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「主の賜物」
 






■聖書箇所

「詩篇 127篇 3節〜5節」
127: 3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
127: 4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
127: 5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。





*ご参考をお願い致します。「詩篇127篇 3節」の御言葉が、

日本聖書刊行会発行の新改訳には、『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。』

日本聖書協会発行の口語訳には、『見よ、子供たちは神から賜った嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。』

大韓聖書公会発行の改訳韓国語版には、『子どもは神様がくださった基業であり、胎の実は主の報酬である。』と、各々記録されています。(訳者註)

今日は、2004年5月2日・「子どもの主日」です。『主の賜物』と言う題目で、皆さんと一緒にお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

韓国の聖書には、「子どもは、神様が下さった基業である」と記されています。「基業」とは、生活の基盤を言います。基業を通して生活に必要な商品を生産し、そのことを通してお金を稼ぎ、私たちはそれで食べて行きながら生活をするようになります。

ところが神様は、子どもは神様が下さった基業である、と言われました。驚くべきお話しではないでしょうか?商品を生産し、それを売って、そのことを通してお金を稼ぎ、それで食べて生きて行くのが基業なのですが、神様は、私たちを通して天国の民として子供たちを立派に成長させ、良く顧みて上げ、それを通して私たちを祝福してくださる、と仰せられたのです。

神様は、私たちを通して天国の民たちを養成し、この天国の民である子どもたちを養成する基業を通して私たちに祝福を与えてくださると言うのです。ですから私たちは、子どもの養育に努力し、立派に育てて行かなければなりません。それでは、どうのようにしたら神様が任せてくださった子どもたちを立派に成長させて行くことができるでしょうか?どのようにしたら、子ども養育の基業が成功するでしょうか?





第一、父母は子どもの良き模範

第1番目に、父母が、子どもの良き模範とならなければなりません。子どもは白紙と同じく、空いた器とも同様です。子どもは、自分の知性、言語が充分に備えられていませんので、まだ自分自ら思考することができず、自らを表現することができません。それで外部からの影響をそのまま受け容れます。まず、身近の父母たちから受け容れるのです。父母の言葉づかい、父母の生活習慣をそのまますべて受け容れるのです。

「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」と言われました。父母が子どもを育てるとき、子どもにどのような模範を示したか、これが後に子どもの人格として刈り取りするようになるのです。皆さん、言葉をご覧ください。韓国の父母のもとで育った子どもは韓国語を使用します。しかし、アメリカの父母のもとで育った子どもは英語を使います。中国人の父母のしたで育った子どもは中国語を使います。言葉を父母から習うのです。

きれいで奥ゆかしい言葉も父母から習い、乱暴で、荒々しく、汚れた言葉も父母から習います。親切で優しい言葉も父母から習い、悪い言葉、無礼な言葉も父母から習います。従って、言葉を筆頭にもう父母の影響力は莫大なのです。

人間関係もそうです。父母が愛と寛容で家庭生活をしたら、子どもたちも自然と愛と寛容をもって家族や友たちに対するようになります。しかし、父母が憎しみと嫉妬と争いで家族に対したら、子どもも自然と兄弟の間で憎しみ合い、嫉妬で相対するようになり、友たちともそうするようになります。人間関係を父母から習うようになるのです。

日本の子どもたちがもっとも強調されながら聞く言葉は、「他人に厄介をかけるな。」と言う父母の教訓であると聞いています。それでなのか、日本の人たちは公衆道徳を良く守り、とても親切です。子どものときから教え諭されているからです。アメリカの子どもたちがもっとも多く父母から聞く言葉は、「他人にも分けて上げなさい。」と言う言葉であると言います。大概のアメリカ人たちは、気の毒な孤児がある、と聞いたら、直ぐに養子として迎え入れて育て、施しを通して人に分け与えることを良くします。全世界にアメリカの援助がないところはほんの僅かだと言っても過言ではありません。

我が国の子どもたちがいつも言われている言葉は、「気が弱くなってはいけない。」「他人の前で怯えるな。」と言うことです。このようなことを言われながら、私たちの子どもたちは成長します。それで、学生たちは「怯えまい」として先生に食ってかかったり、甚だしくは父母にも反抗し、「気が弱くないことを見せる」ために、会社の社長に向かって反発もします。自動車接触事故を起こしたら、道端で理由は問わずに大声で相手を無条件になじります。或る人は海外旅行中に、外国のお店の陳列台に並べられて商品を全部きれいに買い取ります。そうしたら気が晴々するのだそうです。

他人の前で、気が弱くなって怯え過ぎてもいけませんが、子どもたちに「他人を愛する方法」「人間らしく生きて行く方法」を教えて上げなければなりません。気だけ強くしたら、後には父母の言うことも聞かなくなり、学校の先生の教えも聞かず、横着な者になってしまいます。気を強くし過ぎたら、子どもの人格を台無しにする恐れもあります。

子どもたちは、善悪の人格モデルを父母から見出そうとします。どの家庭にも「家風」があります。この頃は結婚するとき、花嫁、花婿がどのような人であるかを知るためには、その人の家の家風がどのようものであるかを調べたら、知ることができます。韓国には「3歳の癖が80歳まで続く」と言う諺があります。子どものときの父母と兄弟と家風の影響がその人の一生を支配するのです。

お酒を飲み、タバコを吸う人たちを見ますと、90%がその人の父親がお酒を飲み、タバコを吸うと言う統計も出ています。それで、家庭の風俗がその家の子どもたちの人格を形成する要因となる、と言うことを私たちは知ることができます。

子どもたちは、人生の価値観も父母から教わります。父母が神様を信じ、その国とその義とを先ず第一に求めることを絶対関心事とし、絶対価値としたら、子どもたちも自然と「あー、神様に仕え、教会に出席し、十分の一を捧げ、熱心に主の事業に参与することがもっとも重要だな!」と悟って、それを教わるようになります。しかし万が一、父母が幸福の基準を物質の豊富だとし、どのようにしてでもお金、お金…を稼ぐのが第1だと考えて、それ中心にだけ熱中する生活を営むとしたら、子どもたちも物質中心のどん欲の奴隷になってしまうのです。

「マタイの福音書 6章33節」に、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記録されています。父母が先ず、神の国とその義とを求める、はっきりした価値観をもって生活したら、子どもたちは自然とその生活習慣を身に付けるようになるのです。

ある幼稚園の先生から、私が聞いた話しです。その先生は、「子どもたちの言葉遣いやまま事での遊び振りを見たら、あえて子どもの父母に会って見なくても、その子どもの父母がどういう人格の人たちか、知ることができます。」と言いました。父母の間柄が睦まじく円満な家庭の子どもは、まま事をするときに、優しい声で「あんた、ここに来て食事して…。」「うん、これは美味いね。」「疲れたでしょう?足揉んで上げましょうか…?」と言い合うそうです。

ところがそうでない家庭の子どもたちは、酒に酔っ払ったお父さんの真似をしながら、幼稚園の教室の壁を足で蹴ったり、「おい、早くドア−を開けろっ!」と大声で叫んだりし、または母の役割の女の子が、自分の胸を叩きながら「あんたとはもう、生きて行けないわ。いやよっ。」とそっぽを向く真似をしたり、甚だしくは夫婦喧嘩をする真似もする、と言いました。

子どもは父母の鏡です。子どもたちは父母の日常の態度をその通りに真似て行き、そこで人格が形成されて行くのです。ですから、父母がどんなに子どもたちの教育に影響を及ぼすのかを知り、悟って、子どもたちのためにも父母が立派な模範となり、モデルになって上げなければなりません。1歳から6歳までが、人格の基礎が形成される重要な時期です。相談学の基礎理論によりますと、人間の基本的性格は6歳以前に形成されると言われています。

ところが、この時期の子どもは自分の意思を十分に表現するぐらいの知的能力や言語駆使能力が不足していますので、相手が注ぎ入れてくれることを無条件に受け入れます。それで、もっとも身近の父母から莫大な影響を受けるのです。1歳から6歳までは大概が母のふところや父の膝の上で育ちますので、父母が注ぎ込んでくれることをそのまますべて受け入れて人格が形成されるのです。

従って、父母はいつも熱い愛で子どもたちを顧みて上げ、彼らに肯定的で積極的な人生観を持つようにして上げたら、子供たちは明るく、溌剌とした、そして肯定的で積極的で希望に満ち、夢がある人格を形成して行くようになります。もしも、この時期に愛を受けることがなく、疎外され、蔑視されたら、一生涯心が曲がり、否定的な人生観を持って生きて行くようになります。

間違ったことを良く仕出かす青少年たちを見ますと、大概が家庭で父母から愛されず、疎外されてきた経歴があることを知るようになります。それで性格がひん曲がった人になり、社会的に問題を引き起こす人格の人間となり、しょっちゅう警察のお世話になる存在になってしまうのです。

その次には、6歳から12歳までも重要な時期です。この時期には充分に自分の意思表示も可能となり、言語の駆使も自由にできますし、好奇心が多く、それで父母に持続的に質問をします。とても、母親がうるさがる程にお部屋でも、台所から庭にとつきまどいながら、「おっ母さん、この花はなーに?」「ママ、犬はなぜ吠えるの?」「雨がなぜ降るの?」「なぜ、太陽は昼だけのぼり、月は夜だけ現われるの?」…あらゆることを問いただします。母親や父親がうるさい程です。

しかしそのとき、子どもが好奇心に満たされて問うことに対して、父母は誠心誠意を尽くして答えて上げなければなりません。「あ、やかましい。今私忙しいよっ。向こうへ行きなさいっ。」「うるさいねえ。テレビでも見なさい…。」とでも言いながら背を向けたら、子どもは疎外され、無視されたと思うようになります。一生涯を通して、父母に対するもっとも深い印象を残す時期が6歳から12歳までのときです。この時期には特に、父母は子どもと共に居て上げ、色々な子どもの好奇心に満ちた質問に対して詳細に、最善を尽くして答えて上げ、顧みて上げなければなりません。

12歳から18歳の時期になりますと、子どもは反抗期に入ります。子どもたちは自分の人格が充分に成長したと思うようになり、自己主張をし始めるようになります。この時期には、絶対に立派で偉いと思っていた父母が、だんだんとそうでないと批判するようになります。それで絶えず父母に反抗したり、当り散らしたりします。しかし、このような時期であるほど父母は、子どもに対して断固と教訓をし、積極的に指導する必要があります。

なぜかと言えば、子どもたちは自己主張が強いだけで、まだ世の中での経験がないために悪い友だちに従って悪い道に落ち込むことがあるからです。ですから、例え反抗をしても父母が、「正しいことは正しい」「悪いことは悪い」と、はっきりと線を引いて子どもたちに提示して上げなければなりません。





第二、肉的糧食と心的糧食

第2番目に、子どもたちを立派に養育する為には、子どもたちに肉的糧食と心的糧食を供給して上げなければなりません。先ず、肉的必要を満たして上げなければならないのです。均等に栄養が行き渡るように食べさせずに、好き勝手にほったらかしておいて、ハンバーグとか又はホットドッグとか…、こんなものばかり食べさせて太っちょに作り上げ、歩くのも億劫といった子どもにしてしまうことは父母の責任です。子どもがどのように栄養を摂取し、どのように健康を維持させて行かなければならないか、父母たちが関心を傾けなければならないのです。

こんにち、この世には児童虐待の実例が少なくありません。我が国でも今年3月に、30代の家長が6歳の実の娘を9ヶ月間も飢えさせて、生命が危篤な状態に瀕してから発見されたと報じられました。また、20代の未婚の母が生れたばかりの嬰児を旅館の窓の下に捨てた、と言う記事も見ました。ここ数年間、児童虐待で申告された事件のうち、80%が生みの親によるものでありました。

皆さん、生んだ子どもを自分個人の所有物と思ってはいけません。「私のもの、私が自由にするのに、なぜ文句言うのか?」と言う人がいます。子どもは自分個人の所有物ではないのです。神様の所有物であり、神様が下さった賜物である、と言うことを知らなければなりません。それで、子どもたちを虐待してはならないのです。神様が見過ごしてはくださらないからです。

2004年、ユニセフ・世界児童現況報告書によりますと、現在世界的に小学校に通わなければならない年齢であるけれども、教育を受けられない子どもが1億2千1百万名に及ぶと言います。また、過度な重労働に苦しんでいる子どもたちが全世界的に2億4千6百万名にも及ぶと推算していると国際労働機構が発表し、その中で1億7千1百万名は危険な環境の中で働いていて、児童搾取、児童虐待が深刻な問題であると付け加えています。

バングラデシュ、パキスタンを筆頭に、アフリカと中南米地域の子どもたちは、自分の家族の生計がために酷い労働に揉まれ苦しんでおり、この子どもたちの中で2万2千名ほどが工場での作業中に事故で死んでいくとも言われています。皆さん、このような現状がこんにち21世紀の、文明が発達し、立派に生活が営まれていると言う世界の現実なのです。こんにち、子どもたちが社会でもっとも冷遇され、苦しみに会っている部類に属しているのです。

私たちは子どもたちを、肉的にも良く育てて行かなければなりませんが、それだけではなく、心の糧食である愛をも満ちるほどに注いで上げなければなりません。愛されながら育った子どもと、無関心の中で育った子どもとは、天地の差があります。

実際に韓国の“三星ソウル病院の小児・青少年精神科”教授チームが、非行青少年たちを対象に、非行を仕出かすようになった原因に対して設問調査を実施した結果、学校の成績が悪いので、将来が期待できず心配なので、父母のお叱りと共に、「私は使いところがない存在だ。」「人生の敗北者だ…。」と言った挫折・失望の子どもたちが絶対多数を占めていたと言います。ですから、子どもたちの心に挫折とか自己卑下することがないようにして上げなければなりません。愛がいかに重要なのか知れません。

人は食べ物を食べることだけで生きて行くのではありません。愛も必要なのです。神様は、人をご自身のかたちに創造されました。神様は愛であられます。愛を食べてこそ生きて行けるのです。従って、成長して行く子どもたちに親たちは豊かに愛をほどこして上げなければなりません。子どもたちの人格も重んじて上げなければならないのです。子どもたちを何かアクセサリーでもあるかのように思っている父母が意外と少なくありません。

父母たちが話し合っているときに子どもが近寄って来たら、「大人たちが話し合っているのに、やかましいよっ。あんたは向こうに行って遊びなさい。」と、うるさい存在でもあるかのように扱いがちです。そうしたら子どもは、「僕のような人生には、何の用もないのだ。」と思い込むようになり、これは親の大きな犯罪行為であるとも言えます。皆さん、子どもたちは幼いですけれども、人格体なのです。彼らなりに自尊心を持っています。それで人格的な待遇を受けたがっているのです。

子どもにも、大人に対するのと同じく言葉づかいに注意し、愛して上げ、認めて上げ、人格的に待遇して上げ、絶えず褒めても上げ、夢を持つように導いて上げなければなりません。何かしくじる度ごとに叱りつけ、鞭で打ち、殴るなどするとして問題が解決されるのではありません。勿論、時には叱らなければなりませんが、お叱りは少しだけ、褒め言葉はたくさんして上げながら、夢を植え付けて上げなければならないのです。

幼い子どもたちの心の中にちょっとした褒め言葉は、凄い夢を成就することができるようにして上げる結果を招きます。世界的に有名な童話作家アンデルセンは、元々から立派に童話を書き上げた人ではありません。彼が若いときに、彼が書いた文章に対して人たちは異口同音に彼に言いました。「文章を書くことは止めなさい。ほかに仕事を探しなさい。あなたは全く文章には才能がありませんね…。」ところが全く同じ文章をお母さんに見せた所、「アンデルセン、これは面白いですね。本当に御上手!素晴らしい文章を書きました。感激したわ!」とお母さんが大いに褒めてくれました。

その時からアンデルセンは、他人には気を使わず、お母さんが褒めてくれるので、お母さんに見せるために童話を書き続けました。それが順々と上達して遂に、アンデルセンは世界的な童話作家となりました。母親の褒め言葉がそのように力になったのです。

皆さん、偉大なイタリヤのテノール歌手カルーソをご存知のことと思います。或る日、学校のクラスで授業中に先生がカルーソを呼んで、「あなたは将来、どんな人になりたいですか?」と質問しました。カルーソ少年は、「はい。私は声楽家になりたいです。」と答えました。するや級友たちが机を叩きながら、腹を抱えて大声で笑いました。先生も大声で笑ってから「あんたみたいな人は、商売人にはなれるだろうが、絶対に声楽家にはなれませんよ。」と言いました。

カルーソは泣きながら家に帰って来て、お母さんにその一部始終を話しました。するとお母さんは、「わが子よ。級友たちが机を叩きながら、腹を抱えて大声で笑ったと言うことはとても嬉しいことですよ。先生があんたに、絶対に声楽家にはなれないと言われたことも、素晴らしいじゃないの。何故かって?それは、あんたが普通の声の持ち主ではなく、凄く特性がある声の持ち主だという証拠だからよ。あんたが平凡な声の学生だったら、誰も笑わなかったはずだわ。先生も褒めてくれたでしょうね。あんたは凄く特別な声の人なので、人たちが未だ理解できないのよ。だから、あなたがその声を開発して行ったら世界的な声楽家になれるんだわ!」と、噛みしめる如くに諭しました。

お母さんの激励に、カルーソは大いに力を得ました。それから彼は、音楽を勉強し、継続練磨して、遂に偉大な声楽家となりました。皆さん、世界の子どもたちに夢と希望を植え付けて上げるためには、褒めて上げ、激励して上げなければなりません。このようなことが、親が子どもを立派に養育し、正しく教育して行くのに絶対に必要で重要なポイントです。





第三、正しい子どもの教育

第3番目に、子どもには正しい教育を受けさせなければなりません。教育の中でもっとも重要なのが信仰教育です。神様を畏敬し、礼拝を捧げるようにする信仰教育が何よりも重要です。子どもたちに、主日は聖く守り、十分の一は必ず捧げること、教会での奉仕、家庭礼拝…、このようなことを先ず教えることがどんなに重要なのか知りません。

アメリカの児童教育専門家であるポール・デ・マイアは、「1歳から6歳までの間に、人格の85%が形成される。」と言いました。1歳から6歳になるその間、父母と一緒に過ごすときに、父母が家庭礼拝を捧げる、主の日を守る、十分の一を捧げる、教会で奉仕する…ことを教えたら、子どもたちがそれを受け入れて、一生のあいだ神様に仕える信仰生活をするようになるのです。

「マラキ書 3章17節」に、『彼らは、わたしのものとなる。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。』と記録されています。このように、父母が子どもの教育を立派にしたら、永遠に神様があわれまれ、愛する神様の民となることができるのです。

ユダヤ人をご覧ください。世界至るところ、各分野でユダヤ人たちが刮目に値する成果を成し上げました。ノーベル賞受賞者の26%がユダヤ人たちです。特にノーベル科学賞受賞者の60%がユダヤ人であり、3,000余の大学で教えている教授の25%がユダヤ人です。また、アメリカで大きなビルや銀行や大型デパートの主人90%がユダヤ人であり、世界の穀物市場も、武器商人界も、ハリウッド映画界も彼らが席巻しております。

僅か人口430万のイスラエルが、どのようにしてそんなに大きな事をすることが出来るでしょうか?彼らは、子どもの誕生には神様の特別な御心があると信じ、育つとき徹底的に十戒を守りながら暮らすように教え、主である神様を教えたのです。神様を自分の神様とする民は幸いであると教え、神様を畏敬し、十戒を徹底的に守り、神様を崇めながら暮らすように教育したので、彼らが全世界に栄光を現すようになったのです。

「彼がわたしを愛するから、わたしは彼を救おう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高めよう。」と、主は言われたのです。私たちは幼い子どもたちに、神様を敬うことと、礼拝することをもっとも重点的に教育しなければなりません。これも1歳から6歳までのときに、徹底的に家で教えなければならないのです。学校では、このような教育はしません。

それと同時に、人性教育をしなければななりません。「箴言 22章 6節」に、『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。』と記録されています。子どものときに、正直に暮らし、誠実に、勤勉で、忠実で、孝行しながら、親を敬うように教えなければなりません。これは学校では教えてくれません。家で、父母たちから、生活のモデルを通して教わり、また直接に教訓を通じて教わるようになるのです。

「学校で、すべて教育してくれるから…。」と、学校任せにしてはいけないのです。この頃の学校では、そのような人性教育はしてくれません。学校では、入試と成功主義の知的教育とか、学問教育とか、職業的教育はしますが、均衡が取れた全人的人性教育はしません。特にこんにちに至っては、進学入試準備にだけ没頭している始末です。従って、子どもの教育を学校にだけ拠り頼んでいては危険千万です。子どもの人性教育は、親たちが家でして上げなければなりません。

「ロックフェラー」は、16歳のときに会社に入社して、31歳のときに世界でもっとも大きい石油会社の経営者になりました。彼は一生涯の間、4,928箇所に教会を建て、24箇所に大学校を設立しました。その中でシカゴ大学校は、52名のノーベル賞受賞者を輩出したことで有名です。しかし彼は、幼年時代にとても貧しく、色々と難しい環境の中で過ごさなければなりませんでした。

彼は幼いときから、学校教育を充分に受けることができず、新聞売りとか、工場の臨時雇い人として働きました。しかし彼は、何よりも貴重な遺産を受け継いで育ちました。或る日、記者が彼を訪問して、「あなたが世界最高の豪富になった秘訣が何ですか?」と質問しました。そのとき、ロックフェラーは「私は、お母さんから三つの信仰遺産をいただきました。それが何よりの秘訣です。」と答えたと言います。

第1の信仰遺産は、「十分の一生活」だと言いました。彼の母親は20セントずつのお小遣いをくれながら、必ず、その中から十分の一を捧げるように教えました。後日、ロックフェラーは会社を経営しながらも、会社の収益から十分の一は必ず捧げました。系列下にたくさんの会社を率いるようになってからは、別途に十分の一だけを担当する部署を設置して、そこですべての会社の収入を計算して十分の一を捧げるようにした、と言います。

第2の信仰遺産は、教会に行ったら最前列の席に座って礼拝を捧げることであると言いました。ロックフェラーのお母さんは、彼の手を取っていつも礼拝が始まる40分前に、早く教会に到着しては最前列に席を取って礼拝を捧げたと言います。これがロックフェラーには習慣となって、老人になり、豪富になっても、彼はいつも早く教会に出席して最前列に坐って礼拝を捧げました。韓国のある陽気な牧師先生も言われました。「最前列は金の席、中間席は銀の席、後ろの席は筵の席」と。しかし、今後ろの席におられる聖徒さん、落胆しないで下さい。後ろの席でも御言葉と聖霊を立派にお受け入れなさったら、いくらでも恵まれることができます。

最後に、第3の信仰遺産は、教会に通いながら熱心に奉仕し、牧師先生の心を痛めるようなことは絶対にしてはならないと、彼はお母さんから教わったと言います。それでロックフェラーは、一生涯の間教会に反抗したことがなく、牧師先生の心に傷を負わせるようなことは一度もしなかったと言いました。それで、神様がロックフェラーを取り上げて、世界第一の豪富にしてくださったのです。





第四、環境と親友

第4番目に、私たちは子どもたちを養育して行くとき、子どもが成長して行く環境と、子どもの友だち付き合いに関して大いに関心を傾けなければなりません。放縦と堕落と世俗のどん欲でいっぱいの世の中に、子どもたちをそのまま放任状態で捨て置いてはいけないのです。

「ヨハネの手紙 第一 2章15節〜16節」に、『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』と記録されています。また「ヨハネの手紙 第一 5章19節」に、『私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。』と言われました。

全世界が悪い者の支配下にあるのです。悪い者たちは、どのようにしてでも誘惑やどん欲を通して私たちの子どもたちを、盗み、殺し、滅亡させようとしています。ご覧ください。私たちの周囲に有害な環境がいかに多いかを。子どもたちが家から一歩外に出ると、酒屋があり、カラオケ店があり、漫画屋があり、大人向けのビデオ店…等々、誘惑でいっぱいです。それだけならまだ良いですが、家の中で子どもが使用しているコンピューターを通して、有害情報が海の大波のように押し寄せて来ます。

小学生の59%が淫乱サイトに接続していると言います。大都市の小学校6年生224名を対象に、「淫乱サイトに接続した経験がありますか?」との質問に対して、59%の131名が「接続した経験がある。」と答えたと言うのです。家の中に坐って、成人サイトを通して子どもたちがあらゆる汚れた淫乱サイトを好奇心に目を光らせながら見ているのです。こうした子どもたちが悪い道に溺れ込むのは火を見るより明らかです。

我が国の青少年3,800名を対象に調査した結果、83%が「将来に対する夢がない。」と答えたとのことです。青少年たちがコンピューター・チャット、ゲームなど、1日に3時間以上コンピューターを使用しながら「明日に対して何の夢もない。」と言うのです。こうなのでは、国の将来がどうなるでしょうか?親たちが子どもたちの教育に無関心であり、有害な環境にそのまま捨て置くと言うことは、本人はもとより、家庭も、国も危険千万なことです。

ソウルの高校生558名に対する設問調査で、39%が甚だしい憂鬱症であると答えたそうです。なぜ、若い人たちが憂鬱症に罹るのでしょうか?大人たちが作った、この腐敗し、不正でいっぱいの世の中にぶっつかって堪えられないので、それで人生の葛藤に巻き込まれて憂鬱症に罹ってしまったのです。親たちはどのようにしてでも、子どもたちに良い環境を作って上げなければならないのです。

ですから父母である聖徒の皆さん、私が言っているように、信仰書籍である「信仰界」(月刊)なども買って読ませ、クリスチャン新聞も家で購読し、また色々な信仰的ビデオとか音楽を準備して上げて、子どもたちが自然とキリスト文化に接触して慣れて行くように仕向けて行かなければならないのです。そうすれば子どもたちは、また自然とこの世の世俗的文化から遠退いて行くようにもなるのです。このように父母たちは、子どもたちが接している環境に関心を傾けなければなりません。

それだけではなく、友だち付き合いに関しても関心を持たなければなりません。子どもが親しく付き合っている友人が、お宅の子どもに大いなる影響を及ぼします。子どもは親友の性格に凄く容易に染まって行くのです。「箴言 18章24節」に、『滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。』と記録されています。

「コリント人への手紙 第一 15章33節〜34節」には、『思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。』と記録されています。子どもがどのような親友と交わっているかは、重大な関心事と言わなければなりません。

レベンスン氏は、彼の著書「人間生涯の四季」の中で、この世で成功した多くの人たちの幾つかの共通点を発見したと言いました。第1は、彼らは自分の生涯を捧げるほどの大きな夢とビジョンを持っていた、と言いました。第2に、彼らには、彼らの前途を教えてくれた立派な先生がいた、と言いました。第3には、立派な先輩が居ただけではなく、最小限「一人」の本当の意味での親友が居た、と言う共通点を発見したと言いました。

成功した人たちは、心から深く付き合い、緊密な紐帯を持って、自分と夢を分かち合うことのできる「親友」を持っていたと言うのです。このような親友は、良いときにも力になってくれるだけでなく、落胆したり、失敗したときにも側にいてくれて、絶えず勇気を失わないように力づけてくれるとか、素晴らしい助言をしてくれるとかして、成功することができるように助けてくれるのです。

皆さん、立派な親友は立派な影響力を及ぼしてくれるのです。成功した親友は、成功の道に導いてくれます。正しい親友は正しい道に誘って行くのです。親友は、私たちの人生に価値ある雰囲気を醸し出してくれるのです。空気と同様です。悪い空気を吸うか、良い空気を吸うかが、その人の健康に絶対的な差があるのです。立派な親友は、価値ある雰囲気に浸るようにし、良い空気を吸うようにしてくれるのです。

古代ギリシャで大いに尊敬された教師・スムロニウスは、子どもたちを正しく教育させたことで有名です。彼の規則の中の一つは、子どもたちを、行いが聖潔でない友だちとは絶対に交際しないようにしました。或る日、自分の息子が来て、「お父さん、今晩パーテイーに行きます。許可してくださいますね!」と言いました。

彼が、そのパーテイーに集まると言う息子の友だちの名前が書かれているリストを一瞥したところ、性質の悪い不良者が含まれていました。それで「いや、駄目だ。」と言い放ちました。すると息子が、「お父さん、私はもう大きくなっていますよ。左右を分別することができるんです。良くない友だちも来ると言うことで、私が彼らに似て行くとでも思うんですか?そんなことは絶対にありません。お父さんの考えは狭過ぎますよ…。」と反抗しました。

そのときスムロニウスは、黙って火の気がない傍の火鉢から真っ黒い炭の塊を一個取り上げて、それを息子に投げつけました。息子はびっくりして、その炭を反射的に受け取ってしまいました。息子は手に炭の黒粉が付着し、服にも黒い炭の粉が飛び散ってよごれてしまいました。「お父さんっ、何してるんですか?折角着ている服もよごれ、手も汚れてしまったじゃありませんか…?。」息子が叫ぶように抗議しました。

スムロニウスが重く口を開きました。「それだよ。炭をお前が受け取るんだから、手がよごれ、パーテイーに行こうとして着た服もよごれたんだよ。悪友は炭と同じなのだ。悪い友だちとお前が親しく交際したら、詮方なくお前も悪い人間になってしまうんだ…。」息子は父親が言うことの意味を悟って、外出を取り止めました。

悪い友は炭と同じです。いくら気をつけても親しく交際したら、炭に手も服もよごれるように、知らず知らずの間にこちらも悪に染まり、よごれた人間に堕落してしまうようになるのです。ですから父母は、子どもが良い友たちとだけ親しく交際するように関心を傾けて指導して行かなければなりません。

多くの親たちが、自分の息子や娘たちが交際している友たちの名前もよく知らず、その子たちの家庭がどうなのかも知りません。お母さんであり、お父さんである聖徒の皆さん、万一、子どもが「私の親友の名前が何であるか、2〜3人の名前でも当てて見てちょうだい!」とでも言ったら、果して答えられるでしょうか?答えられる方が別に多くはないと思います。それだけ、子どもたちがどのような親友と交際しているかに対して、関心を持っていなかっと言えます。これでは、子どもの教育に万全を期しているとは言えません。





第五、神様の祝福

第5番目に、神様の御前にいつも子どもの為に祈り、祝福してくださるように願わなければなりません。私たちは、すべてのことについて良く祈りますが、特に子どものために祈ることはよくしません。一日も休むことなく、子どものために祈らなければならないのです。

イエス様が十字架をかついでゴルゴタに行かれるとき、大勢の泣き悲しむ女たちの群れがイエス様の後について行きました。それをご覧になられたイエス様が、女たちに向かって言われました。「ルカの福音書 23章28節」の御言葉です。『しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」』

主は、祈りが子どもたちを変化させることを知っておられたので、子どもたちのことのために泣きなさい、と言われたのです。

聖オーゴスティンは若かったときに、不実極まりなく、放蕩しながら、我が侭勝手に放縦に暮らしました。性的に紊乱な暮らしをし、マニ教と言う異端に溺れもしました。ところが母親モニカーは、熱心に神様に祈る人でありました。モニカーは一生涯の間、息子のために涙を流しながら祈りました。「主である神様!私の息子オーゴスティンを赦してください。私の息子オーゴスティンを憐れんでください。主に立ち帰るようにしてくださり、神様の民となるようにしてください…。」

その結果、オーゴスティンは32歳になる年に悔い改め、神様のもとに立ち帰りました。彼は放蕩者から神様のしもべに新生して、キリスト教の歴史上もっとも偉大な聖者になりました。オーゴスティンは彼の著書「告白録」に次のように記しています。

「私が神様に会い、変化されたのは、お母さんの祈りのお蔭です。私はこれを全的に認めます。私の母親は、私が母の乳と一緒に、救い主イエス・キリストの御名を飲んで育つようにしてくださいました。お祈りが、子どもたちの未来を決定します。子どもたちの人格を変化させます。子どもたちの人生を地獄から救い出すのです。それだけではなく、親は子どもたちのために祝福を願い祈らなければなりません。間違ったことを仕出かす子どもに向かって、悪口を言い放つ親が意外と多いです。私が育つとき、隣の村のある母親が子どもに向かってよく悪口を言いました…。

その家の子どもたちが私の姉さんと親友であり、私とも親しい友でありました。ところが見ていると、そこの母親は息子や娘に向かってよく怒り、「この野郎、乞食にでもなってしまえ!」と怒鳴ります。子どもが本当に乞食になって物乞いしながら暮らすようになったらどうしますか。「この人でなし娘、死んでしまえ!」とも声を張り上げます。その可愛い娘さんが本当に死ぬことでもあったらどうするつもりでしょうか。ところが今、その家の子どもたちは、私とほぼ同年輩ですが、死んだり、行方不明になったりして会うことができません。母親が夜昼なく呪ったので、みなその通りになったのです。」

父母の呪いは、神様が呪われるのと同じ効果を現します。父母の祝福の祈りは、神様が祝福してくださるのと同じ効果があります。ですから皆さん、怒ったとして子どもたちを呪ったりしてはいけません。子どもたちに神様の祝福が臨むように、いつも祈らなければなりません。

アメリカのジョナダン・エドワードは、偉大な哲学者、思想家、論理学者、作家であり、清教徒の牧者、名説教家、伝道者でもありました。彼は子孫たちのためにいつも祝福の祈りをした、と言いました。彼は生涯を通して子どもたちのために祝福の祈りを捧げながら暮らしたのです。

ところが最近、ある歴史学者が彼の子孫400名の調査をして見ました。すると、14名の大学総長が生まれ、100名以上の牧師と神学者があり、100名以上の法官と判検事があり、60名以上のお医者が現われ、70名もの作家とジャーナリストが輩出され、彼の子孫の中にはただの一人の犯罪者や監獄に入れられた人がなく、みんなが立派な指導者たちであったと言いました。

父母の祝福が子々孫々に相次いで注がれ続けられたのです。ですから、皆さんは子どもを育てるときに、子どもたちのために祈ると同時に、いつも祝福して上げる父母たちとなりますよう、イエス様の御名によって祈願します。

神様からいただいた子ども養育の基業は、まことに祝福された基業です。子どもを立派に育てたら神様から褒められ、それによって神様から祝福していただき、素晴らしい報酬もいただくようになるのです。子どもが立派に育ったら、それもまた、後日の父母の大きな祝福となります。

従って、父母が子どもの立派な模範とならなければならず、肉的「糧」と心的「糧」を供給しなければならず、正しく子ども教育を行い、環境と親友を選別するように助けて上げ、子どもたちの祝福のために毎日祈る皆さんとなりますように、主の御名によってお祈り致します。




お祈り

聖く、愛であられる、わが父なる神様! 

アダムとエバ以後、私たちは世の中に捨てられて、悪魔のしもべとして生き、行く所も帰る所もなく彷徨いながら暮らして参りました。そのような私たちを神様の子どもとして下さるために、私たちの主イエス様を遣わされて、身を裂き、血を流して、私たちの罪価を支払わられ、救ってくださって神様の民としてくださり、神様の御言葉と聖霊とこの上なき愛とをもって私たちを育てでくださって、有り難うございます。

神様が、私たちを生んでくださり、育ててくださった如くに、私たちもその愛と、そのまことを持って、私たちの子どもたちを顧みながら、育てて行けるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!