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「これらの骨は生き返ることができようか」
 






■聖書箇所

「エゼキエル書 37章 1節〜10節」
37: 1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
37: 2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
37: 3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
37: 4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
37: 5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
37: 6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
37: 7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
37: 8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
37: 9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。




今日、私は皆さんたちとご一緒に、『これらの骨は生き返ることができようか』と言う題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

神様は、祭司であり、預言者であるエゼキエルを幻の中で連れ出され、遠い谷間の真ん中に置かれました。木一本、草一本も周囲にはありません。そこにはただ骨が満ちていました。神様はエゼキエルをあちらこちらと行き巡るようになさいました。その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていて、とても人の骨とは言えないほどでありました。

そのとき、神様がエゼキエルに言われました。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか?」呆れ返るしかない質問でありました。人間の考えでは絶対に不可能なことでありました。それでエゼキエルは答えました。「神様がご存知です。」(私は知りません。)すると、神様が仰せられました。「エゼキエルよ。わたしの名によって預言して言え。干からびた骨よ。主の言葉を聞け。見よ。わたしがお前たちの中に息を吹き入れる。するとお前たちは生き返る。お前たちに筋がつき、肉が生じ、皮膚で覆われ、お前たちの中に息を与えると、お前たちが生き返る。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知ろう。」

それでエゼキエルは、自分の判断と自分の経験では絶対にできることではないと思いながらも、神様の命令ですから、その通りに預言しました。すると突然、大きなとどろきのような音がしました。そして骨と骨とが互いにつながり、人の骨と見えるようになりました。継続して見ていると、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆いました。しかし彼らは人として生き返りはしませんでした。

そのとき、主がまた仰せられました。「エゼキエルよ。息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神であられる主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ。」エゼキエルがその通りに預言しました。すると息が彼らの中に入りました。そして彼らは生き返り、自分たちの足で立ち上がりました。それは大きな集団であった、と聖書に記録されています。

これは、イスラエルがバビロンに捕虜として捕らえられて行って挫折しましたが、再び本国に帰って行って回復するであろう、と言うことを示しています。同様に、アダムの犯罪によって死んだ私たちが、イエス様の新しいいのちを得て生き返ることを意味する教訓でもあります。




第一、死で占領された世界

第1番目に、私たちが死で点綴されているこの世界、すべての人たちが干からびた骨のようになっているこの世界に、主が復活を与えてくださることが果してあるでしょうか?

皆さん、神様が造られた世界は、このような世界ではありません。「創世記 1章31節」に、『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。』と記録されています。神様がご覧になるとき、ただ良かったのではなく、「非常に良かった」のですから、この世界が如何に美しく、豊かで、素晴らしく造られたかを知ることができます。

神様が当初造られた世界は、こんにち、私たちが見るこのような世界、干からびた骨のような、こんな世界ではなかったのです。「詩篇 104篇24節」に、『主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。』と記録されています。主はこの世を、知恵を持って造られた多くのもので満たしてくださったのです。

こんにちのように、飢え、干からび、貧しく、苦しい世界に造られはしませんでした。この地に正義が満ち溢れ、聖が充満し、病気に罹るとか、悲痛なことがなく、呪いと貧乏がなく、死がなく、平和が溢れ、愛が充満し、喜びで満たされ、希望が満ち、神様の栄光が充満である世界を造って私たちにくださったのです。

しかし、この美しい地の主人であるアダムが神様に反逆して堕落し、自らを悪魔の奴隷として差し出しました。アダムの罪悪と悪魔が合作して、こんにち、私たちが見るこの凄惨な世界、干からびた骨のような世界にしてしまったのです。「ヨハネの手紙 第一 5章19節」に、『私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。』と記録されています。

全世界が悪い者の内にあります。悪魔が罪悪と共に踊り回って正義が死に、世の中が干からびた骨のようになるようにしました。祝福と豊饒が死んで、この世が干からびた骨のようになるようにしました。健康と生命が死んで干からびた骨のようになるようにし、永生が死んで干からびた骨のようになるようにし、平和が死に、愛が滅んで、世の中が干からびた骨のようになるようにしました。喜びが去り、希望が見えない、干からびた骨のような世の中になりました。神様の栄光が離れ去り、世俗で満たされた、干からびた骨の谷のような世界に変化させてしまったのです。

「エゼキエル書 37章11節」を見ますと、『主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。」』と記録されています。これが、こんにちの世の人たちのうめきであり、嘆きではないでしょうか。

実存主義的哲学者たちは、こう言いました。「人間は否定的で、絶望的存在である。」と。カテコールは、人間を「死に至る病人」と表現しました。カール・ヤスパスは、人間を「苦しみ、争い、死…等に取り囲まれて苦しみ悩んでいる存在だ」と言いました。また、ハイテクは、「死と言う癒される事の無い苦しみの中に立っている存在」だと言い、サルトルは、「人間は無能であるにも拘わらず、自分の存在に対して責任を負わなければならない不幸と苦痛を背負った存在である」と言いました。

私たちがこんにち、現実のあちらこちらを良く見回して見ますと、どこを見ても干からびた骨だらけです。この干からびた骨たちが互いにぶっつかり合って、轟くような音を出しているのです。

SBS・TV2004年3月20日のニュース・キャスターを見ますと、40代の息子が、病院費用が多くかかるとして治療中の老母を強制的に退院させてしまい、結局、その老母が捨てられて、死体となって発見されたと言います。非道徳極まりない干からびた骨の仕業です。また、39歳の息子が、1億ウオン相当の先祖の墓地がある郷里の山と銀行の預金通帳を自分の名義にしてくれとして、75歳の母親を真っ裸にして4日間も監禁し、鉄の槌で所構わずに殴りつけて死なせかけたと、YTN2004年3月14日のニュースが報道しました。

皆さん、これはみな破倫の干からびた骨たちです。このようなのを正常的なことだと言えるでしょうか。殺人の干からびた骨共がこの世にはいっぱいにいるのです。二人の義妹(妻の妹)たちが、お金の問題で義兄(姉の夫)を殺害した後に端山に捨てた事件が、中央日報2004年4月初の社会面に報道されていました。また、債権解決を依頼した30代の女性を誘引して4億ウオンのお金を奪い、殺して、ひそかに埋葬して捨てた事件が、YTN2004年4月4日のニュースで報じられました。

我が国だけで、1年に行なわれる堕胎施術件数が150万から200万に及ぶと言われています。4名中の1名が母親の腹の中で殺されていると言う統計です。恐ろしい殺人、巨大な胎児の墓が現実の社会なのです。これらが干からびた骨のような私たちの現実を実証しているのです。

こんにち、この世の人たちはお金を稼ぎ、儲けることであれば、どんな不道徳もいと安くやってのけます。世界的に有名なK製薬会社が、孤児たちを対象にして「エイズ治療薬」を実験しました。父母がいない孤児たちを連れて行ってエイズに罹るようにし、そしてその孤児たちを対象に「エイズ治療薬」の効果を実験したと言うのです。いかに非道徳的で非倫理的で惨いことでしょうか。

非人倫的な行為がこの世にどんなに蔓延しているか知れません。母屋で寝ている自分の実の娘を強姦し、家出した娘の友人をも強姦した嫌疑で40代の男性が逮捕されました。SBS・TV2004年4月5日の報道です。或る性暴力相談所が発表した統計によりますと、2003年度の近親相姦が、1992年度に比して大よそ18倍も増加したと言います。

息子の担任先生を誘惑して性関係を結び、恐喝してお金をせびり出した女性が逮捕された事件が、2004年4月6日に報道されました。これが、こんにちの私たちの現実的な状況です。私たちの生活が谷間の干からびた骨のようになりました。倫理も干からびた骨、道徳も干からびた骨、人情も干からびた骨、愛も干からびた骨、希望も干からびた骨…、すべてが干からびた骨になりました。




第二、これらの骨は生き返ることができようか?

第2番目に、今日、考えて見たいことは主のご質問です。「これらの骨は生き返ることができようか?」この干からびた骨たちが、生き返ることができようか?この世、この社会、この家庭が、住み良いところとなるだろうか?と言うことです。

皆さん、復活と言う言葉は、無いものが生れ出ると言う意味ではありません。復活とは、死んだものが再び生き返ることです。アダムと悪魔によって死んでしまったこの世が、再び復旧されて生き返ることが復活なのです。死の勢力を握っている者・悪魔がみんな死んでしまって、干からびた骨となった世の中と社会と家庭を神様が原状復旧させてくださるときが復活のときなのです。

神様は、エゼキエルに「これらの骨は生き返ることができようか?」と質問なさいました。そのとき、エゼキエルは余りにも呆れてしまって「神、主よ。あなたがご存知です。」と答えるしか、他に方法がありませんでした。

しかし、この干からびた骨たちを生き返らせるためにイエス様が来られたのです。イエス様は、宗教、哲学、儀式を与えるがために来られたのではありません。干からびた骨たちを生き返らせるがために来られたのです。アダムの反逆の罪を清算して、神様と人との間の「隔ての壁」を取り壊してしまい、神様の復活の霊が私たちに注がれることができるようにするために主が来られたのです。

「ローマ人への手紙 5章19節」に、『すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。』と記録されています。主が罪悪を取り除き、私たちを義の人とさせて、復活することができるようにしようとして来られたのです。

「ローマ人への手紙 8章11節」の御言葉です。『もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。』

死んだ人生である私たちを生き返らせる「復活の息」として、イエス様がこの世に来られたのです。ですから皆さん、私たちは、キリストの十字架の苦難を通して反逆の罪の代価をすべて支払いました。私たちが母親の胎の中で相続した罪、私たちの咎、生れてから犯したすべての私たちの罪をイエス様がみな清算してくださったのです。「コリント人への手紙 第二 5章21節」に、『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』と記録されています。

私たちの罪は主の通帳に入って行き、主の義は私たちの通帳に入って来ます。私たちが人生の通帳を開いて見たら、罪は一つも無く、イエス様のお恵みとお慰めだけでいっぱいになっているのです。イエス様が、お恵みと愛で私たちを罪から救い出して、永遠なる義の人生を得るようにしてくださったのです。主はお墓に入られてからよみがえられて、死に勝たれ、復活の息となられたのです。

こんにちイエス・キリストは、歴史的な人物ではなく、死に勝ってよみがえられた復活の息であられるのです。この世が干からびた骨で満たされて、エゼキエルの骨の谷となったこの地に、イエス様が復活の息として私たちをたずねて来られたのです。「ローマ人への手紙 1章 4節」に、『聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。』と記録されています。

「エペソ人への手紙 1章20節〜21節」を見ますと、『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。』と記録しています。

また「ローマ人への手紙 4章25節」に、『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』と記録されています。キリストがこの干からびた骨の谷に訪れて来られました。イエス様は、宇宙の向こうの遠い所に居られるのではありません。よみがえりであり、いのちであられるイエス様は、こんにち、エゼキエルの谷、干からびた骨のような私たちの胸の中に、私たちの家庭に、私たちの人生とこの世界に今、訪れて来て居られるのです。

主は、私たちの聖きをよみがえらせてくださいます。主は私たちに来られて、私たちが過去に犯したすべての罪をみな清算して、聖きで私たちを満たしてくださるのです。『あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』と、「コロサイ人への手紙 1章21節〜22節」に記録されているのです。

またイエス様は、正義をよみがえらせるために私たちの中に来られました。「ローマ人への手紙 4章25節」に、『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』と記録されています。主は、正義を私たちの胸の中によみがえさせるために来られたのです。

こんにち、主は健康といのちをよみがえらせます。「テモテへの手紙 第二 1章10節」に、『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。』と記録されています。今日、主は私たちの胸の中に入って来られて、私たちを死から救い出してくださり、私たちの肉体を疾病と死から救い出して癒してくださるのです。

「使徒の働き 4章10節」に、こう記録されています。『皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。』こんにち、よみがえられたイエス・キリストの御名の中には、復活の霊、いのちの霊で満ちています。キリストの御名によって霊も心も復活のいのちで充満になることができるのです。

主は、祝福と豊饒をよみがえらせるために私たちの中に来られたのです。「ヨハネの福音書 10章10節」に、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』と記録されています。よみがえられたイエス様は、干からびた骨の世界の中に豊かな豊饒を見せるために来ておられるのです。

イエス様は、私たちの中に永生をよみがえらせてくださいます。「ヨハネの福音書 11章25節〜26節」に、『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』と記録されています。このよみがえりであり、いのちであるキリストが、死でいっぱいに満ちている谷間に来られて、私たちに驚くべきいのちのよみがえりを与えてくださるのです。

また、平和をよみがえらせるためにイエス様はこんにち、来ておられるのです。私たちの胸の中には不安と挫折と絶望があり、万人が万人を敵対し、民族が民族に敵対し、国が国に敵対して戦っているこの世界には平和がありません。しかしこのような世の中に、イエス様は平和をよみがえらせるために来られたのです。

イエス・キリストが来られたら、平和の王として私たちを支配してくださいます。「コロサイ人への手紙 1章20節」に、『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』と記録されています。私たちはイエス・キリストを通して平和を保つことができるのです。

或る執事さんが言われました。同じ教会に出席している一人の執事さんが憎くて憎くて堪らなかったと言います。その執事さんを見たら、捧げていた祈りも止まり、「あの執事が天国に行ったら、私はそんな天国には行かない…。」と思う程であったそうです。そんなにも憎くてたまらない執事でありましたが、夢の中でイエス様の御手が現われたと思うや、その御手が彼の目をふさいだと言います。ところがイエス様の掌の釘の跡に穴が開いているので、その穴を通して見ると、相手の執事さんが見えました。そのとき、その執事さんがそんなにもきれいで美しく愛しかったと言います。

イエス様が手を引かれるのと同時に、執事さんは夢から覚めました。「私の目で見るときには、死んでくれたら良いとまで、表現ができないほどに憎い執事だが、イエス様はその人をきれいで美しく愛らしい人と見られるんだ。他人(ひと)はイエス様の愛を通して見なければならないんだ…。」その時から、相手の執事さんに会ったら「イエス様の掌の釘の穴を通して見よう」と努力するようになり、それからは相手がきれいで、美しく、愛らしく、貴重な存在であると認識され、遂に二人は非常に仲良しになった、と言います。イエス・キリストは、私たちに平和を復活させてくださるために来られたのです。

イエス様は、私たちの中に愛をよみがえらせようとして来られました。「ローマ人への手紙 5章 5節」に、『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』と記録されています。キリストは愛を復活させるために私たちの中でみわざを働かせてくださいます。

イエス様は、私たちの中に喜びをよみがえさせるために来られました。「コロサイ人への手紙 1章11節」に、『また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、』と記録されています。

私たちの心の中に喜びがあってこそ、苦難に勝つことができるのです。喜びの体験がなかったら、苦難に勝つことができません。主は私たちに復活の喜びを持って来られました。私たちの心の中に喜びを満たしてくださることによって、私たちが生活に襲って来るすべての悪の勢力と苦しみを忍耐し、遂には勝ち抜くことができるようにしてくださるのです。

主はまた、希望を復活させるために来られました。「テトスへの手紙 3章 7節」に、『それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。』と記録されています。

希望がいかに良いものか知れません。人はご飯を食べなくても40日間は生きることができると言われています。人が呼吸をしないことには4分しか生きることができません。希望がなかったら人は1秒も生きることができません。イエス様は私たちの心の中に、永遠なる希望を持って来られました。希望を復活させてくださるのです。

またイエス様は、神様の栄光を私たちの中によみがえらせてくださいます。神様の栄光が私たちの中に臨みますと、その栄光の中には喜びがあり、義があり、平安があり、希望で満たされるようになるのです。ですから皆さん、私たちは常にキリストを思うとき、キリストは復活の栄光を与えてくださり、私たちにすべてをよみがえさせるために来られたのだ、と言うことを憶えていなければなりません。

冬になると万物が凍りつき、冷たい雪が降り注ぎ、北風が吹きまくります。そのときは寒くて声も出ないまでにぶるぶると身震いします。山野を見渡すと死の勢力に覆われているように見えます。しかし喜びが近づいて来たら、氷が解け、雪が解け、土の中から青々と新しい生気が芽生え始め、木には芽が吹き、葉が芽を出し、遂には美しい花が咲く復活の天地となります。

イエス様は冬のような私たちの胸の中に、私たちの家庭と生活がエゼキエルの谷のように干からびた骨でいっぱいのところに、復活の栄光で臨んでくださるのです。すべてのものが生き返ります。すべてのものが美しく花を咲かせるようになるのです。

英国のダモム地方であったお話しです。突然、石炭鉱の一つの坑道が崩れたので、その中で働いていた164名の鉱員たちが生きたままで埋葬されてしまいました。人たちが死んでいった鉱員たちに対する深い悲しみを抱いて死体発掘に取りかかりました。時間が経って埋葬されている死体の近くまで掘り下げて行きました。ところが、死体が絡まり合っているそのそばから板が一枚発見されました。驚くことには、そこに次のような字が書かれてありました。

「私たちには、行く準備ができています。主よ。祝福して下さい。私たちは皆が、死ぬ準備ができております。私たちはこのまま死ぬでしょう。しかしキリストがよみがえられましたから、私たちはここに残らず、復活のいのちの中で美しく花を咲かせることと信じます。火曜日午後2時。」

彼らはよみがえられたイエス様を見つめながら永生の喜びをもって、この世を去って行ったのです。イエス様を信じる人は、このように死の前でも喜ぶことができます。復活の主が永生をよみがえらせたと言うことを知っているからなのです。

カール・バルトーは、「人間の最後の目標は、死でなく復活である。」と言いました。イエス様を信じない人たちには、人生の最後の目標が死ですけれども、私たちイエス様を信じる人たちの最後の目標は、復活なのです。私たちが肉のままで死んでも、私たちの霊魂は神様のふところに抱かれていてから、復活の日にキリストと共に降りて来て、復活の麗しい身を着るようになるのです。ですから、復活は私たちの永遠の希望となるのです。




第三、福音の証しは「息」を預言する働き

第3番目に、福音を証しすることは、「息」を預言する働きです。「エゼキエル書 37章 9節〜10節」は、『そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』と記録しています。

こんにち、私たちがイエス・キリストを伝えると言うことは、預言者の役割をすることです。キリストの復活の「息」を人たちに吹き入れる働きをすることなのです。私たち人間の考えでは到底生き返ることのできない人、極悪な犯罪人、めちゃめちゃに破壊された家庭、絶望的な現実に向かって「息」を預言することです。

そして、神様の奇蹟が私たちの預言を通して起こるのです。皆さんがいかに重要な存在なのか知れません。皆さんはエゼキエルと同じです。干からびた骨が満ちている谷間で、人間の考えや理性では絶対に希望がないところに、神様は預言をしなさいと言っておられるのです。私たちは予言することができます。なぜ?イエス様が死なれてからよみがえられたのですから、イエス様の御名によって預言し、イエス様の御名によって祈るとき、奇蹟が起こるようになるのです。

ピリポ執事は、サマリヤに行ってキリストの福音を伝えました。彼は「息」の預言者になりました。「使徒の働き 8章 5節〜8節」に、『ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。 群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。 それでその町に大きな喜びが起こった。』と記録されています。

キリストの御名によって福音を伝えたら「息」の働きが起こりますので、信徒が増えるだけでなく奇蹟が起こります。変化が起こるのです。彼はキリストを宣べ伝えたと記録されています。彼は「息」の根源であるイエス様を宣べ伝えました。エゼキエルが干からびた骨の谷間で預言したように、ピリポはサマリヤに下って行って神様に代わってキリストを宣べ伝えました。「息」を預言したのです。そうするや、悪魔と悪霊が大声を出して出て行きました。

悪魔と悪霊は死の勢力です。ところが「息」を預言するや死の勢力が崩壊しました。盗人が来るのは、盗み、殺し、滅させるだけのためです。私たちの胸の中に盗人が入って来たら、私たちは盗まれ、殺され、滅亡されます。すべてのことに苦痛と艱難でいっぱいに満たされるようになります。家庭に盗人が入って来たら、秩序が乱れ、互いに憎み合うようになり、憤怒し合うようになって破壊されます。

社会の至るところが曲がり、正義が消え去り、罪悪で満ちたら、そこには盗人が入って来ているのです。悪魔が入って来ているのです。国が乱れ、苦しみが満ちていたら、その国の背後に盗人が入って来ているのです。悪魔が入って来ているのです。この死の勢力はどうしたら崩れ去るでしょうか。キリストの福音を証ししたら、悪魔と悪霊は大声で叫んで出て行くようになるのです。

「使徒の働き 10章38節」に、『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』と記録されています。

こんにち、私たちがイエス・キリストを宣べ伝えたら、悪魔と悪霊たちは大声で悲鳴を上げながら尻尾を巻いて逃げ去ります。追い出されます。無秩序と破壊と苦しんでいる個人と家庭と社会と国家が癒されるようになります。

我が国が裕福に良い生活を営むことができるようにする道は、キリストの福音を宣べ伝えることです。私たちの社会が平安を保つようになるためにも、キリストの福音を宣べ伝えなければなりません。私たちの家庭が和解するようになるためにも、キリストの福音が宣べ伝えられなければならないのです。そうして悪魔と悪霊たちが追い出されたら、私たちの中に平安と喜びと安定が臨むようになるのです。

サマリヤにキリストの福音が宣べ伝えられ、「息」が預言されるや、多くの人たちにくっついていた悪霊たちが大声で叫びながら出て行き、神様の栄光が臨むようになりました。そして中風患者と足なえの人たちが直ったと聖書に記録されています。皆さん、キリストの「息」が入って来たら、中風患者と足なえの人が直るのです。

道徳的な不具の人たちがこの世にいかに多いか知れません。「ガラテヤ人への手紙 5章24節」に、『キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。』と記録されています。私たちは、非道徳的な不義と不正をすべて十字架に釘付けにしたのです。

「コリント人への手紙 第一 6章19節〜20節」に、『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』と記録されています。

皆さん、道徳的に不具者となった人たちもイエス・キリストの「息」が入って来たら、癒されるるのです。主は私たちを養育されます。敬虔でないことと、この世の情欲をみな捨てて、謹慎し、敬虔にこの世を生きて行くように、道徳的な不具者がみな癒されます。中風患者と足なえの人と言うのは、道徳的な中風患者と足なえの人をも指しています。それらの不具者たちもみな癒されると言うことを聖書は見せているのです。

このような神様のみわざが現われなければなりません。キリストの福音が証しされたら、酔っ払い、麻薬中毒者、淫乱放蕩者が癒しを受けます。道徳的な不具者が癒しを受けて真っ直ぐに立ち上がるようになるのです。精神的不具者たちも癒しを受けて立ち上がるのです。精神的に嫉妬、憤怒、殺人、悩みを持っている人たちがキリストの「息」が入って来ると変化を受けるようになります。「テモテへの手紙 第二 1章 7節」に、『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』と記録されています。

また、肉体的な不具者は言うまでもなく主が癒してくださいます。私たちの病を負い、私たちの痛みを担われたのですから、イエス様の御名によって祈ったら、肉体的な疾病の不具者を主が癒してくださるのです。そして、不具になった家庭と社会は、主の「息」が入って来たら癒しを受けて完全な家庭、完全な社会に変化されるようになるのです。

聖書に、「サマリヤの町に大きな喜びが起こった。」と記されています。皆さん、喜びは人生の原動力になります。この頃、会社の会長が自殺し、政治家が自殺し、学校の教師が自殺したと報じられています。それは、環境的に難しい目に会うや喜びを失ってしまうからです。人は喜びを失ってしまうと、生きる意欲を失って自殺するようになります。しかし、サマリヤの町にキリストが宣べ伝えられるや大きな喜びの復活がありました。

神様は、私たちに喜びを与えてくださる源泉です。「詩篇 16篇11節」に、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記録されています。

イエス様が共に居てくださったら、喜びが満ち、その右には楽しみがとこしえにあるのですから、私たちがイエス様を信じ、キリストが私たちの中におられたら、「主である神様!キリストによって喜びで満ちるようにしてください。」と祈ることができます。喜びを思い、喜びに感謝し、「私には喜びがある。」と口で是認し、喜びを奪って行く敵悪魔をイエス様の御名によって追い出されますよう、主の御名によってお祈りいたします。

また「詩篇 107篇 9節」に、『まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。』と記録されています。私たちの主が私たちに臨まれたら、私たちのたましいを満ち足らせ、良いもので満たしてくださいますので、喜びが川水のように溢れ、渇きが癒されるようになるのです。

「ヨハネの黙示録 21章 4節」に、『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』と記録されています。

皆さん、1945年8月15日、日本が降伏して大東亜戦争が終わった、と言うニュースが伝えられるや、36年間の日本植民地時代が終焉を告げたという喜びで、我が国の全国民が国旗(太極旗)を手に手に持って喜び踊った情景と感激と解放感を、当時幼かった私ですが、今もそれを忘れません。

冬の寒いときに岩の下で黄色く萎れかかった木の草を、岩を横に除けて上げたら、そのまま黄色い草ですが、数日が過ぎたら間もなく青々と、力強く成長をし始めます。抑制から解放されたらいのちで満ち溢れるようになるのです。

よみがえられたイエス様は、悪魔の勢力に虐げられている私たちの人生に解放をもたらしてくださいました。イエス様を通して私たちは、悪霊たちから解放され、肉体的・精神的障害から解放されて、心の中に喜びが満ち溢れ、私たちの生活の中に天国が復活されるようになりました。イエス様が私たちに臨んでくださると言うことは、復活のいのちで満たしてくださるために臨んでくださる、と言うことです。皆さんと私がイエス様を宣べ伝えると言うことは、世の人たちに「息」を預言する働きをすることです。

「エゼキエル書 37章13節」に、『わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。』と記録されています。イエス・キリストを救い主として迎え入れたら、私たちの心の中の墓の門が開かれてしまいます。私たちの社会と国家のすべての墓の門が開かれ、私たちは死を脱ぎ捨てて、主の復活のいのちの世界に出て来るようになるのです。

主は、死を脱ぎ捨てるようにしてくださり、「息」で満たしてくださって、干からびた骨がいのちを豊かに得て復活の人生を享受するようにしてくださるのです。キリストは宗教ではありません。何かの倫理や道徳の訓練とか教育でもありません。キリストは、干からびた骨のような人生をよみがえらせて、「息」で充満にしてくださるいのちの源泉であられるのです。




お祈り

聖であられ、愛であられる、我が父なる神様!アダムとエバの堕落以後、悪魔が罪と共に私たちの人生を干からびたものにし、谷間に干からびた骨がいっぱいの人生にしてしまいました。

人の考えでは、この干からびた骨が生き返ることはできません。政治を通して、科学を通して、教育や思想を通しては、干からびた骨が生き返りはしません。ひとえに、イエス・キリストが死なれてからよみがえられて「息」となられましたので、私たちがそのキリストを宣べ伝えるとき、干からびた骨共が生き返るのです。

全知全能であられる、天のお父さま!キリストを心の中に救い主として受け入れて復活で満たされ、私たちすべての干からびた骨たちが生き返って、大きな十字架の軍隊となって、世の悪魔、悪霊たちに打ち勝つように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!