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「癒していただく事は神様の御心です」
 






■聖書箇所

「詩篇 103篇 1節〜5節」
103: 1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私の内にあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103: 2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
103: 3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103: 4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103: 5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。




私は今日、皆さんたちと一緒に、『癒していただく事は神様の御心です』という題目で、御言葉を分かち合いたいと思います。

病気を癒していただこうと願う人たちのもっとも根源的な質問が、「病を癒すことが果たして神様の御心でしょうか?」「私の病が癒されることが神様の御心でしょうか?」ということです。イエス様の時にも、同じ質問をした病人がおりました。

「マタイの福音書 8章 1節〜4節」を見ますと、イエス様が山から下りて来られると多くの群衆がイエス様に従いました。すると、一人のらい病患者が御許に来てひれ伏しました。皆さん、ユダヤ人社会では、らい病患者は一般の民衆のそばには近寄れません。一般の健康な人がそばに来たら大声で、「私は不浄人です。」「私は不浄人です。」と言って、タオルで顔を覆わなければなりません。そうしなかったら石で打ち殺されます。

ところがこのらい病人は、死を覚悟してイエス様と群衆の前に飛び出してきました。そして主の前にひれ伏して言いました。「主よ。お心ひとつで、私を清めることがおできになります。」このらい病人は、主が充分にらい病を清める権威を持っておられることは知っていましたが、らい病が清められることが主の御心かどうかは知りませんでした。こんにち数多くの人たちが、自分の病気を癒す力が神様にあるとは知っていますが、自分の病気が癒されることが主の御心かどうかを知らない、と言うのと同様です。

その時、主は満天下にはっきりと主の御心を明らかにされました。主は、膿が全身に流れるらい病患者であるその人がひれ伏しているところに来て、その頭に手を当てて按手しながら言われました。『わたしの心だ。清くなれ。』決定的な主のお答えでありました。すると、直ぐにそのらい病人は清められました。皆さん、これを通して、私たちが知ることができるのは、病気を癒していただくことは我が主の御心であると言うことです。




第一、神様は癒しの神様です。

第1番目に、神様は「癒しの神様」であるという事実を私たちは知らなければなりません。皆さん、「出エジプト」の時、イスラエルの民たちに主が与えてくださった約束があります。無慮300万のイスラエルの民たちがエジプトから出ました。皆さん、ソウル市民300万人をソウルから釜山に移すと1回考えてみてください。恐らく韓国にある救急車および車椅子はすべて動員しなければならないでしょう。なぜ?300万人であったら、その中にどんなに多くの患者がいる事でしょうか。数万人に及ぶはずです。そんなに多くの患者を輸送するためには、すべての輸送装備が必要になります。

まして、イスラエルの民たち300万人がエジプトを出て荒野を通り、カナンの地に行くのに、そのすべての患者たちをどうしたらよいでしょうか。しかし聖書は、はっきりと記録しています。「彼らが銀と金を持ち出し、彼らの中に病弱な人はひとりもいなかった。」と。今の世のように医学が発達した時点でも、300万の中には少なくとも2〜3万人は病人でしょう。イスラエルの民たちの中には、病弱な人がひとりもいなかったと言います。何故だったでしょうか?

「出エジプト記 15章26節」を見ますと、『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」』と記されています。

ヘブル原語には、「わたしは、あなたがたを癒す主、ヨホワ・ラパ」と言っています。「ヨホワ・ラパ」とは、「わたしは、あなたがたの医者である」と言うことです。私たちの神は、「創造主である神様」であるだけでなく、「私たちを癒す医者でもある」と、ご自身を啓示してくださいました。

「出エジプト記 23章25節〜26節」には、次のように記録されています。『あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。』

この頃、水曜礼拝の時に祈ってみたら、10人のうち7人ほどがガンで苦しんでいる人が来ます。皆さん、今から10年ほど前だけでも、10人のうち2〜3人がガン患者でありました。なぜ、このように恐ろしいガン患者が多いのでしょうか。それは、水と食糧が汚染されているからです。聖書には、『あなたがたの神、主に仕えなさい。神様が私たちの祈りに応答してくださって、パンと水を祝福してくださり、あなたがたの間から病気を除き去ろう。』と記録しているのです。

『あなたの日数を満たそう。』とも記録されています。主は、私たちに与えてくださった寿命を満たしてくださる、と言われたのです。ですから、主に仕え、主を信じる人たちは、自分に与えられた寿命以前に死んではなりません。そして神様が、私たちの間から病気を除き去ろう、と言われたのですから、言うまでもなく、病人が癒されることは神様の御心であることを知ることができます。

「詩篇 103篇 3節〜5節」に、『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』と記されています。これはまさに、「三重の祝福」を指して言われたのです。新約聖書「ヨハネの手紙 第三 2節」に、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と言われたことと、全く同じ御言葉です。

私たち「クリスチャン」は、キリストにあって自分がどのような身分になっているかを知らなければならないのです。人たちがイエス様を信じるようになってからも、宗教と律法だけで身分がどのようになったかを知らないと言うことは、あまりにも哀れです。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と「コリント人への手紙 第二 5章17節」に記されています。どのようなものが新しいものか、知らなければなりません。

皆さんは、キリストによって、「たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」と言われたのですから、このような新しい身分になったことをはっきりと知って、自分の身分にふさわしい信仰を持たなければならないのです。

「詩篇 41篇 3節」に、『主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。』と記されています。一人や二人だけを癒すとは言っていません。皆を主が癒して上げると言われたのです。私たちの病気が、私たち個人の罪のために来ることもあり、社会的病気、または、アダムとエバが罪を犯したことによって、この世に疾病が入って来たことを知っているのです。ですから、自分が直接的に罪を犯して病気にかかることもあり、間接的に、社会的、国家的、或いは世界的な反逆によって襲って来る病気もあります。ですから、私たちが病気にかかった時には、神様の前に悔い改め、罪を告白し、砕かれて、主の前に出て来なければなりません。

「詩篇 107篇17節〜20節」に、『愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。 彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。』と記されています。

私たちが悔い改め、呼ばわり、祈り、求めたら、神様が御言葉を送ってくださって、私たちを危境から救い出してくださると約束されたのです。皆さん、私たちの病を癒すことは、神様が先見者を通して既に預言されたのです。今から600年乃至700年前にイザヤは、イエス・キリストが来られて、私たちの病を癒す偉大な働きをなされるであろう事を確かに預言しました。

「イザヤ書 53章 4節〜5節」に、『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記されているのです。

まことに、彼は、本当に、私たちの病を負い、私たちの痛みを担った、と言うのです。皆さん、病気にかかったら、苦痛であり、悲しいものです。病気にかかってみなかった人は、病気にかかったことがどんなに苦しく、悲しいものか知りません。ところが聖書は記録しています。「イエス様が来られたら、まことに、本当に、私たちの病を負い、私たちの痛みを代わりに担われる」と。いかに偉大な預言か知れません。

イエス様が、私たちの病を負い、私たちの痛みを担われたら、私たちクリスチャンが、病を負い、痛みを担う理由がないのです。『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』イエス様がピラトの庭で、軍人たちから39回の鞭打ちに会われました。キリストの背中は破れ、そして血が流れました。キリストの肉が破れる度ごとに、聖書は言います。『彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

こんにち、医学界は言います。世界のすべての疾病を条目別に整理したら、総計39種になる、と言います。偶然の一致かも知れませんが、イエス様が鞭打ちに会われたのは39回です。その当時は、40回を打ったら人間は生きることができないと言われました。それで、1回を減らした39回を打ちます。

イエス様が39回鞭打ちに会われたことを、聖書は、私たちの病をすべて代わりに担うようにするためであったと記しています。キリストが鞭打ちに会って流された血が、こんにちも私たちに向かって叫んでおります。「主の打ち傷によって、あなたがたは癒された。」主の血の声に耳を傾けなければなりません。「イザヤ書 53章10節」に記されています。『しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。』

皆さん、父なる神様がイエス様を砕いて、痛めることは主の御心であった、と言うのです。神様が病をいかに嫌がり、憎まれるので、その御子イエス様が砕かれ、痛められることを願われたでしょうか。主が、父なる神様の願いに従って、私たちの病を担われるがために、その御体に傷を負われました。その結果によって、マラキ書はイエス・キリストの現れに関してこう記録しています。「マラキ書 4章 2節」の御言葉です。『しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。』

「義の太陽」とは誰のことでしょうか。まさにイエス様を指して言うのです。「義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」主は、私たちのところに来られて、癒しの光線を発するのです。その光線がまさに聖霊の御恵みなのです。こんにちも主は、私たちの間で「癒す太陽」として上って、私たちに癒しの光線を発してくださるのです。従って主は、私たちの間に癒しの奇跡をほどこしてくださるのです。




第二、癒しはイエス様の福音から分離する事ができない部分です。

第2番目に、癒しはイエス様の福音から分離する事ができない部分であることを知らなければなりません。イエス様は、御使役の3分の2を癒すことに費やされました。福音を通して伝えられ、教えられ、主は癒される働きを継続されました。主は三つの働きを常になさいました。伝道され、教えられ、癒すことでありました。

「ルカの福音書 5章15節」に、『しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。』とあり、「ルカの福音書 6章18節」には、『イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。』と記されています。主は、御言葉だけを宣べ伝えられたのではありません。教えられてからは、必ず病を癒されました。

イエス様の天国福音の基礎は、癒しにあります。家を建てるときには基礎がなければなりません。イエス様の天国福音の基礎は、まさに癒しにあったのです。「マタイの福音書 8章16節〜17節」に、『夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と記されています。

イエス様が、私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負って行かれたのです。従って、皆さんがわずらいを身に引き受け、病を背負う理由がありません。主が親しく身に引き受け、背負われたことは、皆さんが身に引き受けるとか、皆さんが背負わないようにするためにそうなされたことですから、皆さんはこの真理を知って、断固としてわずらいと病を背負うことを拒否しなければならないのです。

悪魔がわずらいと病を持って来て、皆さんに背負わせようとする時、皆さんは断固として、これらはイエス様が身に引き受け、背負って行かれたのだから、私は受け容れない、背負わない、と悪魔に対抗しなければならないのです。聖書には「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」と記録しています。

イエス様は弟子たちに、天国の福音を宣べ伝える時には、必ず癒しの使役をしなさいと、命令なさいました。「マタイの福音書 10章 1節」には、『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。』と記されています。

また、70人の弟子たちにも、「ルカの福音書 10章 8節〜9節」に、『どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。そして、その町の病人を直し、彼らに、「神の国が、あなたがたに近づいた。」と言いなさい。』と言われたと記録されています。御言葉を宣べ伝え、教えた後には、病人を直しなさい、と言われました。主の福音の証しには癒しが除外されたことがありません。福音の証しと共に、癒しはいつも同伴してこそしかるべきなのです。これは、こんにちの教会は忘れて実践しませんが、聖書は確かに私たちにそのように命令しています。

「ルカの福音書 10章17節〜20節」を見ますと、『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』と記されています。

皆さん、主は、12弟子や70人の弟子に、福音伝播とともに悪霊を追い出し、病を癒すことは必ずしなさい、と言われたのです。これはキリストの福音の実体であり、天国の基礎が癒しにあることをはっきりと見せているのです。天の御国が宣べ伝えられるところには癒しが必ず伴わなければならないのです。それで主が、十字架で死なれてからよみがえられて、40日間この世におられてから、天に昇られるとき、弟子たちに最後の命令をなさいました。

皆さん、私たちも父母がこの世を去るときに、最後に残した遺言は必ず守ろうとします。数多くの聖徒さんたちをみますと、平素はイエス様を信じませんでしたが、父母が遺言として「私が死んだあとには、イエス様を熱心に信じなさい。」と言われたので、悔い改めて、イエス様を信じるようになった方が随分とたくさんおられます。遺言とは、そのように重大であり、守ろうと努力するようになるものです。

私たちの主イエス様が残した遺言があります。天に昇られる前に、最後に残された遺言が、「マルコの福音書 16章17節〜20節」に記録されています。『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。』

こんにち、神様の言われた御言葉が、癒しの御力で証明されなければならないのです。主の御言葉は、虚空を打つ御言葉ではありません。主の御言葉は、癒しの御力で証明されなければならない御言葉です。しるしと、奇しきみわざと、奇跡を持って、主はこんにちも仰せられた御言葉を確実に保障してくださるのです。




第三、癒していただく為に私たちがすべき事

第3番目に、私たちは癒していただく為にどうすべきでしょうか。罪の赦しと共に、癒しも主の十字架の贖いに含まれているという事実をはっきりと知らなければなりません。真理を知れば、真理があなたがたを自由にする、と言われたのです。ホセアは、私の民は知識がないので滅ぼされる、と言いました。こんにちは、知識社会です。全世界的にどの民族であろうと、かしらとなり尾とはならず、ただ上におり下には下らず、貸す事はあっても借りる事はない民族になろうとしたら、知識がなければなりません。

我が国が、IT産業において世界的国家になれたのも、このような知識産業が発達されたことによって輸出産業も増え、国民が豊かに暮らすようになったのです。こんにちの世界でも、知識がなかったら滅びます。そうであるので国家が教育政策を立派に立てなければなりません。そうして、我が国の国民が知識を持ってこそ世界の競争の中で生き残ることができるのです。

このように、イエス様を信じる人も、御言葉に対する知識があってこそ滅ばないようになるのです。「ペテロの手紙 第一 2章24節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記されています。ペテロは、二つの事件を同一のものとして扱いました。赦しと癒しは、絶対に分離することができない福音の内容であることを、ペテロは指摘したのです。

ですから私たちは、癒しは、罪の赦しと共に、イエス様の十字架の贖いのお恵みに含まれているのですから、絶対になおざりにすることができない、と言う事実を知らなければならないのです。イエス様が代わりに代価を払われたのに、私たちがこれを享受することができなかったらどうなるでしょうか。『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』と「ヘブル人への手紙 13章 8節」に記されています。イエス様が、「きのうもきょうも、いつまでも同じ」なら、イエス様はこんにちも、御言葉を宣べ伝えられ、教えられ、癒す働きを継続しておられるのです。

「使徒の働き 10章38節」に、『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』と記されています。巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者を主が癒されたのです。主が、きのうもきょうも、いつまでも同じなら、こんにちも主は全く同様に継続働いておられるのです。

聖書は、『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』(マタイ18:20)と言われたのです。主は、ここに共におられます。主の権威と御力は変わっていません。『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』(マタイ20:28)と言われたのです。ですから皆さん、この事実を記憶して、主はこんにちも教会を通して、伝道と教育と癒しを継続しておられると言う事実を覚えていなければならないのです。

人たちは、「このような病も、主が果たして癒してくださるだろうか?」「これは、余りにも難しい。」「医者でさえ、直せないと言った。」「病院では、助からないと言った…。」と言います。私たちが知らなければならないことは、主には、私たちを癒す御力があると言うことです。

皆さん、「ヨハネの福音書 1章 3節」に、『すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』と記されています。皆さん、主が万物を造られた創造主です。その創造主に、できないことが何があるでしょうか。神様は何でもおできになるのです。

ある日、'フオード'車を運転していた人が、シカゴから田舎に行く途中に車が故障を起こし、直すことができないので道端にポカンと立っていました。ところへ、砂ぼこりを飛ばしながら車が1台来るのが見えました。その車が彼のそばに来るや止まって、「車が故障ですか?」と尋ねました。「はい、そうです。」と答えると、「それじゃ、私が見て差し上げましょうか?」と言いながら、運転していた人が車から降りて来ました。

その人は、立派な紳士に見えました。その人は帽子と上着を脱ぎ、袖をまくり上げて、エンジンをあっちこっちいじってから、「さあ、エンジンをかけてご覧なさい!」と言いました。それでエンジンをかけると、ブルルーンとエンジンが生き返ったように唸り出しました。「いやー、有り難うございます。あなたは素晴らしい腕前ですね。」と挨拶をすると、その人が言いました。「私が、この車を製造した'ヘンリー・フオード'ですよ。」

自分が製造した車ですから、直すのも問題がありません。私たちを造られた神様が、私たちを直すのは問題がないのです。ですから皆さん、私たちを癒す御力が主にはあるのですから、主の能力問題を心の中で質問してはならないのです。

私たちの教会の"恩平大教区:イ・サン・オク"聖徒は、全身麻痺状態から神様の奇跡を体験した驚くべき兄弟です。彼は'カメラ・マン'として、SBS放送局に勤務しておりました。1996年10月のある主日、彼は主日礼拝も捧げずに、カメラを担いで撮影現場に飛んで行きました。水中シーンを撮影するために、彼はプールの中にダイビングして入りました。その瞬間、頭に何かがぶっつかったような感じがしました。その後、彼は突然、全身を動かすことができなくなりました。

急いで彼は病院に運ばれました。頚骨骨折に、四肢麻痺と診断されました。彼は頭に穴をあけて鉄心を差し込み、鼻と口はホースで連結して重患者室に移されました。その状態を目撃した彼の父親は、不信仰の人でありましたが、何も言わずに、その時から教会に出席し始めました。子どもが苦痛の目に遭ったら、父母は伝道する必要もなく悔い改めます。

負傷してから2ヶ月目になる聖餐主日の日に、母親は祈りながら、聖餐の杯とパンを教会から病院に注意深く持ち運びました。本当に一滴もこぼさずに運んだと言います。そうして信仰をもって聖餐を病室で受けるようにしました。聖餐をいただいてからは、直ぐに神様の油の注ぎが臨んで、他人の手を借りてではあるが起き上がり、また歩くことができるようになりました。少し無理をして退院し、オサンリ断食祈祷院に上って3日間断食祈祷を捧げました。

それから、びっこを引くようにしながら私の事務室に下りて来ました。それで私が、イエス様の御名によって按手祈祷をして上げましたが、奇跡的に全身麻痺から解放されて、わずか4ヶ月目に健康なからだで会社に出勤することができるほどにきれいになりました。今はカメラ監督者に昇進して、受賞もし、今では、1回ひどい目に遭ったためにいくら忙しくても、主日は必ず聖く守ります。熱心に主に仕えるようになったのです。

ですから皆さん、主には出来ないことがないと言うことを知らなければなりません。そして私たちは、主から病を癒していただくためには、必ず心の中から深く悔い改めなければなりません。

「マタイの福音書 9章 1節〜8節」を見ますと、イエス様がカペナウムに来られるや、人たちがあまりにも大勢集まって、立錘の余地もありませんでした。ところが一人の中風患者が床に寝かせられたまま運ばれて来ました。イエス様に近づくことができなかったので、彼らは屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたまま、その床をイエス様の御前につり下ろしました。群衆は彼らを非難し、家主は大声で怒鳴り散らしました。

イエス様は、その人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われました。ところが、その場には律法学者が数人すわっていて、心の中で非難しました。「とんでもない。自分が誰なのに、人の罪を赦すことができるのか。」その時、イエス様が『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて床をたたんで歩け、と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために言う。こう言われてから、中風の人に『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われました。すると、直ぐに、中風の人は起き上がり、床を取り上げて、皆の見ている前を出て行きました。

この人が病気に罹ったのは、罪を犯したためでありました。イエス様がその人の罪を赦されるや、癒しが臨んだのです。こんにち私たちも、主の前に出て来て癒していただこうとする時には、心から罪を悔い改めなければなりません。

「ヤコブの手紙 5章14節〜16節」に、『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』と記されています。ですから私たちが癒していただく前に、私たちのすべての罪を神様の前に悔い改めなければならないのです。

「マルコの福音書 6章12節〜13節」を見ますと、『こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。』と記されています。福音を通して癒していただきたいと願われる方たちは、先ず悔い改めが先行されなければならないのです。

そして、私たちは断固とした排水の陣を敷いて祈らなければなりません。癒されても良し、癒されなくても良いといった、そのような心情をもって祈ってはなりません。信仰をもって祈らなければならないのです。あつく求めなければなりません。

「マタイの福音書 7章 7節〜11節」に記されているように、『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』と言われたのです。

求める者たちに、主は与えてくださるのですから、切に、熱く求め、その次には、揺るがされることなく信じなければならないのです。皆さん、目には何も見えず、耳には何も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、また、理性的には信じることができなくても、御言葉に従って信じなければならないのです。私たちの信仰は、御言葉を信じることです。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの御言葉によるのです。

「ヤコブの手紙 1章 6節〜8節」には、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。』と記されています。私たちは、心中に疑わないことに決心しなければならないのです。心にそのように決心したら、そのようになるのです。私たちは信仰を選択して、断固として信じることに決めなければならないのです。

「ローマ人への手紙 4章17節」に、『このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。』と記されています。未だ無いのに、現れていないのに、あるが如くに信仰をもって是認することを言うのです。唇で告白することです。そうする時、信仰のみわざが起こるのです。

聖書にも、スロ・フェニキヤの女が主に「食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」と言いました。その時、主が『そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』(マルコ7:29)と言われたのです。口に出して語ることがいかに重要か知れません。私たちがいくら信じると言っても、口で否認してしまったら何事も起こらないのです。信じることがすべて無効になってしまうのです。

ですから、私たちの信仰を口で、私たちは断固として、強く、告白しなければならないのです。皆さん、私は一生涯を病弱と戦って参りました。それで、「神様の癒し」に関して誰よりも深い関心を持っております。私は「肺病3期」を克服して起き上がりました。「心臓病」で苦しみました。「腸炎」で苦しみました。「脱腸」で苦しみました。「腎臓に水の瘤」が生じて苦しみました。病気の百科事典のようなものでありました。病気と言う病気はみな襲ってきました。

しかし、継続して主に祈り、信仰をもって一つ一つ癒していただいた体験を持っています。そのために私は、「神様の癒し」に関して誰よりも深い関心を持っています。主の癒しは、私たちを直し、健康にしてくださいます。

あるいは、そうでない時には、病を克服して、正常的な生活を営むことができるように、恵みを施される場合もあります。それは、ちょうどパウロ先生が「とげ」がありましたが、主は、その「とげ」を充分に克服して生きて行くことができる恵みを与えてくださいました。主は必ず癒されますが、主が特別に大きな使命を与えられて、謙遜にするために「とげ」を与えられたのであれば、その「とげ」を充分に克服して正常的な人生を暮らすことができる恵みを与えてくださるのです。

「コリント人への手紙 第二 12章 7節〜10節」を見ますと、『また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』と記されています。

しかし、皆さんと私は使徒パウロのように偉大な人物ではありません。神様は、傲慢にならないようにと「とげ」を与えられたと言いますが、私たちのように平凡な人たちは「とげ」を与えていただくような資格がありません。私たちには、悪魔が盗み、殺し、滅亡させるために疾病をもたらすものと知っております。従って、罪を悔い改め、イエス・キリストの御言葉に拠り頼んで祈っていけば、神様がすべての人を癒してくださいます。

ですから、私たちが断固とした信仰をもって真理に従って祈り、病を癒していただいて、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得て、神様に仕える皆さんとなりますよう、イエス様の御名によって祝福します。




お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様! こんにち、イエス様を信じる多くの人たちが病に罹っております。病に罹って、家庭生活も、社会生活もできず、教会で主にお仕えすることもできない人たちがあまりにもたくさんおります。

主である我が神様! これは絶対にあり得ないことです。「私の民が、知識がないので滅ぶ。」と言った'ホセア'預言者の言った通りに、真理を知らないので病に罹ってさ迷っています。こんにち、私たちの中におられるイエス様は、私たちの救い主であられ、私たちを癒してくださる神様であることをはっきりと知るように助けてください。

すべての聖徒さんたちがみな、救われた通りに、癒していただけるようにしてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!