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「十字架で起こった宇宙的事件」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第一 1章18節〜25節」
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。




私は今日、皆さんと一緒に『十字架で起こった宇宙的事件』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

イスラム教徒たちは、イエス様が決して十字架で死なれはしなかったと主張します。或る人がイエス様に仮装して十字架で死んだが、もしもその人がイスカリオテ・ユダであることもある、とも言っています。不信の歴史家たちは、イエス様が、ローマの統治下にあったイスラエルを独立させようと扇動してローマ軍人たちに逮捕され、ピラトの裁判を受けて十字架に処刑された「失敗した革命家」であると言います。

ユダヤ人たちは、イエス様は自分を神の子であると主張した異端で、ユダヤ教の最高機関である「サンヘデリン」会議で罪に定められ、死刑に処せられたのだと言います。しかし聖霊さまは、聖書「コリント人への手紙 第一 1章18節〜25節」で次のように言っています。

『1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。』

それでは、なぜ、十字架の道が神様の御力であり、宇宙的事件でしょうか?




第一、十字架の贖いを通して永遠なる義が現れます。

第1番目に、イエス様は十字架の贖いを通して、「ダニエル書 9章24節」に記録されている御言葉のように、『そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。』からなのです。

悪魔は、エデンで神様のご計画を踏み躙りました。人間は、神様が造られた最高の傑作品です。神様の形通りに造られました。神様は、ご自分の最大、最高の御力を注ぎ込んで人間を造られました。そして神様は、人間を自慢し、人間を「良し」とされました。このような人間を神様に背くようにし、腐敗して堕落するようにしたのが、まさに悪魔の仕業なのです。

悪魔は、アダムとエバを誘惑して神様に逆らうようにし、罪を犯して罪に定められ、捨てられて罪にまみれ、悪魔に従属するようにしてから、嬉しくて喜び踊ったはずです。神様のその偉大な作品を破損し、腐敗するようにしたのですから、いかに神様に打撃を加えたことでしょうか。それで神様は、アダムを通した神様の民と国を建てられる計画に蹉跌が生じるようになったのです。

しかし悪魔は、神様が人をどんなに愛しておられるかを知りませんでした。アダムが背くほどの打撃を受けたのだから、神様も人間に対して愛想をつかしてしまわれたのだと判断しました。ところがその後約4,000年目に、神様はその御子イエス・キリストを乙女マリヤを通してこの世に遣わされました。神様が人となってこの世に来られ、罪が無く生まれてからは、罪が無く暮らし、33歳のときに、全人類を代表して十字架に釘付けられ、私たちの罪と疾病、呪いと絶望、そして死を瞬く間に清算してしまわれました。

「ヨハネの福音書 3章16節」の御言葉です。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』これは想像を超越するものです。天を書物とし、海水を墨水にしても、この神様の愛の高さと深さと広さを私たちは測り知ることができないのです。

皆さん、聖書「エペソ人への手紙 2章 7節〜9節」に、『2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』と記されています。

私たちは、行いによって救われたのではありません。私たちは罪を犯し、不義で、醜悪で、汚らわしい存在です。しかし神様は、この世の基が置かれる前から私たちを愛され、そのお恵みによって、キリストを通して値なく、信ずるだけで、救いを私たちに与えてくださいました。これは悪魔としては、到底想像することができないものです。それ故に悪魔は、このイエス・キリストの偉大なみわざを見て、苦い惨敗の杯を飲まなければなりませんでした。

「コロサイ人への手紙 2章12節〜15節」に、『2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』と記録されています。

十字架を通して、4,000年の間人類を悩ました傷が終わり、罪も終わり、罪悪が永遠に返済され、永遠なる義が私たちに賜物として与えられるようになりました。義と言うのは、一生涯の間、ただの1回も罪を犯したことがない状態を言います。義と言うのは、神様の前に立つ時、少しも恥ずこと無く立つことができる資格を言うのです。義とは、悪魔の讒訴を受けない状態を言うのです。皆さん、このような義を、主が私たちに賜物として与えてくださったのです。従って、キリストの十字架の道は、私たちには形容することができないお恵みなのです。

罪が永遠に贖われ、義が永遠に現れる、神様の決定的「愛」の表現がまさに十字架のお恵みなのです。到底、悪魔までもが想像することができないこの神様の偉大な「みわざ」に、私たちはただ戦慄し、感激するのみです。神様が人類をこのように愛するとは、悪魔も知らず、人たちも悟ることができません。神様に逆らい、悪魔に従って堕落した人類を、悪魔は、神様が当然のことながら見捨ててしまわれることと思いました。

ところが神様は、ひとり子を遣わされて、私たちの代わりに十字架に釘付けになる苦難の目に会わし、死に至るまでにされることによって、人類の罪を代わりに背負うようにし、人類の不義を清算し、人類が罪の定めから解放されるようにし、私たちが神様の子となるようにしてくださる、この神様の根気強い愛の「みわざ」を思う時、私たちは、心に深く感動せざるを得ないのです。




第二、十字架の贖いを通して悪魔の国が崩壊されました。

第2番目に、神様は十字架の贖いを通して、悪魔の国を崩壊なさいました。元来、この世はアダムに与えられたのです。しかしアダムが、神様に逆らい、悪魔に従ったので、この世とその栄光を悪魔にすべて渡してあげてしまいました。それでアダムが堕落した以後に、悪魔はこの世の富貴と栄光をすべて所有し、人とこの世を占領して支配しながら、盗み、殺し、滅亡させる仕業を継続しました。

世界の歴史を通してご覧下さい。血を流す戦争がなかった日がありません。カインがアベルを殺した以後、世の中で人たちは互いに殺し、互いに殺傷しました。国と国、民族と民族が互いに敵対し、戦う日々が継続されました。腐敗と不正は、人間が住む社会の中にはどこにもありました。これがまさに、悪魔が人類を占領して、盗み、殺し、滅亡させる仕業をしたのです。その悪魔の国が、私たちの主イエス・キリストの十字架によって崩壊してしまったのです。

悪魔は、空中に王座を設けて神様に敵対する、堕落した天使長'ルシパー'とその従者たちです。皆さん、聖書「エゼキエル書 28章13節〜15節」に見ますと、元来、悪魔は神様が造られた守護者ケルブと共に神様の聖なる山に置かれ、天使の中でももっとも偉大な天使でありました。しかしその栄光に陶酔して、ついに神様に逆らってしまって悪魔になってしまったのです。

聖書には、次のように記録されています。『28:13 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。28:14 わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。』

あまりにも栄光で、燦爛たる存在として造られ、神様の愛を独占した彼が、その愛に対して反逆をするようになったのです。まさにそれが、「イザヤ書 14章12節〜15節」に記録されています。『14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。』

どうして被造物が、自分を造られた創造主・神様と同等になろうとする、そのような高慢な心を持つことができるでしょうか。皆さん、創造主と被造物の間には渡ることのできない溝があります。アダムとエバも、悪魔の誘惑に陥って神様のようになろうとしました。笑わせる話しです。神様は創造主であられ、人間は被造物なのです。造られたものが、造ったものと同等になることはできません。

悪魔も、天使長'ルシパー'としているときは造られたものでありました。ところが彼が、どのようにして造ったものと同等になることができるでしょうか。その高慢が自ら自分の運命を破滅させたのです。それで悪魔は、自分に同調した天使3分の1と一緒に堕落して天から追い出され、空中に陣を敷いて権勢を握っているのです。

しかし、悪魔の致命的な犯罪は、神様の御子イエス様を殺したことです。神様の御子イエス様が、2000年前に乙女マリヤを通してこの地に誕生なさいました。皆さん、罪の奴隷となったアダムの子孫たちは悪魔の統治下に置かれているので、悪魔が自由に盗み、殺し、滅亡させました。しかしイエス様は、罪が無しに胎に宿り、罪が無しに暮らされたので、悪魔の統治権下におられません。天の御国の王様であり、神様の御子です。

彼はこの地にお生まれになってからも、アダムの血統を通して生まれたのではないので、アダムの子孫たちが悪魔の支配下にあったように、悪魔の支配下にはおられませんでした。イエス様は「新人類」の祖先であられます。彼は聖霊によって胎に宿ったのであり、アダムの血統ではありません。彼は乙女の胎に宿ったのであって、夫がある女性を通してお生まれになったのではありません。彼は罪が無しに生まれられ、罪が無しに暮らされました。悪魔の国に所属されていませんでした。彼はこの地に来られてからも、たとえ人のからだを着て来られはしましたけれども、神様の御国の王様であり、神様の御子です。

神様の御子を殺した罪は、神様に対する挑戦であり、神様の主権に対する侵略です。自分の統治外にある神様の御子を捕らえ、罪に定めて殺したその罪は、宇宙の審判長である神様の前で審かれ、彼の権勢が剥奪される過ちを犯したのです。それで宇宙の審判長である神様は悪魔を審判なさいました。「コロサイ人への手紙 2章15節」に、『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』と記されています。

イエス様が十字架で死なれたことによって、悪魔はおのずと自滅しました。自分の政治、自分の権勢がみな解体されてしまったのです。イエス様の十字架以後、悪魔はもう合法的な自分の政府をもっていません。自分の権勢をもっていません。彼は追い出されました。そして捨てられ、解散されたゲリラ部隊に過ぎないものです。

「ヨハネの黙示録 12章10節」を見ますと、『そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」』と記されています。 キリストの十字架の血潮によって、悪魔は支配と権勢をすべて失って追い出されたのです。

「ヨハネの福音書 12章31節〜32節」に、『今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』と記されています。「ヘブル人への手紙 2章14節〜15節」には、『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』と記されています。こんにち、悪魔は私たちを盗み、殺し、滅亡させようとしますが、イエス・キリストは、私たちに自由と解放を与えてくださるのです。

私たちの教会の江西大教区に所属している'チョー・ワン・クン'執事さんの証しを聞いてみると、悪魔の権勢はイエス・キリストの前で既に木っ端微塵になったことを知ることができます。1992年、腹痛が甚だしいので病院に行って組織検査を受けたところ、「大腸ガン3期」との診断が出ました。その時の彼は36歳で、おそく結婚したお陰で子供はようやく2歳でありました。当時の'チョー・ワン・クン'さんは不信仰の人でありました。

そうした或る日、奥さんが教区バスに乗り遅れて、教会まで自動車で送ってくれと旦那さんにせがみました。それで自動車に乗せて教会まで来ました。そこで奥さんを下ろして、自分は他のところへ遊びに行くつもりでしたが、奥さんが「せっかく教会まで来たのだから、礼拝に一緒に参加しましょう。」と強く勧めるので、止む無く礼拝に参加するようになりました。

説教を通して、十字架に釘付けになられたイエス様が私たちの救い主であられることを聞いて、希望が生じました。聖霊さまの感動によって悔い改め、心の中に主を迎え入れました。立派な奥さんを得たら、天国まで得るようになるのです。

いつからか、'チョー・ワン・クン'さんは咳が甚だしくなり、からだには熱がありました。それでCT撮影をして見たところ、今度は、肺ガンが発見され、淋巴腺までガンが転移していることが分かりました。体重は47kgに減り、病院でも「もう、手の施しようが無い」と言い渡されました。

周囲からは、迷信まがいの療法や、あらゆる民間療法の誘惑がありましたが、すべて拒絶しました。死ななければならないのなら、死んでもかまわない、と言った覚悟で祈祷院に上り、一週間断食祈祷を捧げました。そして祈った結果、癒されたと言う確信が生じたので、薬をみな捨て、病気が癒されたことを頭の中に描きながら、是認するや、父母と弟たちもみな悔い改めて、イエス様を信じるようになりました。

家に帰って来て、聖書を4回通読し、祈祷処と教会学校で奉仕しました。そうしてから幾日かが過ぎた或る日、夢の中で、何か強い青い光が足から頭の中まではっきりと入ってくるのを感じました。彼は、あっ、聖書「マラキ書4章2節」に、『義の太陽が上り、その翼には癒しがある。』と記されているが、その癒しが私に臨んだのだ、という確信がありました。

その時から始まって、急速度に回復され、体重が47kgから67kgになり、病院に行って調査してみたところ、ガンはきれいに癒され、また20年の間手の甲にあった瘤までもが消え去っておりました。悪魔の仕業が崩れ去ったのです。イエス・キリストの勝利が成就されたのです。何故でしょうか。悪魔がもう権勢を失ったからです。この事実を私たちが知って、心を尽くし、信仰を尽くして攻撃したら、悪魔の陣は崩れ去るようになっているのです。




第三、十字架の贖いを通して律法の罪の定めが清算されました。

皆さん、旧約時代にシナイ山でいただいた「十戒」を中心とした100余の戒めは、人たちを縛り付けておきました。こうしても罪を犯し、ああしても罪を犯し、こうしても審かれ、ああしても罪に定まれて、身動きをすることができませんでした。イスラエルの民たちは選民となりましたが、その条件が戒めを守ることにありました。ところが戒めを守り通すことができないので、彼らはみな罪に定まれて、捨てられてしまったのです。

しかし、イエス様が十字架に釘付けられて、私たちの債務証書である律法をすべて清算してしまわれました。律法が要求するすべてのことを主がみな成就し、血潮で清算してしまわれたので、もう私たちは律法の下にはおらず、信仰の下にいるようになったのです。皆さん、律法の使命は罪に定めることにあります。

「ローマ人への手紙 7章 7節〜9節」に、『7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。』と記されています。

戒めがない時には、私たちは罪が罪であることを知りませんでした。しかし戒めを知り、律法が入ってくるや、それに映してみて、私たちが罪まみれである事を知るようになったのです。鏡がなかった時は、自分の顔がどんなに汚れているか知らなかったのに、鏡があるので自分の顔がどうであるかを知るようになったのと同じく、律法がない時には自分が罪人でないと思っていたのに、律法が入ってくるや、それに映してみて自分が罪人中の罪人であることを悟るようになったのです。

律法は私たちを救おうとするものではなく、私たちの罪を露わにして、罪に定めるものです。「ガラテヤ人への手紙 3章10節」に、『というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」』と記されています。ですから、律法の行いを完全にしなければ、皆が呪われるのです。従って、全世界が神様の律法と戒めを犯したので呪いの下にいるのです。

「ガラテヤ人への手紙 2章16節」に、『しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。』と記されています。

この世で、律法を知り、守って、義となる肉体はないと聖書は言いました。律法の行いによっては、みな罪に定められ、呪われ、滅亡されるしかありません。イエス様の十字架の血潮が私たちを律法から解放させてくれたのです。「コロサイ人への手紙 2章14節」に、『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』と記されています。

債務証書というのは、律法を言うのです。律法を書き記した証書を、イエス様が十字架に釘付けにして取り除いてしまわれました。今は律法を守ることによって救いを得るのではなく、イエス様を信じることによって救われる時代に私たちが住んでいるのです。「ローマ人への手紙 3章23節〜24節」の御言葉です。『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』

「ローマ人への手紙 7章 1節〜4節」を見ますと、『7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。・・私は律法を知っている人々に言っているのです。・・7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。』と記されています。

結婚をしたら、夫に縛られたからだになります。死のうが生きようが、夫に縛られたからだになるのですが、それではいつ解放されるか。夫が死んだら「さようなら!」です。自由と解放を得ます。そうしたら、自分が願うところに嫁に行っても構いません。その時には「姦淫の女性」になりません。

律法が私たちの夫でありました。私たちは夫に属して絶望に瀕するしかありませんでしたが、イエス様が来られて、律法を十字架に釘付けにしてしまいました。そのイエス様が律法と共に死なれてからよみがえって、私たちに近づいてこられ、私たちの新しい夫になってくださいました。私たちは信仰によって、今からはイエス様を新しい夫として迎え、拠り頼み、キリストと共に義と平和の中で暮らすことができるようになったのです。これは如何に驚くべき祝福でしょうか。

皆さん、宗教改革者マルチン・ルターに関するお話しがあります。ルターが心身が疲れきり、衰弱して寝床に横になっておりました。その時、悪霊がルターの病室に現れ、彼を睨みつけながら勝利の微笑を浮かべて、持っていた大きな書物を開いて見せました。その書物には、マルチン・ルターが一生の間犯した罪が一つ一つ詳細に記録されていました。

それを見たルターは怯えきって、彼の心は鳥の胸のように恐れに震えました。ところが突然、ルターの心に稲光のように悟りが閃きました。それで大声で悪霊に向かって叫びました。「お前には、見逃したことが一つある。神の御子イエス・キリストの十字架の血潮が、すべての罪を赦し、私をきよめてくださった、と言う'ヨハネの手紙 第一1章9節'の御言葉を知らないのか?」すると、悪霊が瞬く間に逃げてしまい、その書物も消え去ってしまったと言います。

私たちの罪が、たとい緋のように赤くても雪のように白くなり、たとい紅のように赤くても羊の毛のようになることができるのは、イエス様の血潮があるからです。キリストの血潮は、律法から私たちを救い出してくださり、律法のすべての罪の定めを取り除けてしまうのです。




第四、十字架の贖いを通して行為の自慢から解放されました。

人たちの中には、「私を見なさい。私がいかに正しく生きて来たかを。私がどんなに正直に暮らして来たかを。正しく生き、正直に生きて来たお陰で、私は天国に行く事ができるのです。」このような愚かなことを言う人がいます。一般的な考えや宗教の教えは、人間の善なる行為を通して救いに至ると言っています。しかし「ローマ人への手紙 3章10節〜20節」をご覧ください。

『3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」』これが信じない一般の人たちの現象です。

『3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。』誰も、神様の前で行為によって義とされる人はいないのです。

すべての人は神様の律法の前で罪人としてあらわされ、審きを受けるしかありません。救いはひとえに信じることによって、イエス・キリストが十字架で成就なされた血潮を通して、ただ信じることによって得られるのです。それ以外には何の条件もありません。義とされるのは、信仰によって得ることができるのです。

「ローマ人への手紙 4章 1節〜3節」に、『4:1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。4:2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。』と記されています。

私たちの先祖アブラハム、別にそんなに立派な方ではありません。何故なら、彼は夫人も困難な目に遭ったときには売り飛ばすことができる勇気を持った方であり、必要とあれば、躊躇することなく妾を娶ってイスマエルを生む人でありました。しかし彼は悔い改め、神様の前にひれ伏してキリストを信じることによって、神様から義とされるようになったのです。

皆さん、「ローマ人への手紙 4章23節〜25節」に、『4:23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』と記されています。

イエス様は、私たちの罪の為に死なれてから、すべてを清算して蘇られたことによって、イエス様にあって私たちは義とされるようになったのです。ですから、「ローマ人への手紙 5章 1節〜2節」に、『ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。』と記されているのです。

「エペソ人への手紙 2章 7節〜9節」には、『2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』と記されています。

皆さんの義は、行ないによって得たのではありません。救いが皆さんの行ないによって得られたのではありません。神様のお恵みによって得たのです。信ずることによって得たのです。自慢することはありません。ひとえに、イエス・キリストと父なる神様を誇るほかはないのです。

皆さん、十字架の事件は、神様も、サタンも、人間も、現在も、永遠なる未来も変化させた、形容することが出来ない偉大な救いの事件です。

キリストが十字架で「完了した。」と言われたとき、第1番目に、罪が永遠に贖われ、永遠に義が現れました。第2番目に、悪魔の支配と権勢が破滅され、第3番目に、律法の罪の定めと儀式がなくなり、第4番目に、人間の行為の自慢がみななくなり、その恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神様の賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためなのです。  頭(こうべ)を垂れて祈りましょう。




お祈り

愛であられる、我が父なる神様! イエス・キリストの十字架の偉大な事件は、私たちがひとえに感激、また感激するのみです。イエス様が十字架で身を裂き、血を流されて死なれたことは、見捨てられた人生に対する神様の根気強い愛、その限りない愛を、あまりにも良く見せてくれています。

全知全能であられる、我が父なる神様! 私たちは、自らは何もすることができず、見る影もない存在です。その私たちを、神様がどんなに愛されたのか、その御子イエス様を遣わされて、私たちに代わって十字架で死なれるようになさいました。

悪魔までも舌を巻いた、この神様の愛の高さと広さと深さを私たちが悟って、神様を畏敬し、崇めながら、神様の高貴無限なる愛をいただいた私たち自身を愛し、高め、神様に栄光をお返しする人生を暮らすように助けてください。すべて、イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!