9年間、天の神様に呼ばわり、祈り続けました。たいていの人は中途で失望してしまったでしょう。9年間とは、凄く長い年月です。それにも拘わらず、失望せずに祈り続けるや、神様が応答してくださったのです。

私たちの父なる神様は、私たちの祈りに最大限早く応答してあげようと願っておられます。「詩篇 81篇14節」に、『わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。』と記されています。「ローマ人への手紙 16章20節」には、『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。』と記されています。

ダニエルが祈るとき、初めの日に応答されはしませんでした。天使が応答を携えてくるのに、悪魔が彼らの軍隊と共に空中で21日間、応答を携えてくる天使を妨害しました。21日目の日に、ダニエルが失望せずに継続して祈るや、天使の一人ミカエルが来て助けてくれたので、その天使は応答を携えて来ました。ですから、私たちは失望してはなりません。必ず応答していただく事を信じなければならないのです。どのような環境が襲ってきても、断固として応答していただく事を信じなければなりません。

「詩篇 145篇19節」に、『また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。』と記されています。「マタイの福音書 21章22節」には、『あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』と記されています。また「ヨハネの福音書 14章13節〜14節」には、『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』と記されているのです。

皆さん、凄く難しい環境の中で環境を見つめたら、到底信じることができません。マリヤとマルタをご覧ください。兄さんが死んで墓に葬られてから4日になり、くさい臭いがしますが、イエス様が墓の前に来られて、墓の石を取り除けなさい、と言われました。誰もが、敢えて墓の石を取り除けようとしませんでした。マルタが泣きながらイエス様に、「主よ。もう臭くなっておりましょう。4日になりますから。」と言いました。

そのとき、イエス様が何と言われたでしょうか。マルタを正面から見つめながら言われました。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』(ヨハネ11:40)

主が要求なさるのは、信仰です。絶対絶望の中でも信仰を持ちなさい。私たち人間の問題は、信仰の問題です。墓に葬られた、死んで4日になった、もう臭くなっておる…、これらは人間の問題ではありません。それらは、人間としては解決することができない問題です。それは神様の問題なのです。

私たちの問題は信じることが問題なのです。それ以外にはできません。どのようにして、死んで臭いがする人を生き返らせますか。それは神様の問題です。それでイエス様が、『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』と叱られたのです。

皆さん、皆さんの環境が真っ暗闇であり、移すことができない大きな巌が皆さんの前に立ちはだかっているとしても、それは皆さんの問題ではなく神様の問題なのです。皆さんは、最後まで信じるのみです。生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、私は主を信じます。たとえ死ぬとしても、私は主を信じます…、として信じなければなりません。

祈りには、ひとえに応答をしていただく為の祈りだけがあるのではありません。祈りには、悔い改めの祈りもあり、賛美と礼拝と感謝の祈り、神様と交わりを持つための祈りなどがあります。しかし、私たちが応答を目標とする祈りを捧げるときには、主が教えてくださった「不正な裁判官とやもめ」の対決を常に心に参考しなければなりません。

不正な裁判官を征服したやもめの祈りを記憶し、その後に、神様が与えてくださった約束を記憶してください。そうするならば、皆さんは、失望せず、すべての祈りに神様の応答をいただき、皆さんは勝利の凱歌を歌うようになられます。




お祈り

愛であられ、聖なる父なる神様!私たちは生きて行くあいだに、あまりにも多くの試練と患難に会うようになります。天のお父さま!私たちは、神様の御助けが必要なときが一度、二度ではありません。しかし私たちは、祈ることを知らないので、神様から応答をしていただくことができません。

全知全能なる、父なる神様!今日、主が教えてくださった、この不正な裁判官の前に出て来て呼ばわり、祈って、この人を降伏させたやもめの祈りを教わり、そのように私たちも祈ることができるように助けてください。

神様は、この裁判官より数千、数万倍も良き神様であり、神様は私たちを愛しておられ、直ちに応答して上げようと願っておられる神様です。私たちが祈るとき、失望することなく、あくまでも信仰を持つように助けてください。すべてイエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!