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「ほどいてやって、帰らせなさい」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 11章40節〜44節」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」




今日は、『ほどいてやって、帰らせなさい』と言う題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

人間にもっとも貴重なのは、束縛から解放を得て、自由と人権を享受しながら暮らすことです。動物園に行ったら檻の中に閉じ込められている動物たちを見ます。人がその動物たちに1日3回の餌を与えながら良く顧みて上げるとしても、その動物たちは至極不幸です。なぜなら、解放と自由と動物としての生存の権利が剥奪されているからです。

イエス様がこの世に来られたのは、人間を霊的に死亡から解放してくださり、まことの自由と人間的権利をもって暮らすようにしてくださるために来られました。




第一、縛られたまま生まれた人生

第1番目に、今日私たちが考えて見なければならないことは、私たちは生まれるときから縛られたまま生まれた人生であると言うことです。自由な人生ではありません。束縛されて生まれたのです。元来人間は解放され、自由な存在に創造されました。罪と死亡、貧乏と疾病、悲しみと苦痛の捕虜ではなかったのです。

聖書「創世記 1章26節〜28節」に、『1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』と記録されています。

神様に似るように、神様のかたちに造られたので、私たちは束縛されることがなく解放され、自由な人間の権利をもった、そのような存在に造られました。「イザヤ書 43章 7節」に、『わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。』と記録されています。神様の栄光のために私たちは造られました。

しかし、神様の主権を象徴する善悪の知識の木の実を取って食べ、神様のようになろうとして神様から捨てられ、その以後からは神様のふところから追い出されて、人間は堕落し、奴隷になりました。人間の堕落は、人間を罪と悪魔、世俗と疾病と呪いと貧乏と死と地獄の奴隷にしてしまいました。私たちは奴隷として造られていないのに、結局は反逆罪により奴隷に転落してしまったのです。

「ヨハネの福音書 8章34節」に、『イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」』と記されています。こんにち、私たちはみな罪を犯しています。罪を犯さない義人はひとりもいません。すべてに人はみな、罪の奴隷として、罪が指令するままに引き回されています。

人たちはまた、世俗の奴隷になっています。「テトスへの手紙 3章 3節」に、『私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。』と記されています。いかに世俗の奴隷になっているでしょうか。こんにちも、キリストの外にいる人たちは物凄く世俗と腐敗の奴隷になっています。

最近、韓国のサイバー中毒センターが発表した内容を見ますと、チャットが幻覚と不倫の沼に人たちを引っ張っていくと言います。人たちがどんなにその心の中にすでに腐敗と罪の奴隷になっているかと言う事実を、この内容を通して知ることができます。設問調査を通して見ると、皆がチャットを通して愛人、または異性の友だちがあると言うのです。既に対話した男性に会ったことがあると言うのが45名、答えられないと言う人が36名で、100名のうち81名がチャットを通して、家庭主婦が家庭を逸脱して異性と会ったことになっているのです。

人たちは呪いと疾病の奴隷状態で生まれました。「伝道者の書 5章15節〜17節」に、『5:15 母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。5:16 これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。5:17 しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。』と記されています。これは、いかに人間が捕虜となって人生の苦難の中で暮らしているか、と言うことを知ることができます。

「ヘブル人への手紙 2章15節」には、『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』と記されています。人は皆がすべて死の捕虜となって生まれたと言う事実を知ることができます。このように人たちは、生まれるときから既に捕虜となり、奴隷となって生まれます。私たちは潜在意識の中に、精神的に奴隷の思想をもって生まれたのです。

皆さん、象はサーカス団で幼いときから訓練されます。幼い象を捕らえて来て、くいに鉄の鎖で縛っておきます。幼い象は解放を得ようとして色々と試み、抵抗しますが、鉄の鎖に縛られているのでどうにもなりません。ある時間が過ぎると、この象は諦めてしまいます。「ぼくは鉄の鎖に縛られているとどうにもならない。」歳月が経ち、この象がだんだんと成長して大人の象になると、少なくとも1トンの重さの物を軽く持ち上げることができる力持ちになりますが、しかしこのような力持ちの象も、小さなくいに鉄の鎖で縛っておくと、動こうとしません。

なぜかと言えば、幼いときから既に諦めているからです。「ぼくは鉄の鎖に縛られたら、どうにもならない。」と、心の中で知っているので、実際には力があるのにも拘わらず、その鎖を断ち切って出ようとしません。

蚤(のみ)は、自分の身体の70倍まで飛び上がることができます。しかし、瓶の中に入れて蓋を閉めておくと、飛び上がったら蓋にぶっつかり、飛び上がったら蓋にぶっつかって瓶の外に出ることができません。ある程度の時間が過ぎると、蚤は心の中で諦念してしまいます。「ぼくはいくら飛び上がっても、この瓶の中から飛び出ることができないんだ。」実際には、自分の身体の70倍を飛び上がることができるのにも拘わらず、瓶の蓋を開けておいても飛び出ようとしません。飛び上がってみたところで、出ることはできない、と諦めてしまったからです。

人は、生まれるときから縛られて生まれるので、「私は、罪と不義と病気と呪い、貧乏、死を免れることができない。」と、既に心の中で諦めています。それで、捕虜となった心、奴隷となった意識の中で人は生きているので、全然、免れようとする考えをしないのです。




第二、キリストが与えてくださった自由

しかし第2番目に、今日、私たちが考えてみたいことは、このような私たちにキリストが与えてくださったのは、自由と解放であると言う事実です。「ガラテヤ人への手紙 5章 1節」に、『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』と記されています。

皆さん、イエス様も福音宣布を何と言われたでしょうか。「ルカの福音書 4章18節〜19節」に、『「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」』と言われました。

「ヨハネの手紙 第一 3章 8節」にも、『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』と記録されています。ですからイエス・キリストの十字架は、私たちの奴隷となった負債を清算するために神様が与えてくださったものです。奴隷となった負債を清算し、奴隷の心、奴隷の意識から解放され、自由を与えるために主が十字架を背負われたのです。

「ヨハネの手紙 第一 2章 2節」に、『この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。』と記録されています。十字架の供え物はまさに、全世界のための主のなだめの供え物なのです。その供え物を通して私たちに驚くべき赦しを与えてくださったのです。「私はいつも罪の奴隷であり、罪から解放されることができない。」とする人たちに赦しを与えられたのです。

「エペソ人への手紙 1章 7節」に、『私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。』と記されています。私たちは罪の捕虜ではなく、罪の赦しをいただきました。そして私たちは、悪魔の霊でない聖霊をいただきました。悪魔の霊から解放してもらったのです。

「ガラテヤ人への手紙 4章 6節〜7節」に、『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』と記録されています。奴隷ではなく、今からは子となったのです。

そして、十字架を通して私たちに病からの解放を与えてくださいました。「マタイの福音書 8章17節」に、『これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と記されています。また聖書には、『彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』(イザヤ書 53章 5節)と記されています。

私たちはいつも、病意識をもっています。「私たちは病気に罹る。病気に罹ったら解放してもらえない。」生まれるときから病の奴隷として縛られているので、病気に罹ったら絶望します。しかし、この意識から解放されなければなりません。

皆さん、イエス様は十字架の上で私たちを呪いから解放させてくださいました。「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」に、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記されています。

また、主は私たちを死から解放してくださいました。「ヘブル人への手紙 2章14節〜15節」に、『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』と記録されています。死の奴隷となっている人たちを解放してくださるために、イエス様が十字架を背負われたのです。

聖書「ローマ人への手紙 6章22節」に、『しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。』と記録されています。私たちは縛れたままで生まれ、奴隷として生まれたのですが、イエス様の十字架の苦難はまさに、この奴隷として生まれ、縛られたまま生まれた私たちを解放させるために、自由を与えるために、血を流され苦難の目に会われたのです。

ですから、私たちは十字架を見つめるとき、彼は私たちの解放であり、私たちオリジナル人権の回復であると言うことを知らなければなりません。

イギリスの賛美歌作詞者であり、古典文学家である「ウイリヤム・カウパー」(William Cowper)は、幼い時、虚弱で情緒的に非常に鋭敏でしたが、6歳のとき母親がこの世を去るや、決定的に衝撃を受けて憂鬱症に悩まされ、何度も自殺をはかりました。しかし聖書を読む途中にイエス様の血潮によって贖罪された確信をもつようになり、信仰の上に立つや、健康がだんだんと回復されました。

しかし彼はいつも、神様が自分を捨てるかも知れないと言う不安感に追われて、熱心に祈りながら不安を追い出し、数多くの賛美の詩を作りました。そして彼は臨終を迎えたとき、その顔が太陽のように輝きながら、「私は結局、天の御国から追い出されずに、無事に入っていくことができた。」と言いながら、臨終を迎えました。


彼の代表的作詞は「聖歌428番」です。

とうとき泉あり、そのうちより
インマヌエルの血ぞ、あふれながる
罪になやむもの、くぐりいらば
けがれはあらわれ、しみはけされん

いまわのきわにて、ぬすびとさえ
よろこびあおぎし、いずれなれば
ためらわでわれも、かれのごとく
ことごとあらわれん、けがれをみな

ころされたまいし、こひつじなる
主の血のちからに、かわりあらじ
世よりえらばれし、かみのたみの
きよめのめぐみを、うくるまでは

主よながきずより、ながるる血を
信仰の目をあげて、あおぎしより
あがないのあいは、わがこころを
なぐさめみちびく、うたとなりぬ

皆さん、この人は完全に霊的に、精神的に、肉体的に、生活に束縛されましたが、イエス・キリストの血潮によって解放されたのでありました。自由を得ました。一生涯、この自由を得たことを歌い、詩を作り、神様を賛美しながら生きてから、彼は天国に行くことができたのであります。




第三、ほどいてやって、帰らせなさい。

第3番目に、今日、私たちが考えてみたいことは、主の御言葉です。

主が、ラザロの墓に来られたときに、マルタとマリヤに「墓の石を取り除けなさい。」と言われました。それを聞いて、マルタが言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」その時、イエス様は彼女に言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

そこで彼らは、イエス様の威厳に押されて墓の石を取り除けました。臭い匂いが鼻をつきました。イエス様はマルタとマリヤにこだわらずに、墓の前に立って、天に向かって祈り、そうしてから大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」

すると、死んでいたラザロが、手と足を長い布で巻かれたまま、顔は布切れで包まれたまま出て来ました。死んでいた人が生き返ったのです。死んでいた人が縛られたまま出て来ました。しかし主は、そのまま捨て置かれませんでした。その時、主が言われました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

とても象徴的な意味があります。皆さんと私はすべて皆、霊的に罪悪の墓に入っておりました。罪の墓の中で永遠に腐っていきつつありました。ところが或る日、私たちが伝道を受けて、主のお招きに与り、私たちがイエス様を信じるようになったのです。皆さん、イエス様を信じたのは皆さんが信じたのではありません。主が呼び出されたので、皆さんが信じるようになったのです。

「死んだ者よ。闇の中から起きなさい」と言われる主の命令を聞いて、私たちがイエス様を信じるようになったのです。私たちがイエス様を信じて霊的に生き返りましたが、私たちは全身と顔が寿衣で巻かれたままで生きていました。イエス様を信じるようにはなりましたが、まだまだ罪悪の縄が全身に巻かれており、世俗と腐敗の寿衣が身体に巻かれており、或いは疾病の寿衣が顔を覆っており、呪いと貧乏の寿衣が身体に巻かれていました。

死の絶望の恐怖に縛られて、自由がない人たちがいかに多いか知れません。イエス様を信じて霊魂が救われはしましたが、彼の生活が自由を得ることができずに、ラザロと同じく死から生き返りはしたが、まだ寿衣に巻かれ、縛られているのです。こんにち、数多くの人たちが教会に出席して救ってはいただきましたが、彼らの生活がまだまだ罪に縛られ、汚れに縛られ、不正、疾病、呪いと貧乏と死の恐怖に縛られて生きている人が多いのです。

主がこんにち、そのような人たちに向かって何と言われるのでしょうか。「ほどいてやって、帰らせなさい。」と言われるのです。皆さん、主は私たちの霊魂だけが良くなるようには願われません。すべてにおいて自由を得、身体が病から解放されて健康であるようにと願われるのです。イエス様を信じる私たちが知らなければならないことは、私たちはキリストのうちにあって解放され、自由な存在になったと言う真理を悟らなければならないのです。

「コリント人への手紙 第二 5章17節」に、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と記されています。アダムとエバの子孫たちとして、生まれるときから縛られ、奴隷となって生まれた私たちが、キリストの十字架を通して解放を得、自由を得た「新しく造られた者」となった、と言うこの真理を知らなければならないのです。

世の中でも、私たちが知識を教わって悟りを得ます。霊的知識も、私たちが御言葉を勉強して悟らなければならないのです。世の知識は感覚的知識であり、天の御国の知識は啓示的知識です。啓示的知識は御言葉を通して悟り知らなければならないのです。

「ヨハネの福音書 8章32節」の御言葉です。『そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』自由を得るためには、どのように神様が自由を与えてくださるのか、その真理を知らなければならないのです。「コリント人への手紙 第二 3章17節」に、『主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。』と記されています。ですから、主の御心は私たちがほどかれて、歩き回る解放と自由を得て暮らすことが神様の御心であることを私たちは知らなければなりません。

「あなたがたのたましいが幸いを得、すべての点においても幸いを得、健康であるように」と主が願っておられる、と言う事実を知らなければならないのです。数多くのクリスチァンたちがこの事実を知らずにおります。真理を知らなければなりません。結び目を解かなければなりません。寿衣を解かなければならないのです。

それでは、皆さんが真理を知るようになったのですから、皆さんの全身に巻かれているこの寿衣をどのように解いたら良いでしょうか。罪悪の寿衣、腐敗の寿衣、疾病の寿衣、呪いと貧乏の寿衣、死の寿衣をどのように解いたら良いでしょうか。皆さんは、祈りをもってすべての寿衣を解き去ることができるのです。心に解放された平安が臨むまでいつも祈り、失望しないようにならなければなりません。

なぜなら、私たちが祈りでもって心の中の寿衣を解いたら、天においても解かれるからです。「マタイの福音書 18章18節〜19節」に、『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。』と記されているのです。

ですから、どのようにして解くか。地上で求めてこそ解かれるのです。祈りを通して私たちの寿衣を解かなければならないのです。「天のお父さま!罪悪を解き捨ててください。私の不正と腐敗、腐った心を解放させてください。病気を癒してください。疾病の寿衣から解放させてください。呪いと貧乏から解き放たれるようにしてください。死の恐怖から解放されるようにしてください…。」主に祈り呼ばわって、私たちの心の中の寿衣を解かなければならないのです。

心の不安と疑心が消え去り、平安が川水のように満ち溢れるときまで、私たちが祈り解いて心に確信を得るようになったら、天からの声が聞こえるようになります。「あなたが信じる通りになりますように。あなたが心の中で解いたように、天でもとかれます。」

祈りをしないことには、寿衣から解放されることはできません。こんにち、数多くの人たちが真理を知らないので祈りません。信仰をもって祈らないので、いつも縛られています。一生涯の間イエス様を信じると言いながら、寿衣に2重3重に巻かれたままで生きてから死んでいく人が少なくありません。真理を知り、祈って寿衣を解かなければならないのです。

解くだけではいけません。神様は、私たちがたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康であるようにとだけ願っておられるのではなく、生命を得るにしてもゆたかに得るようにとも願っておられるのです。「帰らせる」と言うことは、不足することがない自由な生活を営ませることです。十分の一も捧げる、神様に献金もする、隣人を助け、愛をほどこすことができるように、自由に行動することができる環境を言うのです。

神様から祝福していただいて、私たちは自由人にならなければなりません。霊的に、心的に、生活するに当たって私たちは不足に縛られていてはならないのです。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と言うことは、まさに自由な人生を言うのです。私たちは、「ヨハネの福音書 11章44節」にある『すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」』と言う御言葉を心の中に深く刻み込んでおかなければなりません。

「エペソ人への手紙 4章22節〜24節」に、『4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』と記されています。

滅びて行く古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着て、勝利の毎日を暮らさなければなりません。皆さん、死んだラザロが生き返って墓から出て来たとき、彼は寿衣に巻かれておりました。寿衣を解いてあげたら真っ裸です。何かを代わりに着せて上げなければなりません。こんにち、イエス様を信じて解放を得たなら、祝福の衣服を着せて貰わなければならないのです。神様が勝利の衣服、栄光の衣服を着せてくださいます。

私たちの教会の「鍾路・中区大教区」に所属している「チェ・キェスン」勧事様の証しを聞いて見ますと、この事実が余りにもはっきりとしていることを知ることができます。

彼女は19歳の時に嫁入りしました。夫の家は1年に13回も悪霊に供え物を捧げ、家の中のいたる所に呪符を貼り付けた家でありました。そのような雰囲気のなかで、彼女は何の理由もなく衰弱していき病気に悩まされるようになりました。姑の計らいで巫女を呼び、呪文をとなえさせました。すると巫女は最後に、「嫁がもうすぐに死ぬかも知れない。分家させなさい。」と宣言しました。

それでソウルに分家して来て暮らしているのに、姑が心臓病にかかり、それを直すためにソウルに上京して来ました。病院に通っても何の効果もありません。それでその姑が薬局に薬を買いに行きました。すると薬局の主人が、「その薬を服用してもあなたの病気は直りませんよ。イエス様を信じたら直ります。イエス様を信じなさい…。」と言いました。

その事を聞いて姑は大いに変化し、悪霊に供え物を捧げる行事をきれいに止め、巫女に拠り頼んでいた習慣もあっさりと捨てて、イエス様を信じるようになりました。ところがその時から、悪魔と霊的戦いをするようになりました。或る日、舅が農薬を飲んで自殺しました。それでも姑は信仰を捨てずに継続して祈りながら、サタンの妨害に敵対し、悪霊に供え物を捧げる代わりに牧師を招いて追悼礼拝を捧げながら信仰の上に堅固に立ちました。

ところが、嫁であるその「チェ・キェスン」勧事様の夫がその後から胃腸病に罹ってお粥だけを飲み、外出もできず、重患者になりました。それで家は貧乏のどん底に落ち込み、勧事様が行商をしながら細々と生計を継いでいきました。そうした時期に、隣人の一人がしきりにイエス様を信じなさい、と伝道しました。その人は私たちの教会の区域長でありました。嫁であるその「チェ・キェスン」勧事様も心が動いて、私たちの教会に登録し、信仰生活を始めました。

数十年間家族を縛り付けていた悪魔が色々と根強く妨害しました。礼拝を捧げている途中、「立ち上がって隣の人を殴れ。」とささやきます。それで立ち上がって隣の人を殴り、礼拝の途中に教会から追い出されもしました。或るときは、礼拝の途中に「大声を上げなさい。大声をあげなさい。」と誘惑もします。「着ている着物を滅茶苦茶に破れ。」ともささやきながら妨害します。

それで彼女は決心をして、40日間早天祈祷会に参加して根気強く祈り、賛美を歌いました。説教の言葉通りに、イエス様の御名によって悪魔を縛って追い出しながら敵対しました。「汚れた悪魔よ。お前が再び私を縛りつけようとするが、私はもう神様の娘だ。イエス様の御名によって命ずる。捕縛を断念して退け…。」継続して戦いました。

祈りを捧げるために目をつぶったら、膝の上を蛇が這い回ります。病んでいる夫にも悪魔が入り込んで、彼女が教会に行くのを激しく反対し、彼女の聖書を破っては火で焼くなど、狂態を演じます。それにも拘わらず、彼女は1日に5時間ずつ祈りながら信仰をもって呼ばわりました。徹夜、断食、早天祈祷を捧げ、「主の祈り」を一日中暗誦し、10年間、涙を流しながら祈り求めました。「主よ。完全に救ってください。私の家庭全部が、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康であるようにしてください。」

ところが或る日、祈っているのに、幻の中で凶悪に見える大蛇が家中を這い回った後、目から涙を流しながら、恨めしそうな目で彼女を見つめてから、そのまま家の外に出て行ったと言います。「あ!10年間私が祈ったので、私の家庭を縛り付けていた敵悪魔が出て行ったのだ。信じます。有り難うございます。」心に喜びが充満し、すべての疑いがきれいに晴れてしまいました。

そうするや、病んでいた夫の胃腸病が奇跡的に直って新しい人のように健康を回復しました。その上に奇跡的に就職もできて物質的祝福も神様が注いでくださいました。天井が荒れ果てていた板子家が再開発区域に指定されて、2階建ての新しい家で暮らせるようになりました。

サタンが、イエス様を信じることを執拗に妨害し、霊的、肉体的、環境的に苦しめましたが、これらを完全に断ち切って、それからはたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、命を得るにしても豊かに得る人生を生きるようになった、と言う証しをしました。これが即ち、神様が仰せられる「ほどいてやって、帰らせなさい。」と言うことなのです。

今日も、イエス様は私たちに向かって仰せられます。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」聖霊さまがいつも私の心の中に言われます。「すべての聖徒さんたちをほどいてやって、帰らせなさい。」

私は45年の間、御言葉を通して私の牧会のもとに来られた聖徒さんたちをほどいてやって、帰らせよう、と渾身の努力を尽くしながら牧会して参りました。罪悪と死の墓からイエス様を信じて霊魂が生き返った聖徒さんたちが、すべての点において呪いからほどかされ、自由と解放を得、身体も疾病からほどかされて自由になり、三重の祝福の自由を得るようになる、これが我が神様の御心なのです。このようにならなければならないのです。

真理が皆さんを自由にします。皆さん、神様の御心を完全に知ったら、結び目が解かれるまで、祈りをもって寿衣の結び目を解くようになりますよう、主の御名によって祈願致します。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様!こんにち、私たちが「主よ!主よ!」と呼ばわりながら教会に通っておりますけれども、寿衣を身体に二重三重に巻きつけたまま通っている人が余りにも多いです。

霊的に生き返りはしましたものの、まだまだ呪いの寿衣に巻かれて生きております。全知全能であられる天のお父さま!私たちが、私たち自身に対するキリストの十字架の救いの真理を確実に悟り、五重の福音と三重の祝福が神様の御心であると言うことを悟って、祈りを通して寿衣の結び目を解くことができるように助けてください。

すべての寿衣を祈りをもって解き放ち、脱ぎ捨てて、神様のお恵みと祝福の衣に着替え、自由な人となって歩き回るようにしてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!