教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「もっとも哀れな者ともっとも幸せな者」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第一 15章12節〜19節」
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。




私は今日、皆さんたちと一緒に、『もっとも哀れな者ともっとも幸せな者』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

私が尊敬している「痴呆専門医」の先生が、私にこのような話しをしてくれました。自分が数多くの痴呆患者を治療しながら感じたのは、痴呆患者がどの病人よりも不幸で、哀れな患者である、と言いました。その理由は、痴呆に罹ると徐々に、時間概念を失ってしまうと言うのです。過去と現在と未来を分別することができなくなり、その後には空間概念を喪失すると言いました。即ち、自分がどこから来たか知らず、自分の住んでいる家も探して行くことができず、遂には、家族も隣人も全く知らなくなる、と言うのです。

私が尊敬する牧師先生のお一人が年老いて、痴呆症状が現われだしました。奥様がいち早く天に召されて、お娘さんのお宅で暮らしました。ところが、その牧師先生がお娘さんを見て、「お母さん!」と呼び始めました。お娘さんが、「私ですよ。お父さん。お父さんの娘ですよっ。」と言っても、牧師先生は相変わらず、「お母さん」と呼びました。そして痴呆症状は急激に進展していきました。

痴呆が進展すると、自分自身が誰なのか分からなくなり、完全に植物人間になってしまいます。自分を喪失し、人生自体を失ってしまうと言うことは、身震いするほどに恐いものです。人も、イエス様を信じないということは、霊的痴呆に罹ったと言って過言ではありません。筆舌では表現できない不幸です。どこから来て、どこに行くのか知らず、自分の正体性を失ってしまった存在になって暮らし、最後には無意味にこの地を去って行くと言うことは、本当に不幸なことであると言うしかありません。

ところがキリストの福音は、この霊的痴呆から人類を救ってくださり、自分自身と、創造主であられる神様と、永遠の命を見つけるようにしてくれるもっとも嬉しい便りであるのです。





第一、 神様が居られない人生

第1番目に、無神論者たちや不信仰の人たちが言っているように、もしも神様が居られないのなら、私たちが住んでいるこの地球はどんなにして存在するようになったでしょうか?彼らが言っているように、「宇宙は偶然に生じ、生命も偶然にできて進化して来た。」のであったら、この世は偶然主義に立つようになります。すべてが秩序整然であり、論理整然ですのに、宇宙万物が偶然に生じたと言うことは、事理にも合わず、理致にも合いません。神様を否定し、神様は居られないと言う人たちとしては、唯物論的にどうしようもなく地球が偶然にできたと言うしかないのです。

しかし「詩篇 14篇 1節」に、『愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。』と記録されています。神様は居られない、偶然に宇宙と万物が生じたのだ、と言う人は愚かな者であり、腐っており、忌まわしく、善を行なわない者である、と聖書は記録しているのです。

「ヨブ記 38章 4節」に、『わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。』と記されています。神様が地の基を定めるとき、そのときから生きて来た人もなく、従って神様のみわざを見たこともない人が今や生まれて出て来て、自分たちの目では神様を見ることができないことから、神様は居られない、と言うのは、極めて愚かなことであるのです。

万有引力の原則を発見した科学者ニュートンが、熟練の機械技術者に「太陽系の模型」を作るようにしました。太陽を中心にして、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星…と、このように作ってクランクを回したら、順序に従って回転するようにした素晴らしい模型でありました。

或る日、無神論者であり科学者でもあるニュートンの友人の一人が、その太陽系の模型を見て、そこに取り付けてあるクランクをゆっくりと回転させました。そうしたところ、模型に着けられている各種の惑星たちが多様な速度で太陽の周囲を回転するのでありました。その友人は驚いた表情で、「これは、素晴らしい模型だね〜!一体、誰が作ったんだい?」と尋ねました。ニュートンは静かに答えました。「誰も、作った人はいないよ。」すると、その友人は「おい、冗談言うなよ。誰が作ったんだ?」と、高い声で聞き返しました。

ニュートンは相変わらず、静かな声で答えました。「これは、誰かが作ったんではなく、色々なものたちが自然と寄り集まって出来たんだよ。」その友人が怒った顔で言いました。「おい、俺を阿呆だと思うのか?こんなに精巧で立派な模型が自然とひとりでに出来上がったと言うのか?」するとニュートンが答えました。「君、宇宙の小さい模型に過ぎない、こんな簡単なおもちゃも、設計士がおり、製作者があってこそ作られるんだ。まして、この広大無限な宇宙が秩序整然と動いているんだ。それが偶然にそうなったと言えるかね?」その友人は、黙って首を上下にしながら肯きました。

ニュートンは、彼が叙述した本・プリンキピアを通して次のように語りました。「太陽、惑星、海星からなる凄く美しい天体は、知性を備えた強力な実力者の意図と統一的制御があるので、はじめて存在するようになったのである。至極偉大な神様の永遠無窮なる御力で宇宙は形成できたのだ。」

皆さん、小さな太陽系の模型も人が設計し、制作しなければ出来上がりはしません。まして、その本体である広大無限な宇宙が、どのようにして偶然に出来たと言うことができるでしょうか。皆さん、神様を否認する人は、聖なるイエス様も否認します。彼らは言います。「イエスの誕生、生涯、死と復活は、みな作り話だ。」と。

「ヨハネの手紙 第一 4章 2節〜3節」に、『人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。』と記録されています。

神様に属し、聖霊を受けた人は、イエス様が神様のお恵みの中で計画された通りにご誕生なさり、みわざをほどこされ、死なれ、そしてよみがえられたことを信じます。しかし、イエス・キリストの話が虚構であり、作り話であると言う人はすべて皆、サタンの霊からヒントを受けてそう言うのです。無神論者や不可知論者たちは、自分たちの知識でそう言うように見えますが、聖書は「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」と、はっきりと言っているのです。

有名な無神論者が或る日、キリスト教と聖書を批判するために「現代人のための講座」と言う講演会を開いて、彼の無神論を講義しました。彼は、イエスの話は作り出された神話に過ぎない、と言いながら、そう思う理由に関して熱心に説明しておりました。その時、ひげが茫々と伸び、作業服を着た一人の鉱夫が手を上げました。そして言いました。「先生、私が一言、話してもえぇでしょうかね?」講師が「話してみてください。」とOKサインを出しました。

すると、その人は立ち上がって話し出しました。「僕は一介の鉱夫に過ぎない者ですが、イエス様の話が神話であり、聖書は嘘である、と言われたことに全然同意することができません。なぜかと言えば、3年前までも僕と僕の家庭は悲惨な生活をしました。そうした或る日、一人の人が僕を教会に伝道しました。僕がイエス様を救い主として迎え入れてから、僕の人生と家庭が完全に変化されてしまいました。僕たちは地獄から天国に移された人たちとなりました...。

僕がイエス様を信じる前には、鉱夫ですので骨が折れる採鉱作業を終えて外に出てからは、酒を飲み、酔っ払って大声を張り上げたり、家族たちを虐めたりして、生地獄でありました。ところがイエス様を信じるようになってからは僕が変化され、家族たちも変化されて、家庭が天国になったのです。このように僕と家族たちが新しく変化されて、幸福な毎日を暮らしているのに、...その証拠がここに居り、同僚の鉱夫たちがそれらを認めているのです。なのに、イエス様の話が一つの神話に過ぎないということは、納得することができません...。

僕は、イエス様を信じてから、直接、変化を体験したんです。生きて居られる神様を経験した人間です。神様は居られない、と僕に言わないでくださいよ。僕は、神様を見、聞き、味わった経験者なんですよ...。」イエス・キリストの話は神話に過ぎないと言った講演会場は、直ちに粛然となり、白けて沈黙が漂うだけでありました、と言う話を読んだことがあります。

皆さん、神様を体験した人に向かって、神様は居らないと否定することはできません。こんにち、イエス・キリストに関する話は虚構であると主張するのは、余りにも常識のない人の話しです。また、もしもイエス様のご誕生、生涯、復活が偽りであると言うなら、イエス様を信じる信仰も空しいものであり、死んだ人の希望も空しいものです。なぜ?イエス様が死に打ち勝たれてよみがえられ、私たちに天国と永遠のいのちを与えてくださったと信じているのに、イエス様が死なれてからよみがえられたと言うことは作り話である、と言うなら、私たちの希望も信仰も夢もすべてが空虚なものとなってしまうからです。

「コリント人への手紙 第一 15章17節」に、『そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。』と記録されています。皆さん、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪の荷を背負って死なれたのであり、お墓に入られたのは、その罪の代価を払うために入られたのです。罪をすべて清算することができなかったら墓から出ることができないのです。イエス様が死なれてからよみがえられたのは、私たちの罪の荷を背負って死の監獄に入ってから、すべての罪を清算し、その代価を支払われたのでよみがえられたのです。

それで、イエス様を信じる私たちが罪の赦しを受け、復活と永遠のいのちと天国の希望を得るようになったのです。イエス様が死なれてからよみがえられたのを作り話であり、虚構だと言うことこそ、作り話であり、虚構なのです。イエス様のご誕生と生涯と復活が偽りであったら、人間は永遠に絶望的な存在として残り、罪と無意味と死の絶望の奴隷になってしまうのです。罪を赦していただく事もできず、イエス様の存在が嘘であると言うなら、どこから来て、なぜ生きており、どこに行くのか、私たちは道を失ってしまい、イエス様が死なれてからよみがえられなかったら、私たちは永遠に死んで絶望に瀕するしかありません。

私たちの信仰は、イエス様が死なれてからよみがえられたことによって罪が赦され、私たちはどこから来て、なぜ生きており、どこに行くのかを永遠の人生の目的として知ることができ、死に打ち勝ち、復活の喜びを心の中に所有することができるようになるのです。

「エペソ人への手紙 2章12節〜13節」に、『そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。』と記録されています。

神様が居られなかったら、この世には何の希望もありません。富貴、栄華、功名とは、あってから直ぐに萎んで枯れてしまう野の花も同様なものであり、水の泡、流れ去る雲のようなものです。実存的哲学者たちは、人間を否定的で、絶望的な存在だと見ました。なぜなら、神様が共に居てくださらない人間は、いかに否定的で絶望的なのか、キルケゴールは「人間は死に至る病人である。」と言いました。

カール・ヤスポースは、「人間は、苦痛と競争と死に取り囲まれて苦しむ存在である。」と言い、ハイデッガーは、「人間は、死という、癒されることがない苦痛の中で生きている存在」だと言いました。神様が共に居てくださらない人間は、このように絶望的な存在なのです。

アメリカの心理学者ビクター・プランケーは、「こんにち、世界は無意味の洪水に覆い被せられたまま、所謂実存的空虚という病的コンプレックスを起こしている」と言いました。人間は重い罪の荷を負って虚無と無意味の中であがき、死の永遠なる絶望に落ちて行ってしまうのです。万一、イエス様が来られて、死なれてからよみがえられなかったら、人間の存在とは、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」と嘆いたソロモンの嘆息と同じものなのです。イエス様なき人生はすべて空しいものであり、生きているようだが死んだ者も同様なのです。快楽があるようですが空しく、悲しく、絶望的なことだけがいっぱいの人生なのです。

2003年末に韓国の統計庁が発表した資料によりますと、韓国で1ヶ月平均36名が自殺したと言います。地球全体からみますと、1年の間に無慮81万5千名が自殺すると言われ、これは40秒ごとに人が1名ずつ自殺したことになります。福祉施設を備えた先進国も例外ではありません。スイスの場合、1年に1,300余名、香港は1,100余名、日本では1ヶ月平均100名が自殺すると言われています。

このように、こんにち数多い人たちが自殺を択ぶ理由は何でしょうか?それは、この人たちが神様の存在を否認することから、自分がどこから来て、なぜ生きており、どこに行くのかを知らないからなのです。彼らは人生の意味を捜し当てることができないまま空しい人生を生きてからは、心配、懸念、不安、焦燥、絶望のストレスに罹り、空しい人生を生きてどうするんだ、死んでこのすべてから脱出しようとして自殺してしまうのです。人は、天国もなく地獄もなかったら、この世の人生は浮雲のようなので、世の中で艱難と苦痛の目に会ったらたやすく命を断ち切ってしまうのです。





第二、神様が居られる人生

第2番目に、私たちには神様が共に居てくださいますので、すべてが美しく、希望に満ち、栄光です。イエス様のご誕生も事実であり、生涯も事実であり、死と復活は神様のご計画と御心に従って起こった確実な事件です。信じない人たちはこれを架空の話だと言いますが、私たちは神様が生きて居られることを知っていますので、この事実が確実なのです。イエス様はこの世に偶然に現われたお方ではありません。

「イザヤ書 7章14節」に、『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。』と記録されています。「インマヌエル」と言うのは、まことの神様がまことの人となって来られたことをいうのです。

このように、イエス・キリストのご誕生は偶然に起こったことではありません。イエス様が死なれてからよみがえられたことも、偶然に、イエス様が捕えられて、すべてに失敗して死なれたのではありません。ペテロは言いました。「使徒の働き 2章22節〜24節」に記録されています。

『イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。』

イエス様の十字架の死と、墓に入られたことと、よみがえられたことは、みな神様の定められたご計画と予知によって成されたことであって、偶然にそのようなことがあったのではないと言うことです。

また、パウロは言いました。「コリント人への手紙 第一 15章 3節〜5節」に、『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。』と記されているのです。聖書に記録され、預言された通りに、神様の御力によってイエス様は死なれてからよみがえられたのです。

印度のサンダー・シンがイギリスを訪問したとき、ある大学教授が彼に質問しました。「あなたは、あなたの家族とあなたの民族が長い間信じて来たヒンズー教を捨てて、キリスト教の信徒になった理由が何でしょうか?」すると彼は、「その理由は、イエス様だけが死なれてからよみがえられ、今も生きて居られるので、私たちはイエス様を信じるのです。」と答えました。

そうです。イエス様は死に勝ってよみがえられ、今、私たちと共に居られ、私たちの必要を満たしてくださって居られるのです。こんにちも私たちの罪を赦され、義としてくださり、私たちの罪過を洗ってくださり、悪霊を追い出され、聖霊を与えてくださり、今も私たちの病を癒してくださり、私たちの祈りに耳を傾けられ、人類を試練、患難、困苦、呪いから解放させてくださり、アブラハムへの祝福を与えてくださり、こんにちも、死の向こう側にある燦爛と光り、栄光で満ちている天国への道を開いてくださる方であるのです。

イエス・キリストは、昨日も今日も、永遠に同じ方なのです。また、私たち2〜3人が集まったことろには必ず居てくださるのです。それで、イエス様に対する私たちの信仰ははっきりしており、死んだ者の復活の希望も確実なのです。私たちがキリストを信じる信仰は、少しも空しいことがありません。イエス様を信じて死んだ人は、必ず復活し、私たちは共にまた会って、永遠に共に生きるようになるのです。

「エペソ人への手紙 1章 4節〜7節」に、『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。』と記録されています。

代価なしに罪の赦しを受けて神様の子となり、私たちは満ち溢れる希望の中で暮らしているのです。私たちはただ生きているのではなく、もう直ぐに降臨なさる主を毎日待ち望みながら、私たちは生きているのです。「コリント人への手紙 第一 15章51節〜52節」に、『聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。』と記録されています。

皆さん、私たちがキリストの愛とお恵みを体験したらするほど、天国と地獄がはっきりしてくるようになります。私たちが話でだけ聞いてきたことが、実際生活で祈祷の応答をいただき、主の御力を体験したら天国と地獄がはっきりと見えてくるようになるのです。

いつだったか、或る女性の執事さんが私にお恵み溢れる手紙を送ってくれました。その執事さんは膵臓がんで絶え間なく出血していたのですが、血が止まらなかったら死ぬと言われていたそうです。執事さんが入院室から外出して、私のところに按手祈祷を受けに来ました。私には記憶がありませんが、私に、こう言ったと言います。「私はイエス様を信じているんですが、どうしてがんに罹ってこのような苦しみに会っているのか知りません。主が私を癒してくださることを信じています。先生の信仰で祈ってください。そして私を助けてください。」

その時、私が按手して上げながら、熱く祈り、イエス様の御名によって膵臓がんを叱ったと言います。そして彼女は直ぐに病院に戻りましたが、相変わらず出血は止まりませんでした。明くる日、お医者が来て診察してから、「もう、病院ではこれ以上手を尽くす方法がありません。お家に帰られて、安らかに死を迎えるようにしてください。」と言いました。すると執事さんが、「私は悔い改め、イエス様を信じ、按手祈祷も受けました。イエス様が必ず癒してくださるはずです。主の打ち傷によって私は癒されたんです...。」と、はっきりした声で宣言するように言ったそうです。

その時、お医者さんたちは首を左右に振りました。ところが、三日目から血が止まり、その次に、膵臓がんがきれいに癒されてしまったと言います。奇跡が起こったのです。それで、その執事さんが私に次のような内容の手紙を送って来ました。

「先生、こんな大きなお恵みをいただいてから見ますと、私は膵臓がんを患わなかった時より以上に、信仰が篤くなりました。病気が有益だったのです。私が膵臓がんに罹る前には、イエス様を信じると言いながら形式的にだけ教会に出入りし、祈りも上の空で祈る真似だけしましたが、膵臓がんを患ってからは、本当に心から悔い改め、涙のお祈りを捧げ、神様の御力に拠り頼むようになり、また、癒しの奇蹟を体験してからは天国と地獄が目に見るように確かに悟ることができるようになりました。病気のお陰で私の信仰が成長したのです。私はこれから、一生の間伝道しながら生きていくつもりです...。」

こんにち、主を体験した人は、天国と地獄がはっきりと心の中に悟れるようになるのです。イエス様の復活と昇天と聖霊降臨は、神様が生きて居られることを確証するものです。皆さん、聖霊を受ける前にはイエス・キリストの復活と昇天と天国が何の事なのかはっきりしません。しかし聖霊を受けたら、聖霊が私たちの霊の目を開いてくださり、私たちの心の中に真理を悟るようにしてくださるのです。

「使徒の働き 2章32節〜33節」に、『神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。』と記録されています。

聖霊を受ける前には頭の中で知っているイエス・キリストの復活と昇天を、聖霊を受けた後には胸が熱くなって、胸の奥底から信じることができるようになるのです。そして遂には神様の黙示を受けることができるようになるのです。知識で知ることと、神様の啓示が胸に来て知ることとは天地の差があるのです。

実存主義作家として知られているフランズ・カスピーカーは、不安にさいなまれ、絶望に陥ったまま生きていく現代人を「親を失った孤児だ」と表現しました。しかしイエス様のうちにある人は孤児ではありません。神様を父とした、幸いで幸福な人なのです。こんにち、イエス・キリストを救い主として迎え入れたら、イエス様が私たちの主となられるだけでなく、宇宙と万物を造られ、支配して居られる神様が私たちのお父さんとなってくださるのです。

実家のお父さんが力があり権勢があったら、嫁ぎ先の家庭でもその嫁さんを待遇してくれます。実のお父さんが偉大で立派であるからです。私たちのお父さんが天地と万物を造られた神様であり、歴史を主管なさる神様であり、人間の生死禍福をつかさどる全能なる神様であることを知って、信じ、拠り頼んだら、私たちは心の中に平安を得ることができます。

私たちの「主の祈り」は、“天にまします我らの父よ”から始まります。皆さん、神様は私たちの父なのです。マルテイン・ルターは、「私たちが神様に対して考えることができる最上の名前は、父である。」と言いました。ジョン・カルビーンも、「神様が父となられることと、神様の全能を信じることは、信仰にあって必需的なものである。」と言いました。





第三、神様が「お父さん」となられる人生

第3番目に、神様が私たちのお父さんであられるなら、私たちはどんな人たちでしょうか。私たちは孤児でもなく、捨てられた人生でもありません。お父さまが私たちと共におられるなら、私たちはもっとも幸福な人たちです。なぜなら、神様が私たちのお父さんであるなら、当然の事ながら私たちを保護してくださるからです。皆さんは、皆さんの子どもたちを保護します。力のある限り保護するのです。神様が私たちのお父さんであるなら、皆さんと私を患難と危険と苦痛から保護してくださるのです。

「詩篇 91篇 1節〜7節」の御言葉を、皆さん、声を出して一緒に奉読してみましょう。『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。』

神様は、私たちのお父さまです。子どもを顧みない父親はありません。私たちを愛されて、ひとり子を遣わされ、十字架で身を裂き血を流して死なれるまでになさりながら、私たちを救ってくださった神様が、どうして私たちを守ってくださらないことがあるでしょうか。

「ローマ人への手紙 8章31節」に、『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。』と記録されています。また「ヘブル人への手紙 13章 6節」には、『そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』と記録されているのです。

ところが、神様が私たちの傍に居られるのが私たちには見えません。神様が前に立っておられても見えず、横で働いておられても私たちはそれを知りません。それで人たちは、神様がおられないと思ってこの世の生活に不安を感ずるのです。こんにちの世界はすべてが不確実です。今日、どんなことが起こるか知らず、明日があまりにも不確実です。

こんにち、世界の人たちはいつも不安におののいています。政治が不確実であり、経済が不確実です。特に韓国は南北の情勢が不確実ですので、いつ何が起こるか、不安です。しかしイエス様を信じる人は、天地と万物を造られ、今日も手に握り、明日も支配なさる神様が自分のお父さんなのですから、お父さんの懐に抱かれているので平安です。

第2次世界大戦がたけなわの時、イギリスの大きな汽船がアメリカに渡ることになりました。重大な任務を帯びていたので放棄することができず、そうだといって大西洋を渡ることには大変な危険が伴いました。なぜかと言えば、ドイツの軍艦がいたるところで待ち構えていたからです。イギリスの汽船が出発する前に、上部から指示がありました。無条件に前に向かって航海すること、問題が発生した時には無電で連絡すること、絶対に船長の判断に従わないこと...でありました。

この汽船がアメリカに向かって出発しました。何日か過ぎて、船長は敵軍の艦隊が近くにいるのを発見して、直ぐに無電で報告しました。「敵の軍艦が見える。即時、指示乞う。」すると、直ぐに次のような回信が打電されて来ました。「恐れずに、継続、航海せよ。」あまりにも簡単な指示に船長は不安を感じながらも、命令に服従して前に前にと進んで行きました。

無事にアメリカに到着して港に入港したとき、船長は手拭いを出して汗を拭いました。「ひゅー、九死一生で助かった…。」ところがその時、汽船の横から何か黒いものが海の中から浮上して来ました。見ると、イギリスの国旗を掲げていました。それはイギリスの巨大な潜水艦でありました。航海中にずーっと、海の下に隠れて潜水艦が汽船を守っていてくれたのです。それと知った船長は、ひとりで声を出して笑いました。「なーんだ、つまらない心配と不安と恐怖に緊張してたじゃないか。下で潜水艦が継続保護してくれてたんだ。」

皆さん、私たちは知らないけれども、神様が、潜水艦が海の下をついて来るように、隠れて私たちについて来てくださるのです。いつも見えないところで私たちを守ってくださるのです。私たちが振り返って見たら、神様が私たちを守ってくださったその足跡を見ることができます。現在も、神様は隠れてみわざを働かせておられるのです。神様は前にもおられ、後ろにもおられるのですが、私たちはそれを目で見ることはできません。

聖書は何と言っているでしょうか。『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』(ヘブル10章38節)主は、目には何のしるしも見えず、手には触れるものがなくても、ひとえに主は私たちと24時間共に居られることを信じなさい、と言われるのです。

『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』(詩篇23篇4節)死の陰の谷を歩くとき、天地が真っ暗く、何も見えなく、捨てられたと言う絶望でいっぱいになっても、主はそこに共に居られるのです。主は私たちのお父さんです。私たちを保護してくださる、私たちのお父さんですので、主は私たちを養育してくださるのです。

「詩篇100篇 1節〜3節」に、『全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。』と記録されています。

牧者が羊を飼うように、父母が子どもを養育するように、こんにち、神様は私たちを養育しておられます。従って、私たちが主に心から従順に聞き従い、信じ、拠り頼み、仕えたら、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか…と言うことは心配する必要がないのです。それは、お父さまが既に知っておられる事だからです。主は、神の国とその義とを先ず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます…と言われたのです。それで主は、私たちのお父さまなのです。

そして、お父様は私たちを成長させてくださいます。皆さん、子どもが幼稚園から小学校、中学校、高等学校、大学校へと成長して行くことを父母は願います。子どもが幼稚園にそのまま残っていることを望む親は居りません。神様も私たちを成長させてくださるのです。

主は、私たちの信仰人格が成長するようになさいます。どのように成長するようになさるのでしょうか。御言葉を通して成長するようになさるのです。子どもも食事をしてこそ成長することができます。私たちが御言葉を主日に聞き、水曜日にも聞き、区域礼拝にも参加する…など、勉強することによって御言葉の栄養をたくさん摂取してこそ、神の御国の民として立派な人格を備えるようになり、成長するのです。御言葉を慕い、御言葉をありがたく受け入れなかったら、病に罹るとかして、成長しないようになるのです。

また、私たちが祈りを捧げることを通して、私たちの信仰人格が成長します。祈りを捧げたら、神様はすべての面において私たちを顧みてくださるのです。皆さん、クリスチャンであり心理学の権威者であるレンドルフ・フレンポード博士は、祈りが病にどのような影響を及ぼすか、科学的に証明して見たくなりました。彼は長時間祈った後に、どのように研究したら良いかを悟りました。

彼はコンピューターを通して、393名の心臓病患者を二つのグループに分けました。そして祈りに熱心なクリスチャンたちを招いて、Aグループの患者たちのために祈ってくれるように頼みました。Bグループの患者たちのためには祈らないようにと頼みました。レンドルフ・フレンポード博士は、Aグループの患者たちの名前と簡単な病症状、患者たちの状態などを明記した情報を、祈りに熱心なクリスチャンたちに配布しました。そして熱心に祈ってくれるように彼らに頼みました。

約10ヶ月が過ぎたごろ、AとBのグループを比較しながら結果をチェックしました。取り成しの祈りを受けたAグループは、病勢のために抗生剤治療を必要とする患者の数が、Bグループの患者の数に比べて5分の1に過ぎず、肺に水が溜まった患者数もBグループに比べて3分の1程度しかありませんでした。酸素呼吸器を必要とする患者は一人もなく、死亡者数もBグループに比べてはるかに少数でありました。

一方、信仰と祈りによって病気が癒されることに関してすこぶる否定的であったウイリアム・ノーラン博士は、その結果を検討した後に、こう言いました。「この研究は、確かに検証されたものと見られますね。そうだとしたら私たちお医者は、処方箋に一日に3回、必ずお祈りを捧げなさい、と記入しなければならないんじゃないでしょうか...?」医者が病人を治療しながら、薬だけ処方すべきではなく、処方箋に「1日に3回ずつ、祈りなさい」と書き込まなければならない、と言ったのです。

祈りが、私たち人生のすべての面に影響するのです。私たちが思うこと、私たちの感情、すべてのことの効率性、心の平安、肉体の健康...生活全般に、祈りは、人たちが知らぬ間に天から露が降って来るように影響を及ぼすのです。音もなく降る露を人たちは感じることができません。しかしいつの間にか服は湿ってくるのです。皆さん、祈ったとして、直ぐには結果を見ることができません。しかし皆さんの霊と心と生活にはいつからか影響が及ぼされ始めているのです。祈り、また祈り...祈ることによって、私たちの信仰は成長するようになるのです。

また私たちは、練られることによって成長します。子どもを育てるとき、保護するだけでは抵抗力を失います。温室で育った木は、背丈が高いだけで抵抗力がありません。温室の外に出して置いたら太陽に照らされて直ぐに枯れたり、風に吹かれてそのまま萎れてしまいます。しかし野で育った草や木は、熱い太陽の光りを受けても、暴風雨に遭っても、強く鍛錬されているのでびくともしません。

人も同様です。鍛錬されてこそ力があるのです。軍隊生活をした人は、軍隊でどんなに鍛錬されたかを知ることができます。私が軍隊の新兵であったとき、ひどい訓練を受けた後には、休憩時間に座ったらそのままよく居眠りしました。疲れ切ったからです。すると、教官が来て怒鳴ります。「寝ちゃいかん!」しかし、教官が怒鳴ろうがどうしようが、聞かん振りをして新兵たちは眠り続けます。

いつだったか、或る教官が言ったことを私は今も忘れません。「おいっ、こらっ、お前たちを訓練させることが僕も嫌なんだ。骨が折れ、苦しくて居眠りすることを捨て置きたいのは僕も山々なんだ。しかし、お前たちがここで訓練されず、鍛錬されなかったら、いざ戦争となったらお前たちは銃弾一発で死んでしまうんだ。そんなに簡単に死なないようにするために訓練させているんだ。お前たちが憎くて訓練させているのではない…!」そうです。私たちがこの世で悪霊共と戦って、クリスチャンとして生き残るためには、私たちは神様から訓練させていただかなければならないのです。

「詩篇119篇71節」に、『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』と記録されています。また「ペテロの手紙 第一 5章10節」に、『あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』と記録されているのです。苦しみを通して、私たちを完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる、と主が言われたのです。

私が、印度のカルカッタ聖会に招かれて行ったときのことです。そこでは喉が渇いても水を自由に飲むことができないので随分苦労しました。カルカッタのあらゆる川と湖は泥水です。水がきれいでないのです。それでカルカッタで水を飲んだら下痢をします。病気にも罹ります。カルカッタの水がなぜ、このように泥水でしょうか。現地の人に聞いて見ました。

すると、彼が答えてくれました。「一回、見回してみてください。カルカッタには山がありません。汽車に乗って1時間以上走って行ったところでやっとヒマラヤ山が見えます。山がないのです。それで水が泥水なのです。水が清くきれいであるためには、山があり、谷があってこそ、浄化されてきれいになるのです…。」韓国を、昔は「錦繍江山」(錦繍のように美しい山川の意)と呼びました。山が多く、渓谷が多いので水が浄化されていたのです。

私たち人生も、危機の高い山と試練の深い渓谷を通して信仰人格が明るくなり、輝くようになり、幸せになるのです。山とか谷のような試練がなかったら、泥水のような人格になってしまうのです。ですから、試練とは私たちにいかに良いものか知れません。

冬になったら、農夫たちは麦畑に出て行って、芽を吹き出した麦を無情なほどに踏み付けます。知らない人たちは、なぜ麦を踏み付けるのか、麦がかわいそうではないかと思うかも知れません。しかし専門家は言います。麦の芽が吹き出し始めた頃に、そのままにして置いたら、麦はわずか80粒乃至90粒しか実らないと言います。ところが、麦の芽が吹く出し始めたころに足で踏み付けて上げたら、強い茎になって成長し、最後には400粒の麦を実らすと言うのです。それで麦畑を踏み付けて上げたら、収穫が30倍、60倍、100倍と増えるのです。

神様も、クリスチャンたちの人生に収穫を増やして上げようとして踏み付けてくださるのです。皆さんに試練、患難が襲ってきて踏み付けられたら、こう言ってください。「あ〜、麦踏をするんだ。主よ、踏んでください。もっと踏んでください。ハレルヤ!有り難うございます…。」と、感謝してください。なぜなら、皆さん、踏んでいただいたら、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人たちになれるからです。試練と患難は、その当時は苦しいものですが、過ぎ去ったら大いなる実を結ぶようになるのです。

イギリスの諺に、「静かな海では、立派な船頭は生まれない。」と言うのがあります。静かな海では、船頭が訓練されないからです。険しい波を乗り切る鍛錬を経てこそ、立派な船頭になれるのです。セネカーンは、「荒野で鍛えられた足を持った動物は、どのような道も行くことができる。」と言いました。ジハバードは、「暴風は、ならの木がもっと深く根を下ろすようにする。」と言いました。暴風雨が吹き付けてならの木を揺り動かしたら、ならの木は暴風雨に勝つために、下にもっと根を下ろすようになるのです。それで神様は、私たちが鍛錬に会うようになさるのです。

神様は私たちを成長させるために、私たちを懲らしめられ、戒められます。父母が子どもを育てる時に、懲らしめ、戒めない父母はありません。この頃は、父母が子どもを過保護する場合が目に付いて増えて来ました。こんにちの父母たちは社会生活が忙しいので、子どもたちをほったらしておく場合が増え、それが子供たちに済まないので、間違ったことを仕出かしても懲らしめるとか、訓戒することをせず、ねだる度ごとにお小遣いを上げます。お小遣いも余分に上げる、欲しがったら高価な衣服も存分に買って上げるので、子どもたちがたまには打たれるとか、きつく戒められるとかすることがなく、甚だしく無秩序に、勝手気ままに成長して、学校では先生を尊敬せず、大きくなったら親には不孝者となり、遂には社会秩序を無視する人間になってしまいます。

「ヘブル人への手紙 12章 5節〜13節」の御言葉を皆さん、一緒に声を出して奉読しましょう。『そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。』

或る日、D・L・ムーディー牧師先生に、ひとりの女性が訪ねて来ました。そして「牧師先生、神がどこにおられますか?私はあらゆる悪いことをしても、神が懲らしめもせず、打つこともしません。神が生きて居られるなら、そうする筈がありません。神は居りません…。」と言いました。すると牧師先生が、その姉妹さんをじーっと眺めるように見てから、言われました。「姉妹さんは、勝手気ままに暮らしても何の鞭打ちも懲らしめもないので、神様が居られないと言いますが、それは神様が居られないと言うことではなく、姉妹さんが神様の子じゃないと言うことの証明です。あなたが神様の子であったら、神様が懲らしめない訳がありません。あなたが子じゃないので、神様は見向きもしないのです。」

すると、その姉妹さんは、「いやー、私はいつも教会に出席してるんですよ…?」と抗議調で反撥しました。ムーデイー先生は、厳粛な口調で言われました。「教会に出席するとして、その人が神様の子であるとは言えません。悔い改めて、イエス様を心から救い主として信じ、従順に聞き従ってこそ、神様の子なのです。」

皆さん、道を行くとき、子どもたちが危ない悪戯をしているのを見ます。「おいっ、こら、危ないこと、するんじゃないっ。」大人が叱ります。そして、その人はそのまま通り過ぎて行きます。その子どもたちの中に自分の子どもが居ないから、その人はそのまま通り過ぎるのです。しかし、その中に自分の子どもが混じっていたら、その人は自分の子どもだけを呼び寄せて叱り、悪戯の程度によっては殴りつけもします。

神様は、神様を信じない世の人、神様の子ではない人たちの間違った行為に関して懲らしめることはなさいません。しかし、神様を心から信じ、畏敬する人の間違った行為に関しては、神様は懲らしめられます。その人が神様のまことの子であることの証明です。神様の懲らしめを悲しく思ってはなりません。神様から懲らしめられるときには、皆さん、喜んでください。懲らしめられてこそ、私たちはまことの神様の子であり、また真理を悟るようになるのです。

私たちの教会に、夫婦が揃って一緒に教会に出席し、たまには夫婦が一緒に私のところに来て信仰相談もする、仲のよい聖徒さん夫婦が居られました。ところが、旦那さんがイエス様を信じはしますが、熱く信じません。或る主日の朝、奥さんに向かって、「今日は、第2部の礼拝(午前9時の礼拝)には行けんよ。あんた一人で行って来なさい。僕は第1部の礼拝(午前7時からの礼拝)を捧げてから、会社関係の人との用事を済ませて、遅く帰宅することになりそうなんで、済まん!」と言って、ネクタイにきちんと洋服を着て、奥さんより先に、教会に行きました。

その日、奥さんは第2部の礼拝に参加しました。礼拝が終わり、教区事務室に向かって歩いているとき、携帯電話の呼び出しがありました。急いで電話を受けたところ、旦那さんが自動車事故に遭って、今、応急室に入院していますから、早く来てください、との病院からの連絡でありました。驚いた奥さんは、タクシーに乗って病院に飛んで行きました。

行って見ると、旦那さんは応急手当を受けて、ベッドに横になっていました。ところが、ネクタイに洋服を着ているはずの旦那さんが、ゴルフ服で横になっていました。「この服装は、どうしたのですか?」と容態よりも先ず、奥さんが怪訝な顔で服装のことを聞きました。すると旦那さんが、至極痛そうな顔で弁明しました。「済まん。礼拝には行かずに、実はゴルフに行く予定だったんだ。途中で眠気がして…、うっかりしてから目を醒ましたら、もう電柱に衝突してしまっていた。首もからだ全体も痛く、クルマも滅茶苦茶になってしまった…。」神様から懲らしめられたのです。

そんな事があってから、その旦那さんは人が全く変化して、熱心に祈り、熱心に教会で奉仕し、区域でも模範の聖徒さんになられ、今は私たちの教会の長老様となられて、色々と献身的に奉仕しておられます。神様の懲らしめには、このように素晴らしい変化が伴うのです。

もう一人の聖徒さんは、私のところに来て、「牧師先生、いくらタバコを止めようとしても止められません。私がこれでも、教会の執事なのですが、タバコを吸うのを他の聖徒さんたちに見つけられて、執事がタバコを吸う、と非難されもします。私の力ではタバコをとても止めることができません。タバコを止めることができるように、祈っていただけたら有り難いですが…?」と頼むのでありました。

それで私が、祈って上げましょう。私が祈る度ごとに、執事さんが「アーメン!」と答えてくれることができますか?と、聞いたところ、執事さんは「はい!」と言って、元気に答えてくれました。それで私が、その執事さんの頭に手をおいて祈りました。「主である神様!この執事さんが、タバコを止めることができるように、助けてください。」「アーメン!」「又とタバコを吸ったら、神様が懲らしめてください。」これにも、執事さんは元気な声で「アーメン!」と答えました。

その日、執事さんは家に帰ってから、堪らなくタバコが吸いたくなりました。それで、奥さんに向かって、「済まん。タバコを一服だけ吸うよ。」と言って、タバコを一本取り出し、ライターで火をつけようとしました。それを見た奥さんが、「あんたー、牧師先生がタバコを吸ったら懲らしめてください、と祈られたことを忘れたの…?」と言いながら、止めようとしましたが、執事さんは「天井の下だから、神様にも見えないよ。」と言って、もはやタバコに火をつけていました。

執事さんがタバコを吸いかけたとき、タバコの火の付け所から火花がパチッと飛びました。「あ、痛いっ!」執事さんはタバコを投げ出して、目に手を当てて叫びました。火花が目の中に入ったのです。凄く痛がりながらごろごろと転がり回り、目も開けられないので病院に運ばれました。診察したお医者が、「0.1mmだけ火花が深く焼き込んだら、瞳が火傷して盲目になるところでした。神様に感謝しなさい。」と言いました。

その時から、この執事さんはきれいにタバコを止めてしまいました。どうしてもタバコを止めることが出来なかった人が、神様の懲らしめに会って一気にタバコを止めてしまうことができたのです。聖書にも、子どもを懲らしめることに遠慮してはならないと言われています。懲らしめたら、子どもを愚かさから救うことができるのです。懲らしめが人を変化させるのです。

私たちも過去を振り返ってみたら、神様から色々と懲らしめられてから変化されたことを知るようになります。神様の懲らしめを通して、人たちは正しい人、信仰の人に変化していく場合が少なくありません。それで、懲らしめを受けるときには苦しく、悲しく、悩ましいものですが、通り過ごしてからみたら、それが私たちにどんなに益となったかを悟るようになるのです。

最後に、神様が私たちを養育されるのは、私たちを天国に連れて行こうとする目的のためなのです。天国に連れて行こうとするのでなかったら、世の中にそのまま捨て置かれてしまうでしょう。天国に連れて行ける人にしたいので、神様は私たちを保護してくださり、成長させてくださり、養育なさり、練られ、懲らしめられるのです。これが真理なのです。

「ヨハネの福音書 14章 3節」に、『わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と、言われました。

私は、印度の聖者サンダ・シンを非常に尊敬しており、彼の自叙伝を興味深く何回も読みました。彼は40日間断食祈祷を捧げた後から、度々、祈る中で天の御国に上って行く体験をしました。或る日、彼は天の御国に上って行って、人たちに会いましたが、その中の一人が彼に頭を下げて挨拶しながら、「先生。懐かしいです。このように天国でお会いできて、どんなに嬉しいか、知れません。」と言いました。それでシン先生が「あなたは誰ですか…?」と聞きました。

すると、その人が「私がらい患者収容所にいるとき、先生が来られて説教してくださり、私をイエス様のもとに伝道してくださったじゃありませんか?そのとき、私がイエス様を信じて救われ、何月何日に天に召されて、ここに来ました。」と言うのでありました。それで、サンダ・シンが入神状態からもとに返った後、そのらい患者収容所に行って調べて見たところ、その人が言った通りに、その日彼が天に召された事実を確認することができた、と記録しています。

皆さん、私たちがこの世を生きてから、肉の幕屋を離れたら、空中を彷徨いまわるのではなく、主が備えて置かれた美しい天国に入って行くようになるのです。私たちの弱い体が強い体に、朽ちる体が朽ちない体に、死ぬ体が死なない体に変化されて、主と共に永遠に暮らすところが天国です。

もしも天国がないとしたら、私たちが何がためにこの世で苦しみながら主に仕え、正しく暮らそうと努力する必要があるでしょうか。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。死んだ後に、信じた者は天国に、信じなかった者は地獄に落ちるので、私たちは主を信じ、主に仕えるのです。

神様は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためであるのです。

この世を生きて行きながら、自分も失い、道も失ってしまい、ただ生きているからそのまま生きて行く人生は、本当に哀れな人生です。その人の終末は永遠の死であり、地獄であるからです。しかし、イエス様を信じ、自分が誰か知っており、道も探し当てて、永遠の天国への希望の中で生きる人は、あまりにも幸いな人です。

その人は、この世では安心しながら生きて行き、あの世では祝福された人生を生きることを同時に得て、涙も心配も嘆きも離別も泣く事も患うこともなく、死ぬこともない天国で、全知全能で愛であられる主の栄光に取り囲まれて、永遠に生きるようになるのです。




お祈り

聖く、全知全能であられる、我が父なる神様!

神様が居られない、と言う人は、イエス様のご誕生と、生涯と、死と、復活を否認し、神様の栄光もすべて否認しますけれども、その人たちはあまりにも不幸せな人たちであり、自分を失ってしまった人たちであり、未来を喪失した人たちであり、絶望的な存在に過ぎません。

神様が生きて居られ、神様が遣わされたイエス・キリストを私たちは救い主として迎え入れていますので、私たちの胸の中には、キリストが天国への道となって居られ、真理となって居られ、私たちが真理に立って成長し、香ばしい実を結ぶいのちとなってくださったことに感謝申し上げます。

愛であられる、天のお父さま!

私たちがすべて皆、キリストにあって父なる神様に仕え、拠り頼み、お父さまの保護のもとにお父さまの養育を受け、成長させていただき、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、ますます健康で、いのちを得るにしても豊かに得る主の民たちとなるように、助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!