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「イエス様の癒しの恵み」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 8章 1節〜4節」
8: 1 イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。
8: 2 すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
8: 3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。
8: 4 イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」




今日、私は皆さんと共に『イエス様の癒しの恵み』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

子どもを育てる父母は、子どもが間違ったことを仕出かしたときには、懲らしめるか、又は戒めます。もっとも軽い懲らしめは「叱る」ことであり、すこし重い懲らしめは「罰を受けるようにする」とか、「鞭で打つ」こともあります。しかし、子どもの心身が病気に罹って苦しむようには決してしません。

私たちは、イエス様を信じて神様の子どもとなりました。神様も、私たちの過ちを懲らしめられます。「叱り」または、色々な「罰を受けるよう」にもなさいます。しかし、決して凶悪な疾病に罹るように懲らしめることはなさいません。

「ヘブル人への手紙 12章11節」に、『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』と記録されています。神様は、この世の父母たちよりもっと大きな愛を持っておられる、私たちのお父さまであられるからです。

「マタイの福音書 7章 9節〜11節」に、『あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』と記録されています。




第一、病に対するイエス様の御心

第1番目に、病を癒していただくことが果して父なる我が神様と、イエス様の御心であるか、そうでないか、を私たちは心の中で確実に知らなければならないのです。数多くの人たちが病の癒しのために祈るとき、「私が病を癒していただくことが、神様の御心であるか、どうか、はっきりと知りたい。」と煩悶します。皆さん、主が私たちのからだの病が癒されて健康になることを願われる、と言う確実な事件が聖書に記録されています。

「マタイの福音書 8章 1節〜4節」を見ますと、イエス様が弟子たちと一緒に山から下りて来られるところへ、一人のらい病患者が飛び出して来てイエス様の前にひれ伏しました。これは大変な事件です。何故かと言えば、その当時のイスラエルではらい病患者が健康な人の近くに来ることができなかったからです。健康な人が通り過ぎるときには、大声を張り上げなければなりません。「私は不浄だ。不浄だ。不浄だ。」そばに近寄ることができません。もしも、健康な人の近所に来たら、石で打ち殺されます。

ところが、イエス様とその一行が歩いて来るのに、その前に飛び出して来てひれ伏したと言うことは、死を覚悟した人です。万一、主が「不浄ならい病人が私たち健康な人たちの前に飛び出して来るとは…。退け。退け。」と怒鳴ったとしたら、瞬く間に人たちは石を取り上げて彼を打ち殺したかも知れません。そのらい病人は死を覚悟して、イエス様の御前に「病気を癒していただくことが神様の御心か、どうか、知りたい。」ので飛び出して来たのです。

らい病人として一生を暮らすよりは、直していただくのが主の御心でないなら、いっそのこと死んだ方がましだとの覚悟で飛び出して来たのです。それで彼は、主を見上げて言いました。「主よ。お心一つで、私を清めることがおできになります…。」何故なら、清めることができる能力を主は持っておられると、このらい病人は知っていたからです。天と地を造られた神様の御子であられると言うことを彼は是認したのです。

主は何事でも成就することがおできになる、とは知っていたのですが、自分のらい病が清められることが主の御心であるか、どうか、それが分からなかったのです。それで、「主よ。お心一つで、私を清めることがおできになります。」と言ったのです。そのとき、イエス様が何と言われたでしょうか。たくさんの人たちが見る前で、膿をだくだくと流しているその人の頭に、何のためらいもなく手を置きながら、「わたしの心だ。清くなれ!」と仰せられました。

すると即時に、瞬く間に膿は消え去り、らい病は清められて、彼は正常な人になってしまいました。生気が彼のからだの中に入って行って、瞬く間にらい病患者はきれいになってしまったのです。主はこのことを通して、私たちの病気の癒しは決定的に主の御心であることを見せてくださったのです。世から捨てられたらい病患者も、主は「わたしの心だ。清くなれ!」と仰せられて、癒してくださったのです。

皆さん、私たちが聖書を通して見ますと、罪の赦しと病の癒しを主はいつも同等に取扱われました。罪の赦しを別途にするとか、病の癒しを別途にするとかなさいませんでした。いつも、罪の赦しがあるところには病の癒しがあり、病の癒しがあるところには罪の赦しがあって、罪の赦しと病の癒しは手の内側と外側のように扱われました。

「マタイの福音書 9章 1節〜8節」を見ますと、次のように記録されています。『イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。 すると、彼は起きて家に帰った。 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。』

この事件は、イエス様が敵たちの前で施されたみわざです。主が来ておられるところに、人たちが群れを成して集まりました。そこにパリサイ人たちや律法学者たち等、主を批評し咎を見つけ出そうとする人たちも機会を狙って坐っておりました。

そこへ中風に罹った人が床に寝かせられたままでイエス様の前に現れました。彼は屋根をはがし、穴をあけて、友人たちのはからいで主の前につり降ろされたのです。イエス様は彼らの信仰を見られました。信仰は目に見えるものです。行いがない信仰は死んだ信仰です。主はその信仰を見られて、言われました。『子よ。あなたの罪は赦されました。』

この人は、心の中に深く罪を悔い改め、口で告白しながら主の前に出て来たに違いありません。人たちは外観を見ますが、主は心の中を見られます。彼が悔い改め、率直に自分の罪を告白する姿を見られて、『あなたの罪は赦されました。』と言われました。するとそこに居たパリサイ人たちや律法学者たちが舌打ちをしながら、心の中で「この人は神をけがしている。神おひとりのほか、誰が罪を赦すことができよう。」と理屈を言いました。彼らはイエス様が神であられることを認定しませんでした。

そのときイエス様が、心の中で理屈を言っている人たちの心を見抜いて、とても難しい質問をなさいました。『「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩きなさい。」と言うのと、どちらがやさしいか?』

「あなたの罪は赦された」と言うことは言いやすいです。証拠が見えないからです。しかし中風に罹って自らは動くこともできない人に向かって、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言うことは難しいことです。言葉だけで言うことと、実力でもって見せることとは天地の差があります。それでイエス様は、イエス様を嘲笑うパリサイ人や律法学者たちに、難しい質問をなさいました。『「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩きなさい。」と言うのと、どちらがやさしいか?』

『「あなたの罪は赦された。」と言うことは、誰もが言えるものではない。まことに、実力をもって言う言葉である。その証拠としてこの人を癒すのを見なさい。「あなたの寝床をたたんで、家に帰りなさい。」』すると即時に生気がそのからだに入って、中風の人は癒され、起き上がって、寝床をたたんで、群衆の中を歩いて出て行きました。

イエス様が言われたことは直ちに実行されます。実力が伴っているのです。罪の赦しを受けることは、その結果によって病の癒しも伴うと言うことを見せてくださったのです。主は、罪の赦しと病の癒しは同時に起こるみわざであると思われたのであって、罪の赦しを別途に受け、病の癒しを別途に受けるものと思われたのではありません。それで、福音の証しにはいつも癒しのみわざが伴いました。

「マタイの福音書 8章14節〜17節」に、『それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と記録されています。

イエス様のご使役には、いつも癒しのみわざが伴いました。イエス様は、罪の赦しを別になさり、病の癒しを別になさったことがありません。主が居られるところにはいつも、罪の赦しと病の癒しが、手と手を取り合って一緒に現れました。

ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になりました。この頃の言葉で言うと「腸チブス」のような病気に罹っていたのではないかと思われます。ところが、イエス様がそのしゅうとめの手を取って病魔をお叱りになるや、病はすぐに離れて行き、そのしゅうとめは起き上がりました。

すると数多い人々が悪霊につかれた人、病を患っている人たちを大ぜい連れて来ました。そこで主は、御言葉をもって悪霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになりました。主を切に呼び求める罪人たちをみな赦されたように、主を切に呼び求めて出て来る病の人たちを、主はみな癒してくださるのです。

ここで特に注目すべきことは、病を癒していただきたいと願って出て来る人を癒してくださったと言うことです。主が病人を探し回るようなことはなさいませんでした。罪人も、悔い改めて出て来る人を赦して上げました。黙って座っている人の罪を赦して上げるようなことはなさいませんでした。あつい心の願いがあって罪を悔い改める人を赦してあげ、病の癒しを願って主のもとに探して出て来る人たちを主は癒してくださったのです。

皆さん、それで、この福音書を見ますと、イエス様は天国の福音には必ず病の癒しが伴うと言うことを見せてくださったのです。「マタイの福音書 10章 7節〜8節」にも、『行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』と、十二弟子に仰せられました。

天国の福音は、ただ言葉だけのものではないと言うことです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたのだから。」と言ったなら、天国の証拠とその実を見せて上げなさい。天国の証拠とその実は、悪霊を追い出し、病人を直すことです、と仰せられたのです。

それでは、聖書は何と言っているでしょうか? 「天国があそこにある、こちらにある、と言ってはいけません。天国はあなたがたの中にあるのです。」と記録されています。イエス様を信じる私たちの中に天国があるのなら、必ず病を癒していただくその実と証拠が現れなければならない、と言うことです。イエス様は、十二弟子たちにだけそう言われたのではありません。七十人の弟子を別に定め、二人ずつ、すべての町や村へ遣わして福音を宣べ伝えるようにされたときにも全く同じ命令をなさいました。

「ルカの福音書 10章 8節〜9節」に、『どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。』と記録されています。ご覧下さい。どの家に行こうとも、出される物を食べ、そこに居る病人を直しなさい。出される物をただで食べて出て来てはならない。食事の接待には応じ、その家にある病はみな癒しなさい…。そして又言われました。「これは神の国が近づいた証拠である、と言いなさい…。」

神の国即ち、天国は癒しにあるのです。癒しは天国の基盤です。癒しがない天国は想像することができません。天国が臨んだところには、いつも癒しが臨むのです。聖書には、「二人でも三人でも、わたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるからです。」と言われました。イエス様は天国の王であられます。天国の王が居られるところには天国が臨んでおり、天国が臨んでいるところには、癒しが必ず従うようになっているのです。




第二、癒しと贖いの恵み

第2番目に、癒しはイエス・キリストの贖いのお恵みの中にあるのです。

主が、天国の証拠としてだけ癒しのわざを施されたのではありません。憐れまれることだけで癒してくださったのでもありません。主が十字架のうえで身を裂き血を流して、私たちを贖ってくださったその贖いのお恵みの中に癒しが入ってあると言うことです。イエス様は私たちの罪だけのために十字架で身を裂き血を流してくださったのではありません。私たちの病を主が清算して下さるが為に十字架で身を裂き血を流してくださったのである、と言う事実を聖書はたしかに私たちに見せているのです。罪の赦しが主の贖いを通して及ぶのと同じく、病の癒しも主の贖いを通して私たちに及んだのであるのです。

「イザヤ書 53章 4節」に、『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』と記録されています。イエス様が罰せられ、打たれる苦難の目に会われたのは、ただイエス様が神様から打たれ苦しめられたのだとだけ思いましたが、実にその内容は、私たちの病を負い、私たちの痛みを担われたのであります。私たちの病を負い、私たちの痛みをイエス様が十字架の上で代わりに担われたのである、と記録されているのです。

「イザヤ書 53章 5節」にも、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記録されています。ここに同じく、主は私たちの咎のために砕かれ、私たちの罪の為に刺し通され、鞭に打たれることによって、主は私たちに代わって病も清算してしまわれたと言うのです。

主が、私たちの代わりに清算してしまわれました。ですから私たちがまた清算する必要はないのです。イエス様が身を裂き血を流して清算してしまわれたのを、私たちが再度清算する理由はないのです。

「イザヤ書 53章10節」に、『しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。』と記録されています。神様に願い事がありました。イエス様が痛められて私たち人間のために苦難の目に会われることが神様の御心であったのです。神様がいかに、私たちが病に苦しめられるのを願われなかったかを知ることができる聖書の記録です。

ですから、私たちは忘れてはなりません。神様が私たちに施してくださったお恵みを無視してはいけません。神様が私たちに施してくださったお恵みを、私たちが忘れ、感謝することを知らない人間になってはいけないのです。

「詩篇103篇 1節〜3節」に、『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、』と記録されています。

数多いクリスチャンたちが、神様のお恵みを忘れてしまっています。お恵みに感謝もせず、そのお恵みを享受しようともしません。神様が与えてくださるお恵みを、私たちが感謝しながら受け入れ享受することを神様は願っておられるのです。

それでは、そのお恵みは何でしょうか? 「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し…。」と言われました。罪の赦しと病の癒しは、全く同じく主が施してくださるお恵みである、と言っているのです。すべての罪は、悔い改めるときに赦していただきます。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と聖書に記録されています。

私たちがあらゆる病に罹ったまま、主の御前に出て来て罪を悔い改め、癒していただくことを願うなら、主が癒してくださるお恵みを施してくださるのです。このお恵みを忘れるな、と言われたのです。私たちは、そのお恵みを忘れてはなりません。こんにち、数多くの人たちが忘れてしまっています。たくさんの講壇で癒しのお恵みに対して説教しています。聖徒たちがその真理を悟ることができず、忘れてしまうので、神様のお恵みに与ることもできず、感謝することもしない生活をしているのです。私たちは、絶対に赦しと癒しを分離させてはいけません。主は、私たちの罪の赦しと病の癒しを同時にいつも施してくださり、これらを分離して言われたことはありません。

「ペテロの手紙 第一 2章24節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記録されているのです。ここで、神様の使徒であるペテロが福音を宣べ伝えるとき、罪の赦しと共に、病の癒しを同時に言及しました。私たちが罪に対して死に、義に対して生きるようにするために主が十字架にかかられ、鞭打ちに会われたのは私たちが病の癒しを受けるようにするためであった、と言ったのです。

それで、ペテロを中心に12弟子が福音を宣べ伝えるとき、彼らはどこに行こうとも罪の赦しを伝え、イエス・キリストの御名によって悪霊を追い出し、病を癒しました。このことは使徒的な福音であるのです。こんにち皆さん、私たちがこの福音を伝えないとするなら、使徒的な伝統を見捨てたことになります。使徒的な教えに背を向けたことになります。イエス・キリストの十字架のお恵みを、半分だけを伝道し、半分は切り捨ててしまったことになってしまうのです。

エルサレム公会の会長であったイエス様の弟ヤコブは、全教会に手紙を送るとき、「ヤコブの手紙 5章15節〜16節」に、このように記録しました。『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』

治療と癒しを命令しました。しても良し、しなくても良い、と言ってはいません。「あなたがたは互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。癒されるためです。」これは命令です。使徒時代に総会の総会長であったヤコブが、全教会に送った公的文書なのです。

「ヤコブの手紙 5章14節〜16節」に、次のように記録されています。『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』

ですから私たちは、積極的に病の癒しと罪の赦しのために祈らなければなりません。




第三、聖書が教える癒しの方法

第3番目に、聖書が教える癒しの方法はどのようなものでしょうか? どのようにして病を癒さなければならないでしょうか? 

聖書は、按手することによって病を癒しなさいと言っています。イエス様はよみがえられて天に昇られてからも、弟子たちに病の癒しを継続しなさいと命令なさいました。「マルコの福音書 16章17節〜18節」に、『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』と記録されています。

父なる神様は、イエス・キリストの御名によって病人に手を置けば、その手を通して聖霊の生気が流入して病を癒すようにする、と言われたのです。皆さん、誰もが父母がこの世を去るときに残した遺言に耳を傾け、最善を尽くしてその遺言を守り、遂行しようとします。「マルコの福音書 16章17節〜18節」はイエス様の遺言です。主がこの世を離れる前に、最後に弟子たちに残した御言葉なのです。

イエス様の遺言を私たちが無視してはなりません。その遺言の中に「あなたがたがわたしの名によって悪霊を追い出し、病人には手を置けば病人は癒されます。」と言われたのですから、私たちイエス様を信じる人たちは、行くところ至るところでイエス様の遺言に従って、悪霊を追い出し、病人を癒さなければならないのです。癒しは、私たちキリスト教の福音のお恵みなのです。

そして、油を塗って祈り、病人を癒しなさいと言われました。「マルコの福音書 6章12節〜13節」に、『こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。』と記録されています。悪霊は御言葉をもって追い出しますが、病人を癒すときには油を塗って祈ります。私も水曜日に按手するときには、油を塗って按手し、祈ります。

油は象徴的な意味があります。聖霊を象徴します。ですから、病が癒されるのは人の力で癒されるのではなく、聖霊の生気が入って行って癒される、と言うことです。皆さん、エゼキエルの谷間の干からびた骨をご覧下さい。その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていました。ところがエゼキエルが神様から命じられたとおりに預言するや、音がして、骨と骨がつながり、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおいましたが、その中には息がありませんでした。死んだままでありました。

しかし、エゼキエルが主の仰せに従って「生気よ。入って来い。」と言うと、四方から生気が吹いて来て骨の中に入り、みんなが生き返って、非常に多くの集団になった、と聖書に記録されています。まさにその生気とは聖霊のみわざを言うのです。

油を塗りなさいということは、聖霊の生気が入って来て癒されるのですから、人の考えではとても不可能な病気でも、聖霊の創造的なみわざによって癒されることができる、と言うことをあらわすのです。「ヤコブの手紙 5章14節」にも、『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。』と記録されています。

教会の長老たちは、教会の中でもっとも信仰が堅固な人たちです。信仰の年数が長く、信仰が強く大きいので、信仰の強い人が信仰の弱い人より力をもっとあらわすことができます。そして油を塗ることによって、人の力や能力ではできず、病気が癒されたときにも「あ〜、私が按手したので癒された。」といった、そのような生意気なことを言わないように、聖霊のみわざが起こって病が癒されたと、栄光を主に帰すようにするために油を塗って祈るのです。

その次に、聖書を見ますと、パウロの前掛けをはずして病人に当てるや、病が癒されました。皆さん、前掛けに力があったのではありません。パウロを通してあらわれた神様の御霊の油の注ぎが前掛けを通してあらわれたのです。「使徒の働き 19章11節〜12節」に、『神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。』と記録されています。

人たちがあまりにも多く、或いは距離が遠いので、パウロが直接行くことができないところには、パウロの手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、悪霊も出て行き、病気も直りました。それはパウロを通してみわざを施していた聖霊が、その手ぬぐいや前掛けを通して行かれたのです。

昔、神様の前に祭司が着て出て行った着物は、その着物自体が聖なるものでありましたので、その着物を着て外の人のところに出て行くことができませんでした。その着物に接触するものはすべて聖くなったからです。そのように、こんにち聖霊の御力によってみわざを働かせば、その聖霊のみわざが人の身体を通して着ている着物まで聖くし、神様の栄光が共に伴うようになるのです。

去る8月21日、水曜礼拝の後に「朴愛淑・セルリーダー」が、夫の兄さんが肝硬化で苦しんでおり、病院の応急室で命を失う危険があると言いました。それで私が、持って来た手ぬぐいにあつく按手祈祷をして、その手ぬぐいを患者のところに送りました。「朴愛淑・セルリーダー」はその手ぬぐいを持って行って病人に当てて祈りました。明くる日の朝も同様にして祈りましたが、その日の午後に、病人の容態が急速度に良くなり始めて、一般病室に移り、回復して一週間目に退院してしまいました。

肝硬化という病気は、そんなにたやすく直る病気ではありません。肝が硬化していたら肝臓ガンに発展し、生き返ることが難しいのが普通の常識です。ところが重患者室にいる人に手ぬぐいを当てて祈ったところが、明くる日の午後に一般病室に移り、健康を回復して一週間目に退院して、今は地方で熱心に教会に出席しており、奉仕もしていると話しているのです。

聖書を見ますと、ペテロの影だけを通しても病人が癒されたと言います。病人があまりにも多いので、一々ペテロが按手することができず、それでペテロが通りかかるところに寝かせておいて、せめてペテロの影でもかかるようにすれば、病人は癒されたと言うのです。

「使徒の働き 5章15節〜16節」に、『ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』と記録されています。神様は、ご使用なさる主のしもべの身体にある手ぬぐいや前掛けだけでなく、影もご使用なさると言うことを思うとき、驚かざるを得ません。

そして、病人にただ形式的に手を置いて祈ったところで何の効果もありません。信仰によって祈らなければなりません。信仰が確実である人が按手祈祷をしなさいと言うことです。「ヤコブの手紙 5章15節」に、『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。』と記録されています。

それで聖書には、「あなたの信仰とおりになりますように…。」と記されています。はっきりと神様の御心を知って、信じて祈らなければなりません。疑いながら祈っては何の効用もないのです。それで、はっきりした信仰がある人のところに行って按手祈祷を受けなさい、と言われたのです。信仰の堅固な人が祈って上げなさいと言う理由がそこにあるのです。

ヨイド直轄聖殿に出席している「金恵京・聖徒」の証しを聞いて見ました。2000年1月、娘さんが突然頭が痛いと言うので、風邪であると思って病院に連れて行きました。ところが病院で急性中耳炎であると言われました。お医者は聴覚に異常をきたす恐れがあると言いました。そして、鼓膜が充血しており、全身に熱があり、膿がたまり、それが流れるから、早く手術をしなければならないと言いました。

まさか、と思いながら通院治療を受けましたが病勢はますます悪化していきました。子どもは痛くて夜もろくろく眠らず、泣くばかりでありました。その間、娘を主にゆだねて祈らなかったことを涙を流しながら悔い改め、手術する日を決めましたが、「ヤコブの手紙 5章15節」の御言葉を覚えて主日礼拝の説教後の癒しの時間に、娘と一緒に耳に手を当てて信仰をもってあつく祈りました。

その日、何の予告もなしに神様が私に御言葉を与えてくださり、「今日、中耳炎を患うので来た子どもの母親が、子どもの耳に手を当てて一緒に祈りましたが、主の御名によって癒されました。」と私が宣言したと言います。それでその母親と娘が「ハレルヤ!」と叫んで、神様に感謝したと言います。

明くる日、娘と一緒に病院に駆けつけて行って検査を受けたところ、手術を1日前にひかえて、中耳炎がきれいに癒されていました。主から癒していただいたのです。信仰による祈りが、神様の奇跡を体験するようにしてくれたのです。従って、信じられないときには、信じられるまで祈らなければならないのです。

「マルコの福音書 11章24節」に、『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』と記録されています。「受けたと信じられるときまで祈りなさい」と言うことです。元来、信仰の堅固な人は、そのまま祈ったらよいのです。ところがしきりに疑いが生じたら、その疑いがすべて退き、心を信仰が占領するまで忍耐をもって継続祈らなければなりません。これが「霊的戦争」なのです。

「リ・ジュヨン」と言う大学生が、私にインターネットを通して次のようなE-mailを送って来ました。去年11月、母が体調を崩して診察を受けましたが、「胆嚢胆石症」であると言い、特に問題になったのは肝臓が悪くて手術することができない、という絶望的な状況です。全家族が祈り始めました。1日、2日…、2ヶ月のあいだ根気強く祈っているうちに、主が癒してくださる、と言う信仰が生じました…、と言います。ご覧下さい。2ヶ月間根気強く呼ばわり祈った結果、霊的戦いで勝ち、心に信仰が生じました。

それで、もっと熱心に祈りながら、先週、再度検査を受け、一昨日の1月24日に結果を通報してもらいましたが、驚くことには「胆嚢胆石」が消え去り、肝臓も正常数値になった、言います。完全に直ったと言う通報を受けたのです。

その一日前の夜、お母さんの夢に堂会長であるチョウ先生が現れて、お母さんが按手祈祷を受けようとしたところ、堂会長のチョウ先生が「聖徒さんが旦那さんも伝道し、お家族全部が立派に信じ、祈りもすごくたくさん捧げておられるので、按手してもらわなくても、もう良いですよ。」と言ったと言います。そのまま手術を受けなくても良いように主が癒してくださったのです。

当初は信仰が生じませんでした。しかし2ヶ月のあいだ全家族が決心して継続霊的戦いをした結果、2ヶ月目に全家族がみな悔い改め、みなイエス様を信じて主にすがり、信仰が生じて確信に満たされるようになり、それで胆石症も肝臓もきれいに直ってしまったのです。信仰が臨むまで祈らなければならないのです。

私たちが確信することができることは、病は神様の御心ではなく、癒しは神様が願われることである、と言うことです。

病には、その背後に直接、或いは間接に罪と悪魔がうずくまっています。それで、私たちが病の癒しのために祈りを捧げるとき、深い悔い改めと献身が必要であり、悪魔や悪霊に断固として敵対し、退かせなければならないのです。罪を赦していただき、悪魔に敵対して追い出し、癒されるために呼ばわり祈るとき、主は私たちを癒してくださるのです。「ヨハネの手紙 第三 1章 2節」の御言葉は、昨日も今日もいつまでも同じ神様の真理です。『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』

「詩篇103篇 1節〜5節」に、次のように記録されています。『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』




お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様! 主がお恵みを施されて、こんにち、私たちの罪を赦してくださるだけでなく、病も癒してくださり、私たちのいのちを破滅から贖い出してくださって有り難うございます。

私たちがたましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康で、いのちを得るにしても豊かに得るように助けてくださって有り難うございます。

きょう、らい病患者が、主には御力があるが、癒してくださるのが主の御心であるか、どうか、知らないので、命をかけて主の御前に出て来て呼ばわったように、私たちも主に呼ばわり祈って、すべての者たちがみな罪を赦されると同時に、病も癒していただけるように助けてくださり、悪魔の束縛から解放されるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!