教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「すべてを働かせて益としてくださいます」
 






■聖書箇所

「ローマ人への手紙 8章28節」
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。




私は今日、皆さんとご一緒に、『すべてを働かせて益としてくださいます』と言う題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

人間的観点から見るとき、「キリスト教」信仰は大変に逆説的である場合が多いです。言い換えれば、人間的に見るとき、失敗したようですが成功し、不幸なようでありますが終局には幸福になり、悲しいことのようですが喜ばしくなり、悪い便りのようですが素晴らしい便りになり、駄目なように見えますが立派な結実を得るようになるのが、私たちの「キリスト教」信仰なのです。

私たちが神様に対する確実な夢と信仰を持っていたら、神様が共に居てくださり、みわざを働かせてくださって、創造的な大逆転の奇蹟を私たちの生活の中に現してくださるのです。




第一、ヨセフの夢と信仰

その代表的な例が、ヤコブの11番目の息子であるヨセフの生涯の中によく現われています。ヨセフは夢と信仰の人でありました。ヨセフはヤコブの12人の息子の中で、ラケルが最初に生んだ11番目の息子です。ヤコブは特にヨセフを愛し、ヨセフを心の中で自分の後継者にしようとしていました。なぜかと言えば、袖つきの長服は誰にも着せるものではありません。

後継者になる人には父親が袖つきの長服を着せ、そして他の兄弟たちと同じく労働をさせはしません。ところがヤコブは、ヨセフに袖つきの長服を着せ、兄さんたちと一緒に労働をさせはしませんでした。それでヨセフの兄さんたちは、ヨセフに対する差別待遇のために心が穏やかでなく、内心ヨセフを憎んでいました。

ところが或る日、ヨセフが夢を見ました。夢の中で見ると、ヨセフとその兄さんたちが畑で束を束ねていましたが、突然、ヨセフの束が立ち上がり、真っ直ぐに立っていました。すると兄さんたちの束が回りに来て、ヨセフの束に向かっておじぎをしました。夢から覚めてからヨセフは良い気分で、朝の食卓の前で夢の話を兄さんたちにしました。

「兄さん、兄さん、私の夢の話しを聞いてください。夢に、私たちが畑に出て行って束を束ねていましたが、私の束が立ち上がって真っ直ぐに立ち、兄さんたちの束が回りに来て、私の束に向かっておじぎをしましたよ…。」それを聞いた兄さんたちが一斉に怒りました。「何だと?お前は特別に袖つきの長服を着ていい気になっているが、今度は私たちを治める王になって、兄さんたちを支配しようとでも言うのか…?」兄さんたちはヨセフをますます憎むようになりました。

ところがヨセフがまた、ほかの夢を見ました。ヨセフが夢の中で、空を見上げていました。すると太陽と月と11個の星が現われて、自分を伏し拝みました。それでその日の朝の食事のときに、ヨセフが兄さんたちにその話をしました。「兄さん、兄さん、私の言うことを聞いてご覧よ。」「何だ、また?」「夢に、私が空を見上げていると、太陽が昇っており、月がその傍にあったんですが、そこに11個の星が現われてずらりと並んでから、みんなが私を伏し拝んでいたよ…。」朝の食事の時間が、ヨセフに対する兄弟たちの怒声でめちゃめちゃになってしまいました。

ヨセフの兄さんたちが、今にもヨセフに飛びかかって殴ろうとする剣幕なので、父親であるヤコブが中に入って、ヨセフを叱りました。「お前の見た夢は、いったい何なのだ?太陽と月と11個の星が進み出て、お前を伏し拝んだと…?太陽と月とは、私とお前の母親の事じゃないか。私と母親が地に伏してお前を拝んだ…?馬鹿な、黙っていなさい。そんな夢はまたと見るんじゃない。」そう言いながらも、父親はこのことを心に留めておりました。

そのときから、兄さんたちはますます弟ヨセフを憎むようになりました。しかしヨセフは、これらのことを通して彼の心の中に壮大な夢と信仰を得ました。ヨセフの兄さんたちは、信仰には別に関心がありませんでした。野に出て行って父の羊の群れを飼い、遊び戯れ、猟などを楽しみました。神様を思い、夢見、信じることなどは、別に心に留めておりませんでした。

しかしヨセフは、彼の父ヤコブにならって心の中から神様を畏敬し、夢見た二つの事柄が彼のたましいの中に深い印象を残すようになりました。そして、その夢によって彼の心の中に強い信仰が生じるようになりました。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と、聖書に言われました。彼の心の中に将来を見つめ、目に見えないものを確信させる信仰がなされ始めたのです。

「ローマ人への手紙 8章24節〜25節」に、『私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。』と記録されています。ヨセフは切な心で、自分の夢が成就されることを待ち、その夢が必ず成就すると言う信仰を持っていました。

皆さん、神様は夢と信仰のある人を通してみわざを働かせられます。鷲がどのようにして飛んで行くでしょうか。両翼を羽ばたいて飛んで行きます。人はどのようにして高く飛び上がることができるでしょうか。夢と信仰の翼を羽ばたいてこそ、天の御座に向かって上って行くことができるのです。いくら風が吹いても、船の帆を揚げて風を受け入れなければ船は波に揺れるだけで、進もうとはしません。しかし帆を高く揚げて風を抱くようにしたら、船は滑るように進んで行きます。

風の力を借りようとするなら、帆を高く揚げなければならないが如く、聖霊さまの力を借りたいなら、夢と信仰の帆を高く揚げなければなりません。心に夢と信仰がなかったら、聖霊さまがいくらみわざを働かせて上げようとしてもみわざを働かせて上げることができないのです。夢がない民は滅びる、と聖書に記録されています。

夢は勇気と信仰を与えてくれます。夢を持っている人は、害をこうむるとか、口惜しい濡れ衣を着せられるとか、火のような試練や苦難に会っても、結局は神様の御力によってこれを克服し、打ち勝つことができるようになるのです。夢見る者、人たちにはおかしく思われるかも知れません。しかしその夢と信仰は、人生を逆転させる大きな力を持っています。

 ある夫が、自分の奥さんに向かって「あなたは夢を見る人だよ。」と言ったとしましょう。それは凄い賞賛なのです。また奥さんが、旦那さんに向かって「あんたは夢が多い人なのね。」と言ったとしたら、それも凄い賞賛です。人が外見上はみな同じく見えても、内容が違ったらその人の将来は違うようになるのです。

その内容が何でしょうか?立派な服装をしており、化粧をしていて、きれいな善男、善女であるとしても、中に何があるか、それが重要です。心の中に夢があり、信仰の持ち主であるとしたら、その人は聖霊さまの助けによって前に…前にと前進して行くことができます。そかし、外見はいくら立派であっても、夢と信仰と言う内容がなかったら、その人には明日がありません。

ある若い漫画家が自分の絵を持参して、あっちこっちと新聞社を訪問して回りながら連載してくださいと頼みました。ところがどの新聞社も、彼の絵を認めてくれませんでした。ある新聞社では、彼の持参した絵を見てから「あんた、こんな絵では、絶対に飯食って行けませんよ…。」とまで酷評しました。しかし彼は心の中に、偉大な漫画家になれる、と言う夢と信仰を持っておりました。

しかし、彼はあまりにも貧しいので、誰のものかも知らないがらんと空いた倉庫で寝起きしながら、安いパンで腹を満たしました。或る日、パンを食べているとき、パン屑が床に落ちました。するとどこから出て来たのか、ハツカネズミが現われてパン屑を拾って食べました。そして又くれとでも言うように、前足を両手のようにして揉みながら彼を見上げました。彼がパンを少し千切って与えました。するとネズミは嬉しそうにそれを貰って食べました。

彼はネズミに言いました。「おい、ネズミくん。世の中には僕たちのように貧乏に苦しみながらへった腹を抱えて生きている人がどんなに多いか知らないよ。彼らのために、お前の愛らしい姿を漫画で描いたら、みんな喜ぶだろうな…。」そのネズミから霊感を得た彼は、漫画を描き出しました。彼のその漫画が旋風的な人気を得ました。漫画でだけでなく、映画化されてアメリカ全国は勿論、全世界に話題を沸騰させました。その映画の題目が「ミッキー・マウス」です。

この「ミッキー・マウス」と言う漫画を描いた人が、ワールト・ディズニーです。彼は倉庫の中で涙を流し、パン切れを食べながらも、夢と信仰を捨てなかったのです。いつかは世の中を変化させる力が自分から湧き出るであろうと、彼は信じました。それが実に、パン屑を欲しがって近寄って来たネズミからヒントを得るようになったのです。

彼が「ミッキー・マウス」を通して世界的な漫画家になり、それから映画制作者にもなり、遂には億万長者になって、1955年に、彼は世界的名物であり、夢と幻の遊園地である「ディズニー・ランド」を建設するようになりました。ですから皆さん、ご覧ください。夢と信仰があったらどんな逆境に置かれていても、その人には、神様がすべてを働かせて益となるようにしてくださるのです。




第二、貴公子から奴隷になったヨセフ

この貴公子ヨセフも同様です。ヨセフは、心の中に夢があり信仰がありましたので、兄さんたちとは人生の内容が違いました。兄さんたちは弟を憎み、弟を殺してしまおうと思いましたが、夢と信仰があったら聖霊さまが共に居られてみわざを働かせてくださるのです。

ある日、父親がヨセフを呼んで言いました。「さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ…。」それでヨセフが、「はい。行って参ります。」と答えて、袖つきの長服を着たまま兄さんたちがいるシェケムに向かいました。

ところが「創世記 37章18節〜20節」を見ますと、『彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。 彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。 さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」』と記録されています。

「見ろ。あの夢見る奴がやって来る…。」と、彼らは嘲笑いながら言いましたが、「夢見る奴がやって来る。」と言うことは、「神様の人がやって来る。」と言うことと同じ意味です。皆さん、夢見る人になれば、神様が共にいてくださるのです。

「あ、私の妻は夢見る人だ。」【神様が共に居てくださる妻だ。】「私の夫は夢見る夫です。」【私の夫には神様が共に居てくださいます。】「私たちの子どもは夢見る者です。」【私たちの子どもには神様が共に居てくださいます。】なぜ?夢の帆を上げれば聖霊の風が吹いて来るからです。ヨセフの兄さんたちは「夢見る者がやって来る…」と嘲笑いましたが、ヨセフは神様と一緒に訪ねて来たのです。

「創世記 37章20節」に、『さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。』と記録されています。ご覧ください。「あの夢見る者を殺し、どこかの穴に投げ込んで、あれの夢がどうなるかを見よう。」と、兄さんたちは夢に対して挑戦状を投げました。

人が夢と相撲をとったら、勝つだろうと思いがちですが、負けます。なぜ?夢は四次元の世界であり、人間の知恵と聡明と明哲と力と手段は三次元の世界であるからです。夢と戦って勝つことはできません。ヨセフの兄さんたちは、ヨセフを殺してしまい、ヨセフの夢がどうなるかを見よう…とたくらみましたが、却ってその夢は、ヨセフの兄さんたちのはかりごとを、将来、ヨセフが神様の御心通りに生きて行く道を備える道具にしてしまったのです。

彼らはヨセフが近づいて来るや飛びかかって、ヨセフの袖つきの長服を剥ぎ取り、ヨセフを捕えて穴の中に投げ込みました。ところがその穴は、水がない穴でありました。既に、この世がある前に神様はヨセフの夢と信仰を見抜いて、その穴に水がないようにしておかれたのです。ヨセフの兄さんたちは声を出して笑いながら食事をしました。

そして、「水がないんだから溺れ死にはしないだろうけれども、私たちがここを去ったら、あ奴はこの荒野の穴の中でひとりで声を出して泣いてから死ぬだろう。夢も信仰も、これでヨセフと一緒に弔ったんだよね。夢見たことを自慢していたが、結果はこんなものだ…。」彼らはこのように言い合いながら笑いましたが、夢と信仰を通して神様はヨセフと共に穴の中に居られました。

丁度そのとき、ミデヤンの商人たちがそこを通りかかりました。ミデヤンの商人たちは、ギルアデに行って樹膠と乳香と没薬とを仕入れてからエジプトに下って行って売っていました。商人たちを見たヨセフの兄さんたちは、「そうだ。あ奴を穴の中で死ぬようにするよりは、奴隷として売り飛ばしたほうが良いじゃないか…?」兄弟たちが合意してそうすることに決め、彼らはヨセフを穴から引き上げて、銀二十枚でミデヤンの商人たちに売り飛ばしてしまいました。それでヨセフは裸のままで泣きながら、エジプトに引っ張られて行きました。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださいます。悲劇も、喜劇も、悲しみも、喜びも、成功も、失敗も…、すべてを働かせて神様が終局には神様の御心が成就するようにしてしまわれるのです。なぜか?夢と信仰には神様のみわざが現われるからなのです。

エジプトの奴隷市場でヨセフは売られる奴隷の立場におりました。丁度そこへ、エジプトの王パロの廷臣で侍従長のポティファルが、奴隷が必要なので物色するためにやって来ました。見ると、ヘブル人の若い奴隷が目に付きました。人物も良く、血色も良く、健康なヘブル少年でしたので、多額を払って買い取りました。そして自分の家に連れて帰りました。彼の家の奴隷の中では一番の後輩奴隷でありました。その若い奴隷は先輩の奴隷たちから無視され、酷い扱いを受けました。

昔の奴隷の生活と言うものは、動物よりも劣っていました。殴り殺しても、誰も文句を言う人がありません。ヨセフは奴隷の中の奴隷として主人に仕えていましたが、非常に珍しいことには、ヨセフがすることはいつもすべてが難なく済み、立派に成功し、結果がすばらしいものでありました。それは神様がいつも彼と共に居てくださったからです。

それを見たポティファルは、ヨセフに感心してしまいました。それでヨセフの階級をだんだんと高めて上げました。ついには、今までなかったことですが、奴隷であるヨセフを主人である自分の側近の者とし、家全体を管理させ、彼の全財産をもヨセフの手に委ねました。今まで全くないことでありました。ヨセフは奴隷でありながら他の奴隷たちを支配し、主人の家庭全般を管理するようにまでなりました。

「創世記 39章 4節〜5節」を見ますと、『それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。』と記録されています。

夢と信仰があったら、何をしても神様が共に居てくださいますので成功するようになります。奴隷であっても卓越な奴隷になるようにしてくださるのです。ヨセフがポティファルの家と全財産を管理するようになってからは、神様がヨセフの故にポティファルの家を祝福されたので、ポティファルの家は益々栄えて行きました。それで、ポティファルはヨセフを凄く愛しました。

ところが、好事魔多しと言いましょうか、ポティファルだけがヨセフを愛するのであったら良かったのですが、ポティファルの妻もヨセフが好きで好きで堪らなくなりました。ヨセフは美男子で、体格も良かったと聖書に記録されています。ポティファルの妻は、ヨセフに立派な着物も作って着させ、ポティファルが外出して家に居らないときには、家の中に呼び入れて特別料理もご馳走させ、ついには艶麗な姿態で「私と寝ておくれ。」と言い寄るようになりました。しかしヨセフは、それは悪事であることをポティファルの妻に説得させようと努力しました。

「創世記 39章 8節〜10節」に、『しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。』と記録されています。

皆さん、ポティファルの妻が1〜2回言い寄ったのではありません。毎日のことであったのです。ところがある日、ポティファルの妻がまたヨセフを呼ぶので、ヨセフが母屋に入って行きました。すると主人の妻が、突然、ヨセフに抱きつきました。そしてぴったりと身を寄せて来ました。そのとき、家の中には誰も居らず、見る人はひとりもいませんでした。ポティファルの妻は、目を潤ませ、熱い息を吐きながら、「私と寝ておくれ。」と哀願するが如くにヨセフの首に抱きついて、その耳元に囁きました。

ヨセフは身をひるがえしました。そして彼女に背を向けて外に逃げ出しました。そのときヨセフの上着が、それをかたく掴んでいたポティファルの妻の手に残りました。邪恋は拒まれたら憎悪に変化するものです。ポティファルの妻が突然、大声を張り上げて人たちを呼びながら、「助けてくれ〜っ!」と喚き出しました。それを聞いて、家の者どもが家の中に入って来ました。

ポティファルの妻は継続して、涙を流しながら喚き立てました。「あのヘブル人の奴隷が、私を強姦しようとして家の中に入って来ました。あの奴隷が私と寝ようとするので、私は大声をあげて叫びました。それで、あの奴隷は驚いて、自分の上着を残したまま、外に逃げて行きました…。」ポティファルの妻は、ヨセフの上着をみんなに見せました。ポティファルも帰って来ました。

ヨセフが呼び出されました。弁明の余地がありません。真実を明かしてくれるべき人もありません。見た人が誰もなく、証人もありません。家の中ではポティファルの妻がヨセフの上着を振りかざしながら、継続して大声で喚き、泣き叫んでいました。「あの奴隷の奴が、私と寝ようとして侵入して来て…。」ヨセフは何も言うことができませんでした。何か言っても、信じてくれる人もないだろうし、ポティファルの妻が自分の上着を証拠として振り回しているのですから、弁明の余地が全くありませんでした。

ヨセフは、主人の妻を強姦しようとした罪に定められてしまいました。主人ポティファルが黙っているはずがありません。当時は奴隷を殺しても殺人罪に問われることがない時代でありました。聖書には書いてありませんが、主人ポティファルはヨセフを思う存分に殴り付け、蹴っ飛ばし、鞭で打ち、死の目に会わせたに違いないと想像することができます。ヨセフは血みどろになるまで踏み躙られたに違いありません。




第三、もっとも暗い時期

そして主人ポティファルはヨセフを捕えて、自分の家の庭にある、王の囚人が監禁されている地下監獄にぶち込みました。そこは政治犯を収容する監獄で、そこに入れられたら死ぬまで出てくることができないと言われているところです。皆さん、ヨセフが如何に絶望したことでしょうか。ところがそのような絶望の中でも、ヨセフの心の中には神様を待ち望む夢と信仰がありました。神様はそのような絶望も有益となるようにみわざを働かせてくださるのです。

この頃韓国では、政治家や財閥のオーナーが自殺した事件が相次いで起こりました。絶望のあまり脱出口が見つからないので、彼らは自殺の道を選んだのです。ヨセフは自殺してあまりある絶望に落ち込みました。17歳のときに父の膝元を離れ、奴隷となって売り飛ばされ、10年の間奴隷生活をしました。環境が少し良くなったと思うや、とんでもない濡れ衣を着せられて、一度入ったら出られないと言われている、王の囚人が監禁される地下監獄にぶち込まれましたので、絶望するしかありません。

しかしヨセフは、夢があり、信仰がある人でありました。いくら暴風雨が吹き荒れても、目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、そして前途が漆黒のような真っ暗闇であっても、彼の心の中の夢と信仰は消え去りませんでした。夢を抱いて、信仰を持って、ヨセフは監獄に入るようになったのです。皆さん、夢とはどんなに重要なのか知れません。

ビクトル・フランケル博士が書いた「意味を探す人間の探索」と言う本があります。フランケル博士は有名なオーストリアの精神医学方面の学者で、ヒットラーのナチに捕えられて捕虜収容所に監禁され、九死に一生の奇蹟で生き残った人です。彼はその本に、「ナチの治下で、600万のユダヤ人たちが死んで行くとき、希望を放棄した人たちは心身が衰弱していき、遂には死んだが、最後まで希望を失わなかった人たちは、生き残った。」と記述しています。

また自分だけではなく、絶望の中にいる同僚たちに希望を持つようにと激励した人は、恐ろしい拷問にも屈せず、心身が健康で、生きて出てきたと、その本に彼は書き記しています。希望はこんなにも驚くべきものです。夢と信仰を持っていたら、どのような運命も環境もその人を挫折させることができません。

ヨセフは、彼の人生の中でもっとも暗い時期を過ごすようになりました。王の囚人が監禁される監獄に閉じ込められた罪人となったのですから、もう自由の身になれるという約束がありません。誰も訪ねて来てくれる人がなく、呼んでくれる人もなく、彼のために弁明してくれる人もなく、彼は永遠に捨てられた人になりました。しかし皆さん、どんな暗い時期に会ったとしても、神様が共に居てくださったら、神様は光となられ、いのちとなってくださるのです。

「創世記 39章21節〜23節」を見ますと、『しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。 それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。』と記録されています。

ヨセフが監獄の中にいても、神様はすべてに幸いを得るようにしてくださいました。ヨセフは囚人たちを立派に支配しました。神様が共にいてくださるからです。それで監獄の長は、監獄内での様々な管理業務をヨセフにすべて任せました。ヨセフは監獄の管理人になりました。そうした中で、エジプト王の献酌官長と調理官長が罪を犯して、その監獄に入って来ました。

皆さん、エジプト王の献酌官長と調理官長と言ったら、私たちは単純にお酒を注ぎ、調理をする任務の長だろうぐらいに思い勝ちですが、そうではありません。献酌官長は宮廷の中ではもっとも王の側近の側近なのです。王にお酒を注いで差し上げ、王の話し相手にもなって上げる役割をします。調理官長は王の食事を準備する任務の長です。王の食事の毒見もします。王が一番信頼する高級官吏です。そのような人たちとヨセフは、監獄の中で因縁を結ぶようになりました。

ある日、ヨセフが彼らの監房に入って行きました。すると彼らの表情が憂いでいっぱいです。いらいらしていました。それで、「何か心配事でもありますか?顔色が悪いですね…。」と聞きました。すると、献酌官長が答えました。「私たちが夢を見たんですが、それが何のことを意味する夢なのか、全く解き明かすことができません…。」ヨセフが彼らに言いました。「それを解き明かすことは、神様のなさることです。さあ、それを私に話してみてください。」

献酌官長が先に口を開きました。「夢の中で見ると、私の前に一本のぶとうの木がありました。そのぶとうの木には三本のつるがあり、ぶとうのふさが熟してぶとうになりました。私の手にパロ王の杯があったので、そのぶとうを摘んで、それをパロ王の杯の中にしぼって入れ、その杯をパロ王に捧げました。」ヨセフは彼に言いました。「その解き明かしはこうです。三日のうちに、パロ王はあなたを呼び出して、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたは再び献酌官長になり、王の諮問として勤めるようになるでしょう。」

そしてヨセフは、こう付け加えました。「あなたが幸せになった時には、きっと私を思い出してください。そのときには私に恵みを施してください。私のことをパロ王に話してください。そして私もここから出られるようにしてください。私は投獄されるようなことは何もしていません。実は私は、ヘブルからさらわれて来た者です。私は主人の奥さんを強姦しようとしたことがありません。私はとんでもない濡れ衣を着せられて、ここに入れられているのです。王様にお話しして、私が釈放されるように助けください…。」

このことを聞いた調理官長が、膝をにじり寄せて来て言いました。「私の夢の話しも聞いて下さい。夢の中で見ると、私の頭の上に枝編みのかごが三つありました。一番上のかごには王のために作ったあらゆる食べ物が入っていましたが、鳥が来て、私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまったのです。」ヨセフが彼に答えて言いました。「はあ〜、その解き明しはこうです。三つのかごとは三日のことです。三日のうちに、パロ王はあなたを呼び出して、あなたを木に吊るします。鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」

その日から三日目になるや、献酌官長は復権して王宮に入って行き、以前と同様に王に杯を捧げるようになりました。調理官長は呼び出されて処刑され、死にました。それから1日、2日、3日…と日が経ちました。1ヶ月が過ぎ、1ヵ年が過ぎましたが、何の便りもありませんでした。それから、また1年が過ぎました。献酌官長からは相変わらず何の連絡も便りもありません。

神様は、神様以外にはどの誰にも拠り頼むことを喜ばれません。ヨセフが監獄から出たら「献酌官長のお陰で出られた。」と言うに違いありません。神様のお陰とは言わないはずです。それで神様は、ヨセフが3年間もその監獄で過ごすようになさり、挫折と絶望に砕かれ、世の人に拠り頼んだことを悔い改めて、神様だけを待ち望むように、神様だけを信じるようになさったのです。皆さん、もっとも苦しく、もっとも暗い環境に落とし入れられても、神様だけに拠り頼み、神様だけを待ち望み、夢と信仰を失わなかったら、そのような中で神様はみわざを働かせてくださるのです。

1991年、アメリカ・カリフォルニアのイーストベイ芸術家村に大火災が発生しました。火の炎は100余名の画家と彫刻家の作品を瞬く間に灰にしてしまいました。彫刻家ハンガーは、15年の間真心込めて製作した作品をみな失ってしまい、画家たちの絵の具と美術工具はすべて灰に化してしまいました。他の芸術家たちはみな、絶望の夜に落ち込みました。「もう、希望がない…。」みんながベッドに仰向けになってため息を吐きました。

ところが彫刻家ハンガーは、火に焼かれた木と金属を材料にして新しい作品を作りました。火に焼かれた様々な材料で、彼は特異な絵の具を作って画家たちに提供もしました。このことを契機に村中の芸術家たちが生気を得て芸術作品を製作し、1年の後には火災芸術展を開催して、全世界を感動させる芸術村に変貌させました。ご覧ください。火に焼かれてすべてが灰になり、村全体が廃墟となり、絶望するしかない環境の中で、ただ一人ハンガーと言う芸術家が夢を捨てず、信仰を捨てなかったので、その廃墟の中で焼かれて曲がりくねった鉄くず、火の後の炭…、このようなものを持って彫刻品を作り、作品を製作して、世界最初の火災芸術展を開催し、全世界の目を引いて前よりももっと有名になり、もっと驚くべき作品を創作することができたのです。

絶望は、夢と希望を持った人たちには成功の基礎になるのです。もっとも暗い夜も、夢と信仰を持った人には、明るく新しい光を作り出すことができる基盤となるのです。ヨセフは実に、全く絶望的な監獄の中で3年の間も過ごしながら、彼の心の中には神様に対する明るい夢と確実な信仰が益々強くなって行きました。ヨセフは人に拠り頼むことを放棄しました。彼は献酌官長に対する期待をきれいに忘れ去りました。そうしたところへ遂に神様の摂理が現われました。




第四、現われた神様の摂理

ある日、パロ王が夢を見ました。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていました。するとナイル川から、つやつやした、肉付きの良い雌牛七頭が上がって来て、葦の中で草を食んでいました。するとその後を追って、今度は醜いやせ細ったほかの七頭の雌牛が川から上がって来て、その川岸にいる、肉付きの良い雌牛のそばに立ちました。そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやして良く肥えた七頭の雌牛を瞬く間に食べ尽くしてしまいました。そしてパロ王は目をさましました。

そうした後、パロ王はまた眠り、再び夢を見ました。見ると、肥えた良い七つの穂が、一本の茎から出て来ました。すると直ぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来ました。そしてしなびた穂が、先に出て来た肥えて豊かな七つの穂を飲み込んでしまいました。その日の朝、パロ王はあまりにも心が騒がしいので、エジプトのすべての呪法師と知恵がある人たちを呼び寄せて、夢の話しをして聞かせましたが、誰も解き明かす人がありませんでした。

そのとき、そばに居た献酌官長がパロ王に申し上げました。「その夢を解き明かすことのできる人を、私が知っています。かって、王がしもべ等を怒って、私と調理官長とを侍従長の家の監獄に入れられたことがあります。そのとき、私たちと一緒にヘブル人の若い奴隷が監獄にいましたが、彼が私たちの夢を解き明かし、私も調理官長も彼の解き明かしのとおりになりました…。」

パロ王は即座に、ヨセフを呼び寄せるように命じました。ヨセフはその日も監房の中におりましたが、突然、宮廷から高官たちが急いでやって来ては、彼を地下の監房から連れ出すので驚きました。彼らはヨセフを連れ出してからひげを剃らせ、立派な晴れ着に着替えさせました。「なぜ、私にこうなさるのですか?」「黙ってついて来い。」そしてヨセフは、パロ王の前に連れ出されました。

パロ王が言いました。「あんたは、夢の話しを聞いて、それを解き明かすと言うことだが…?」ヨセフは、「それは、私ではありません。神様が解き明かしてくださるのです。」と答えました。そこで、パロ王はヨセフに夢の話をして聞かせました。

ヨセフは、パロ王の夢の一部始終を聞き終えてから、答えて言いました。「王様が2回見た夢は、二つとも同じことです。神様がなさろうとすることを王様に示されたのです。七頭の立派な雌牛は七年のことであり、七つの立派な穂も七年のことで、それは七年の豊年のことです。それは同じ夢なのです。そして、そのあとから現われた七頭のやせて醜い雌牛は七年のことであり、東風に焼けてしなびた七つの穂も同じことで、それは七年の飢饉のことです…。

今すぐに、エジプトに七年間の大豊作が訪れます。それから、その後に七年間の非常にきびしい飢饉が起こり、エジプトの七年間の豊作はみな忘れられ、お国は滅亡に直面するようになります。夢が二度も繰り返されたのは、このことが神様によって定められ、神様がすみやかにこれをなされると言うことです。王様よ。今すぐに、聡くて知恵のある人を抜擢なさって、お国を管理するように早く総理に任じてください…。

そして、国中に監督官を任命して、豊作の七年間にそなえてください。これからの豊作の年のすべての食糧を集めさせて、王様の権威のもとに保管させるためです。その食糧はエジプトに起こる飢饉の七年間のためにたくわえるものです。エジプトが飢饉で滅びないためです…。」パロ王とすべての重臣たちが、これらのことを聞いて感嘆してしまいました。

そこで、パロ王が言いました。「神の霊が宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」パロ王は、ヨセフに向かって頼みました。「神がこれらすべてのことをあなたに知らせたのであれば、あなたのように、聡くて知恵のある人はほかにいない。さあ、私はあなたにエジプト全国を支配させる。あなたを国務総理大臣に任命する。」列席した重臣たちも心から肯きました。

パロ王は、自分の権威の象徴である指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめて上げました。そしてヨセフの首に、金の首飾りをかけて上げました。それから、自分の第二の車にヨセフを乗せました。エジプトの国民がみな、ヨセフの前にひざまずきました。ヨセフはこうして、大国エジプトの国務総理になりました。

一瞬、ヨセフは思ったはずです。自分が歩んできたすべての道が、今まではきりがない不幸な道であると思ったのだが、それが結局は、このような栄光をもたらすための道であったのだと。兄さんたちが私を奴隷として売り飛ばしたのも、私がエジプトに来るための神様の摂理であったのだ。奴隷になって10年間も苦労したのに、そして少しは楽に暮らすことが出来かけたのに、ポティファルの妻から濡れ衣を着せられて王の侍従長の家の地下牢に監禁されたのも、神様がこのことをなさるためのみわざの働きであったのだ…。その監獄の中で3年間苦しんだのも、むなしいことではなかったんだ…。

私がこんにち、エジプトの国務総理になったのだ。ヨセフはエジプトの国務総理に任命されてから、その間の辛かった日にちが走馬灯のように通り過ぎて行きました。そして、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、現実の中で切実に悟ることができました。

ヨセフは、王宮で出してくれた朝服を着ました。頭には冠をかぶせられました。そして王宮から外に出て来ました。すべての家臣たちが彼の前にひれ伏しました。ヨセフが王の第二の車に乗るや、侍従長ポティファルもそばに来て、ヨセフの前にひれ伏しました。ヨセフの運命が一転したのです。歴史上、奴隷が国務総理になったのは、ヨセフ以外にはなかったであろうと思います。

ヨセフが国務総理に任命されてから豊作の七年間、エジプトの地は豊かに生産しました。その間ヨセフは、すべての食糧をことごとく集めて、各々の町々に建てた穀物倉庫にたくわえました。そうした後に、ヨセフが言ったとおりに七年間の飢饉が来始めました。国民は何も蒔くことができませんでした。何一つ刈り入れるものがありませんでした。ひどい旱魃でありました。

エジプト全国が飢え出しました。国民が食物を求めて叫び出しました。ヨセフは穀物の倉庫を開けて、国民たちに売りました。世界中の人たちが穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来ました。彼らにも穀物を売りました。国民たちが食べられるようになったので、みんなが喜びました。ヨセフは穀物を売ったお金をパロ王に納めました。パロ王は満面笑顔で嬉しがりました。

カナンの地にも飢饉が訪れて食物がなくなり、生活が非常に困難になりました。ヤコブの息子たち即ち、ヨセフの兄さんたちが、エジプトには穀物があると聞いて穀物を買うために下って来ました。彼らはエジプトの国務総理の前に平身低頭しました。「お前の夢がどうなるか、見よう。」と言っていたヨセフの兄さんたちが、その夢通りにヨセフの前に出て来てひれ伏し、頭を下げたのです。彼らはエジプトの国務総理がヨセフであるとは全く知りませんでした。

「創世記 42章 1節〜6節」に、『ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。』と記録されています。

奴隷として売り飛ばされたヨセフが国務総理になっていようとは、彼らは知る由もありませんでした。しかしヨセフは、兄さんたちが自分の前にひれ伏すのを見て、自分の夢を思い起こし、神様が自分の夢を成就させてくださったことに、再三感謝しました。ヨセフは、過去13年間のすべての悲痛、不幸、絶望、苦痛…が、一瞬にして消え去るのを実感しました。

その後、父ヤコブが死にました。ヨセフの兄さんたちは、「父が生きていたときには、ヨセフは我々に報復することをしなかったが、もう父が亡くなられたから彼は我々を恨んで、我々が彼に犯したすべての悪の仕返しをするかも知れない…。」と言いあい、ヨセフを恐れました。それから、彼らはヨセフのところに来て、こう言いました。

「創世記 50章15節〜17節」に、『ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。』と記録されています。

ヨセフは、心が温かい人でありました。兄さんたちが恐れをなして、つくり話を言い出すのを聞いて兄さんたちをかわいそうに思い、涙を流したのです。長い間の試練の末に兄さんたちに対する愛情が乾き切って、兄さんたちに親身の情を感じるはずがありません。歯ぎしりをし、腕まくりをして口惜しがりながら報復しても足りない兄さんたちでありました。その兄さんたちの言うことを聞いてヨセフは泣いたのです。「ヨセフは彼らの言葉を聞いて泣いた。」と聖書に記されています。

「創世記 50章18節〜20節」を見ますと、『彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」』と記録されています。

ヨセフは、兄さんたちを恨みませんでした。脅迫したりしませんでした。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、私と共におられる神様はそれを良いことのための計らいとなさり、大逆転させて、今日のように多くの人々を生かすようになさいました…。」ヨセフは、心の中に夢と信仰を持っている、内容のある人でありました。ヨセフの夢と信仰に従って、神様はすべての悪を良いことのための計らいとなさり、変化させて、こんにち、エジプトと全中東を生かす立派な働きをするようにしてくださったのです。

「ローマ人への手紙 8章28節」の御言葉です。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』皆さん、この御言葉を覚えて、いつも口ずさんでください。

リンカーン大統領の履歴書を見ますと、実に神様の御言葉は真実であることを知ることができます。米国第16代大統領アブラハム・リンカーンは、末永くアメリカの歴史上大いに尊敬されている大統領です。しかし彼は、1831年に着手した事業に失敗しました。1832年には、州下院議員に出馬しましたが、落選しました。1833年に、また事業に失敗しました。1834年には、幸いにも州下院議員に当選しました。1836年には、神経衰弱で倒れました。1938年、州下院議長に立候補しましたが落選しました。

1840年に、選挙人団に出馬しましたが落選しました。1843年には、連邦上院議員に出馬しましたが落選しました。1846年、幸いに連邦下院議員に当選しました。1848年には、連邦下院議員に再立候補しましたが落選しました。1856年、副大統領に出馬しましたが落選しました。1860年に、遂にアメリカの大統領に堂々と当選したアブラハム・リンカーンです。

ある日、記者たちがリンカーン大統領に質問しました。「大統領閣下、あなたの驚くべき成功と尊敬される人生の秘訣は何ですか?」リンカーンは頭をたれて暫くしてから、次のように答えました。「それは、簡単です。私は人生を暮らしながら数多くの失敗を繰り返し、様々な苦い経験をしました。私が生きて来ながら失敗をし、苦い経験をした、そのすべてがこんにち、私を人間らしい人間になるようにしてくれました…。」

そして彼は、このように付け加えました。「私が幼かったとき、私の母は、私を膝の上に乗せて聖書を勉強させました。その中で、今も憶えている聖書の御言葉があります。『ローマ人への手紙 8章28節:神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』と言われたここです。私は、私が苦い杯を飲み、意外と落選し、苦痛を味わう度ごとに、この御言葉を思い出しては口ずさみ、夢と信仰を胸の中に力強く抱きしめました。その結果、今日、私はアメリカの大統領になりました。

失敗も絶望も挫折も敗北も、神様はすべてのことを働かせて益としてくださる...と言う思想が、リンカーンを成功させてくれた、と言うのです。こんにち、私たちも同様です。私たちが、私たちのために十字架に釘付けにされ、身を裂き血を流して死なれてから、よみがえられたイエス様を信じ、夢と希望を失わなかったら、真っ暗い死の陰の谷を歩くことがあっても私たちは災いを恐れず、主が御手にあるむちで私たちを救い出してくださり、杖で保護してくださるのです。そして神様は、私たちがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしてもあふれるまで得るようにしてくださるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、わが父なる神様! 私たちはこの世を暮らしながら、大小様々な失敗もし、絶望することもあり、挫折もしたり、敗北して落胆することもあります。しかし、私たちが主キリストに対する夢と信仰があったら、神様はこれらすべてを働かせて益としてくださいます。

主は、天と地のすべての権威を持っておられ、人生の生死禍福を主張なさり、大逆転の奇蹟を施される神様です。

全知全能であられる、わが天のお父さま! 私たちはヨセフの一生を記憶しています。私たちもこんにち、たやすく落胆したり、後ろに退いたりしないように助けてください。目を開いていつもキリストを見上げ、夢と希望と信仰を失うことがないように助けてください。

主イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン!