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「あなたを苦しめ、遂には幸せにする為であった」
 






■聖書箇所

「申命記 8章14節〜17節」
8:14 あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、
8:15 燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、
8:16 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・
8:17 あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。




私は今日、皆さんたちと一緒に『あなたを苦しめ、遂には幸せにする為であった』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

平素、主を良く信じ、良く仕える聖徒が、大きな試練と苦難に会うとき、私に聞く質問がこうです。「牧師先生、私は主日を立派に守り、十分の一も欠かさずに捧げ、私としては主を良く信じ、立派に仕えようと努力していますが、なぜ、このような試練が押し寄せてくるのでしょうか?私が何を誤ったのでしょうか?」

このような質問に対する簡単な答えは難しいですが、その質問に対する一般的な答えは、今日奉読した「申命記」の御言葉に良く記録されています。即ち、神様が私たちを底辺の下まで苦しむようになさるのは、将来、正常に幸せにするための試みであると言うことです。




第一、モーセとイスラエルの民たちが体験した事

皆さん、モーセとイスラエルの民たちが体験した事柄を考えてみたら、この事実を良く知ることができます。

モーセはミデャンの荒野で40年間、羊飼いの生活をしながらどん底の人生を経験した人です。元来モーセは、パロ王の娘の養子として40歳までエジプトで豪華に育ちました。彼はエジプトの多くの教育機関で学問に通達し、栄光を享受しながらさ最高級の環境の中で成長しました。イスラエルの人としては夢にも考えられない栄華のなかで、パロ王の娘の養子として生活しました。

ところが彼は、年40歳になるや自分の同胞のことが案じられて、苦難の目に会っている自分の同胞たちを見るために苦役場に出て行きました。そこでエジプトの看守が自分の同胞である一人のヘブル人を殴るのを見て、そのエジプト人に飛びかかり、打ち殺して砂の中に隠しました。彼は、イスラエルの人たちが自分をイスラエルの救援者であると思うだろうと期待しました。

次の日、モーセがまた苦役場に出て行ってみました。その時、二人のヘブル人が喧嘩しておりました。それで彼は、悪いほうのヘブル人に「なぜ、自分の仲間を打つのか?」とたしなめました。するとその男は、「昨日、あなたはエジプト人を殺したように、今日は私も殺そうと言うのか?誰があなたを私たちの審きつかさにしたか?」と言って食ってかかりました。そしてその男は番所に告発してしまいました。同胞から背信されてしまったのです。

それで驚いたモーセは、その場から逃げ出しました。このことを聞いたパロ王は、モーセを捕らえて死刑に処しようとして国中を捜索しました。

 ミデャンの荒野まで逃げ延びたモーセは、そこを彷徨ううち、ミデャンの祭司・イテロに拾われ、その家の長女と結婚して婿入りしました。そしてイテロの羊を飼う牧童として40年間生活しました。

考えてみてください。エジプトの王宮で育ち、上級社会で豪華に暮らし、エジプトの学問に通達した人が、今は見る影もないミデャンの荒野の族長であるイテロの婿になって、化粧もしない平凡な処女の夫となり、名もないところで一日一日彼は老けていきました。羊の群れを追いながら荒野を歩き回るとき、そこが彼の墓であり、毎日が涙でありました。

モーセは余りにも残念であり、世の中から捨てられたことに挫折し、絶望の中で胸を叩きながら泣き、また泣きながら40年という歳月を過ごしました。年をとるに従って彼の髪は白髪となり、何時の間にかモーセは80歳になりました。彼は人生のどん底を彷徨いました。

ところが或る日、彼が80歳のときに、神の山ホレブの柴の中に主が現れました。柴の木が火で燃えていたのに、よく見ると柴は焼け尽きませんでした。モーセは「なぜ柴が燃えていかないのかな。近くに行ってこの大いなる光景を見定めることにしよう。」と呟きながら、火で燃えている柴の木に近づいて行きました。

その時、燃えている炎の中から神様が仰せられました。「モーセ、モーセ。ここに近づいてはいけない。あなたのくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」そして主は継続して仰せられました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。また、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

モーセは40年の荒野の生活中に人生のどん底を彷徨い、卑賤な人生を生きた後に、80歳になって神様に会い、一躍イスラエルの偉大な指導者になりました。彼はその場から杖一本に拠り頼ってエジプトに渡って行き、パロと対決して、430年間も奴隷生活をして来たイスラエルをエジプトから救い出す偉大な指導者となり、こんにち、世界的な宗教指導者となったのであります。

モーセが人生のどん底を彷徨うほどに低くなったのは、神様が高めて上げるためにそうなさったのです。神様が目的なしに彼を荒野で40年間暮らすようになさったのではありません。将来高めて、偉大に御使用なさるために彼を卑賤なまでに引き下げられたのです。

イスラエルの民たちも同様です。イスラエルの民たちを主が呼ばれるとき、驚くべき約束を与えてくださいました。「出エジプト記 3章 8節」に、『わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。』と記録されています。

乳と蜜の流れる地…、と言われました。想像して見てください。神様が彼らに幻を、驚くほどに素晴らしい幻を与えてくださいました。こんにち、どのようなキャツチフレーズもこのように麗しく素晴らしいキャツチフレーズはありません。乳と蜜の流れる地にあなたがたを導いてあげる。このことを聞くや、イスラエルの民たちは皆が感激し、興奮して、彼らは躍る胸を鎮静することができませんでした。

しかし彼らが、乳と蜜の流れるカナンの地に到達する前に荒野を通り、彼らは紅海のほとりでエジプトの攻撃を受けて九死に一生の活路を得、そうしてからは紅海を奇跡的に渡り、その後には荒野に戻って行って、40年間、荒野で苦しい目に会いました。皆さん、荒野での苦しみと言うのは、私たちが考えるそのようなたやすいものではありません。イスラエルの民たちが通ったその荒野は、まことに草一本なく、水一滴がない、あまりにも荒れ果て広漠とした荒野でありました。

砂風が吹きまくり、熱い太陽が炸裂し、夜は寒さによって岩が凍り裂ける音が聞こえました。そのような所に彼らは天幕を張って、衣食住の生活が最低であるそのような生活を営みました。彼らは40年間も彷徨いました。何故そんなに最低の生活をしたでしょうか。何故そのように苦難の目に会ったでしょうか。

それは、将来、彼らが乳と蜜の流れる地に入って暮らすようにするために神様が備えられたことであります。神様は、高めて上げるためにどん底の生活をさせたのです。目的なしに神様が彼らを低められたのではありません。

遂に、彼らは乳と蜜の流れるカナンの地に入りました。「申命記 8章15節〜16節」を見ますと、『燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・』と記録されています。

祝福してあげるための目的のもとに主が苦しませ、試みられたのです。私たちは、私たちの主イエス・キリストを見てもはっきりと知ることができます。イエス・キリストがどんなに低められたでしょうか。神様の御心によって、天と地と世界とその中のすべてを造られた創造主であり、統治者です。神様の御言葉に従って、神様のすべてのみわざを行われた神様の御子であり、まことの神様であられるイエス様が、その栄光の御座を捨てて、無数の天軍天使の護衛をすべて退けて、卑賤なナザレの一人の女性の身を通してお生まれになりました。

彼は私たち人間と同じように10ヶ月の間、母の腹の中におり、幼子として生まれてからは拠り頼るところなく、母のふところで母の乳を飲みました。そして彼は、この世の中で苦労しながら育ちました。養父ヨセフの工場で一緒に大工の仕事をしながら、彼は育ちました。

そして、彼が30歳のときに時至って、彼はヨルダン川で洗礼を受けられ、聖霊に満たされて、40日40夜断食されたあとの3年半の間の公生涯は、それこそ苦難の連続でありました。山野で眠られ、野宿しながら彼は生きられました。遂にはユダヤ人とローマ人たちの共謀によって捕らえられ、十字架で凄惨に釘付けられて死なれました。

神様が低められたことをご覧下さい。神様が人生と同じく低められたことも想像しがたいのに、極悪な強盗が処刑されるその十字架に裸にされ、両手両足に釘が打ち込まれて凄惨に死なれました。主は極度に至るまで低められたのです。しかし、このようにイエス様が低くなられたのは理由があります。




第二、イエス様の苦しみと幸せ

「ピリピ人への手紙 2章 5節〜8節」を見ますと、『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』と記録されています。

イエス様はこのように、凄惨なまでに低められました。しかし、そのように低められたのは、彼を通して人類を救われ、神様がイエス様を高めて、天と地と世界とその中でもっとも高いお名前をお与えになられるためであったのです。目的なしに低められたのではありません。低められたとき、主は人類のための贖罪の供え物となられ、主は高められて、王の王、主の主となられるためでありました。

「ピリピ人への手紙 2章 9節〜11節」に、『それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』と記録されています。

「エペソ人への手紙 1章20節〜22節」を見ますと、『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。』と記録されています。

この偉大な我が主イエス・キリスト。彼が高められる前にどんなに低められたか、を私たちは知らなければなりません。

私たちが尊敬し、慕い、喜ぶ使徒パウロ先生を見てください。使徒パウロ先生はすべての使徒たちよりも低められたお方です。彼は元来、ベニャミン族の人でパリサイ人的であり、律法の権威者でありました。ガマリエルの門下でラッピ教育を受け、ローマの市民権者であり、律法に関しては完全に通達した人でありました。従ってエリット中のエリットであり、貴族の中の貴族であり、将来サネデリン会員の中でもっとも最高になれる、そのような人でありました。

しかし彼が、ダマスコの近くでイエス・キリストに出会い、新生して変化を受け、イエス・キリストの弟子になりました。その時以後に、神様はこのパウロを使用するために低められました。彼は本当に色々と苦難の目に会い、低められました。

「コリント人への手紙 第二 11章23節〜30節」を見ますと、『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。』と記録しています。

このようにパウロは、余りにもたくさんの苦しみを受け、人生のどん底を彷徨いました。何故パウロ先生はこのように低められたのでしょうか。水は高い所から低い所に流れます。彼が低められれば低められるほど、神様のお恵みはその中にもっとたくさん溜められるようにするためでありました。「コリント人への手紙 第一 15章10節」を見ますと、彼は『ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。』と言いました。

その結果、神様はどうなさったでしょうか。パウロ先生を高められました。皆さん、新約聖書27巻のうち14巻をパウロ先生を通して神様は記録なさいました。聖書27巻のうち14巻を、それももっとも核心的な真理をパウロ先生を通して神様が啓示なさり、聖書中の聖書と言われる「ローマ人への手紙」をパウロ先生を通して記録なさいました。もしも、聖書に「ローマ人への手紙」がなかったら、我が主イエス・キリストの救いのみわざの決定的な神学を私たちは学ぶことができなかったでしょう。

そのような偉大な啓示を、神様はパウロ先生を通して現されました。神様がパウロ先生を甚だしく低められたのは、彼を、人類歴史を通して、このように偉大な啓示を通して高めるためでありました。そしてパウロ先生は天の御国に昇って行ってからも高く偉大な席を得たはずであり、その期待も大きかったはずです。

パウロ先生は、「テモテへの手紙 第二 4章 7節〜8節」に、『私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。』と言う、そのように大胆な信仰の期待と希望を持つことができました。

彼は「コリント人への手紙 第二 4章17節」に、『今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。』と言いました。また「コリント人への手紙 第二 12章10節」に、『ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』と言いました。

主が、私たちを弱くするのは、強くするために弱くするのであって、弱くするために弱くするのではありません。低められるのは高めるためであって、低くして滅ぼそうとしてそうなさるのではありません。

神様は何故、私たちを低めた後に高めるのでしょうか。そのまま高めたらよいのに、何故低めた期間をお持ちになるのでしょうか。それは、私たちの我執を砕くためです。自己中心でなく、神様中心の人に造るためなのです。私たちはアダムとエバの堕落した品性を通して生まれましたので、自己中心の人間生活をしようとします。我執でいっぱいなのです。この自己中心の我執を捨てて、主中心に立たせるためには先ず我執を砕き捨てるようにしなければなりません。

皆さん、朽ちた建物をなくし、その場に新しい建物を建てるためには、先ず朽ちた建物を爆破しなければなりません。崩し捨てなければなりません。そうしてこそその場に新しい建物を建てることができます。私たちを、神様の立派な器に造るためには、古いアダムの品性を砕き捨てなければならないのです。




第三、何故、神様は私たちを低めた後に高めるのでしょうか?

「申命記 8章17節」に、『あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。』と記録されています。私の力、私の手で、こんにち勝利し、成功し、祝福していただいたと、このように考える我執が人間にはあります。

「ヤコブの手紙 1章 3節〜4節」には、『信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』と記録されています。

私たちが砕かれ、変化されて、忍耐する信仰の人になるようにするために神様は私たちを低められるのです。人たちは低くなったときに砕かれて、神様の御前に手を上げて出て参ります。自分に富貴、栄華、功名があり、高くなったときには我執に満たされて、主が入って来られる隙間がありません。「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と聖書に記されています。貧しく、空いたところに満たすことができるのです。いっぱいに満たされた所にはなにも満たすことができません。

皆さんが杯に水をいっぱいに満たしておいてから、しきりに「早く来て何か満たしてください」と言ったところで、何も満たすことができるものではありません。神様は、皆さんを空いた器にするために低められるのです。そうしてこそ神様が満たしてあげることができるのです。

私たちの金浦聖殿の「ウオン・ユンヒ」按手執事と「キム・キョンジャ」勧事様のお話しを聞いてみてください。14年前に勧事さまはお隣の人の伝道でイエス様を信じるようになりました。ところが、旦那さんは我執が強くて信じることを拒みました。子供達と旦那さんの救いのために、勧事さまが熱心に祈りました。

そうした或る日、突然勧事さまの喉から血が溢れ出ました。別に痛くはなく、信仰も弱いときでありましたので、旦那さんには知らせずに自分勝手に結核薬を買って服用しました。しかし症状はますます悪くなり、6ヶ月目には顔色も黒くなり、咳も出る、血もたくさん吐くようになって、旦那さんにも知られるようになりました。それで大学病院に行ったところ、肺ガンであると言う宣告を受けました。

ガン細胞が右の肺全体に広がっているので、手を下す方法もなく、手術も不可能であると言いながら、医者は「長くて2ヶ月生きる」と宣告するのでありました。そのときになって初めて旦那さんは衝撃を受けました。そんなにまで頑強であった旦那さんの我執が散々に砕かれ、彼は神様の御前にひれ伏して、「妻を助けてください」と身悶えしながら祈り出しはじめました。 人間の限界を悟り、ひざまずいて不信仰を悔い改めながら、信仰によって継続祈りました。

医者が「死ぬ」と言った2ヶ月が過ぎました。ところが勧事さまの顔色は良くなる一方です。身体には活気が戻りました。病院に行って「再検査をしてくれ」と頼みましたが、医者は必要ないとして受け付けません。それでも何回も強く頼んだあげくに再検査してみた結果、医者は「とても信じられない」と首をかしげながら驚きました。

広がっていたガン細胞が一つになっておりました。それで、それを手術して取り出しました。今は治療14年目ですが、勧事さまは健康であり、夫婦が熱心に教会に奉仕しており、旦那さんの信仰はもっと強くなりました。

私たちはたやすく祝福していただくと、世の中に出て行ってすぐに世俗と妥協してしまい、堕落してしまいます。それで神様が苦しみを味あわせるのです。神様は人を初めから低くし、気合を入れるのです。

「申命記 8章11節〜14節」に、『気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。』と記録されています。

人は、富貴、栄華、功名に与ったら神様を忘れてしまいます。堕落してしまいます。それで神様が予め人を低められて、自分がどんなに無能力であり、無力な人間であるかを悟らせるのです。そうしてから祝福して上げると、人たちはこの祝福が神様が与えてくださったものであることを悟り、神様を畏敬しながら、感謝するようになるのです。

皆さん、信仰の根本が何であるかご存知でしょうか。信仰の根本とは、神様を恐れる心です。神様を恐れないのでは、まことの信仰とは言えません。人たちはたやすくイエス様を信じるようになってからは、神様を利用して祝福だけを享受しようとします。それで直ぐに堕落するのです。

神様を恐れて、神様の御前で恐れ慄かなければなりません。子供の教育もそうです。家に恐い人が居なければなりません。父も母も恐がらず、何でも聞いて上げるとしたら、完全に子どもの教育は失敗します。家の中には恐がられる人が一人ぐらいは居なければなりません。父親が恐くて、父親の前では恐れ慄くようにならなければなりません。そして母親が仲裁に立つ、といった風になってこそ子供が正しく成長するようになります。

この頃のように、父親は子どもに会うことができないので罪責感からお小遣いだけしきりに上げる、母親は外出ばかりする、それで子どもは父母との交わりの時間がない…、従って子どもたちは人格的に指導してもらうことができず、恐い人がなく、完全に放縦者になってしまうのです。家庭で子どもたちが育つとき、先ず第1に教わるべきことは父親を恐れる心です。それから愛するようにもなり、喜ぶようにもなるのです。

神様に対する信仰も、先ず神様を畏敬するようになることです。神様を恐れなければなりません。そうしてこそ罪を犯さないようになるのです。罪悪に誘惑されるとき、神様が目を光らせながら見下ろしておられる、との意識から罪を犯さないようになるのです。こんにち、我が韓国のキリスト教教会の大きな過ちは、神様を恐れる心が教会と聖徒たちから立ち去ったと言うことです。

それでたやすく誘惑に陥り、罪と妥協します。神様が少しも恐くないからです。私たちが祝福していただいてから堕落しないためには、神様を恐れなければならないのです。

そして、私たちが低くなったときに従順を教わるのです。主も、「わたしの心のようにではなく、お父さまの御心の通りにしてください。」と祈りました。「ヘブル人への手紙 5章 8節〜9節」を見ますと、『キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、』と記録されています。御子であるのにも拘わらず、苦難を通して従順を学ばれたと言うのです。

アブラハムが何故偉大でしょうか。アブラハムの生涯は、本当に苦難の連続でありました。その苦難を通してアブラハムは、神様に従順に聞き従うことを学びました。私たちは苦しみに会わなかったら、傲慢になり、驕慢になります。しかしたくさんの苦難の目に会ったら、謙遜になり、心が低くなり、従順に聞き従うことを学ぶようになります。それで、神様は私たちが従順に聞き従うことを学ばせるために、私たちを低められるのです。

そして、私たちが低くなるとき、強靭な信仰を得るようになるのです。皆さん、苦痛に会って見なければ忍耐力が養われません。この頃子どもたちに忍耐力がないのは、苦しさを知らずに育てられたからです。それでちょっとした難関に会ったら、すぐに挫折したり、放棄したりするのです。人格的に破産するのです。しかし過去に色々と苦しみながら育った人は、どのような逆境が押し迫って来ても動揺せず、強健に立って進んで行きます。忍耐力が備わっているからです。

忍耐力は、そのまま豪奢な生活で学ぶのでもなく、学校で学ぶのでもありません。忍耐力は苦難を通して学ぶものです。運動選手が強い訓練をするのは、肉体を苦しませて忍耐力を育てるためです。強くしないことには力を得ることができません。

「ヘブル人への手紙 10章38節」に、『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』と記録されています。苦しみを経験していない人は、苦難に会ったらたやすく気落ちし、後ろに退きます。しかし忍耐力のある人は後ろに退きません。軍隊がなぜ強靭な訓練をするでしょうか。苦しい訓練を積んだら、、戦争が起こった場合に後ろに退かずに勝つためなのです。

「ヘブル人への手紙 11章 6節」に、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記録されています。この信仰とは何でしょうか。

「ペテロの手紙 第一 1章 7節」に、『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。』と記録されています。火で精錬されなければなりません。火のような試練に会わなければなりません。それで神様が精錬なさり、低くさせて信仰を堅固にさせ、そうした後に、その後に、遂に神様が祝福してくだされば、人たちはこれを享受することができるようになるのです。

谷が深ければ、山も高いです。試練と苦難の溝が深ければ、栄光の報酬も大きくなります。底辺の人生を経験した人だけが、高貴な人生を享受することができます。それで神様は、乳と蜜の流れるカナンの地に行く前に、荒野を通るようになさいました。

神様は、低めた後に遂には祝福してくださり、そして高めてくださると言う事実を私たちは知らなければなりません。低めることによって我執を砕かれ、主中心の人に造ってくださり、驕慢を砕いて謙遜な人になるようにしてくださり、祝福していただいた後には世俗に陥って堕落することがないようにするために主は試練を与えて下さり、不従順を捨てて従順に聞き従う人となるようにするために苦難の火を通るようにし、弱い信仰を捨てて強靭な信仰を持つようにするために低められるのです。

神様は、苦しめた後に、遂には祝福してくださり、神様の子どもらしく立派に暮らすようにしてくださるのです。




お祈り

聖く、愛であられる我が天のお父さま!

私たちが主を信じながら一生を暮らす間、私たちは大小様々な苦難にぶっつかり、低められる経験をします。全知全能であられる父なる神様!神様が私たちを低められるのは、遂には高めてくださるためであり、試練に会うようになさるのは、遂には祝福してくださるためである、と言うことを私たちが知るように導いてください。

主である神様!私たちが低められるとき、気落ちしないように助けてください。益々もっと悔い改め、砕かれて、変化する私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!