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「もう一人の助け主」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 14章16節〜17節」
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。




私は今日、皆さんたちと一緒に、『もう一人の助け主』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

私たちの社会生活が複雑になるほど、私たちが解決すことができない問題を、専門家たちに委託するようになります。その中で私たちの生活にもっとも目立つ専門家たちは、法律関係の弁護士と、税務関係の税務士、不動産関係の不動産仲介人などがあります。

しかし、このすべての専門家たちより、もっと近くに私たちと共におられて、私たちに助言をしてくださる方がおられます。この方がまさに“助け主・聖霊さま”です。聖霊さまを“助け主”と主が言われた意味は、ギリシャ原語で「パラクレトス」即ち、「神様から遣わされて、私たちを助けるために常に共に居られる方」ということです。

2000年前に、聖霊さまが「五旬節」の日にマルコの屋上の間に臨まれてから今まで、教会と聖徒たちから離れずに、いつも私たちと共に居られる方がまさに、「パラクレトス」助け主なのです。

イエス様の弟子たちは、3年余の間、共におられたイエス様が突然、殺されて、彼等から離れるであろう、と言われたとき、本当に茫然自失しました。前途が真っ暗闇であり、希望がすべて消え去りました。彼等は、イエス・キリストがイスラエルを回復なさり、預言者たちが予言した「千年王国」をイスラレルに建設するものと思い込んで、すべての財産と職業と父母、妻子を離れて、3年余の間、主に従いました。ところが、主が突然、彼等から離れていくと言われたのです。

そのとき主が、『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと共におられるためにです。』と言われました。

こう言われた後に、また強調して言われました。『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたの所に戻って来るのです。』この事は、聖霊さまの降臨なさることを通して、イエス様が再び、見えない形で、私たちと共に居られるようにする、と言うことです。即ち、聖霊さまが来られることは、まさにイエス様がほかの形でご臨在なさることを意味するものです。




第一、「もう一人の助け主」

聖霊さまを「もう一人の助け主」と言われました。「もう一人」は、ギリシャ語には二つの意味があります。“アロス”という言葉があり、“ヘテロス”という言葉がありますが、“アロス”という言葉は、全く同じ同質の中のほかのものを言うのです。ですから、「二つが同じものだが、もう一つのもの」という時には“アロス”という言葉を使用します。しかし、全く違う時には“ヘテロス”という言葉を使用します。

イエス様が「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと共におられるためにです。」と言われたとき、そのときの「もう一人の助け主」は、“アロス パラクレトス”という言葉をご使用なさったのです。それは、全くわたしと同じ、もう一人の助け主ということです。

わたしは第1番目の助け主であり、その方は「もう一人の助け主」で、彼が来られたのはわたしが来たことであり、わたしが来たのは彼が来たことであり、わたしたちは全く同じであると言うことです。イエス様と聖霊さまは全く同じ神様であり、全く同じ神様のみわざを働かれると言うことです。従って、聖霊さまが来られたら、イエス様の立場で、イエス様がなさったことを継承して行われる神様となられる、ということです。

イエス様がひょいと離れ去ってしまい、主のご使役はそれで終わってしまうのではなく、イエス様が死なれてからよみがえられて、天に昇られたあと、イエス・キリストと全く同じ「もう一人の助け主」を遣わされて、イエス様の御名により、イエス様の立場から、キリストの血潮によって罪人を赦され、聖霊の御力によって聖化させられ、キリストの御名によって悪霊を追い出し、病をいやし、キリストの御名によって御恵みと祝福をいただくようになさり、永遠のいのちを得るようにする、神様の働きをそのまま継続するということなのです。

ですから、こんにち教会がイエス・キリストの御体であるのと同じく、キリストの御体の中に、キリストの御霊である聖霊が来ておられますので、神様の御子イエス・キリストは教会を通して、昨日も今日も、いつまでも同じなのです。それで、教会に来たら聖霊さまを通して主は、今日も、過ぎた日と同じく、罪を赦され、救ってくださり、私たちに天国を与えてくださり、聖霊充満にしてくださり、こんにちも昔と同じく、悪霊を追い出され、病をいやしてくださり、心の中に希望を与えてくださり、アブラハムへの祝福を与えてくださり、復活と永生と天国の希望で満たしてくださるのです。

福音は、神様の宗教的形式や儀式ではありません。死なれてからよみがえられたイエス様が、聖霊を通してこの世に再び来られて、主の御体である教会の中におられながら、ご使役を継続なさることを言うのです。それで私たちは、すべての心配、懸念、不安、焦燥、絶望、疾病、苦痛と悩みをもって主を仰ぎに出て参ったとき、主は教会の中で私たちに会ってくださり、問題を解決してくださり、いやしてくださり、祝福してくださるのです。




第二、聖霊さまがなさる事

第2番目に、聖霊さまがなさることを私たちは、はっきりと知らなければなりません。聖霊さまは真理を悟るようにしてくださり、思い起こすようにしてくださるのです。「ヨハネの福音書 14章25節〜26節」の御言葉です。『このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』

皆さん、私たちが勉強する「御言葉」はこの世の学問ではなく、天から下ってきた啓示の御言葉です。世俗的知識ではなく、啓示的知識なのです。ですから天に属した真理の御言葉は、天から来られた聖霊さまが私たちの心の中に悟らせてくださってこそ、知ることができるのであって、私たちの目で見ては知らず、耳で聞いても知らず、心の中で考えても知りません。それで、聖霊さまの助けがなくてはこの世のどの学者や博士であっても、聖書を読んで悟ることができません。聖霊であられる神様が来られて私たちが心の中に真理を悟ることができるようにしてくださるのです。

皆さん、御言葉を聞いて心に悟りを得ることができるのは、皆さんの心の中に聖霊さまの啓示が共に臨むからなのです。イエス様はピリポ・カイザリヤで、弟子たちに尋ねて言われました。『人々は人の子をだれだと言っていますか。』すると弟子たちは答えて言いました。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。また他の人たちはエレミヤだとか、また預言者の一人だとも言っています。」

イエス様は彼らに言われました。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』すると、シモン・ペテロが答えて言いました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」こう言ったとき、イエス様が言われました。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』ペテロの血と肉である人間の知識によって悟ったのではなく、天におられる父から遣わされた聖霊の啓示を通して、キリストがメシヤであられることを悟らせてくださったのだと言われたのです。

ですからこんにち、聖霊さまが来られて、私たちの心の中に真理を悟るようにしてくださり、また真理を思い起こすようにしてくださるのです。私たちは聖書を読み、説教を聞いたあとには、それらをきれいに忘れてしまいます。皆さん、今日、私の説教を聞いたあと、バスに乗って家に帰り着く前に、もはや私の説教の内容を忘れてしまいます。まさしく「モヤシ」に水を注ぐようなものです。いくら水を注いでやっても、水はみな底から抜け出てしまいます。しかし水は抜け出ても、「モヤシ」は成長するのです。

皆さんが御言葉を聞いてからみな忘れてしまっても、御言葉を聞く瞬間に、御言葉を通した霊的糧食が皆さんに吸収されてしまうのです。そして、その御言葉が必要であるときになったら、思い起こすようにしてくださるのです。私はきれいに忘れたと思っていたのに、私が御言葉が必要であるときには聖霊さまが思い起こすようにしてくださって、御言葉を通して信仰をもつようにしてくださるのです。

「コリント人への手紙 第一 12章 3節」の御言葉です。『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』

悪魔だけが「イエスは呪われよ。」と言います。聖霊さまはイエス・キリストの霊です。聖霊さまのみわざによらないことには、「イエスは主です。」とは言えません。今日、イエス・キリストを「主」として認めるのであればアーメン!と言いましょう。これは、聖霊さまが皆さんの中に来られて悟らせてくださったから言えるのです。聖霊によらなければ、心の中にイエス様が主であられることを信じることができないのです。

また聖霊さまは、私たちに来られて、私たちを聖潔にしてくださいます。皆さん!世俗と悪魔と罪がいっぱいであるこの世の中で、私たちはどうするすべもなく世俗に絡み、悪魔に絡み、罪に絡まれて、人間の力では抜け出ることができません。いくら覚悟を新たにし、決心をしても、それは三日を越しません。勝ち抜くことができないのです。ところが、この世俗と悪魔と罪から抜け出ることができるようにしてくださる方が「助け主聖霊」なのです。

「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」に、『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記されています。罪と死の原理に絡まれ、縛られていますが、聖霊が来られて、私たちを解放させてくださるのです。イエス・キリストにあって現れた聖霊のみわざが、私たちを世俗と悪魔と罪の絆から解放されるようにしてくださるのです。

これはいかに驚くべきことかわかりません。人たちが世俗の罪から抜け出ることが容易であるとは考えません。お酒に酔い、放蕩し、不品行を行い、或いは麻薬とこの世の堕落に溺れた人たちが、それらから抜け出ると口では言いますが、できません。そうした時、聖霊さまが来られて解放させてくださるのです。イエス・キリストのうちにある聖霊さまのみわざによって、霊肉ともに解放と自由を得た人がいかに多いことか知れません。聖霊さまはこんにちも私たちの中に臨在しておられて、絶え間なく私たちに自由と解放をあたえてくださるのです。

聖書に、主の御霊がおられるところには自由があると言われました。真理を知ったら、真理があなたがたを自由にします。神様の真理を悟ったら、罪から自由になり、世俗と悪魔から自由になり、疾病の鎖から解き放たれ、呪いと貧乏からも解放され、死と絶望の絆からも解き放たれることができるのです。聖霊が来られて、私たちに悟りを与えてくださり、自由と解放を得ることができる大胆な信仰を与えてくださるのです。

また聖霊さまは、私たちに福音を証しすることができる力を与えてくださいます。「使徒の働き 1章 8節」に、『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』と記されています。

皆さん、聖霊さまが私たちを通して語ってくださってこそ、罪を悟り、悔い改めるようになります。聖霊さまはまさに、焼き尽くす火のようであり、岩を打って砕くハンマーも同様です。聖霊さまが臨まれてこそ私たちの心の中に確固とした確信と権威をもって、キリストが神様の御子であられることを私たちに伝えてくださるのです。

イエス様が十字架に釘付けられて、死なれてからよみがえられましたが、聖霊さまが来られなかったら、この事件は2千年前にあのエルサレムの一隅で起こった事件として今はもう忘れられてしまったでしょう。しかし聖霊さまが来られて、この局地で起こった一つの事件を、全天下に永遠に宇宙的救いの事件としてしまわれたのです。

聖霊はまさに、証しの霊であられます。聖霊が私たちを通して、キリストが主であられることを証ししてくださるのです。イエス様の弟子たちをご覧下さい。3年半の間キリストに付き従い、真理を悟りましたが、イエス様が死なれたことを見てからはみな逃げ隠れました。しかし五旬節の日に聖霊に満たされるや、彼等は立ち上がって、1日に3千名、その次に5千名、その次にはエルサレムをキリストの復活の福音で満たし、ユダヤとサマリヤと地の果てにまでキリストの福音を伝えることができるようになりました。

それで、福音の証しの力である聖霊を私たちが認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼まなければなりません。聖霊によらないことには、決してキリストの福音が勝利をすることができません。

聖霊さまは、七つの特徴をもっておられます。「イザヤ書 11章 2節」に、『その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』と記されています。

聖霊さまは、知恵の霊であられます。皆さん、「ヤコブの手紙 1章 5節」に、『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』と言われました。私たちが知恵が必要なとき、聖霊さまに知恵を求めれば、聖霊さまは知恵の霊ですから、私たちに驚くべき知恵を与えて下さって、問題を解決することができるようにしてくださるのです。

聖霊さまはまた聡明の霊であられますので、私たちの心が冴えないときに聖霊さまに求めれば、私たちの心に悟りを与えてくださいます。この世の霊は私たちの心を混迷にして、真理の御言葉を悟ることができないようにしますが、聖霊さまが臨まれたら私たちの心に聡明を与えてくださって、眠りから覚めたように明るい心で真理を悟り知ることができるようにしてくださるのです。

そして聖霊さまは、はかりごとの霊です。私たちにカウンセリングをしてくださいます。私たちに、どのように人生を暮らせばもっとも正しく暮らし、良き生活を営むことができるかを教えてくださるのです。

また聖霊さまは、能力の霊であられます。色々な能力を与えてくださいます。或る人には説教を立派にすることができる能力を与えてくださり、或る人には救済の霊を与えてくださり、或る人には技術者としての才能を与えてくださいます。私たちがこの世を生きていくとき、神様が各々に与えてくださる能力があります。その能力を聖霊さまが与えてくださって、私たちをご使用なさるのです。

また聖霊さまは来られて、私たちに真理に対する知識を与えてくださり、神様を恐れ、畏敬するようにしてくださり、聖霊さまは私たちに聖き生活を営むことができる力となってくださるのです。聖霊さまの七つの特性が私たちに現れなければなりません。聖霊さまが私たちに臨在してくださるのですから、私たちは聖霊に似ないわけにはいきません。

聖霊充満となり、聖霊によって生きていけば、聖霊は知恵と聡明の霊であり、はかりごとと能力の霊であり、神様を恐れるようにする知識の霊であり、神様を畏敬するようにする聖なる霊ですから、このようなみわざが私たちの人格の中に現れるようになるのです。




第三、私たちは聖霊との関係を確かに悟り、知らなければなりません。

聖霊さまは私たちに臨まれて、「新生」(新しく生まれる)の体験を与えてくださいます。聖霊さまの感化と感動によって罪を悟り、悔い改めるようになるのです。いくら伝道をしても無関心である人も、聖霊さまが臨まれれば心の中に罪を悟って悔い改め、砕かれるようになるのです。世の中でイエス様に反対していた人が、教会に来て坐っている途中、突然涙をぼんぼん流しながら胸を叩き悔い改めるのは、聖霊さまの感動が襲って来たからです。

「ヨハネの福音書 16章 8節〜9節」に、『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。』と記されています。聖霊さまが来られて、罪を責めます。罪を責められ、叱られるので、心の中に深く感動されて悔い改め、砕かれるようになるのです。

それで、キリストを十字架に釘付けにしたその群集が、五旬節の日に聖霊が降臨するや、ペテロの説教を聞いて、いっぺんに3千名が「兄弟たちよ。どうしよう…。」胸を叩いて悔い改め、あくる日には5千名が悔い改め、全エルサレムをキリストの復活の福音でいっぱいに満たしました。彼等はイエス・キリストの後を追いながら、「彼を十字架に釘付けにせよ。」と叫んだ人たちです。

このような人たちが、聖霊が来られたら心の中に大きな悟りを得るようになるのです。ですから皆さんは、信じない皆さんの旦那さんや、奥さんや、お子さんたちが救われるように、聖霊さまが臨んで下さるように祈り求めなければならないのです。話にならないほどに頑固で頑迷な人も、聖霊さまが臨んだら心が砕かれ、聖霊さまによって罪を悟り、悔い改めるようになるのです。

「テトスへの手紙 3章 5節」に、『神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。』と記されています。聖霊が私たちを新しくします。古い私たちがどのようにして新しくなることができるでしょうか?古い考え、古い心、古い行動をする私たちが、どのようにして新しくなるでしょうか?聖霊が来られたら悟りを与えてくださり、悔い改めさせてくださって、新しく造ってくださるのです。

皆さん、私は「恩平大教区・イム ジンスク聖徒さん」の証しを読んで見ました。彼女は乳房ガンの手術を受けて退院しましたが、ガンを完全に除去することができませんでした。それで、1週間後に病院で抗癌注射を打ってもらってから家に帰る途中、体に異常が起こり始めました。筋肉が弛み、歩くことができず、心臓の動悸が激しくなり、今にも息が切れそうになりました。

それで直ぐに病院に移送されました。医者は検査結果、異常がないということでしたが、あとで知ったところ、20日間隔をおいて打つべき抗癌注射を、病院側の失策で1週間目に打たれたので、甚だしい薬物中毒に罹ってしまい、肝数値が正常値40を超えて170から180になり、神経衰弱、憂鬱症状、不眠症に、水一滴飲めず、ガンとは比較にならない苦痛で死にそうになりました。薬物治療を間違えればこのような大きな禍に会うようになるのです。

ところが、入院室のベッドに寝かされているところへ、軍から休暇を得て出て来た息子が持ってきてくれたラジオを聞く途中、極東放送(キリスト教系統の放送局)を聞くようになりました。その時、説教のメッセージを聞く瞬間、心に大きな平安が襲ってきました。当時の彼女は、イエス様を全く信じず、かえってキリストを迫害する立場にいた人です。

死の目に会っている苦痛の中で、極東放送局の福音のメッセージを聞く時大きな平安が襲ってきたので、その時からは継続して極東放送局にダイヤルを固定しておいてメッセージを聞くようになりました。「イエスを信じなさい。」という勧誘を一番嫌がった彼女でありましたが、聖霊さまのみわざによって石のようであった彼女の心が解け始めたのです。

退院してからは聖書を買って読み始め、賛美を歌いながら涙を流し、「主の祈り」を口ずさめば心に安らぎがきました。教会に行きたかったのですが、どのようにしたら良いか知りませんので、あっちこっちと家の近くの教会を覗きまわりました。ちょうどその時、長老会の執事さんの一人が、「通うなら純福音教会(フルゴスペルチャーチ)に通いなさい。そこに通ったら聖霊も受け、病気も癒されます。」と紹介されて、私たちの教会に出席するようになりました。

お嬢さんと一緒に、主の日にはじめて教会に出席しましたが、どんなに嬉しかったか、その間教会に出席しなかったことを後悔し、聖霊さまが与える喜びに満たされて、まだ病気が治っていなかったのにも、死にたいとする憂鬱症と不眠症が消え去り、人たちにつられて賛美も歌い、拍手も打ち、一つ声で祈る時も共に祈りました。聖書に何と記録されていますか。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」と言われました。喜びがからだの中に入って来たら、体内のすべての製薬工場をフルに稼動させてすべての病気を癒すのです。

聖霊さまが来られたら、私たちの心の中の喜びの泉を開いてくださるのです。この姉妹さんは、キリストによる聖霊さまの御力によって喜びに満たされてから、2ヶ月が過ぎたあとに病院に行ったところ、ガンがきれいに消え去っていたと言います。きれいに治ってしまったのです。今は、熱心に伝道もするようになりました。聖霊さまのみわざがこのように人たちを変化させ、聖霊さまが与える喜びによってすべての悪霊の鎖から解放を得るようになるのです。

私たちは聖霊にあって喜ばなければなりません。聖霊が臨んでくださらなかったら喜びの泉が動じません。聖霊さまが来られてこそ、心の中に喜びの川水が湧き上がるのです。喜びが湧き上がったらすべての疾病が癒され、心配、懸念、不安、焦燥、絶望が消え去ります。そして肯定的、積極的、創造的な心の状況に変化されてしまうのです。

聖霊さまは、イエス様を迎え入れるようにし、私たちの中に「子の御霊」として留まられて、神様を「アバ・父」と呼ぶようにします。「ガラテヤ人への手紙 4章 6節〜7節」に、『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』と記されています。

聖霊さまは、私たちのからだを聖殿として留まっておられます。聖霊さまは宇宙の向こうにおられるのではなく、教会に来ておられ、私たちと共におられ、私たちの中に来ておられるのです。「コリント人への手紙 第一 3章16節〜17節」に、『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』と記されています。

聖霊さまが私たちの中に留まっておられるので、私たちが汚れた考えを抱くとか、汚れたことをしたり、汚れたところに行けば、聖霊さまが私たちの心の中で私たちを叱られます。私たちが罪を犯したら、聖霊さまは罪と共に居られることができないので私たちを叱られるのです。イエス様を信じた後からは、我がままに暮らせると思い勝ちですがそうではありません。

イエス様を信じてからは私たちのからだが聖殿となり、聖霊さまが留まっておられるので、私たちが罪を犯したら聖霊さまが私たちを叱られるのです。私たちが悔い改めずにはおられないようになさるのです。

また神様は、私たちの中にただ留まってだけおられるのではありません。聖霊の洗礼、或いは聖霊充満という新しい段階の体験をするようにしてくださいます。聖書「使徒の働き 1章 4節〜5節」に、『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』と記されています。

また「使徒の働き 2章 1節〜4節」には、次のように記されています。『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

これが聖霊充満、或いは聖霊のバプテスマを言うのです。聖霊充満、聖霊のバプテスマを受けたら、天の風、天の火が私たちの中に充満し、聖霊が話させてくださるとおりに異言(他国の言葉)で話しだすようになるのです。これからは1次元高めて、私たちの霊が神様と共に祈ることが出来る祈りの言葉を与えてくださるのです。

私が45年目の牧会をしていますが、聖霊に満たされ、異言を話すことがいかに大きな祝福か知れません。私がひどく悲しくて、人間の言葉では話すことができない時には、聖霊によって異言で祈ったら、神様が私の祈る言葉を理解してくださって、私の霊魂を深い淵から救い出してくださり、私があまりにも喜ばしく楽しくて、とても人間の言葉で表現することができない時、異言で祈ったら、私の心の喜びが倍加され、神様に礼拝を捧げることができるようになります。

また神様の御言葉を証ししなければならない時、どうしたら良いかわからない時があります。そのような危機に瀕したとき、イエス様の御名によってひれ伏して異言で祈ったら、意外と心に平安と確信が溢れ、神様が祈りを聞いてくださったと言う喜びで心が満たされます。私はこの異言の祈りがどんなに良いか知りません。神様が私に与えてくださった賜物の中でもっとも驚くべき賜物が異言の祈りです。何故?神様と対話を交わすことができるからです。

人の言葉で祈り、対話を交わしたら限界点に到達しますが、人間の限界を超越して神様と共に喜び、悲しみ、嘆き、賛美しながら祈ることができると言うことは、いかに驚くべきことか知れません。異言で祈ることができたので、こんにちまで、能力ある牧会をすることができたのです。

皆さん、聖霊は私たちに臨まれて色々な賜物を与えてくださいます。「コリント人への手紙 第一 12章 4節〜11節」に次のように記録されています。

『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。』

私たちが聖霊充満に与ったら、神様は啓示の賜物として知識の言葉の賜物、知恵の言葉の賜物、信仰の賜物、癒しの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける賜物、異言、異言を解き明かす力を与えてくださって、この賜物を通して超能力的に働くことができるようにしてくださるのです。これは、私たちに功績があるので分け与えてくださるのではありません。神様が聖霊を通して神様の事業を効果的になさるがために分け与えてくださる賜物です。

皆さんは聖霊充満に与ったら、神様の賜物が何であるか切に祈って悟り知り、その賜物に従って主に仕えるようにならなければなりません。

それだけではありません。私たちがこの世の中で担う職分も遂行するために神様が職分の賜物もくださいます。「ローマ人への手紙 12章 6節〜9節」に、『私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。』と記されています。

皆さんが教会に来られて、奉仕することも賜物であり、教えることも賜物です。人たちを訪れて勧めることも、救済することも、治めることも、憐れみを施すことも賜物なのです。神様の賜物をいただいてこそ、疲れることなく、たゆむことなく、喜びの心で神様への使役をすることができるのです。

それだけでなく、聖霊は私たちに来られて、信じる者に実を結ぶようにしてくださるのです。「ガラテヤ人への手紙 5章22節〜23節」の御言葉です。『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』

皆さん、イエス様を信じながら、私たちの人生の中に実を結ばなければなりません。神様は、実がない木の枝は切り捨ててしまうと言われました。実は短期間に結ばれるものではありません。時間がかかります。イエス様を信じたら、聖霊によって私たちの中に聖霊の実が結ばれなければなりません。

或る教会の牧師先生が見たところ、熱心に出席していた姉妹さんが出席しません。その姉妹さんの旦那さんに聞いてみました。「なぜ、奥さんが出席なさらないのですか?」「体調が悪いので...。」それで、その日の午後に訪問しました。「姉妹さん、体調がお悪いそうですね?」彼女が声を出して笑いながら、「どこも悪くありません。」「いや、旦那さんが、体調が悪いので教会に出られないとおっしゃいましたよ。」「それは嘘ですわ。」「なぜ、旦那さんが嘘を吐いたでしょうかね?」

すると、その姉妹さんが言いました。「牧師先生、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?…イエス様を信じて、教会に良く出席したら、天国に行きますか?」「あ、勿論です。天国に行きます。」「それじゃ、私は教会にも出席せず、天国にも行きたくありません。私の主人はですね、そんなにイエスも信じ、教会にも熱心に出席しますが、嘘つきなんですよ。口を開いたら嘘を吐くんです。そのような人が出席する教会に私がなぜ顔を出しますか。また、そのような人が行く天国に私がなぜ附いて行かなければならないんですか?地上でそのような人と一緒に暮らすのも飽き飽きです。それなのに、天国にまでついて行って一緒に暮らしなさいと言われたのでは、私は堪りません…。」

これこそ、聖霊の実がない人です。イエスを信じると告白しながら、教会に出席しながら、聖霊の実を結ばないから、一緒に暮らしている奥さんまでもがその主人とは一緒にいたくないと言うのです。これは恥ずかしいことです。

イエス様を信じる私たちが、本当に光と塩の役割を果たし、変化されて、聖霊の実を結んだら、韓国は国民全体が悔い改め、イエス様を信じるようになるはずです。ですから、五旬節の日に私たちが聖霊に満たされ、キリストの民として立ち上がったら、聖霊の実を結ぶことに全心全力を尽くさなければならなりません。

旧約4千年の間は、御父なる神様がご使役なさった時代です。その時神様は、御子イエスが来られることを300回以上、預言者を通して仰せられました。その仰せの通りに、2,000年前にイエス様が来られて、33年の間、この世におられました。その期間が御子のご使役の期間でありました。

イエス様が「十字架の贖い」のみわざを終えられて、天に昇られた後、五旬節の日に聖霊さまが降臨なさいました。それで、聖霊さまが教会を建てられ、教会と私たちを通して「福音のご使役」をしておられます。

まさにこんにちは、聖霊さまの時代です。御父なる神様、御子なるイエス様は、聖霊さまを通して私たちの中でみわざを働かせられます。従ってこんにち、私たちは聖霊さまを正しく知り、聖霊さまと正しい関係を保ち、決して聖霊さまがない信仰生活をしようとしてはなりません。聖霊さまと共に暮らしてこそ、成功的な信仰生活を営むことができ、天国の事業もなすことができるのです。

聖霊さまを通して悟りと信仰を得て、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても溢れるばかりに得る人生を暮らし、聖霊の実を豊かに結んで、世界を福音化しなければなりません。




お祈り

聖く、全知全能であられ、愛であられる天のお父さま!今から2,000年前の五旬節の日に、聖霊さまが降臨なさったことを感謝申し上げます。今は、天の御座に御父なる神様がおられ、その右側にイエス様がおられ、聖霊さまは教会の中におられ、私たちと共におられ、私たちの中に来ておられます。御父と御子が聖霊さまを通して天の御国の事業をしておられることに感謝申し上げます。

助け主聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼みます。聖霊さま!風のように、火のように、生ける水のように運行してください。

聖霊さまがおられない教会、聖霊さまがおられない信徒とならないように助けてください。そして、内容がない信仰生活をしないように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!