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「私の助けは、どこから来るのだろうか」
 






■聖書箇所

「詩篇 121篇 1節〜8節」
121: 1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121: 2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
121: 3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
121: 4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
121: 5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
121: 6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
121: 7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
121: 8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。




私は今日、皆さんとご一緒に『私の助けは、どこから来るのだろうか』と言う題目で、お恵みを分かち合いたいと思います。

詩篇記者は「詩篇121篇」で、苦難の中から自分を助けてくれる人を切に捜しています。詩篇記者は、この詩篇で「私は山に向かって目を上げる。」と言いました。彼は助けを得るために、山に向かって目を上げました。人たちはよく何かを誓うとき、「山のように変わらない」と誓います。山は不動で神秘であり、古くから神仙が住む神聖な地域ともされているからです。しかし詩篇記者が「山に向かって目を上げる」と言ったのは、自然の山ではなく、泰山のような権力、金力、名声を意味します。

目を上げて泰山のような権力に拠り頼んでみようか?泰山のような金力、泰山のような名声に拠り頼んだら、助けを得ることができるだろうか?そのような泰山に拠り頼んで助けを得ることができるだろうか、と考えてみましたが、直ぐに、権力や金力や名声というのは、今日は有るが明日は消え去るものであり、恒久的に助けとなることはできない、と言うことを彼は悟りました。

それでは、どこに助けがあるのでしょうか?詩篇記者は言います。「私の助けは、天地を造られた主から来る。」まことに、正確に悟った信仰告白です。

どうして、天地を造られた主が私たちの助けになることができるでしょうか?神様が天地を造られ、全知全能であられるとしても、私たちとどのような関係があるのかを知らなかったら、神様が私たちの助けとなることはできないのではないでしょうか?

どうして、神様が私たちの助けとなることができるでしょうか?




第一、神様が愛で助けてくださいます。

第1番目に、神様は愛であられますので、私たちを助けて下さることがおできになります。なぜかと言えば、神様が私たちを愛してくださいますので、私たちに害を与えられず、私たちを祝福してくださるからなのです。父母は子どもを愛しますので、父母が子どもたちをいつも顧みて上げ、害を受けないように守ってくれるだけでなく、何事にも幸いがあるようにと気を配っているのと全く同様なのです。

皆さん、神様の御姿を見た人がいるでしょうか?神様は霊であられますので、肉体の感覚では神様の形を見ることができません。しかし、神様は「愛である」と言われたのですから、愛を体験し、愛を感じたら、それが神様を体験し、神様を感じるようになるのです。「ヨハネの手紙 第一 4章12節」に、『いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。』と記録されています。

ですからこんにち、私たちが神様に会おうとして、この山からあの祈祷院に、この教会からあの教会にと彷徨っても、神様を見ることはできません。神様は愛であられますので、愛があるところに神様は居られるのです。愛を体験したら神様を体験したのです。愛を上げたら、神様を上げたことになるのです。

印度の聖女テレサ修道女が、愛の人生を生きながら神様を世の人たちに見せてくれました。それでテレサ修道女と言ったら、いつも神様の愛を感じるようになるのです。神様の愛が彼女を通して人たちに見せられ、人たちは神様をテレサ修道女の生涯を通して見ることができました。1950年、印度・カルカッタの貧民窟にテレサ修道女が入って行ったとき、そこはとても見るに忍びない、悲惨な地獄でありました。人たちは飢えて道ばたに倒れており、一方では病気に罹って死にかけており、盗賊と殺人が白昼に横行し、売春が公然と行なわれていました。

しかし、小さな体躯のマザー・テレサは、字を知らない無学の人たちのために複数の学校を建てて、7,500名の青少年を教育して卒業させ、診療所を施設して96万名の患者たちを顧みて上げました。また54箇所のらい病患者治療所を運営しながら47,000名のらい病患者を助けて上げ、20個所に孤児院を開設して孤児たちを育て、死ぬ日を待つだけの拠り所のない人たちのために23箇所の宿所を建てて彼らを収容して上げました。

マザー・テレサは1979年、ノーベル平和賞を受賞するとき、「私は、そのような賞をいただく資格がありません。主の苦痛を一緒に背負って行くだけです。」と、謙遜に語りました。87歳で天に召されるとき、「お互いに愛し合いなさい。」と遺言を残したと言います。まさに、テレサ修道女の生活の中に現われた愛が、神様の愛であるのです。神様をどこで見ることができるか、と聞いているのですか?テレサ修道女の生涯の中で神様を見、体験し、感じることができます。愛は、実に神であるからです。

また、アフリカの聖者シュヴァイツァー博士の生活の中から私たちは神様を見ることができます。アルベルト・シュヴァイツァー博士は、原始林の聖者と呼ばれました。彼は1875年、ドイツで生まれ、28歳のときに既に哲学、神学、音楽、医学の四つの分野で博士学位を取得するほどに優れた天才でありました。そうした彼が1913年に、すべての名誉と富を後ろにして、奥さんと一緒にアフリカに向かいました。

彼はアフリカでも一番暑く、毒蛇と鰐が多いことで有名なラン・バレネと言う所に病院を建てて、そこの原住民たちを顧みて上げながら神様の愛を伝え始めました。そうしたある日、ひとりの婦人が彼を訪ねてきて、「私は本当に先生を理解することができません。なぜなら、先生のように立派なお医者さんであり、偉い学者でもあるお方が何故、このアフリカに来て苦労しておられるんですか?」と、なじるように質問しました。

すると、シュヴァイツァー博士は微笑を浮かべながら、このように答えてと言います。「私は、言葉で人たちを感動させる位の才能がありません。それで神様の愛に関していくら熱心に説明しても、誰もうなずいてくれません。しかし、愛をほどこす間は、私は神様をストレートに伝えることができるのです...。」彼は、自分の生活態度を通して神様の愛を見せて上げました。それで数多いアフリカの原住民たちは彼の生活の中に現われる神様を見、体験し、感じることができたのです。

神様はどのようなお方でしょうか。愛であられるのです。神様をどこで発見することができるでしょうか。愛があるところに、神様もそこにおられるのです。どこで神様を体験し、感じることができるでしょうか。愛を体験するとき、神様を体験することができ、愛を感じるとき、神様を感じることができるのです。私たちは、もっとも私たちの身近にあるお母さんの愛を体験し、感じることができます。

お母さんの愛が何でしょうか。お母さんの愛が神様の愛なのです。神様の愛が、お母さんを通して私たちに伝達されて来るのです。したがって、お母さんからのその愛を通して、私たちは神様にお会いし、体験し、感ずることができるのです。

ユダヤ人のタルムードに出るお話しです。神様が仰せられました。「わたしの代わりに、世の中に母親を遣わしました。わたしは背がないので、母親を送り、あなたたちを背負って育てるようにしました。わたしは胸がないので、母親を送り、母親が胸に抱いて、暖かい手であなたたちを育てるようにしました…。」まさにお母さんが、神様の愛の現われなのです。神様の愛をお母さんの愛の中で私たちが体験し、感ずるのです。

ですから、親の愛に逆らう人は、神様の愛に逆らう人です。聖書「出エジプト記 20節12節」に、『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。』と記録されています。親の愛を通して神様が現われますので、親に孝行するのは、神様を愛し、神様を敬うことになるのです。

しかし、すべての愛の上で、イエス様は神様の愛の化身であることを忘れてはなりません。神様の愛がもっとも具体的に現われたところが実にイエス様であられるのです。「イザヤ書 53章 5節」に、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記録されています。

皆さん、キリストが十字架に釘付けられ、身を裂き血と水をみな流された苦しみを通して、私たちに、具体的に神様の愛が臨みました。十字架で流されたキリストの血潮を通して、私たちは神様の愛を体験したのです。そして、その血潮を通して私たちの罪がすべて赦され、義と見なされ、私たちに栄光を現してくださる神様の愛を体験することができるのです。私たちの咎を洗い清められ、聖潔と聖霊を与えてくださる神様の愛が十字架を通して現われたのです。

キリストが私たちの数限りない罪と咎を代わりに背負われて、十字架の苦しみを通して清算してくださった、その愛をご覧下さい。それがまさに、私たちに対する神様の愛の現われなのです。皆さん、ピラトの庭で鞭打ちに会われたイエス・キリストの姿を想像してみてください。凄惨なまでに、若く力強いローマ軍人たちから鞭で容赦なく打たれ、背中も胸も全身に振り下ろされる非情な鞭の痕が肉に刻み込まれ、皮膚が裂かれて鮮血が滴り落ちました。その打ち傷によって私たちを癒される、神様の愛を私たちは体験するのです。

神様の御子が呪われた者となって十字架にかけられて凄い苦しみに会われました。聖書に、「木にかけられる者はすべて呪われた者である。」と記されています。神様の御子が呪われた者となって木にかけられたのは、私たちを呪いから解放させて、アブラハムへの祝福に参与させることができるように、と願われる神様の愛の故でありました。

私たちは、十字架にかけられて死なれたキリストのその御姿から、私たちを死から救い出され、永遠の命、永遠の天国を与えてくださる神様の愛をつくづくと感じ、体験することができます。イエス様を見た人は、神様を見たのです。神様の愛がイエス様を通して、完全に私たちに現われたのです。「ヨハネの福音書 1章18節」に、『いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。』と記録されています。

イエス様のうちに現われた神様の愛を受け入れることによって、私たちは神様を信じることができ、神様の助けを受けることができるのです。神様が、私をこんなにも愛してくださったんだ!その愛が実にイエス・キリストを通して十字架で溢れたのだ!神様の愛がイエス・キリストにあって自分に現われたのを見るとき、私たちはその愛を受け入れ、神様を信じることができるのです。そして、神様は間違いなく私を助けてくださる、と言う確信を持つことができるのです。

「ヨハネの手紙 第一 4章10節〜12節」に、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。』と記録されています。

したがって、神様と愛を分離することはできません。憎むところには神様が居られません。愛するところに神様が居られるのです。神様と愛はいつもイコール(=)です。愛がなかったら神様もありません。愛があったら、そこに神様も居られるのです。神様がキリストにあって私たちに満ち溢れる愛をほどこしてくださったのですから、キリストにあって神様は私たちと共に居られ、私たちを助けてくださるので、私たちは神様の助けを受けることができるのです。

「ローマ人への手紙 8章35節〜37節」の御言葉を、皆さん、声を出して一緒に奉読しましょう。『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

限りない神様の愛が、キリストのうちに満ち溢れ、そのキリストのうちにある愛から私たちを引き離すものがないのですから、神様はその愛を通して私たちを助けてくださるのです。いくら私たちが侘しく、悲しく、苦しみの中に落ち込んでいるとしても、そしてその中で誰もが私たちを助けてくれることはできないと絶望しているとしても、神様は私たちを助けてくださいます。なぜなら、神様は私たちを愛して居られるからなのです。その愛を私たちが体験するとき、神様に対する信仰が満ち溢れるようになるのです。




第二、神様がお恵みで助けてくださいます。

第2番目に、「私の助けは、天地を造られた主から来る。」と信じる理由は、神様が私たちにお恵みを施されるからです。神様のお恵みは、代価なしに贈り物として私たちに与えられるものです。天地と万物はすべて、神様のお恵みの贈り物です。

皆さん、考えてみてください。神様が太陽を造られるとき、皆さんが一緒に荷を負って働かれたでしょうか?月と星を造られるとき、皆さんが協力して荷を負ったでしょうか?海とその中にあるすべてのものを造られるとき、皆さんが神様と一緒に働かれたでしょうか?そうしたことがありません。神様がお一人で荷を負われ、お一人で働かれ、そしてすべてを造られてから、そのすべてを私たちにお恵みの贈り物としてくださったのです。

太陽もお恵みの贈り物であり、月も星も海もその中の魚も、動物も穀物もみな、神様はお恵みの贈り物として私たちに与えてくださったのです。ですから私たちは、毎日、感謝と賛美でこのお恵みの贈り物を享受しなければならないのです。

「詩篇 8篇 3節〜6節」を見ますと、『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』と、詩篇記者は感嘆しました。

皆さん、また、救いもお恵みの贈り物です。神様は、イエス様の十字架の犠牲を通して代価なしに、贈り物として五重の福音と三重の祝福とを私たちに与えてくださいました。人類に救いのお恵みをほどこすために、十字架に釘付けられて身を裂き血と水を流される苦痛を忍ばれたイエス・キリストをご覧ください。私たちがイエス・キリストと共に十字架を背負ったのでしょうか。イエス様が惨い苦難に会われるとき、私たちがお水一杯を飲ませて上げたでしょうか。その時、私たちが手ぬぐいでイエス様の汗一滴をお拭いして上げたでしょうか。

主がお一人で、私たちの罪、不義、醜悪、呪い、絶望、死...を背負われて十字架で苦難に会われたのです。そうして主は、その苦難の実を、私たちに救いをお恵みの贈り物として与えてくださったのです。

「ローマ人への手紙 3章23節〜24節」に、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』と記録されています。人類は、値なしに、赦しと義を受けるようになったのです。「エペソ人への手紙 1章 7節」にも、『私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。』と記録されています。

私がアメリカ宣教旅行中に、ハワイでカナダの実業家の一人に会いました。その人が私に言いました。「チョウ先生、私は貧しい家に生まれ、人並み以上に苦しみぬいた挙句に、今は人たちが羨むほどの資産家になりました。私が今年48歳ですけれども、もうこれ以上忙しく働く必要がございませんので、今は引退して、別荘で猟と釣りをしながら暮らしております。ところが、苦労しながら熱心に暮らすときは知らなかったのですが、時間とお金があり、すべてに余裕があるようになった今は、言うに言えない空虚感で苦しんでいます...。」と、彼は苦悶を訴えました。

それで私が、「イエス様を信じ、神様に仕えるようにしてください。」とお勧めしました。すると彼は、「いや、私はカトリック信者です。カトリックの教会堂に熱心に出席しています。」と答えました。「そうですか。イエス様を信じて救いを受けたのなら、人生の空虚感などを感じるはずがないんですがね…。」と言いながら、私は不審に思いました。

ると、その人は次のように説明してくれました。「私は今日まで生きて来ながら、ただで得たのは何一つありません。みな代価を支払い、血と汗を流して得たのです。イエス様を信じて救いを得たならどんなに嬉しいことでしょうか。しかし私はイエス様から救いを得るほどに、善良なことをしていません。長い間お金を稼ぐとして、そこにだけ重点を置いて生きて来ましたので、何の功績も立てたのがなく、他人に慈しみをほどこしたこともありませんので、まだまだ、私には救いを受ける資格がないのです。教会堂に行きはしますが、まだ救いを受けてはいません…。」

それを聞いた私が、「そうではありません。救いは信仰でだけ受けるものです。代価を払って手に入れるものではありません。」と言いました。すると彼は、頭を振りながら私に答えて言いました。「チョウ先生、代価を払わずに救いを得るということは、全く考えられないことです。私が今まで生きて来ながら、血と涙と汗の代価を払わずに、この世から得たものは何一つありません。たとえ、私は救いを得ることができなくても、ただ、子どもたちが良く育ち、立派に成長してくれたら有り難い、と言う考えで教会堂に顔を出して祈るだけです…。」

それで、私がたずねました。「そうですか。そうれじゃ、おたずねします。あなたは、あの燦爛たる太陽の光を毎日受けているんですが、太陽の光に対する代価を払ったことがありますか?またあなたは、空気を吸わなかったら4分も経たずに人は死ぬんですが、この空気の代価を払ってますか?それから、あなたを育ててくださった親の愛に対して、あなたは代価を払ったことがありますか…?」すると彼は、頭を左右に何回も振りました。

そして、彼は何か弁解するような表情で答えました。「イヤ〜、チョウ先生!そんなものにどのようにして値段を決めることができるんですか。たとい値段を決めるとしても、それは高くて誰も代価を払うことはできないでしょう...。」

それで私は、力強い口調で言って上げました。「そうです。太陽の光も、空気も、親の愛も、そのようなものはあまりにも貴重ですので、値段を決めることができません。ただ贈り物として、ただで受けるものです。まして、太陽、月、星など、天地万物を造られた神様の御子イエス様が来られて、十字架に釘付けられ、身を裂き血を流して私たちの罪を代わりに清算してくださいました。それを値段や価格で計算することができますか?」すると彼は、「計算できませんね。」と答えました。

それで私は、継続して語りました。「そうです。人はそれらを計算したり、代価を払ったりすることができません。ただで、信仰で、お恵みとして、神様の贈り物として受け入れたら良いのです。太陽の光も、空気も、父母の愛も、贈り物として受けるものです。まして、神様の御子の愛の犠牲を通していただく救いを、代価を払って買うことは言うまでもなく出来ないことです。ただ贈り物として受け入れるだけです。今からでも、あなたが主イエスを信じたら、あなたは救いを受けることができます...。」

すると彼は、その場にひざまずいて、「天のお父さま!このように大きなお恵みの贈り物を下さるとは思っても見ませんでした。私は、私が現実的に良い事をしなければ救いは受けられない、とばかり思っていました。今、チョウ先生からお話しを聞いてから、イエス様の愛のお恵みの贈り物として救いをいただく、と言う事実を悟りました。主イエスを信じます。私を救ってください!」彼が、その場で救いを受けるのを私は見ました。

救いは、神様が与えてくださるお恵みの贈り物です。神様は、イエス様の十字架を通して代価なしに私たちに五重の福音と三重の祝福を贈り物として与えてくださいました。従って、私たちはそれを信仰で受け入れなければならないのです。主は毎日、私たちの荷を負われ、私たちのために働いてくださるお恵みの神様なのです。皆さん、主は天地と万物だけを贈り物としてくださったのではなく、また救いだけを贈り物としてくださったのではなく、毎日毎日、私たちの人生をも贈り物としてくださるのです。

「詩篇 68篇19節」の御言葉を、皆さん、一緒に声を出して奉読しましょう。『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。セラ』昨日だけでなく、今日だけでもなく、明日だけでもありません。毎日、私たちの生活の荷を負ってくださる神様なのです。

皆さん、イエス様は「マタイの福音書11章28節」を通して、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と仰せられました。神様を知らない人の常識では、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私から離れ去りなさい。私の荷だけでも、私は重いんだ。」と言うでしょう。しかしイエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と、全人類に向かって言われたのです。

これが、お恵みでなくて何でしょうか。私たちが偉いからでもなく、私たちが神様に代価を払ったからでもありません。何の代価もなしに、ただイエス様を信じたら、主が私たちの荷を負ってくださり、私たちの代わりに働いてくださると言うのです。私たちが従順に聞き従い、信じ、拠り頼み、心から仕えたら、神様が私たち人生の責任を負ってくださるのです。

「エレミヤ書 33章 2節〜3節」に、『「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」』と記録されています。神様が、私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を、私たちに告げてくださって、私たちを艱難から助け出してくださると言われたのですから、私たちは神様に拠り頼む事ができるのです。

「コリント人への手紙 第二 6章 2節」に、『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』と記録されています。恵みのときにあなたに答え、救いの日にあなたを助けて、あなたの荷をわたしが負い、あなたの仕事をわたしがして上げると言われたのです。いかに有り難い神様でしょうか。このような神様が居られるから、私たちは神様からお助けを得ることができるのです。

私たちを愛してくださり、私たちにお恵みをほどこすために、両手をいっぱいに広げて「みんなわたしの所に来なさい!」と招いてくださる神様が居られますから、私たちは神様のお助けを得ることができ、私たちは心に平安をもって生きて行くことができるのです。

私たちが信じる神様は、親しく私たちの荷を負ってくださり、私たちの仕事を代わりにしてくださるお方です。ですから私たちは神様にすべてをお委ねして、神様のお恵みの中で心に安らぎを得ながら生きて行くことができるのです。人生を生きて行きながら、幸福のもっとも基礎となるのは心の平安です。いくら富貴、栄華、功名をすべて手の中に握っているとしても、心が不安であり、焦燥、心配、懸念が離れないのであったら、幸福はありません。小さな藁屋根の下で暮らしても、心の平安が幸福の基礎となるのです。

では、どうしたらこの目まぐるしい世の中を生きて行きながら心に平安を持つことができるでしょうか。それは神様にすべてをお委ねして、ひとえに神様に拠り頼むことです。こんにち、主は私たちの祈りを聞き叶えてくださり、私たちの荷を負って、私たちに代わってみわざを働かして上げようと望んで居られるのですから、私たちはただ従順に聞き従い、信じ、拠り頼み、主に仕えれば良いのです。そうしたら、神様が私たちのすべてに責任を負ってくださるのです。故に、神様が私たちの助けとなられるのです。




第三、神様がその全知全能で助けてくださいます。

第3番目に、神様が私たちを助けてくださることができるのは、神様は全知全能であられるからです。皆さん、私たちが難関にぶっつかったとき、父母が私たちの助けとなってくれたら、どんなに良いでしょうか。父母は私たちを愛し、私たちに何でも値なしに与えて上げようと願って居ります。しかし、いつも私たちを助けることができないのは、父母がいつも、何でも可能な能力を持っているのではないからです。

父母は子どもに対して深い愛を持っており、何事にも恵んで上げたいと願っておりますが、全知全能ではないので、何でも助けてくれることはできません。限りないお金を持っているのでもなく、限りない権力を持っているのでもなく、限りない能力を持っているのでもありません。しかし、私たちが神様を信じ、神様のお助けを期待することができるのは、神様は全知であり、全能であられるからなのです。

神様に能力がない、と考えておられる方は、手を上げてみてください。誰も手を上げませんね。皆さん全部が、神様は全知全能であられる、と信じている証拠です。

私は、アフリカに宣教師として行っておられる方から、このようなお話しを聞きました。彼がアフリカの奥地に行って、或る部族に伝道しました。「神様は全知全能であられます。部族の中に立ててある偶像を信じてはなりません。悪霊や呪術を信じてはなりません。神様だけを信じてください…。」それで酋長が悔い改めて、イエス様を信じるようになりました。

ところが、大きな試練が襲って来ました。酋長の息子が熱病に罹って高熱に全身がほてり、もう直ぐに死んでしまいそうな悲観的な状態になりました。もしも、その息子が死んだら、この部族に今まで伝道して来た甲斐がなくなるだけでなく、よその部族たちまでもがイエス様を排斥する結果を招くかも知れませんので、その宣教師は気が気でありませんでした。

その息子の熱を下げるためには、氷が必要です。真夏のアフリカの奥地のどこから氷を手に入れることができるでしょうか。どこかの都市から求めるにしても、そこまで運搬して来るまでには時間がかかり、運搬途中にみな溶けてしまうことは必定です。全く方法がないので、宣教師先生はただ両手を揉むだけでありました。

ところが、酋長が泰然とした表情で近づいて来て、「先生、あなたが信じる神様が天地を造られ、全知全能である神様だと言いましたね。その神様に氷をくださいと、祈ってくださいよ。」と、宣教師先生に頼むのでありました。メッセージは確かにそう宣べましたが、しかし、このアフリカの奥地のどこから氷を求めてよいか、宣教師先生は目の前が真っ暗くなってきました。

ところが、酋長は心配するとか、悩む気色が一切なく、「先生、あなたが祈ったら、神様が氷をくださるはずです。心配しないで、早く、神様に氷をくださいと祈ってくださいよ...。」と催促するのでありました。仕方がないので、宣教師先生は酋長の息子が寝かされている寝床のそばに行って、ひざまずき、祈り始めました。

「全知全能であられる、神様!氷を与えてください。このアフリカには製氷工場もなく、何処からか買ってくることもできません。氷がなかったら、この息子は死ぬでしょう。どうしたら良いか分かりません。主よ!氷をください...!」ところがその時、突然、周囲が暗くなり、雷が轟くかと思うや、稲光が閃き、直ぐにその後を追って天から何かが落ちてくる音がしました。外を見ると、拳の大きさの雹が降ってくるのが目に入りました。

酋長と部下の何人かが外に飛び出して、氷を掻き集めてきて宣教師先生に押し付けながら、「早く、息子の熱が下がるようにしてください!」と懇願しました。先生がその氷を息子の頭に乗せて置いて、あつく祈りました。いくらも経たずに息子の熱は下がり、それでその部族全体が悔い改めて救いを得るようになったと言います。

皆さん、アフリカの奥地、それも真夏のアフリカに、氷を運んでくださった方は、神様しか居られません。それで私たちは、神様にお助けを期待することができるのです。神様は、私たちが思い浮かべたことのない事、理解を越えた大いなる事をなさるお方であるからです。私たちが想像もすることができないことを、私たちが呼ばわり、祈り、求めたら、神様は成就してくださる全知全能なる神様であられるのです。

「創世記 1章 1節」に、『初めに、神が天と地を創造した。』と記録されています。神様は六日間にわたって天地創造のみわざを終えられました。「詩篇 89篇11節」には、『天はあなたのもの、地もあなたのもの。世界とそれを満たすものは、あなたがその基を据えられました。』と記録されています。

神様は万物を造られただけでなく、万物を運行しておられます。神様は、造っておいてから、それらをほったらかして置かれるのではありません。運行なさるのです。「ヘブル人への手紙 1章 3節」に、『御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。』と記録されています。

私たちの人生も保ってくださり、地球も万物も主が保ち、運行しておられるのです。この神様は、私たち人生の歴史の中に現わしてくださった偉大な奇蹟を、私たちが憶えておくことを望んでおられます。

イスラエルの民たちがエジプトから出て来て、紅海のほとりに到着したとき、エジプトのパロ王が軍隊を動員して追跡して来て、イスラエルの民たちを捕虜にしようとしました。その時、イスラエルの民たちは驚き恐れてなすすべを知らずに狼狽しましたが、モーセはイスラエルの民たちに次のように言いました。

「出エジプト記 14章13節〜14節」に記録されています。『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』

「主が、イスラエルの民たちのために親しく戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」と言いました。なぜ、主は親しく戦ってくださり、民たちはそれを見ながら黙っていなければならないのでしょうか?主は全能なる神様であられるからです。神様はどのように戦われたでしょうか?紅海をさっと分けて、イスラエルの民たちが陸地を歩くように渡らせてくださいました。人間の想像を超越した奇蹟をほどこされたのです。神様には出来ないことがない全能なる神様ですので、私たちは神様を信じることができるのです。

皆さん、ラザロが死んでから四日も経ちましたが、イエス様が来られて彼を生き返らせました。「ヨハネの福音書 11章39節〜40節」に、『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」』と記されています。

私たちは、目で見、耳で聞き、匂いを嗅ぎ、手で触り、理性的に判断します。それで人間には限界があるのです。人間は、自分で思い受かべることのできないことは、することができないものと思います。しかし神様は、私たちに理性で生きようとせずに、信仰で生きて行きなさいと言われます。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』とイエス様が言われました。全知全能なる神様を私たちが信じるとき、神様が能力を現してくださいますので私たちは神様の助けを受けることができるのです。

私たちはこの世を生きながら、あまりにも恐れたり、不安を感じたりします。私たちの力ではどうすることもできない難関にぶっつかると、不安がり、恐れ、挫折し、絶望してしまいます。しかし、どんな問題よりも、どんな難関よりもはるかに偉大な神様が私たちと共に居てくださいますから、私たちは助けを受けることができるのです。

「イザヤ書 41章10節〜13節」の御言葉を、みんなで一緒に奉読しましょう。『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。 あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。』

これは、いかに驚くべき神様の約束でしょうか。神様が私たちの右の手を堅く握って、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言われたのです。このような神様が私たちを愛しておられ、このような神様が私たちに恵みをほどこそうと願っておられ、このように全能なる神様が私たちと共におられるのですから、私たちは恐れから、不安から、挫折から解放されることができるのです。

皆さん、「恐れ」と言うものは、私たちに凄い破壊をもたらします。或る日、アレキサンドリアに向かう馬車の上に、お婆さんが一人乗りました。御者が振り向いて聞きました。「お婆さん、この馬車はアレキサンドリアに行くんですが、あなたは誰ですか?」見ると、そのお婆さんは“鬼婆”でありました。その鬼婆が答えました。<私は、コレラだよ。>御者が驚いて言いました。「そうだったら、降りてください。なぜ私が“コレラの鬼婆”を乗せてアレキサンドリアに入って行きますか?」<若い御者さん、私がアレキサンドリアに行って、たった3人だけ捕らえて帰りますから、どうか、私を乗せて行ってくださいな。>「3人以上死なせたら、どうしてくれますか?」<その時には、この刀で私を殺しなさい。>御者は、鬼婆が差し出した刀を受け取りました。

鬼婆は、馬車がアレキサンドリア城内に到着するや、馬車から飛び降りました。何日か後に、アレキサンドリア城内でコレラが流行り、数多い人たちが死んでいきました。3人だけ死んだのでなく、数百名が死にました。ただの3人だけを死ぬようにすると言った鬼婆が、数多い人たちを死なせました。御者は怒って、刀を手にして鬼婆を捜し回り、城門があるところで鬼婆を捜し当てて殺そうとしました。

すると、鬼婆が<なぜ、私を殺そうとするの?>と聞きました。御者は怒声を鬼婆に投げつけました。「あんたは私に3人だけ死なせる、と言ったじゃないか。ところが今、無数の人たちが死んだじゃないか。約束通りに私はあんたを殺すんだ...。」その時、鬼婆がはっきりと言いました。<なに言ってるんだ。私が死なせたのはたったの3人だけよ。ほかの人たちは“コレラ”と聞いただけで驚いて死んだもん...。>

皆さん、鬼婆が語った言葉を吟味してみようではありませんか。3人が“コレラ”に罹って死ぬや噂が広がって、“コレラ”が流行ると聞いた人たちが驚き、皆ひとりでに死んで行ったと言うのです。こんにちも、「恐れ」は私たちを盗み、殺す、恐ろしい力を発揮しています。

こんにち、経済的、政治的、社会的な恐怖と不安に勝つことが出来る唯一の道は、イエス・キリストを信じ、神様に拠り頼む道しかありません。聖書に記録されています。『私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』(ローマ8章32節)神様が私たちと共に居られたら、私たちは心の中に平安を持つことができ、すべてにおいて私たちは神様のお助けを受けることができるのです。




第四、神様が祝福してくださる事で助けてくださいます。

第4番目に、私たちが神様に拠り頼み、神様の助けを受けることができるのは、神様には信じる者たちを祝福して上げようとする愛があることを信じているからです。神様は、私たちの父母の父母です。父母は子どもが幸福になることを願います。子どもが不幸な境地に落居って、他人に頭を下げながら恵みを乞いまわるようになることを望む父母はこの世にはありません。子どもが立派に、幸福になることを父母はみな願います。そのように神様も、私たちが神様の祝福に与るようにと願っておられるのです。

「ヨハネの福音書 10章10節」に、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』と主が仰せられました。また「ヨハネの手紙第三1章2節」には、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と記録されています。

 「詩篇103篇 1節〜5節」にある御言葉を記憶してください。『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

神様は、人類を祝福して上げようと望んでおられます。それで私たちは神様を信じ、拠り頼むことができるのです。神様はアダムのためにエデンの園を造られました。神様はアダムのために貧民窟を造られたのではありません。エデンに楽園を建てられたのです。まことに食べるのに良く、目に慕わしい果実がたくさん実るようになさいました。主は、まことに有り難く良き主であられるのです。その神様が、救いを受けた聖徒さんたちのために天国に楽園を備えて置かれたのです。天国が貧民窟であったら、誰がそこへ行くことを願うでしょうか。

イエス様が、私たちに「ヨハネの福音書 14章 1節〜3節」の御言葉を通して仰せられました。『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

主が、私たちを迎えようとしておられるところは、涙も心配も嘆きも離別も病気もない楽園なのです。主はこのようなところに私たちを連れて行って、永遠無窮に一緒に暮らそうと望んでおられるのです。素晴らしいエデンを造られ、この上なく幸福な天国を備えられた神様は、まことに有り難く、素晴らしい、良い神様であられるのです。

しかし、人たちは良く言います。「現在、俺が色んな試練、艱難、苦しみに会っているのに、良い神様であったら、なぜ俺にこんな試練や艱難や苦しみに会うようにするんですか...?」皆さん、子どもが幼稚園に行き、初等、中等、高等学校を経て大学にも進学するようにします。その間、受験勉強など苦しく悩ましいです。なぜ、学校に行かせて、このように苦しませ、悩ましくするのか?自由に飛び回り、存分に遊ばせてくれたら良いのに...と、子どもたちは不平を言うときがあります。しかし皆さん、それは苦しみや悩みではなく、そのような教育課程を通して子どもが立派な人になるように、親が願うのでさせる準備過程なのです。その過程を立派に過ごしてこそ、人は出世もし、企業家にもなれ、社会のリーダーにもなれるのです。

こんにち、この世を暮らしながら試練、艱難、苦難に会うのは、神様が私たちを祝福してくださるために器を準備なさる過程なのです。現在の苦難も、神様が祝福してくださるために試みておられる試練なのです。イスラエルの民たちが荒野の試練を受けたのは、乳と蜜の流れるカナンの地を与えるために、神様が器を準備なさった過程であったのです。

「申命記 8章11節〜16節」の御言葉を、皆さん、一緒に声を出して奉読しましょう。『気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。 あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、 あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、 あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、 燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・』

どのような試練、艱難、苦難が押し寄せて来ても、神様の御心は、遂には祝福して上げるためのものなのです。この世で神様を信じない人たちに、現実的に色々な歓楽や幸いを悪魔が与えているように見えますが、それは、遂には地獄に連れて行くためのものなのです。人は「最後」の時があることを知らなければなりません。

クリスチャンは、試練、艱難、苦痛に会うことがあっても、それを通して神様が私たちを変化させ、備えさせて、遂にはたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る祝福を与えようとする神様の御心であることを知らなければなりません。私たちが神様を信じ、拠り頼むことができるのは、神様のご計画は終局的に、私たちを祝福してくださることにあることを確信するからです。

目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、私たちが歩んで行くところに夜がおとずれ、暴風雨が吹きまくり、いばらの道を歩かなければならなくても、遂には、神様が祝福してくださるがためにそうなさるのだと知っていますので、私たちは泣きながらも笑うことができ、胸を叩きながらも希望を持つことができるのです。大きな祝福をいただくためには、大きな苦難を通過しなければなりません。小さな祝福は、小さな苦難を通していただくようになります。

私たちが会う苦難は、神様が祝福と栄光を与えるための器を準備する過程です。「ローマ人への手紙 8章17節〜18節」に、『もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』と記録されています。今私たちが会っている苦難は、今後私たちに近づいて来る神様の祝福と栄光に比べれば、何でもないのです。

「ペテロの手紙 第一 4章12節〜13節」を見ますと、『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。』と記録されているのです。

「ペテロの手紙 第一 1章 7節」には、『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。』と記録されています。

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」私たちは、数多い試練と艱難と苦痛に会いながら暮らしています。前途が漆黒のように真っ暗く、胸が苦しい時に、私たちは叫びます。「私の助けは、どこから来るのだろうか?」泰山のように信頼したお金も、地位も、権力も、私たちを助けることはできません。しかし、天地を造られた神様は、私たちの助けとなってくださいます。

私たちが、神様を「助けてくださる神様」と信じて、夢を持ち、肯定的に、感謝と賛美を捧げながら生きて行くことができる理由が、まさにここにあるのです。神様は愛であられますので、私たちは信じることができるのです。神様は、人類にお恵みをほどこそうと望んでおられますので、信じることができるのです。神様は、全知全能なるお方ですので、私たちは信じることができるのです。神様は、人類を祝福して上げようと願っておられるお方ですので、私たちは神様を信じ、拠り頼み、お助けを受けることができるのです。

私たちは、決して神様から見捨てられはしません。私たちは、決して神様から無視されるようなことはありません。『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』私たちを愛しておられる神様、私たちにお恵みをほどこしてくださる神様、全知全能であられる神様が私たちと共に居てくださるのです。そして、私たちを祝福して上げようと願っておられる神様がいつも同行してくださり、鞭と杖で慰めてくださるのです。

その神様を、『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』と、私たちはほめたたえるのです。神様は、皆さんを愛し、皆さんを顧みておられ、皆さんを導いて上げようと願っておられます。

皆さんが、いつも神様に従順に聞き従い、信じ、拠り頼み、神様に心から仕えながら、神様のお助けを求め、祈るようになられますよう、主の御名によって祝福します。




お祈り

聖く、愛であられる、わが神様!この世の生活には優しいことがありません。

父なるわが神様!夜が過ぎたら、また夜が来ます。暴風雨が過ぎ去ったと思うや、また暴風雨が襲って来ます。いばらの道をもう通り過ぎたと思ったのに、またいばらの道です。これが人生です。私たちが拠り頼み、助けを求めるべきところがどこでしょうか?

しかし全知全能であられる、わが神様!天地を造られた神様が私たちを愛してくださいますので、私たちは神様にお助けを求めることができ、私たちにお恵みをほどこしてくださいますので、私たちは神様にお助けを求めることができます。神様は全知全能であられますので、私たちは神様にお助けを求め、私たちが幸福になることを神様が願っておられるので、私たちは神様にお助けを祈り、願うのです。

愛であられ、全知全能であられる、わが父なる神様!私たちがもっと神様に拠り頼み、益々平安の中で、毎日毎時を喜びながら生きて行けるようにみわざを働かせてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!