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「虫けらのヤコブ」
 






■聖書箇所

「イザヤ書 41章14節〜16節」
41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
41:15 見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。
41:16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。




今日、私は皆さんとともに『虫けらのヤコブ』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

暑い夏の真昼、太陽が炸裂する日、草むらを散歩するうちにミミズを一匹発見しました。このミミズは夜中に土の中から地上にはい出てきては、帰り道を失い、陽光に露出されてほとんど死にかけていました。私が見たところそのミミズは、私が助けてあげなければ間違いなく死ぬしかありませんでした。

そのミミズが転がっているところから日の陰になっている草むらまでは、15メートル位の距離がありましたが、自分の力ではそこまで行くことは絶対に不可能でありました。それで、私がミミズに言いました。「可哀そうに、無力なミミズよ。お前は死にそうになっているが、私が助けてあげよう。」私はミミズを手にとって、湿気がある木の陰に移してあげました。

それで、そのミミズは死なずに生きていくようになりました。そのとき、私は悟りました。「私が、あのミミズのように無能なので死にそうになったときにでも、神様が私を助けてくだされば、どのような立場にいようとも救っていただけることができるだろうな。」

皆さん、聖書を見ますと、『虫けらのヤコブ、わたしはあなたを助ける。』と神様が言われました。人がミミズのような虫けらになったら、神様が助けてくださるのです。




第一、ヤコブは「虫けら」(ミミズ)ではありませんでした。

第1に、ヤコブは「虫けら」(ミミズ)ではありませんでした。彼は生まれる時から兄の踵(かかと)を掴んで生まれた、狡猾で他人をよく騙す人でありました。彼の父親は40歳の時に結婚して、60歳の時に子供を生むようになりました。妻のリベカが身重になりましたが、腹の中で子供たちが争い合います。神様に祈ったところ、「あなたの腹の中には双子が入っている。」と仰せられました。

「創世記 25章22節〜26節」にこう記録されています。

『 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。』

踵を掴んだ者、奪う者、すなわち、その名前がヤコブなのです。ですから彼は、もはや生まれる時から「虫けら」ではありませんでした。そして彼は、大人になったとき、レンズ豆の煮物1杯でもって兄の「長子の権利」を手に入れました。

父親であるイサクは、エサウの猟の獲物の料理を好んでいたのでエサウを愛し、母親のリベカはヤコブを愛しました。ところが或る日、兄エサウが飢え疲れて猟から帰って来ました。弟ヤコブがレンズ豆の煮物を煮ていました。エサウはヤコブに言いました。「その赤い物を私に食べさせてくれ。」弟ヤコブは、兄エサウと長子の権利の取引をしました。

「創世記 25章31節〜34節」にこう記録されています。『 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。』

長子の権利をレンズ豆の煮物一杯をもらって売り飛ばすと言うことは、想像することができません。皆さん、旧約時代の長子の権利はすごく素晴らしいものです。父親の祝福を受ける権利があり、家族の指導者になり、食事の時には上席に座り、長子には二倍の遺産相続を与えました。重大な犯罪でなかったら絶対に長子の権利を喪失することがありません。このような大きな特権を、エサウはヤコブの悪知恵に乗せられて、煮物一杯で売り飛ばしてしまいました。ヤコブがどんなに狡猾な人であるかを見せてくれます。

その次に、イサクは年老いて137歳になり、視力が衰えてよく見えなくなりました。イサクは自分もこの世を去る時が近づいたことを直感して、彼の息子・長男エサウを呼んで言いました。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、野に出て行き、私の為に獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身がお前を祝福できるために…。」

ところが、その時すでにイサクは目が衰えてよく見えなくなっておりました。その機会に乗って、リベカが長男エサウよりは次男イサクに父親の祝福を受けるようにしたいと願い、ヤコブを呼んで一緒に相談したあげくに、ヤコブにエサウの着物を着せ、エサウのように毛深い人にするために羊の皮を剥いで全身につけ、そして母親が立派に料理した食べ物をヤコブに持たせて、長男エサウになりすまして父親の部屋に入らせました。

「創世記 27章27節〜30節」を見ますと、『 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。 国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。』と記録されています。

このようにヤコブは、母親と一緒に悪知恵を出して、父親が長男(長子)に与える最後の祝福を奪いました。ですからヤコブは、狡猾であり、悪知恵にたけ、人を欺く人でありました。




第二、母の兄の家で、避難生活を20年間したヤコブ

ヤコブは、兄エサウが殺そうとするので、兄の顔を避けて母の兄の家に逃げて行きました。ヤコブは母の兄の家で下男生活をするうちに、母の兄の次女ラケルを心から愛するようになりました。それで母の兄ラバンに、「私がこれから7年間、代価なしにあなたに仕えますから、あなたの次女ラケルを私の妻として娶らせてください。」と言いました。母の兄は「よろしい。」と答え、それでヤコブは7年間、熱心に母の兄に仕えました。

そのように7年が過ぎて、ヤコブは結婚しました。ところが結婚初夜をすごして明くる朝起きて見ると、なんと、花嫁はラケルでなくて、別に好きでもない長女のレアでありました。ヤコブは直ちに母の兄ラバンに抗議しました。するとラバンは、「我々のところでは、長女より先に下の娘を嫁がせるようなことはしません。」と言いました。

そして「創世記 29章27節」を見ますと、『それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。』と記されています。こうしてヤコブは無慮14年間を、結婚をするために母の兄の家で重労働をしました。

ヤコブは結婚して家庭を成してからも母の兄の家で6年間も働きましたが、母の兄は継続してヤコブを騙しました。ご覧下さい。人は何を持って種を蒔こうとも、その刈り取りもするのです。自分の兄を騙したように、彼は母の兄の家で継続して母の兄から搾取され、騙されました。

「創世記 31章 6節〜7節」を見ますと、『あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。』と記されています。

また「創世記 31章41節」には、『私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。』と記されています。それでヤコブの心には、母の兄に対する怨みでいっぱいになりました。

ヤコブは、二人の妻と相談したあとに、母の兄の家から逃げ出ることに決心しました。何故かと言えば、母の兄はしもべたちも多く、私兵も多いのですから、そのまま家を出るわけにはいきません。ひそかに逃げるしかありません。それで自分の妻たちと相談して、逃げ出ることに決めました。彼は逃げ出る前に、母の兄と最後の勝負を試みました。

ヤコブは、母の兄・ラバンに提案しました。「私はもう少しあなたの為に働きましょう。飼っている群れの中からぶち毛やまだら毛のものは全部取り出して持って行ってください。今後、ぶち毛やまだら毛のものを産んだら、それを私の報酬としてください。」母の兄・ラバンは「あなたの言うとおりにしよう。」と快諾しました。

ヤコブは山に登って、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、その皮のはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、即ち水ぶねの中に、群れの差し向かいに置きました。それで群れは水を飲みに来るときに、さかりがつきました。「見つめる法則」を通して、その時から群れは、しま毛、ぶち毛、まだら毛のものを産むようになりました。

いくらもたたずに、ヤコブは大いに富む者となりました。母の兄の子たちがそれを見て、不平を言うのをヤコブが聞きました。それで、ヤコブは逃げ出すことに決めました。二人の妻を呼び出し、子供たちを呼び出し、瞬く間に家畜の群れを連れて、彼は逃げ出しました。故郷であるカナンの地に向かって邁進して行きました。

「創世記 31章17節〜21節」に、こう記録されています。『 そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、 また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ出かけた。 そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した。 またヤコブは、アラム人ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせなかった。 彼は自分の持ち物全部を持って逃げた。彼は旅立って、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。』

三日目に、ヤコブが逃げたことが母の兄・ラバンに知らされました。ラバンは身内の者たちを率いて、七日の道のりをヤコブのあとを追って行き、ギルアテの山地で彼に追いつきました。ところが神が前夜、夢にラバンに現れて言われました。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」これは警告でありました。ラバンをヤコブを捕らえてひどい目に会わせようとしましたが、どうすることもできませんでした。

「創世記 31章50節〜52節」を見ますと、『 もしあなたが私の娘たちをひどいめに会わせたり、もし娘たちのほかに妻をめとったりするなら、われわれのところにだれもいなくても、神が私とあなたとの間の証人であることをわきまえていなさい。」 ラバンはまたヤコブに言った。「ご覧、この石塚を。そしてご覧、私があなたと私との間に立てたこの石の柱を。 この石塚が証拠であり、この石の柱が証拠である。敵意をもって、この石塚を越えてあなたのところに行くことはない。あなたもまた、この石塚やこの石の柱を越えて私のところに来てはならない。』と記されています。

これは母の兄・ラバンがヤコブと約束を結び、そこに石の柱と石塚を作って証拠にしたものです。こうしてヤコブは母の兄の手から脱出することができました。

この事件を通して見るとき、ヤコブは決して虫けらではありませんでした。彼は欲が深く、狡猾な人であました。それにも拘わらず、ヤコブがエサウと違うのは、エサウは神様をまったく愛しませんでしたが、そんな中でもヤコブは神様を愛し、神様を信じ、神様に拠り頼む、そのような信仰心を持っておりました。心は神様を信じ、従順に聞き従う人でありましたが、彼の行為は神様が認めてあげることができる人ではありませんでした。




第三、虫けらになったヤコブ

第3番目に、私たちがこのお話を継続して見ますと、結局には、神様はヤコブを虫けらに造られました。神様が見られるとき、その人の行為が善良でなくても、心の中に神様を愛する愛と、信仰心があれば、神様はその人を最後まで追って行って正しい人に造ってくださるのです。自分の力で義となり、聖く、信仰がある人ではなくても、神様を信じ、愛し、従っていく心があったら、神様が恵みをもって変化させてくださるのです。

ヤコブが、ヤボクの渡しに来たとき、兄エサウのところに人をよこして言いました。「兄さん、弟が20年ぶりに帰って参りました。あなたのご好意を得させてください。」すると、兄エサウは、「20年間、この時を待っていた。お前を一刀両断してあげる。」として、400名の私兵を引き連れて出動しました。

「創世記 32章 6節」を見ますと、『使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」』と記されています。

もう大変なことになりました。背後には、母の兄が「またと帰って来てはならない。」と言って境界線を作り、石塚まで築いておいたので妻子を連れて母の兄の家に逃げ帰るわけにもいかず、前に進もうにも、兄が400人の私兵を率いて駆けつけてくる…、ヤコブは完全にサンドイッチになりました。イスラエルの民たちがエジプトから出て来て、紅海の前に到着した時と同様に、前には青々とした紅海の海水があり、後ろにはパロの軍隊が追跡して来て押し迫っている、そのような現象です。

もうヤコブは、全身の力が抜けてその場に座り込みそうになりました。彼は恐れおののきました。今からは、彼の知恵と聡明をもっては到底、問題を解決することができません。

「創世記 32章 7節〜12節」に、こう記録されています。『 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」』

ヤコブは、切実な心で、熱く熱く神様に祈りを捧げました。人は、袋小路に追い込まれて行き詰まれば祈るようになります。ヤコブは神様を愛し、信じましたが、過去にはこのように切な祈りを捧げたことがありません。今はもう、神様以外には助けてくださる方がいないので、彼は切に祈りました。そして、最後の知恵をふりしぼりました。

もう、最後の知恵です。それは、妻子と所有物としもべたちを先にヤボクの渡しを渡らせ、自分はひとり、渡しのこちら側にうずくまるのです。兄エサウが来て、本当に自分を殺そうとするなら、家畜たちを奪い、妻子たちを打つはずです。そうしたら、その時は逃げるつもりでありました。妻子はまた結婚したら得られる。私の命は上げられない。逃げるんだ。最後に彼は2本の足に拠り頼む、最後の知恵をしぼり出したのです。

ところが、その最後の知恵が無効になりました。「創世記 32章24節〜28節」に、『 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」』と記されています。

ひとりでうずくまって、状況を探っているのに、突然、一人の男が襲いかかって来ました。その人は、自分を殺す勢いで襲いかかって来ました。ヤコブは生き残るがために命をかけて、全力を尽くしてその人に敵対しました。夜通し格闘しました。そして夜明けになりました。するとその男が言いました。「わたしを去らせよ。」ヤコブが言いました。「私を祝福してくださらなければ去らせません。」

その男が言いました。「あなたの名前は何というのか。」「ヤコブです。」狡猾な男だと言う名前です。詐欺師だと言う名前です。その男が言いました。「あなたの名はもうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ。」そう言ったあとに、その男がヤコブのもものつがいを打ったので、ヤコブはびっこ引きになりました。

もうヤコブは、逃げることができなくなりました。前からは兄エサウが400人の私兵を引き連れて来ます。うしろには又と越えないと母の兄と誓った石の柱があります。最後に足を利用して逃げようと、妻子たちを渡しを渡らせて行かせ、自分はこちら側で待っていたのですが、びっこ引きになりました。今からはどうするすべがなく、虫けらになるしかありません。ここで、欲張りで狡猾なヤコブは死んで、虫けらとなったイスラエルに生まれ変わったのです。

「創世記 32章30節〜32節」に、『 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。』と記録されています。

ここで、ヤコブはびっこ引きになり、自分のすべての過去、以前のヤコブの人生は終わってしまうのです。知恵深く、狡猾で、他人をよく騙したヤコブは、今はもう袋小路に行き詰まって完全に死にました。虫けらになりました。今からは目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができず、心があっても考えることができません。兄エサウが来ても逃げることができません。もう彼が拠り頼むところはひとえに神様しか残っていません。何もすることができなくなってしまいました。




第四、「虫けらのヤコブ、わたしはあなたを助ける。」

第4番目に考えてみたいことは「イザヤ書 41章14節」の御言葉です。『恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。』

あなたが虫けらになったか。そうであれば恐れるな。今からは、あなたがあなたを助けることができないから、わたしがあなたを助けよう。あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者である。私たちが自分を助けることができる時は、まだヤコブです。私たちが自分を助けることができなくなった時、その時は虫けらになった時です。その時には神様が私たちを助けると言われたのです。

人間的行為でない、神様の恵みに対する絶対的な信仰だけをもって生きるしかないのが虫けらです。虫けらは、自分の行為をもってしては自分を救出することができません。攻撃用の武器も、防御用の武器もありません。どうするすべもなく、太陽の光の下でうごめいてからは死ぬしかありません。それで、人間的行為でない、神様の恵みに対する絶対的な信仰しか残されていません。絶対的な信仰、これが虫けらが持つことができる唯一の知恵なのです。

人間的なすべての手段方法が尽きたヤコブは、虫けらになった姿で、兄を迎えに行きます。攻撃手段も防御手段もない、ただ神様だけに拠り頼んで、彼はびっこを引きながら、先に渡って行った妻子たちの先頭に自分が立って、兄に向かって行きました。そうした時、神様が仰せられたことが何でしょうか。「虫けらのヤコブ。わたしはあなたを助ける。」

「詩篇 23篇 4節」の御言葉のように、『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』私が死の陰の谷を歩く時に、ヤコブでない、虫けらになってしまえば、主がむちと杖で私を慰めてくださるのです。ですから、私たちイエス様を信じる人たちが患難に会い、苦難に襲われ、進退両難の目に会い、ヤコブが変じて虫けらであるイスラエルになったら、皆さん、気落ちしてはなりません。今からは神様が助けてくださるのです。

「虫けらのヤコブ。わたしはあなたを助けよう。」“わたし”が誰ですか。天と地と世界とその中のすべてを造られた、全知全能なる神様です。神様は、私たちが虫けらになったら、鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする、と言われたのです。

「イザヤ書 41章15節〜16節」に、『見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。』と記されています。

虫けらの祈りは、鋭いもろ刃の打穀機となるのです。虫けらが捧げる祈りは、すべての山をも粉粉にする偉大な力となって現れるようになるのです。何故かと言えば、「エレミヤ書 33章 2節〜3節」に、『「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記されているのです。

まさに、虫けらの祈りは刃が鋭い打穀機としてくださって、私たちが知らない、理解を超えた大いなる事を現してくださるのです。人間ヤコブの祈りではありません。虫けらの祈りなのです。人間の知恵と手段と方法によって捧げる祈りではないのです。全く無能力な中で、神様だけを見つめて呼ばわる祈りなのです。

20年間の怨みの泰山が、虫けらの祈りの前に粉になってしまったのです。「創世記 33章 1節〜4節」を見ますと、『 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、 女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。』と記録されています。

これは、いかに大きな奇跡でしょうか。泰山が砕かれて粉になってしまったのです。虫けらの祈りの前に、兄の20年間の怨みが雪が溶けるがごとくに溶けてしまったのです。

「箴言 16章 7節」に、『主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。』と記されています。これは、権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって…と主は言われたのです。

人間が神様に勝ったら、アダムのように敗北者になります。人間が自分の知恵を通して、不信仰、不従順によって神様に勝ったと思えば、彼は敗北者になります。しかし人間が神様と格闘して負けたら、たとえ傷だらけになっても、神様は人間の手を上げてくださって、あなたが勝った、あなたがイスラエルだ、と言ってくださるのです。

悪知恵が深く狡猾な人間ヤコブは、神様にひれ伏して降伏したイスラエルになりました。神様は、虫けらの保護者になってくださるのです。聖書には、患難の日にわたしを呼べ、わたしがあなたを助け出そう、と記録されています。また聖書には、恐れるな、わたしがあなたと共にいるからだ。驚いてはならない。わたしはあなたの主である。わたしがあなたを強くしてあげる。わたしの右手を伸ばして、あなたを支えて上げる、と記録しているのです。これは知恵深いヤコブに対して言われたことではなくて、砕かれて虫けらになったイスラエルに神様が与えられる約束なのです。

愛する聖徒の皆さん、私たちはみな、ヤコブたちでありました。悪知恵にたけ、人間の手段方法によって生き、騙し騙される人間でありました。しかし私たちが、神様に拠り頼み、神様の恵みによって試練と患難を通して砕かれ、また砕かれて、遂に虫けらとなったら、その時は私たちの力によって暮らさず、神様の御力によって暮らすようになるのです。

虫けらのように人たちから無視され、踏みにじられるようですけれども、神様が共にいてくださって、鋭いもろ刃の打穀機にしてくださるのです。虫けらの祈りは、打穀機が回転する音なのです。虫けらの祈りの前では、小さい山であろうが大きい山であろうがみな粉になって吹き飛ばされてしまうのです。虫けらの打穀の音、祈りは、個人と家庭と国家と世界の運命を変化させるのです。




お祈り

 全知全能であられ、愛であられる、父なる神様!私たちはみな、この世の生活を営むとき、自分たちの手段方法で生きております。それで狡猾な人間になり、騙す人間、騙される人間として生きております。私たちを憐れんでください。みんなが悔い改めるように導いてください。

 試練や患難に会ったときには、すべてを主に拠り頼み、虫けらとなって、主のお助けと主の救出に全身を委ねることができる人間となるように助けてください。私たちがみな、鋭い、もろ刃の打穀機となって、この世の試練・患難に打ち勝つことができるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!