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「パウロの改心と証言」
 






■聖書箇所

「使徒の働き 26章 9節〜23節」
26: 9 以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
26:11 また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
26:12 このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、
26:13 その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
26:15 私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、
26:20 ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。
26:21 そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕え、殺そうとしたのです。
26:22 こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。
26:23 すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」



今日私は皆様と共に「パウロの改心と証言」という題目をもってみことばを分かち合おうと思います。

 キリスト教の歴史史上最も偉大な使徒であったパウロですが、改心する前の彼の名はサウロでした。彼は熱烈な反クリスチャンで、イエス様を信じる聖徒たちを迫害し、ステパノを石で殺すことに主導的な役割をしました。彼はエルサレム大祭司の特別な配慮により権限と委任を受けて、隣の国であるダマスコに身を隠している聖徒たちを捕まえて来ては殺すために、代表らと共にダマスコへ向けて出発しました。ダマスコが目の前に見える所まで行った時、急に天から太陽よりも明るい光が照らされ、天から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」という声が聞こえました。彼は馬から落ちて、ひれ伏してこう言いました。「主よ。あなたはどなたですか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」そこでサウロはイエス・キリストに出会いました。それから彼の人生に大きな変化をあり、新しい人となって、神様の聖い働き人となった体験を持っています。ここで私たちはなぜ神様がサウロをお呼びになってパウロとされたのか、また神様はどうして私たちをもこのようにお呼びになるのか悟らなければなりません。




第一、あなたを奉仕者、また証人に任命するため

第一に、パウロをお呼びなった理由を神様は次のように言われました。「使徒の働き 26章16節〜17節」に、『起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。』と言われました。

主がサウロを呼ばれ、パウロと変え、彼を新しい人とされたのは、神様の奉仕者、また証人にするためであると言われました。皆さん、 元々私たちは皆、奉仕者として創られた人々であります。神様がアダムとエバを創られた時、アダムとエバが自ら主人となって生きるように創られたのではありません。神様に仕える奉仕者であり、しもべとして創られたのです。

しかしアダムとエバは神様のみこころに背き、サタンの誘惑を受け、自ら奉仕者から主人になろうとしました。神様が善悪を知る木の実を食べてはならないと言われたのには理由があります。善悪を知る木の実とは、神様の絶対的な主権を表します。善悪は主権者が選択することで、しもべや奉仕者が選択できることではありません。

主人がしもべに「あなたはこの畑で働きなさい。あの畑で働きなさい。」と言います。しもべが自分勝手に「私はこの畑で働きます。あの畑で働きます。」と選択できません。しもべや奉仕者は主人から命じられた仕事だけします。神様は絶対主人であり、私たちはしもべで、奉仕者に過ぎないのです。ですから、この事実を確認させるために、善悪を決定する主権は神様にだけあるので園の中央にある善悪を知る木の実を食べてはならない、と言われたのです。神様の主権に挑んではならないという意味です。

しかしアダムとエバはサタンの誘惑を受けて、神様のような主権者になりたいと願いました。しもべの生活、奉仕者の生活をせずに、主権者になって自分勝手に自分の運命を決定しようとしたのです。それで善悪を知る木の実を食べて、神様に逆らい、エデンから追い出されました。

「詩篇 107編10節〜11節」に、『やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。』と書いてあります。

今日人類がこのような苦しみとやみの中にいるのは、神様に逆らい、自ら奉仕者としもべの地位を捨て、主人になろうと反逆した罪のためであります。皆さん、人間は神様の奉仕者として創られたので、神様を受け入れ、神様に仕え、神様が命じられることをするのが根本的な神様のみこころであります。それを我が主イエス様が私たちに確実なモデルとして見せて下さいました。

イエス様は神様であるけれども人として来られたので、自らを低くされ、神様の御前でしもべであり、奉仕者としてその一生を送られたのです。「ピリピ人への手紙 2章 5節〜8節」に、『「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」』と書いてあります。

ですから、イエス・キリストはご自分をしもべや奉仕者として低くされ、父が死になさい、と言われたので、その命令に従順して十字架にかかり、死ぬまで献身されたのであります。これがしもべであり、奉仕者のモデルであります。皆さん、私たちは自ら主人でないことを悟らなければなりません。私たちの時間、所有、いのちは全て神様のものであります。

「ヘブル人への手紙 3章 5節〜6節」を見ると『モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。』と書いてあります。モーセもしもべであって、主人ではないと書いてあります。

「ローマ人への手紙 14章 8節」に、『もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。』と書いてあります。主は私たちのものではなく、私たちが主のものであるのです。ですから、私たちがイエス様を信じる前は神様から遠く離れて自らが主人となり、自分勝手に生きたけれども、悔い改めてイエス様を信じ、神様の召しを受けるとパウロ先生のように奉仕者として召されるのです。

奉仕者になったならば、神様と共にいて、神様に仕え、神様が命じられることをしなければなりません。私たちは救われて後、皆この世ですべきことを神様から与えられました。私たちは奉仕者として私たちのいる所で神様に仕えながら生きるのであります。

皆さん、アメリカが生んだ世界的な人物の中にジェイン・アダムスという方がいます。彼女はシカゴの富豪の娘として生まれました。彼女は医科大学に入学しましたが、脊髄の病で背むしになりました。彼女は医者のアドバイスでヨーロッパ休養地を旅行することとなりました。彼女はロンドンに行った時、貧民街を訪れました。そこで彼女は貧しい人々のために一生懸命働く人々を見ました。その瞬間彼女は「これが神様が私を世に送られた目的だわ。」と初めて悟りました。

「私が背むしではあるけれども、神様は私を通して貧民たちを救済し、貧民たちを助ける手先として使われるために私を呼ばれたのだ。」と、奉仕者のみこころを悟るようになったのです。彼女は奉仕者として生きることを決断し、75歳で死ぬ時までその仕事に献身しました。 アメリカに戻ってきた彼女はシカゴ貧民街の古い家を買っては託児所をつくり、家出少女たちのための家とし、子どもたちのための学校を建てました。ここがハル・ハウスの始まりであります。ジェインは死ぬその日まで脊髄病で苦しみましたが、「私が生きられるのは神様の仕事を任されたからである。」と20代後半にたてた決心を忘れず、一生懸命働きました。その当時のアメリカには16歳未満の児童労働者が200万名もいて、酷使されていました。また多くの非識字者がいました。このような問題を解決するためにホワイトハウス児童会議を創設したのもジェインの努力によるものでした。彼女は1831年、ノーベル平和賞を受賞しました。

皆さん、私たちの人生は何でしょうか。まず私たちへの神様のみこころを悟り、これを成すために謙遜に、粘り強く使命者としての道を歩くことであります。それが父の奉仕者として召された者の進んでいく道であります。皆さんは全員神様から召された奉仕者であります。ある人は主婦としての奉仕者、ある人は労働者として奉仕者に召されました。ある人は経営者として、ある人は学者として、文人として召されました。神様は私たち全員を奉仕者として召され、社会のあらゆる所で働くようにされ、そこで神様に心を尽くし、精神を尽くし、いのちを尽くして仕えさせるのです。

主のしもべだけが奉仕者ではありません。ここにいるチョー・ヨンギだけが神様の奉仕者ではありません。皆さん一人一人が皆、罪の世から召されてイエス様を信じた時に、神様の奉仕者として召されたのです。ですから皆さんがいるその場所で神様の召しを受けて働く者であることをはっきりと悟らなければなりません。ですから忠誠を尽くして神様にその場で仕える時、奉仕者の仕事を果たすことができるのです。

私たちは奉仕者であり、また神様の証人になるために召されました。「使徒の働き 22章14節〜15節」に、『彼はこう言いました。「私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。」』と書いてあります。

皆さん、私たちはイエス・キリストに会いました。それで暗闇から光へと出てくることができました。救われた体験がありますね。私たちが神様から召された証人になるためです。パウロ先生だけが証人になったのではなく、私たち一人一人がキリストを受け入れることができたのは、神様を信じない世に出てイエス・キリストの証人なるためです。

ではどんな証人になればよいでしょうか。イエス様は平凡な人ではなく、神様でありました。私たちを救われるために2千年前、処女マリヤの体を通して人の体をもって来られた完全な神様であり、完全な人であるという事実を私たちが証ししなければなりません。

「マタイの福音書 1章20節〜23節」を見ると、『彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」』と記録されています。

このようにイエス・キリストはご自分の民を救われるために、神様が人となるために、処女マリヤの体を通して来られた事実を私たちは証ししなければなりません。そしてイエス様の歴史的なミニストリーの証言者にならなければなりません。

「マタイの福音書 4章23節」に、『イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。』と書いてあります。私たちは行く所々で、イエス・キリストは罪人を許し、病にかかった者を癒し、悪霊につかれた者を解放させ、死んだ者を生かし、飢え乾いた者を食べさせ、滅んで行く者に永遠の救いといのちを与えてくださる神様だということを証ししなければなりません。それだけでなく、イエス様が死なれて復活されたことを私たちは証ししなければなりません。

「コリント人への手紙 第T 15章 3章〜4節」に『私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、』を証ししなければなりません。

イエス様が死なれて、よみがえられたので、彼は今日私たちの中で聖霊で働かれ、私たちに救いと変化を与えてくださいました。これを体験した私たちはこの事実を証言するために召されたのです。そしてイエス様が十字架につけられ、御体が引き裂かれ、血潮を流されたその苦難が私たちにどのような意味であるのかを私たちは人々に証ししなければならないのです。

「ペテロの手紙 第T 3章15節」に、『むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。』と言われています。

ですから、私たちはどこへ行ってもイエス・キリストにより救われ、大きな変化を受けた事実を人々に証しする証人として召されたのです。パウロ先生が救われた時、主が「あなたを奉仕者、また 証人に任命するためである。」と言われたように、私たちがイエス様を信じて救われた時、神様は私たちを神様の奉仕者、証人にするために救って下さったのです。

ですから私たちはいつも自分自身に問わなければなりません。私は神様の奉仕者として生きているか、それとも自らが主人となって自分勝手に生きているのか、また神様のしもべであり、奉仕者として神様に仕え、神様が下さった使命を果たすために生きているのか。また証人として行く所々でイエス・キリストが処女マリヤを通して来られた神様の御子であり、私たちのために素晴らしいわざをなされ、死んでよみがえられ、今日も私たちの中に来られて死とよみから私たちを解放してくださる救い主だという事実を絶えず証ししなければなりません。




第二、彼らの目を開いて

第二に、聖書を見ると神様がパウロ先生に、彼らの目を開いて、と言われました。私たちは皆、霊の目を忘れてしまいました。アダムが堕落してからその霊は死んでしまいました。神様との交わりが絶えることにより霊的世界を全て忘れ、人は物質的で環境的な存在になってしまいました。アダムが最初創られた時、彼は御霊の人で、神様と交わり、対話し、神様と共に生きましたが、罪を犯して霊的に死に、霊的な世界を忘れてしまいました。

そして、肉の中で肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に従って生き、見て、聞いて、香りを嗅ぎ、味をみ、触るこの世の中でしか生きることができませんでした。そして人間は霊的な存在から物質的な存在へと堕落してしまいました。イエス様を信じる前は霊の目が開かれていないので、天国も地獄をも知りません。どこから来て、なぜ生き、どこに行くのか、その理由を知ることができません。しかしイエス様を信じることにより再び霊が生き返ると、御霊の世界について目を開くようになるのです。霊的に生き返ったので、霊的な世界について悟ることができるのです。神様を知り、キリストの救いを知り、聖霊が共におられることを知り、聖書を悟り、どこから来て、なぜ生き、どこに行くのかを悟ることができます。

「イザヤ書 42章 6節〜7節」に、『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。』と言われました。イエス・キリストを通して私たち霊の目が開かれ、盲人になった私たちの目を開き、罪により牢獄にある者を連れ出し、やみの中に住む者を自由にされると言われました。

「ヨハネの福音書 3章 3節」にも、『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』と記されています。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊であるので、肉から生まれたそのままでは肉の人でありますので御霊の天の御国を見ることができません。

しかしイエス様を信じ、新しく生まれれば、霊的に生き返るので霊の世界を知ることができます。皆さんが今日霊の世界を悟ったので教会に来て、みことばを聞き、礼拝を捧げ、賛美をするのであります。皆さんは肉の人ではなく、御霊の人であるのです。肉によってだけ生まれたのではなく、イエス様を信じて霊の人として新しく生まれ、神様の子どもとなった人々であるのです。

「エペソ人への手紙 1章17節〜19節」に、『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」を、あなたがたが知ることができますように。』と記されています。

ですから、私たちの心の目がはっきりと見えるようになるのは、霊的に生き返ってこそ見えることができます。この世で生きながら肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢だけに従って生きる人は、腐っていく物質の世界だけを見て、御霊の世界を見ることはできません。神様は私たちの目を開いてくださり、暗やみから光へと導いてくださると言われました。

「ヨハネの福音書 8章12節」に『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』と書いてあります。

皆さん、暗いやみの中にいると絶望的であります。後ろを見ても、前を見ても何も見えません。イエス様を信じないで、罪ととがの暗やみにいる人は過去どこから来て、現在なぜ生き、未来どこに行くのかを知ることができません。しかしキリストを受け入れるとキリストが光として私たちを照らしてくださいます。キリストは罪ととがの暗やみからゆるしと義と栄光の光へと導いてくださいます。

「ローマ人への手紙 13章12節」に、『夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。』と記されており、「エペソ人への手紙 5章 8節〜9節」には、『あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。― 光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―』と書いてあります。

罪ととがの暗やみの中で貪欲だけを追い求めて生きた私たちに、キリストの光が照らされ、罪ととがから解放を得て、ゆるしと義と栄光といのちを体験することができます。

そして皆さん、主が虚無と無意味の暗やみから意味と価値の光へと導いてくださいます。私たちがイエス様を信じる前はこの世で生きることが虚無で意味がありませんでした。今日あっても明日なくなる野の草のようです。生きる意味がありません。意味を探し、悟ることができません。しかしイエス・キリストを救い主として信じ、光を得ると、私たちは虚無と無意味から意味と価値を悟ることができます。

「ガラテヤ人への手紙 2章20節」に、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と書いてあります。

私たちがイエス・キリストを信じると、もはや意味のない人生を送りはしません。なぜなら、今やどこから来たのかを知っているからです。この世でなぜ生きるのかを知っています。どこに行くのかを知っています。私たちはアダムとエバを通して堕落した肉体を持って生まれ、サタンの奴隷として生きましたが、イエス様を通して救いを受けて、新しいいのちを得て、この世を生きながら神様に仕え、栄光を捧げ、神様が用意された永遠なる所に入るので、私たちの人生は虚無でも、無意味でもありません。価値があり、栄光なる生活を送ることができるからです。虚無と無意味の暗やみから価値と意味の光に入ることができたのです。

また、私たちは死と絶望の暗やみから復活と永生天国の希望の光へと進んでいきます。イエス様なしに死ぬのは絶望であります。死ぬことで全てが終わりだからです。富、名誉、功名だけでなく、この世の全ての意味や価値も全て終わりであります。しかし、イエス・キリストを信じると、私たちはこの死の暗やみからキリストと共に復活し、永遠なる天国にのぼり、キリストと共に永遠に生きることを知ることができます。死の絶望的な暗やみから復活と永生天国の希望を持っているので死をも恐れません。死を克服し、永遠なる希望の中で生きるのです。

「エペソ人への手紙 2章 4節〜5節」に、『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―』と記されています。

ですから、イエス様を信じる人は、すでにイエス様の中で霊的に生き返り、霊的に天の御座に座っているのです。私たちがキリストを信じることで、サタンの奴隷の生活から、罪ととがと死の暗やみから開放され、永遠なる希望といのちを得ることはいかに素晴らしいことでしょうか。

皆さん、1725年に生まれ、1807年まで生きたジョン・ニュートンは、聖歌「おどろくばかりの」を作詩した素晴らしい主のしもべであります。彼は11歳の時、実の父が船長である船で船員生活を始めましたが、その船は当時、アフリカで黒人たちを捕まえてきて、アメリカの奴隷商人に売り渡す奴隷船でありました。彼はその後、奴隷船の船長になり、多くのアフリカの黒人たちを捕まえて来て奴隷として売る、冷酷非情な人でした。

また彼は一時、海軍に入隊しては逃亡するなどの問題を起こして、海軍艦長によってアフリカに奴隷として売られ、15ヶ月間のあいだ奴隷生活をし、救われた経験があります。ある日、彼が乗った船がアフリカからイギリスに向かう途中、大きな嵐に遭い、船が沈没する危機におかれました。その時、彼は跪いて祈りました。「私の母が信じる神様!毎日母が私に伝道していたイエス様!もし私をこの嵐の中から救って下さるのなら、私は今までの生活を清算し、生まれ変わって、神様のしもべになります。」と叫び祈りました。

彼の人生に巨大な嵐がやって来た時、初めて彼は罪ととがの皮を脱ぎ捨て、悟りを得て、主の御前で跪いて祈り、その嵐が吹き荒れる船上で、彼は暗やみから光へと移る新生の体験をしたのです。彼は新生した29歳のこの日を、霊的な誕生日であると考え、以後、奴隷制度を強く反対し、33歳になる年にはイギリス聖公会の司祭になり、一生懸命働きました。彼は一生、靴を履かずに裸足で生活しました。それは自分が多くの黒人たちを捕まえてはアメリカに奴隷として売り渡し、裸足でつらい生活をしているアフリカの人々を思い、彼は靴を履かずに裸足で生活しました。彼がつくった「おどろくばかりの」、この賛美の作曲はアフリカの人々が船で苦しむそのうめき声を聞いてつくられたそうです。アフリカの人々が船の上でまるで荷物のように扱われ、苦しむ時に歌っていたメロディーを聞き、後、彼がこの賛美の詩をつくり、そのメロディーをつけたそうです。

彼は一生涯、奴隷船の船長であったことを悔い改め、告白し、裸足で乞食のような生活をしながら福音を宣べ伝えました。彼は後にこう話しました。「私の記憶力がもはやなくなりかけているが、私は次の二つのことを決して忘れることができない。一番目に、私は重罪人であり、二番目にキリストは大いなる救い主であることだ。」

皆さん、このように今日私たちを暗やみから光へと、死からいのちへと、導かれる偉大な力は、我が主イエス・キリストの救いの御手であり、その救いの光であります。キリストの光を受けてこそ暗やみから光へと移ることができるのです。

アメリカの西部地域に鷲を捕まえ鳥かごにいれて飼育する人がいました。それから17年の歳月がながれ、彼は東部に引っ越すことにしました。持ち物を売ったり、知人にあげたりしましましたが、この老いた鷲をどうすればよいかと悩んだ末、彼はこの老いた鷲を放してあげる決心をしました。鷲を放してあげるその日は雲がたくさんある、暗い日でありました。多くの人々がこの知らせを聞いては、鷲の姿を見るために集まって来ました。ついに、彼は鷲が入っていた鳥かごを開けました。

しかし、鷲は鳥かごの中から出てきませんでした。彼が鷲の名前を呼んでも鷲は出てきません。それで彼は鷲を鳥かごから出して空中に放してあげました。しかし、主人の頭の上を何回か旋回してから鷲は鳥かごの中にまた入っていってしまいました。人々は皆、鷲の行動に驚きました。しかしその時、雲の中からひとすじの太陽の光が照らされました。鳥かごの中にいる鷲はその光を凝視しました。鷲の目が光り始めたと思った瞬間、鷲は正体の分からない力に導かれるように、鳥かごから出て、その大きな翼を開いて空高く飛んで行った、という話があります。

皆さん、このことは人間の改心の瞬間と同じであります。罪により私たちは飛べない鷲のように、世という鳥かごの中に閉じ込められた存在でありました。どこから来て、何のために生き、どこに行くのかも知らない、自己正体性をなくした存在である私たちに、イエス・キリストの御顔の光が照らされ、人生の意味を悟り、罪なる鳥かごから離れ、神様の恵みの空へ高く飛び上がることができるようになりました。

ですから、キリストの御顔から照らされるいのちの光だけが私たちを罪と死から解放し、キリストの中で自由と栄光の人々となるようにしてくださるのです。

そして聖書は、サタンの支配から神に立ち返らせると言われています。アダム以降、人間は全てサタンの奴隷になってしまいました。「ルカの福音書 4章 5節〜6節」を見ると、イエス様のところに現われたサタンがこう言いました。「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれを思う人に差し上げるのです。』」 アダムが世界とその栄光を全てサタンに受け渡してしまったのです。それで全世界がサタンの権力の下にあります。

「ヨハネの手紙 第一 5章19節」に、『私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。』と書いてあります。しかし、イエス様が来られ、十字架で砕かれ、血潮を流されて死なれたことにより、神様の御前で私たちの罪が赦され、私たちに天国を与えてくださいました。主は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言われました。イエス様は十字架のあがないによりこの世に天国を与えられました。

「コロサイ人への手紙 2章13節〜15節」に、『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』サタンの支配と権威の武装を解除し、イエス・キリストの中で天の御国の民として下さいました。

「コロサイ人への手紙 1章13節〜14節」に、『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。』

ですから皆さん、私たちは移された民であります。十字架以降、サタンの権威から神様の御子の国へと移されました。皆さんは天の御国の民であり、イエス・キリストの御国の市民になったのです。今日これが宣教使命の目的であります。私たちが全世界に出て福音を宣べ伝える時、神様が私たちの福音伝播により、暗やみから光へ、サタンの権威から神様に立ち返るみわざを与えられます。

今日、全世界の海外宣教師の数は43万4千名です。韓国人の宣教師は、そのうち約1万1千6百名で、アメリカに次いで世界2位の宣教師派遣国家です。我が教会が派遣した海外宣教師たちの数は、現在53カ国で636名であり、教会数は612個、6万聖徒が宣教師たちにより牧会されています。しかし、未だに福音を聞けず、サタンの勢力に捕らえられている多くのたましいがいます。ですから私たちは続けてこのたましいたちのために祈り、主のしもべたちを派遣し、福音を宣べ伝えるために、財政的に献身しなければなりません。




第三、聖徒に御国を受け継がせる。

第三に、聖書は、私たちが神様の御前で奉仕者、証人として召されて、遣わされてキリストの福音を宣べ伝えることにより、暗やみから光へ、サタンの権威から神様のところへ人々を呼びよせると、その結果、イエスの中で神様が御国を受け継がせると言われました。ただの宗教を信じているのではありません。キリストの中で私たちに御国を下さると言われたのです。私たちはイエス様を信じると、イエス様の中で新しい被造物になるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

サタンのしもべになり、罪と悲しみと呪いと苦しみの中でもがいている古い人は清算され、イエス様の中で新しく創られるのです。「ローマ人への手紙 6章 4節」にも、『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』と書いてあります。

新しいいのちとは何でしょうか。新しい正体性を指します。私たちはもはや正体不明な人々ではありません。私たちの正体がはっきりとされた人であります。私たちは新しいいのちつまり、赦しと義と栄光を受けた人々となり、御霊を受けてサタンとこの世から解放され、聖なる民となり、イエス・キリストにより病と弱さから解放された人々となり、キリストを通して呪いから解かれ、アブラハムの祝福を受けた人々となり、イエス・キリストと共に死に、葬られ、キリストの内でよみがえり、御座に座り、復活した永遠のいのちを得た人々となったのです。

このような素晴らしい御国を私たちが得ました。皆さん、今日私たちは主の中で御国を受け継いだ者であります。イエス様を信じて何も持っていない人ではありません。私たちは義と栄光を持っています。聖霊と聖を持っています。これが御国であります。癒しと健康を持っています。アブラハムの祝福を受け、キリストの血統を持つ人となりました。私たちは復活と永遠なる祝福を持って、天国に家を持っている、御国を受け継いた人々であり、何も持っていないホームレスではないのです。

その上、キリストの中にあって新しい身分を獲得しました。「ペテロの手紙 第一 2章 9節」に、『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』と記録されています。

皆さん、皆さんと私は素晴らしい、新しい身分を得ました。皆さんは捨てられた人ではなく、神様から愛され、多くの人々の前で選んでくださった身分を持っています。そして神様は皆さんをキリストの中で、王、祭司にしてくださいました。皆さんをこの世で罪とサタンと呪いと絶望を治める王にしてくださり、神様に仕える祭司としてくださいました。

主はまた、皆さんを聖なる国民としてくださいました。この世に属したサタンの民ではなく、天国に属し、父と子と御霊がおられる聖なる国の民としてくださり、神の所有とされた民にしてくださいました。皆さんと私は今や全知全能で無所不在なる神様の所有となりました。神様が私たちの主人であり、私たちは彼の所有となって、神様のふところで生きるようになったのです。素晴らしい、新しい身分を得ました。

「ガラテヤ人への手紙 4章 6節〜7節」に『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』と書いてあります。

天地万物を神様がキリストに相続される時、皆さんはイエス様と共に相続を受ける者となったのです。ですから、私たちが新しい身分を獲得し、正体が確実になった私たちに主は、「ヨハネの手紙 第三 1章 2節」に言われたように、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と言われるのです。

私たちが救われたのは、神様の奉仕者、証人になるためです。これを通して国内外でサタンと戦い、たましいを救って、イエス様の中で用意された、この世と天国での祝福を受け、神様の御国を建てるためのものであります。このような目的のもと、私たちをこの世から呼ばれて、神様の栄光に、御子の国に移してくださったのです。

聖書は私たちに言われます。「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また 証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」

これが、今日私たちに与えられた使命であります。私たちが宣教大会を開き、毎年、宣教師たちのために祈り、宣教献金をするのは、このような主の聖なる摂理を成し遂げるためであります。皆さん、皆さんは普通の人ではありません。主が皆さんに「起き上がって、自分の足で立ちなさい。」と言われました。もはやこの世の人ではありません。キリストに従って起き上がらなければなりません。主は皆さんの主の命令通りに奉仕者となり、証人なることを願っておられます。

皆さんが誠実な奉仕者、しもべになると、皆さんを通して神様は多くの人々を暗やみから光へと導き、サタンの権威から神様のところに導いてくださって、イエス様の中で素晴らしい御国を受け継ぐことを願っておられます。




お祈り

栄光に満ちた、聖なる我が父なる神様!

主が私たちを呼ばれた目的は、私たちを奉仕者と証人とされて全ての国々に遣わして、人々を伝道し、暗やみから光へ、サタンの権威から神様のところへと導いて、彼らに主の中で御国を受け継がせ、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である、素晴らしい神様の摂理をなすためであることを知っています。

父なる神様、この働きをするために、私たちが宣教大会も開き、宣教師も派遣し、宣教のために献金も捧げます。

父なる神様よ、私たちに祝福を与えてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン!