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「幸福に至る八つの祝福(T)」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 5章 1節〜12節」
5: 1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5: 2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5: 3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5: 4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5: 5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5: 6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5: 7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
5: 8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
5: 9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。




私は今日、皆さんと共に『幸福に至る八つの祝福』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

私たちは皆、幸福でありたいと願っております。幸福になるために一生涯、限りない努力をしながら暮らします。しかし幸福は、ちょうど冬の短い日の光のように暫くしては直ぐに消え去ってしまいます。

私たちは、幸福であるためには物質的、環境的条件が具備されなければならないと考えます。そして、それが間違いではありません。ただ物質的、環境的なことは補助条件になるかは知れませんが、幸福の中心的理由にはならないと言うことです。まことの幸福の基礎は心にあるからです。それで、イエス様は恒久的な幸福をもたらす八つの徳目に関して話してくださいました。




第一、心の貧しい者、天の御国はその人のものだからです。

第一番目に、『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』と言われました。「心が貧しい」と言うことは、心を空(から)にしたことを言うのです。空の心を持ちなさい、と言うことです。心の中の貪欲と情欲を空けてしまったら、天国の平安と喜びが近づいてくるようになるのです。心に貪欲と情欲がいっぱいに満ちて、互いに噛み合いへし合い、争い、煩悩している以上は、心に平和がなく、幸福も近づいて来ることができないのです。

皆さん、アダムとエバが至極幸福である、そのような環境の中におりました。傷つけるものもなく、害するものもなく、神様がすべてのものを豊かに与えてくださる、あまりにも美しいところでありましたが、彼らは幸福ではありませんでした。何故かと言えば、彼らの心の中に貪欲が入って来たからです。

分際をわきまえずに、神様のようになろうと言う貪欲が入って来るや、神様のようにはなれず、人としていることが不満足であり、幸福でありませんでした。そんなにも幸福な環境の中にいながらも、悪魔の誘惑に陥って貪欲になるや、彼らは心が幸福になれず、結局、神様に反逆し、その結果、エデンを失ってしまいました。心に貪欲が入って来たら、平安と幸福だけを失ってしまうのではなく、至極美しい環境までも失ってしまうのです。

しかしイエス様をご覧下さい。イエス様は心に貪欲がありませんでした。イエス様は全的に神様に仕えながら、父なる神様の御心の通りにだけ暮らし、ご自分の個人的な欲望や貪欲がなかったので40日40夜断食して出て来られたとき、悪魔が近寄って来て誘惑しようと随分骨を折りました。肉の欲をもって誘惑し、目の欲をもって誘惑し、この世の自慢をもって誘惑しましたが、イエス様にはてんで誘惑が効きませんでした。

何故かと言えば、イエス様は心を空けていたからです。貪欲がなかったので、悪魔がイエス・キリストを釣り針に引っ掛けることができなかったのです。聖書「ピリピ人への手紙 2章 5節〜8節」に、『2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』と記録されています。

イエス様はご自分の心を空(から)にしておられたのです。だれでも自分の心を空けてしまって貪欲と情欲から解放されたら、心に平安を持つことができます。貪欲と情欲がない空いた心の中に天国の平安と喜びが満たされるようになるのです。ですから私たちは、いつも貪欲と情欲に溺れないように努力しなければなりません。私たちの心の中に貪欲や情欲、分際を飛び越えた考えが入って来たら、熱心にこれらを追い出し、空いた心となるようにしなければなりません。

「ヤコブの手紙 1章13節〜15節」に、『1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』と記録されています。

欲が入って来たら誘惑が絶えません。個人、家庭、生活、子ども、事業…すべてに誘惑の暴風が吹いて来ます。欲が入って来たら罪を犯すようになり、罪が熟すると死を生むようになるので、幸福がありません。それで主が、「心の貧しい者は幸いです。天国はその人のものだからです。」と仰せられたのです。心の貪欲と情欲をなくしてしまえば、即ち心を空けてしまって心が貧しくなれば、そこに神様の平安と天国の喜びが満たされると言うことです。




第二、悲しむ者、その人は慰められるからです。

第2番目に、聖書に「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」と記録されています。悲しむと言うことは、罪深いことと足らないことを嘆き、悲しむ心になることです。いつも、「お前の所為である。」「私の所為ではない。」とする人は、決して悲しむ心を持つことができません。すべてのことにおいて、「私が悪い。」「私の所為だ。」「私の罪が深く、私が足りないのでこうなのだ。」と嘆き、悲しむ人には、大きな慰めが近づいて来る、と言うことです。

信仰が堅固でないことを悲しむ人が多いです。「私は信仰がありません。」「信仰が弱いので、息苦しいです。」と言う人は、祈るようになるのです。心に信仰が堅固でないことを悲しむ人は聖書を読むようになり、従順の道に歩もうと努力するようになり、結局は聖霊充満、慰労充満になるようになるのです。

悲しまない人は絶対に祈りを捧げません。神様の恵みを慕い、お恵みをいただけなかったことを悲しむ人は、夜明けに祈り、夜にも祈り、祈祷院に行って呼ばわり祈り、結局は聖霊充満の慰労を得るようになり、信仰充満、お恵み充満の慰めをいただくようになるのです。「詩篇 34篇18節」に、『主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。』と記録されています。

皆さん、義に立たず、真実でなく、聖くない生活をする私たちは悲しまなければならないのです。こんにち、この世の中があまりにも貪欲と情欲でゆがんでおり、罪悪が蔓延しています。このような世の中に何の関心もなくそのまま酔って暮らしたら、神様の義と真理と聖によって造られた新しい人を着ることは決してできません。私たちは、この混濁した社会の中において義に立たず、真実でなく、聖くない生活をしている事を悲しまなければならないのです。

私は何故、義に立って暮らせないのか、私は何故、嘘を数限りなく吐き、真実でないのか、何故私は、聖く暮らさないのか、自分の足らなさを省察して嘆き、悲しむ人、このような人に神様の御霊のわざが起こって義に立って暮らすようになり、真実の中で暮らすようになり、聖く暮らすことができるようになる力を与えてくださるのです。

「コリント人への手紙 第一 6章11節」に、『あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。』と記録されています。「エペソ人への手紙 4章24節」にも、『真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』と記録されています。

このように変化されるのは、そうでない私たち自身を悲しみ、嘆き、涙を流しながら呼ばわり祈るとき、神様のみわざが起こって、大きな慰めが臨むようになるのです。義と真理と聖をもってかたどり造り出された、新しい人を身に着て生きる慰めが近づいて来るようになるのです。

或いは、お酒、タバコ、悪い習慣に捕らわれている人が悲しんでこそ、解放されることができます。「タバコを吸うのが何が悪い…、聖書にはタバコを吸うな、と記録されているところがないではないか?」「酒を飲むのが何故悪い…、聖書には‘酒に酔うな’とあるだけで、お酒を飲むなとは記されていないではないか?」又は、「私の悪い習慣…、それは人としてこの世を暮らす限りはどうしようもないではないか?」等々、自己弁明をしてはなりません。

悲しむ心がなかったら、神様が絶対に救ってくださいません。しかし、お酒から解放されたいと言う悲壮な心、タバコを止めたいと言う切な心、悪い習慣を捨てて正しく暮らしたいと言う悲しい心を持つとき、神様のみわざが起こるようになるのです。

皆さん、凶悪な強盗や殺人犯が監獄に入って、自分の罪を悲しみ、悔い改めて変化され、天使のようになって数多い同僚たちを主のもとに導く実例が少なくありません。悲しむときに変化が起こるようになるのです。「ガラテヤ人への手紙 5章24節」に、『キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。』と記録されています。

悲しむとき十字架に釘付けられ、そしてそこから解き放たれる奇跡が起こるようになるのです。身体が弱く、病気に罹った人も、病気をいやしていただく為に悲しむとき、いやしが臨むのです。病気に罹っても、何の悲しみもなく、祈りもせず、目をきょとんと開いて周囲を見回すだけの人がいます。

私のところに按手祈祷を受けるために来る人が随分と多いです。この頃は、10名のうち7名がガンに罹ってきます。あまりにも悲惨です。ところがガンに罹って来た人を按手してあげるとき、涙を流しながら「主よ。助けてください。」と言う人がいるかと思えば、或る人はガンに罹って死にかけているのにも、按手してあげるとき、無表情の人がいます。このような人はいくら祈祷してもらっても何の効果もありません。悲しむ者は幸いです。その人は癒しの慰めを受けるようになるからです。

「詩篇103篇 3節〜5節」に、『103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』と神様は言われるのです。

「恩平大教区」のソン・ジョンイ執事さんの証しを読んで見ますと、その執事さんがどんなに悲しみながら呼ばわり祈ったかを知ることができます。2001年4月、左側の足に疼痛が甚だしいので病院に行ってレントゲン写真を撮ってみたところ、ディスクであるとの判定を受けました。また骨盤が左側に曲がっているとも言われました。それでも区域長を務めながら聖歌隊員として熱心に奉仕しました。

病院に通いながら治療を受けましたが、疼痛は益々激しくなり、遂には脊髄がもっと曲がり、真っ直ぐに立っていることもできず、一方の肩が完全に低くなって着物のバランスが取れなくなりました。そのときになって、神様にだけ拠り頼らなくてはならないと思うようになり、40日間の早天祈祷を思い立ちました。それで毎日、夜明け前には家から7〜8分距離の祈祷処に行きましたが、足が痛く、また脊髄が曲がっているので、祈祷処まで行くのに30分がかかりました。

座ったら立つことができず、立ったら坐ることができないほど、あまりにも苦痛でありました。それで悲しみ、悔い改めながら、「主よ。私の病気を直してください!」と身悶えしながら呼ばわり祈り出しました。その時は、説教を聞いたら一言一言が全部身にしみる恵みとなって感激したと言います。

また、ソン・ジョンイ執事さんは「マラキ書 4章 2節」の、『わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。』と記録されている御言葉を読んで、「主よ。私にこの義の太陽の光を注いでください!」と、勇気と力をもって祈りましたが、信仰とは反対に、現実はあまりにも惨めでありました。

脊髄はまったくS字のように曲がってしまいました。首ディスクまで生じて、永遠に障害者になるのではないかと思われるほどになるや、旦那さんと3人のお子さんまでもが神様に縋りつき、教区の聖徒さんたちも皆が心を合わせて祈ってくれました。

ところが7月1日、夢を見ましたが、夢の中で堂会長である私が現れて、イエス様の御名によって悪霊を追い出し、自分に向かって「左側の腰と骨盤が問題だったですね。」と言いながら、それらの骨を取り出してからは、またあらためてはめ込んでくれたと言います。

夢から覚めた後、何ヶ月かが過ぎてから、疼痛が和らぎ始めたと言います。その日から再び勇気を得てダニエル祈祷会に参加し、夢の中で見たように、脊髄が原状に戻ったことを信じながら、「見つめる法則」を適用して切に祈りました。私たちの教会に出席しているお医者さんと看護士さんがいる病院に通いながら、一緒に祈り、治療を受け始めてから2週間目に、驚くなかれ、腰のディスクと首のディスクが直り、骨盤も正常に戻ってしまったと言います。

皆さん、骨盤が故障を起こし、脊髄がSの字に曲がり、立つことも座ることもできない、その苦痛がいかに惨めなものでしょうか。それでも、40日間早天祈祷会で祈り、ダニエル祈祷を通してまた21日間呼ばわり祈る、このようなことがしなかったら、癒しの慰めをいただくことはできなかったはずです。この頃、ソン・ジョンイ執事さんは言います。「病気に罹ったことより、もっと大きな神様のお恵みに与っています。」皆さん、悲しむ人が慰めを受けるのです。

生活が貧しくて苦しむ人は、神様から祝福していただけるようになります。貧乏で、襤褸をまとい、飢えても、悲しむ心がなく、呼ばわり祈らず、熱心に働かないなら、そのような人は神様から祝福していただくことができません。「詩篇128篇 1節〜2節」に、『幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。』と記録されています。

「マタイの福音書 11章28節」に、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と記録されています。悲しみ、悔い改めながら、十分の一献金を捧げ、主日を聖なる日として守り、主に「主よ。この貧しさと呪いから解放させてください!」と呼ばわり祈る人に、祝福の慰めが臨むようになるのです。どのようなことであろうと悲しむ心がなければ、向上と発展と成就はないのです。

聖書を見ますと、ハンナは子どもがないので甚だしく悲しみ、激しく泣きながら、主の前にありったけの力をふりしぼって呼ばわり祈ったので、後には声は聞こえず、唇が動くだけでありました。しかし神様は彼女を祝福してくださって、サムエルを与えてくださり、その後には3男2女を祝福してくださったことを私たちはよく知っています。

ですから私たちは、心の中に悲しむ心を持たなければなりません。大小を問わず、私たちの個人、家庭、生活、子ども、事業…すべてのことにおいて自分が向上せず、発展できないことを切に悲しみ、悔い改めながら、呼ばわり祈るとき、神様から応答の慰めが臨んで来るようになるのです。




第三、柔和な者、その人は地を相続するからです。

第3番目に、柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです、と言われました。温かく、優しい心を持ち、温順で、従順に聞き従う心が柔和な心なのです。

皆さん、羊は動物の中で代表的に柔和な動物です。羊は純真であり、温順で、群れをなして暮らしながらも同僚同士で優位を争わないのが羊の属性です。羊は攻撃する武器もありません。敵から自分を守る防御用の武器もありません。羊は、必ず一度来た道をたどり帰る習性がありますので、猛獣らがこの道のりを狙って襲撃するとか、羊の群れを巧妙に谷間に追い込んで餌にするのです。

それで羊には必ず牧者が必要です。牧者が鞭と杖で導き、獰猛な動物を退かせ、それで広い草原をたどり回りながら暮らします。獰猛な動物らは険しい山間僻地で暮らしますが、羊は攻撃武器もなく、防御武器もありませんけれども、強い牧者が鞭と杖で守ってくれますので、安心して草原をたどり回りながら暮らすようになるのです。

柔和な人はお隣の人を愛し、謙虚であり、神様に拠り頼んで従順に聞き従う人です。このような人は、この世の中では生きて行けないように見えます。心が謙虚で、隣人を愛し、従順に聞き従う人、そのような人が、この生存競争の中で、索漠極まりない世の中をどのようにして生きて行くことができるでしょうか。世の中には、嫉妬し、争い、噛み付き、踏みにじる…、そのような人だけが生きて行けるように見えます。

北朝鮮の体制をご覧下さい。原子爆弾を生産すると大言壮語し、国際的非核拡散条約から脱退し、今度は再びミサイル試験をして、それをもって全アジアと友邦たちを脅迫しようとする…、柔和とはあまりにも距離が遠いです。それで私が見るとき、彼らが可哀相なのは、拳を握って町中を脅かして回る暴漢のように振舞うことが町を屈服させると思い勝ちですが、そのような暴漢は後にはその町から追い出されてしまうようになるのです。

世界の歴史を見ますと、暴漢のように振舞ったら世界から追放されてしまいます。柔和な人が損害をこうむるように見えますが、そうではありません。何故でしょうか?柔和な人は、神様が牧者となって顧みてくださるからです。天と地を造られ、宇宙の中心となられ、歴史を創造し主管なさる神様が牧者となってくださるので、柔和な人がこの世の中で食い殺され、踏み躙られ、追い出されるように見えますが、そうではありません。

「詩篇 23篇 1節〜2節」に、『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。』と記録されています。

柔和な人が地を相続します。猛々しい人が地を相続することはありません。いつそうなるかは知れませんが、我が韓国と北朝鮮はいつかは統一されるようになります。どこが統一するようになるか?神様が手を上げてくださる国が統一するようになるのです。誰の手を上げてくださるでしょうか?柔和な側を神様が手を上げてくださるのです。それは、決定的な事実です。

「詩篇 37篇 7節〜11節」に、『37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。37:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。』と記録されています。

皆さん、聖書に何と記録されていますか?ただ暫くの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう…。悪者はいなくなるのです。神様が、柔和な人だけが地を相続し、豊かな平和の中で楽しむようにしてくださるのです。

敵より大きい神様が主人であられることを、皆さん、忘れてはいけません。「ヨハネの福音書 10章29節」に、『わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。』と記録されています。

また、「ヨハネの手紙 第一 4章 4節」に、『子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。』と記録されています。柔和なことが愚かであるように見えますが、実際は、神様が彼の手を取ってくださるので、柔和な人が地を相続し、成功的に暮らすようになるのです。




第四、義に渇いている者、その人は満ち足りるからです。

第4番目に、義に渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです、と言われました。

皆さん、肉の罪のために身悶えする人生をご覧下さい。「ローマ人への手紙 7章18節〜24節」を見ますと、パウロ先生は次のように記録しています。

『7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』

いかにパウロ先生の正直な述懐でしょうか。パウロ先生のように霊的で偉大な主のしもべも、心の葛藤から身悶えしています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」何故かと言えば、人間はアダムとエバ以後、肉が堕落して、神様の霊的な法を守る力がありません。子どもが大人の荷物を背負うことができないように、人間の肉体は、霊的な神様の法を確かに「正しい」と知っていながらも、背負う力がありません。

「ローマ人への手紙 8章 3節〜4節」に、『肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。』と記録されています。

肉の力で骨を折り、努力してもできないから、イエス・キリストを信じて聖霊によって新生し、霊的な人となって、霊的な人となった私たちが聖霊に従って行えば、律法をすべて行なうことができるようになると言うのです。

皆さん、私たちは全的に信仰によって義とされるのです。「ローマ人への手紙 5章 1節」に、『ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。』と記録されています。

また「エペソ人への手紙 2章 8節〜9節」に、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』と記録されています。

私たちは、罪を犯し、不義で、醜悪で、捨てられて然るべき人生たちです。ところがイエス・キリストを信じることによって、その血潮によって完全に罪の負債が清算され、信じることによって値なく義とされました。それで私たちが義に飢え、渇いた者はイエス様を信じたら赦しを通して義に満たされ、イエス様を信じるので聖霊によって新しく生まれ、肉のまま暮らさず、霊によって律法の要求が私たちの中で成就され、義に立って暮らすことができる力が与えられるようになるのです。

霊的な人は、聖霊の御力によって十分に罪に勝ちます。「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」に、『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記録されています。

義を慕う人は、イエス様の贖いを通して値なく義とされるだけでなく、聖霊の御力によって律法の要求が成就されるのです。

幸福に至る八つの条件のうち、今日は四つの条件をお話ししました。第1番目が「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」第2番目が「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」第3番目が「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」第4番目は「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」と言われました。

この後の四つの条件は、次の主の日にお話しさせていただきます。

この新年には、主が教えられた教訓で心を支配し、祝福されて、幸福な皆さんとなりますよう、イエス様の御名によってお祈り致します。




お祈り

聖く、全知全能であられる父なる神様! 人が千年を生きるとしても、幸福に暮らすことができないその人生は、苦労と苦難だけであり、すべてが空しく過ぎ去ってしまいます。

短い人生を生きるとしても、幸福に暮らすことができるように、私たちに教訓を与えてくださった主に感謝申し上げます。

私たちがイエス様の御教えを心の中に深く刻み込んで、私たちの心に変化を得、幸福な人生を生きて行けるように助けてください。

愛であられる天のお父さま! 幸福の中でもっとも幸福なのは、イエス様を救い主として信じ、神様に仕え、天国への希望を持つことが根源的な条件であると信じます。

我が主である神様! まだイエス様を信じない人たちが皆、悔い改めて、神様の御子イエス・キリストを信じ、父なる神様のふところに抱かれる、そのような驚くべきお恵みに与るように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!