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「信仰と従順」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 4章25節〜30節」
4:25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
4:26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。
4:27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。
4:30 しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。




今日、私は皆さんたちとご一緒に、『信仰と従順』と言う題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

神様が、親しくエジプトから解放させて導き出されたイスラエルの民たちを、荒野でみな滅ぼされた理由は、継続する彼らの不信仰と不従順の故でありました。




第一、郷里ナザレの不信仰と不従順

乳と蜜の流れるカナンの地の境界であるカデシュ・バルネアで、神様が激怒なさるようにしたのは、実にイスラエルの民たちの集団的な不信仰と不従順でありました。12名の偵察隊員が40日間、カナンの地を偵察して帰って来て報告するとき、10名の偵察隊員がその地を悪評し、恐怖と不安を全イスラエルの民たちに吹き込みました。その10名の偵察隊員たちの胸の中には神様がおられませんでした。

彼らは人本主義的に偵察し、聞き、観察したことを報告しました。彼らには神様に対する信仰がなく、神様に対する従順もありませんでした。彼らの影響によって全イスラエルの民たちは夜通し大声をあげて叫び、泣きました。そして「かしらを立ててエジプトに帰ろう。」と言い出しました。神様に対する集団的な反抗であり、不信仰であり、不従順でありました。その結果、神様が激怒なさって、彼らを荒野に向かうようになさり、40年間そこを彷徨するようにされて、みな滅ぶようになさいました。実に、神様がもっとも憎むのが不信仰と不従順であることを、私たちは悟らなければなりません。

私たちの主イエス様が郷里ナザレに来られて、会堂で御言葉を宣べ伝えられるとき、お叱りの言葉を語られたのも、郷里ナザレの人たちの不信仰と不従順の故でありました。主は会堂で、旧約の例えを挙げて話されました。

エリヤの時代に、天が3年6ヶ月の間、地に露も雨も降らしてくださらなかったので大いなる飢饉が襲って来ました。そのとき沢山の人たちが飢え死にし、イスラエルに寡婦(やもめ)が増えていきました。ところが、そんなに沢山の寡婦がイスラエルに居ましたが、その寡婦たちは神様を信じず、従順に聞き従いもしませんでした。それで神様は、彼らに助けを施されませんでした。

イスラエルでない異邦シドンのツァレファテに、ひとりの寡婦が住んでいました。そのシドンの地はバアルに仕える異邦の地でありました。それなのに、ツァレファテの寡婦は神様を恐れ、神様を信じ、神様に従順する人でありました。異邦人ではありましたが、その寡婦の所に神様はエリヤを行かせました。

エリヤが到着して見ますと、ツァレファテの寡婦がたきぎを拾い集めていました。その寡婦に向かってエリヤが言いました。「水差しに水を持って来て、私に飲ませてください。それから、一口のパンも持って来てください。」するとその寡婦が答えて言いました。「私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているところです。」

そこでエリヤが言いました。「あなたが言ったようにしなさい。しかし、先ず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。そうしたら、主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならないでしょう。」

ツァレファテの寡婦は、エリヤの言うことを信じました。彼女は実は凄く腹がへっていました。食べ物をくれと泣いている子どももいました。それにも拘わらず、彼女は信仰と従順でエリヤの言葉の通りにしました。ツァレファテの寡婦はパンを作って、それを先ずエリヤに食べさせました。そして、自分も子どもも食べました。エリヤがそのパンを食べ水を飲んだ後に、神様の祝福が臨んで、雨が降る日までかめの粉は尽きず、つぼの油はなくなりませんでした。神様の奇蹟が起こったのです。信仰と従順があるところに、主は臨んでくださるのです。

またエリシャのときに、イスラエルに数多くのらい病人がいましたが、神様がらい病を直してくださる、と信じる人は一人もいませんでした。彼らは神様を信じなかったのです。しかし、イスラエルをいつも侵略していた隣の敵国アラムの将軍ナアマンは、その国で尊敬されていた勇士でありましたが、らい病人でありました。

彼らが捕虜として捕えて来たイスラエルの若い娘がナアマンの妻に仕えていましたが、或る日、女主人であるナアマン将軍の妻に言いました。「もし、ご主人さまが、サマリヤにいる預言者エリシャのところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょう。」信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです、と言われた如く、この若い娘の言うことを聞いて、将軍ナアマンがイスラエルに訪ねて来ました。

イスラエルの王がその事で、「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この男を送って、私にらい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。アラムは私に言いがかりをつけようとしている…。」と言って、自分の服を引き裂き、興奮しました。それを聞いて、エリシャは王のもとに人を遣わして言いました。「彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者が居ることを知るでしょう。」

ナアマン将軍が戦車を率い、将軍服装で着飾り、馬に乗ってエリシャの家の入口に来て立ちましたが、エリシャは顔も見せず、使いの者が出て来て、「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体が元通りになって清くなります。」と、エリシャの言葉を伝えました。

「列王記 第二 5章11節〜12節」を見ますと、『しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。』と記録されています。ナアマン将軍は凄く憤慨しました。彼は怒り、乗っていた馬の首を返して帰途につきました。

そのとき、ナアマン将軍の部下の者たちが近づいて来て強くとどめました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、難しいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。彼はあなたに、『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」そうするや、彼らの忠言を聞き入れてナアマン将軍は考え直しました。

それで、ヨルダン川に行き、馬から下りて、エリシャが言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸しました。すると、ナアマン将軍の体は元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなりました。

主が、このお話しを郷里ナザレの会堂でなさいました。ツァレファテの寡婦もシドンの異邦の地の女であり、ナアマンもイスラエルとは敵であったアラムの将軍でありました。神様は、主の民であっても、不信仰で不従順であったら助けてくださらない、と言うことです。敵の国の人であり、異邦人であっても、神様を恐れ、敬い、信じ、従順に聞き従えば、主の使いを送って顧みてくださるのです。

「詩篇 81篇10節〜11節」に、『わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。』と記録されています。

主の声を聞かないから、主に従わない、と言われたのです。願わないのは、信じないからだと言われました。神様には移り変わりや、移り行く影はありません、と聖書に記録されているのです。天と地と世界とその中の万物を造られた神様は、今も全知全能なる御力で私たちの要求を満たして上げようと、願っておられます。あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう、と言われたのです。

ところがこんにち、主を信じると言う人たちが、主の御言葉を聞かず、信じないので、神様はその人たちの中に現われてくださらないのです。皆さん、言葉でだけで「私はイエス様を信じます。」「私は洗礼を受けました。」「私は教会に出席しています。」と言うとして、神様がみわざを働かせてくださるのではありません。神様が要求なさるのは、形式や儀式ではなく、皆さんの心の中にある信仰と従順なのです。

信仰があり、従順したら、こんにちも神様は奇しきみわざと奇蹟を現してくださいます。しかし、いくら荘厳な宗教的儀式を執行するとしても、信仰がなく、従順がなかったら、神様と私たちとの関係は断ち切られてしまうのです。神様の御手が短いので私たちを救うことができないのではなく、神様の耳が遠いので私たちの祈りを聞くことができないのではありません。不信仰であり、不従順なので、神様が私たちの中にみわざを現わしてくださらないのです。




第二、マルタとマリヤの不信仰と不従順及び悔い改め

新約聖書に記録されている、マルタとマリヤの事件をご覧ください。彼女たちの兄ラザロが死にました。早く父母を失い、兄だけに頼って生きて来ましたが、兄さんが病気にかかって患い、ついに死にましたので、兄を葬りました。その日から四日も経ってから、イエス様が訪れて来られました。

そのとき、マルタはイエス様が来られたと聞いて迎えに出て行き、イエス様にお目にかかるや、恨めしげにイエス様に向かって言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに…。」死んで四日も過ぎた今になって来られたので、私たちは絶望です…、と言うことでありました。イエス様は昨日も今日も、いつまでも同じですのに、マルタは四日前のイエス様は認めるが、今のイエス様は認められなかったのです。

イエス様の御言葉を聞いてみましょう。「ヨハネの福音書 11章21節〜26節」に記録されている御言葉です。『マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』

イエス様は、厳かに言われました。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタは「はい。終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えました。これに対してイエス様が言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか?」ここでマルタが言いました。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」マルタの答えは、イエス様の言われることに対してまるでチンプンカンプンでありました。

主は、今生きておられる神様、今奇蹟をほどこして「今、あなたの兄さんを生き返らす。」と言っておられるのに、マルタは、「終わりの日のよみがえりの時に、よみがえるでしょう。」と答えたのです。イエス様が「今、わたしがよみがえりです。」と言われたのにも、「主が、救い主であられることを信じます。」と言いながら、イエス・キリストが今、生きておられ、みわざを働かせてくださると言うことを、彼女は認めませんでした。

イエス様は、マルタとマリヤを連れてラザロが葬られている墓に行かれました。イエス様は涙を流されました。イエス様はラザロが生き返ることをご存知であったのに、なぜ泣かれたでしょうか。マルタとマリヤの不信仰・不従順が故に泣かれたのです。

彼女らが信じ、従順したなら、どのような逆境に出会おうとも恐れず、驚かず、絶望しなかったでしょうのに、現在、主が生きておられるにも拘わらず、その主と共にいるにも拘わらず、信じず、従順に聞き従わないので、彼女らが疲れ、重荷を背負って苦しみ、辛い中で悲しんでいることを主が嘆かれて、あまりにも気の毒なので涙を流されたのです。

主が、マルタとマリヤを連れて墓のそばに来られて、言われました。『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」』(ヨハネ 11章39節)これは反抗です。主がそのようにも愛されたマルタが、このように不信仰で、不従順するとは、イエス様は知りませんでした。

イエス様が彼らを連れてラザロの墓のそばに来られて、「生き返らして見せるから、その墓の石を取り除けなさい。」と言われるのに、マルタは反抗しました。「私たちの兄さんが墓に入れられてからもう四日にもなって、臭くなっております。墓の石を取り除いたところで何の効果がありましょう。人たちから嘲りを受けるだけです。止めてください…。」

イエス・キリストを信じ、愛すると言う人たちが危機に瀕したとき、キリストの命令に反抗し、不従順するのです。彼女たちは、死んだ兄さんが生き返ると言うことを信じませんでした。そうするや、イエス様は憤りを覚えられて、痛烈にお叱りになりました。『イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」』(ヨハネ 11章40節)

「あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。信じず、従順に聞き従わなかったら、神様の栄光は現われません!」イエス様のお怒りに、彼女たちは胸が痛くなりました。彼らは回心しました。その場で彼らは悔い改めました。皆さん、主のお叱りを受けて悔い改めたら、主は私たちをご使用してくださるのです。悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。私たちは人間でありますので弱いのです。それで不信仰し、不従順することがよくあります。

しかし、主がお叱りになるときには、直ちに悔い改めなければなりません。悔い改めなかったら、主の栄光は通り過ぎてしまうのです。「なぜ、こんにち、私たちの教会には神様の栄光が現われないのですか?」「なぜ、私の人生には神様の奇蹟が現われないのでしょうか?」と質問する人が少なくありません。そうしたら、主がこう答えてくださいます。「悔い改めなさい。不信仰と不従順したことを悔い改めなさい。そして信じ、従順に聞き従いなさい。そうしたら神様の栄光が現われます。」

マルタとマリヤは信じることに回心しました。皆さん、今まで不信仰であり不従順したとしても、今日、この時間、神様の御言葉を聞いて回心したら、神様は皆さんを天の民として受け入れてくださいます。彼らは回心して、墓の石を取り除けました。穴を掘り、死体をその中に安置して、大きな石でふさいで置き、けものが入って行って死体を毀損することがないようにしてあったのです。彼らは渾身の力を尽くして墓の石を取り除けました。

行いがない信仰は死んだ信仰です。信じたなら従順に聞き従わなければなりません。その墓の石はイエス様が取り除けてくださるべきものではありません。お隣の人たちが来て助けてもくれません。自分ですべきことは自分がしなければならないのです。目に見える信仰がまことの信仰なのです。聖書にも記録されていることですが、主は信仰の行いをご覧になってから、「あなたの信仰通りになるように!」と仰せられます。

ラザロの墓の石が取り除けられるや、臭い、死体が腐るときの独特な匂いが人たちの鼻をつきました。そのとき、イエス様が墓の前に立たれて大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来い!」周囲の人たちはみな緊張して、墓の穴の入口を見つめていました。マルタとマリヤも両手を握って、胸を騒がせながら墓の入口に視線を固定させて見ていました。

すると、白い何かが墓の中で動くのが見えたかと思うと、真っ暗い墓の中からラザロが、手と足を長い布で巻かれたままで出て来ました。神様の奇蹟が起こったのです。イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じなのです。信じ、そして従順に聞き従ったら、こんのちも神様の奇蹟が起こるのです。

いつだったか、「Hey God」と言う題目の、とても面白く驚くべき体験談が書かれている証し集を読みました。そこには、イタリアからアメリカに移民して来た“ポークリオ”と言う家族が神様の奇蹟を体験した証しを、その家の息子さんが本にした内容が記されていました。この家の父親は鉄道会社の労働者でしたので、生活が裕福でなく、7人と言う大家族でありました。

イタリアの人たちはスパゲッテイーが大好物です。或る日、父親がお友だちを4名も引き連れて家に帰って来ました。そして大声で命令しました。「おい、親友を4名、招待したぜ。今日はスパゲッテイーをご馳走させてくれな。一日中重労働だったので、腹がペコペコだよ…。」大変なことになりました。家には1人分のスパゲッテイーがあるだけでした。その家の父親は気が荒く、もしもスパゲッテイーをご馳走させなかったら、騒動を起こし、家の中がひっくり返るかも知れません。

父親はイエス様を信じない人でありましたが、母親はとても篤実な信仰の持ち主であり、聖霊に満ちた人でありました。父親の言うことを聞いた母親は急いで部屋に駆け込むや、聖書の本を手にして出て来ました。そして、台所に入って行き、聖書を頭の上に乗せ、その上に1人分のスパゲッテイーが盛られている皿を乗せてから、祈りだしたのです。「主よ。今、家の中には1人分のスパゲッテイーしかありません。夫が4人の友人を招待して来て、スパゲッテイーを食べさせよ、と言っています。私たちの家族とお客とが食べるにはてんで足りません…。

イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じ主であることを私は信じています。私は、その間主に従順に聞き従って参りました。十分の一も捧げ、教会にも熱心に通っています。危機に瀕したときには、主が共に居てくださることを信じます。全知全能であられる主よ。神様の御言葉と、今あるスパゲッテイーをもって祈ります。奇蹟をほどこしてください…。」と祈ってから母親は、息子が見ている前で大鍋に水を入れて沸かし、家にあったスパゲッテイーをその中に入れました。息子が鍋の中をのぞいて見ましたが、今入れたスパゲッテイーは少な過ぎて、どこに行ったのか見えない程でありました。

ところが母親は賛美を歌いながら、皿を11枚も持ち出して食卓の上に並べるのでありました。そうしてから母親は、大皿を一方の手に持ち、もう一方の手には大きなフォークを持って、それで大鍋の中を掻き回しました。母親は継続して賛美を歌いながら、大きなフォークで大鍋の中のスパゲッテイーをすくい上げては大皿に盛り、またすくい上げては大皿に盛り、そして大皿のスパゲッテイーを11枚の皿に順々に盛り分けていきました。

息子が驚いて、目を丸くしてそれらを見ました。大皿が空くと母はまた鍋からスパゲッテイーをすくい上げました。それを小皿に盛り分けし、大皿が空になるとまた母親は大鍋からスパゲッテイーをすくい上げて大皿に盛り、それをまた小皿に盛り分け…して、その日、お客4人も、家族7人も皆が、腹いっぱいにスパゲッテイーを食べたのにも余りがあって、翌日も家族同士でスパゲッテイー・パーティをしたと言うのです。

この一部始終を目のあたりに見た息子さんが、“Hey God”と言う証し集を書きましたが、息子さんは、「母の単純な信仰を目の前に見て、そこから私の人生は方向転換するようになり、偉大な信仰を得るようになりました。」と証しをしました。これは2千年前の話しではありません。今の世界で起こった話しです。それで、イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じなのです。私たちが本当に心から神様を信じ、そして従順に聞き従ったら、こんにちも神様のみわざが私たちの中に現われるのです。




第三、イエス様のお招き

イエス様は、「マタイの福音書 11章28節〜30節」の御言葉を通して私たちをお招きしておられます。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

このことを仰せられるときは、イエス様は弟子たちとご一緒に畑がある野原に立っておられました。そのとき、牛が畑を耕していました。母牛の首にはくびきがかけられてあり、子牛は母牛のそばをつきまどっていました。農夫が鞭で叩いたら母牛は汗を流しながら全身の力をこめてくびきを引いて前に進みます。しかし子牛は、母牛のくびきの下にいますので少しも力む必要がなく、ただ母牛のそばにくっついてトコトコと歩いて行きます。

「な〜んだ。少しも骨が折れないのに、母はなぜ、汗を流しながら苦しんでいるのか分かんないよ…。」子牛は不思議がるかも知れません。しかし、くびきは母牛の首にかけられてあり、子牛は母牛のくびきの下に寄り添ってついて行くだけです。それをご覧になって、イエス様が言われたのです。「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしのくびきの下に入って来たら、重荷を背負わずに、安らかに人生を暮らして行くことができます…。」

皆さん、重荷は主が負ってくださり、仕事も主がしてくださる、と言われたのです。私たちを休ませてくださるためには、私たちの重荷を主が代わりに負ってくださり、私たちの仕事を主がしてくださらないことには、私たちは安らかに休むことはできません。安らかに人生を生きて行くことはできないのです。

「エレミヤ書 33章 2節〜3節」に、『地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」』と記録されています。「あなたが仕事を背負おうとするな。仕事はわたしのすることであり、わたしがする。わたしに呼ばわり、祈り、任せなさい。」と言うことです。

「マタイの福音書 6章33節」に、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記されています。

イエス様は、人たちが重荷を背負って苦しんでいるのをご覧になられて、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と招かれながら、憐れみられ、人生を軽く、安らかに生きて行けるように私たちの荷を代わりに負って上げようと言われるのです。「罪の荷が重いですか?」「この世の生活が苦しいですか?」「悪魔のくびきが重いですか?」「病の荷が重いですか?」「死の苦痛が甚だしいですか?」

それらをあなたがたが背負わずに、わたしに委ねなさい。わたしが負ってあげましょう。わたしの十字架のくびきはわたしが負いましたから、ただ信じ、従順に聞き従い、わたしのくびきの下に入って来なさい。そうしたら、あなたがたは安らかに人生を生きていくことができます…!これはいかに有り難いお招きでしょうか。

皆さん、イエス様が「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。イエス様のくびきの下に入っていくためには二つの条件が必要です。心優しくならなければならず、へりくだらなければなりません。心優しいと言うことは、良く訓練された、温かく柔和な品性を言うのです。皆さん、家畜たちは心優しい動物です。人から良く訓練されて、犬や牛や馬はみな、心優しい動物たちです。

獅子や虎や狐や狼のような動物たちは人たちが訓練させることができません。心優しいと言うことは、良く訓練を受けて従順に聞き従うことを言うのです。「ヘブル人への手紙 3章18節」に、『また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。』と記録されています。心が優しくなければ神様のお助けをいただくことができません。

「ヘブル人への手紙 5章 8節〜9節」にも、『キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、』と記録されています。

こんにち、私たちがなぜ、イエス様を信じながら数多くの試みに会い、艱難に会い、暴風雨の中を通らなければならない時があるでしょうか?神様は私たちが砕かれて、従順に聞き従うことを願われるので私たちを訓練させられるのです。神様の御子イエス様も受けられた多くの苦難によって従順すべきであることを証明なさいました。私たちが従順に聞き従わなかったら、神様が私たちに地を受け継がせることができないのです。

それで、至るところで神様は私たちの従順を試みておられるのです。苦難が迫って来ても、生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、私は主に聞き従います、と従順するか、そうでなければ、私は損害を被りたくありませんとして手をはたいて背を向けるか、主がテストしてみられるのです。主のくびきの下に入って行って、主が私たちの荷を背負ってくださるようにするためには、皆さん、主に従順に聞き従わなければなりません。心優しく、柔和な心で主に従って行かなければならないのです。

ジョン・カールビンは、「信仰とは、目をつぶり、耳を傾けて、無条件に従うことである。神様は、私たちに完全服従を要求なさる。」と言いました。しきりに目で確かめ、環境を見つめて揺り動かされることなく、目をつぶってしまって、耳に聞こえることだけに従って行きなさい。崖下にも行けと言えば行くのです。

私は昔、西大門教会のときに、米空軍の下士官ニカウソンと言う、太って、心優しい軍人がいたことを憶えています。彼は熱心に教会に出席して主に仕え、とても信仰心も熱い人でありました。彼がいつだったか営倉に監禁されました。何故だったかと言うと、飛行機に乗って空中を飛んでいるとき、彼が副操縦士として坐っていながら、操縦士に、「私は今でも、イエス様が現われて“歩いて出て来なさい”と言ったら、飛行機のドア−を開けて歩いて出て行きますよ…。」と言いました。

ところがそのとき、操縦士が彼の言うことを聞き間違えて、「彼が気が狂って、空中で飛行機のドア−を開いて出て行きます。」と言うのだと勘違いし、急いで司令部に連絡して飛行機を急降下させ、飛行場に降りるや、彼を営倉に監禁させてしまいました。それで裁判を受けることになりましたが、裁判結果、「私はイエス様を熱く信じる者ですが、昔、ペテロが水の上を歩いたように、こんにち、イエス様が空中に現われて、私に向かって“歩いて来い”と言われたら、私は飛行機のドア−を開けて歩いて出て行きます、と言ったのであって、イエス様が“出て来い”と言われなかったのに、私が一人で飛行機の外に歩いて出て行きます、とは言いませんでした。」として、彼は営倉から釈放されました。

これ位の従順さがなければなりません。目を堅くつぶり、耳に聞こえる声だけに従って、主が「行きなさい」と言われたら行き、「立ち止まりなさい」と言われたら立ち止まり、「後ろに回りなさい」と言われたら、後ろに回る、のが信仰なのです。

マクドナルドは、「従順こそ、すべての門を開く鍵である。」と言いました。デトリード・ボンヘプは、「信仰は、主の命令と従順、まさにそれである。」と言いました。信仰とは、主の命令に従順に聞き従うことなのです。

イエス様は、「心優しい人、従順に聞き従う人は、わたしのくびきの下に入って来ることができます。その次に、へりくだった人がわたしのくびきの下に入って来ることができます。」と言われたのです。へりくだった人は自分のからだを低くします。主を信じる人が謙遜な人なのです。

「ペテロの手紙 第一 5章 5節と7節」に、『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 / あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』と記録されています。

高ぶる者は、神様に何もゆだねようとしません。自分が自分の力で、自分の能力で、自分の手段と方法で生きて行こうと力みます。謙遜な人は、主にすべてをおゆだねして、成就させてくださることを信じるのです。「ヘブル人への手紙 11章 6節」に、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記録されています。謙遜な人は信じます。高慢な人は信じません。

エヴェレストを征服したジム・フィテクと言うアメリカの登山家のことを私は読んだことがあります。エベレスト山岳を征服するために、高度の訓練をして来たアメリカの登山隊員たちがネパールに集まりました。ネパールの案内人は彼らに向かって、「皆さん、あの頂上まで登りたかったら、私を全的に信じてついて来なければなりません…。」と言いました。するとそのとき、アメリカの隊員たちは、すぐに反応しました。「あいつ、阿呆めが。私たちは数年間、このエヴェレストを征服するためにひどい訓練を積んできた専門家たちなのに、何言ってやがる。案内人でしかないくせに、何だと?自分を信じてついて来いと…。笑わせるなよ。」

そして登山隊員たちの殆どが、その案内人の言うことを信じて聞き入れようとしませんでした。しかしジム・フィテクは、「私は頂上に必ず登って見たいです。あなたが言うとおりに最善を尽くしましょう。」と答えました。そしてジム・フィテクは、案内人を信じて言うとおりに行動し、遂に彼は、エヴェレストを征服した最初のアメリカ人になりました。謙遜であったので信じて従って行ったのです。高慢な人たちは、その案内人の言うことに従わず、勝手な道に行ったのでみな失敗してしまいました。

主を信じるということは、謙遜な心の人であってこそ、主を信じることができます。高慢な心の人は、しきりに主を批判し、勝手に判断し、疑って、心から信じようとしません。謙遜な人は最後まで信じ、従順に聞き従って行くのです。心優しいと言うことは、頑なな心が砕かれて神様中心に立ち、お導きに従順に聞き従うことです。謙遜とは、高ぶる心が砕かれて神様を崇め、拠り頼み、主を信じる信仰で生きていくことなのです。

エベレスト山を征服するためにも、案内人の言うことを謙遜に信じて従って行かなければならないのなら、私たちが人生を生きて行きながら、謙遜に主を信じて従って行くことがいかに重要であるかを知ることができます。

 主は仰せられます。「人生を安らかに、便利に生きて行くことができます。あなたたち人間の力で人生を暮らしたら、疲れと重荷をあなたたちが負わなければなりません。あなたたちの重荷をあなたたちが背負い、あなたたちの仕事をあなたたちが自らしようとするから血と汗を流さなければならないのです。しかし、わたしに従順に聞き従い、わたしを信じて、すべてをわたしに委ねたら、重荷はわたしが背負って上げます。仕事はわたしがして上げます。あなたたちはわたしの膝の上に坐って暮らしなさい。わたしのくびきの下に入って来て、わたしに従って歩んだら良いんです。くびきはわたしの首にかけられています。あならたちの首にかけられているのではありません。わたしの恵みによって暮らしなさい。」

人生には、自分の努力で暮らす人と、主のお恵みで暮らす人とがいます。自分の努力で暮らす人は、主を信じず、従順に聞き従わずに生きている人です。お恵みで暮らす人は、主を信じ、従順に聞き従って、すべてを主に委ね、主に従って生きて行く人です。全く同じくこの地球の上で暮らしていますが、血と汗を流しながら、苦しみの中で、自分の力で生きる人があるかと思えば、軽く、安らかに、主のお恵みで、主に拠り頼んで、主の祝福の中で生きて行く人もいるのですが、皆さんは、信仰と従順で、神様の栄光を体験しながら、主のお恵みで生きて行かれますよう、主の御名によって祈願致します。




お祈り

聖く、全知全能であられる我が父なる神様! すべての人たちが重荷を背負って、苦しみの中で暮らしております。アダムとエバ以後、神様に背いた人たちは、自分の手段・方法で苦しみながら暮らし、いつまでも自分の努力で生きて行こうと血と汗を流しながら、重荷を背負って苦しんでいます。

しかし、イエス様が来られて、私たちの重荷を代わりに背負ってくださり、私たちの罪と咎を十字架の上ですべて清算してくださいました。そして、私たちが信仰と従順で主の十字架の下に入って来て安らかに生きて行くようにと、主は願っておられます。

愛であられる天のお父さま! 主を信じ、従順に聞き従って行けるように助けてください。聖霊さまのお導きに与って、全的に主に従順に聞き従い、全的に主を信じてすべてに拠り頼み、安らかに、主のお恵みの中で暮らして行く人生たちとなりますよう、助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!