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「挑戦と応戦」
 






■聖書箇所

「ペテロの手紙 第一 5章 8節〜9節」
5: 8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
5: 9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『挑戦と応戦』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

人たちは、生れてから死ぬまで、人生のあらゆる面から絶え間なく挑戦に会い、それに応戦しながら生活していきます。子どもは、母親の腹の中にいるとき立派に保護され、不安がることなく安らかに過ごしながら大きくなっていきます。腹の中の胎児は母体と臍の緒で連結されており、その中に連結されている血管を通して栄養と酸素を供給してもらいながら成長します。

そして或る日、この世に生まれ、母親と連結されていた臍の緒が切られてからは、独立した生命体となって生存していかなければならなくなります。母親の体内の温かい保護膜から出て来ては世の中の病菌と戦わなければならず、自分の力で呼吸し、食べては排泄しながら、生存するために死闘を続けていかなければなりません。生存するために挑戦を受け、それに応戦しながら生きる間、勝ったら生きていくようになり、負けたら死ぬようになります。このような限りない闘争が連続し、それは死ぬ日まで継続します。

アーノルド・トインビーは、彼の著書「歴史の研究」の中で、文明の成長は継続される挑戦に成功的な応戦で成されていき、これは歴史及び個人の発展の原動力になる、と述べました。例を上げれば、中国の黄河文明は、挑戦と応戦の生きている歴史的教訓です。黄河は夏には殺人的暑さと洪水で、冬には酷寒で、試練と絶望の川です。人たちは、この黄河の絶望的な挑戦に応戦して勝利を博したので、黄河文明を築き上げることができたのです。

ローマも、元来は草1本がない丘と砂利、熱病が横行する荒野でありましたが、歴史上もっとも偉大な帝国を建設することができたのは、人たちがそれらを克服し、それらに打ち勝ったからなのです。またギリシャの歴史学者ヘルドトスは、「エジプトはナイル川の贈り物である。毎年ナイル川が氾濫するので、太陽暦、幾何学、天文学が発達したお陰である。」と言っています。





第一、生の挑戦に負けたアダム

第1番目に、私たちの先祖アダムは、生の挑戦に応戦することができなくて敗北した典型的な人物です。生の挑戦に応戦することができなかったら奴隷になります。アダムは、エデンで悪魔の挑戦に負けたので悲惨な奴隷となりました。

「創世記 3章 1節」に、『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』と記録されています。それに対してエバは、『女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」』(創世記 3章 2節〜3節)と答えました。

それを聞いた蛇が、エバに言いました。「創世記 3章 4節」に記録されています。『そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」』そこで、エバが見ると、「創世記 3章 6節」に記されています。『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』

アダムは、蛇の誘惑と妻の勧めに応戦しませんでした。その挑戦に素直に降伏してしまったのです。それで彼は悪魔の奴隷になってしまい、3重の刑罰に見舞われるしかありませんでした。霊的に神様と断絶され、神様からの栄光を失ってしまい、肉体は病と虚弱と死の奴隷になり、環境的には姦淫と呪いと失敗の奴隷となってしまったのです。

またアダムとエバは、夫婦愛の挑戦を受けて悲惨にも失敗しました。「創世記 3章11節〜12節」を見ますと、『すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』と記録されています。

ここで夫婦愛の挑戦を受けました。神様がアダムに、何故その木の実を取って食べたのか、と聞かれました。するとアダムは、神様が造って与えてくださったその女が、私に食べなさいと誘うので私が食べましたと、自分には責任がないことのように弁明しました。彼が妻を愛するのなら、私が間違った道に妻を導きました。私が悪うございました。私に責任があります…、と答えたでしょう。そうしたら、その夫婦愛の挑戦に彼は応戦して、成功したはずです。

その時からエデンでは、もはやアダムとエバの間に深い不信の溝が築かれてしまったのです。お互いに、愛の代わりに疑い…、憎み…、悲惨な状況が展開し始めたのです。アダムとエバ以後、こんにちまで人類は夫婦愛の挑戦を受けております。そして最近に至っては、ますます多くの人たちがこの挑戦に負けて、悲惨な結果を招いているのです。

夫婦とは、他人同士が会って結ばれたのですから、お互いに理解し合い、同情し合い、忍耐し合い、愛し合いながら、歩調を合わせて生きて行かなければなりません。ところが最近はそうでありません。アダムとエバのように、自己中心的に生きており、責任を負おうとせず、却って相手に責任を転嫁しようとするので家庭が破壊されていきす。

皆さん、韓国の離婚率がだんだんと増えて、2003年の総離婚件数が167,000件にのぼりました。それは前年に比して15%も急増したものであり、これは毎日平均458件の離婚があることを示しています。夫婦は他人同士が結ばれて暮らしているので、生活している中で夫婦愛の挑戦を受けることが頻繁にあります。しかし、この挑戦に立派に応戦することができずに、失敗するので結局は離婚と言う悲劇に至るようになるのです。

カインとアベルは、兄弟愛の挑戦を受けて失敗し、人類最初の殺人を犯しました。アダムとエバの長子カインと弟のアベルは、兄弟愛の挑戦を受けたとき、それに立派に応戦することができなかってので、兄弟間で殺人を犯したのです。カインは地の作物から主への捧げものを捧げ、アベルは羊の初子の中から、それも最良のものを自分自身が持って来て捧げました。ところが主は、アベルと彼の捧げものは喜んでくださいましたが、カインと彼の捧げものには目も留められませんでした。

それでカインはひどく憤り、顔色が変わりました。そして、その後のことを聖書は「創世記 4章 8節〜9節」に次のように記録しています。『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」』

結局、カインとアベルは嫉妬の故に兄弟愛の挑戦に応戦せずにカインがアベルを殺してしまいました。こんにちも、私たちの中には兄弟愛の挑戦を受けて失敗する場合が意外と多くあります。兄弟が兄弟に暴力を振るって刑務所にいくこともあり、甚だしくは殺すこともあります。遺産問題で兄弟同士が告訴し合うことはいくらでも見ることができます。

実際に父母の遺産を取り巻いて起こる訴訟が2001年に11,340件もあり、これは1日平均30家庭以上がお金のために兄弟間で法廷争いをしたことを実証するものです。ですから、こんにち兄弟愛も挑戦を受けたら勇敢に応戦するのではなく、だらしなく崩れてしまうのです。これはどん欲の故にそうなのです。





第二、生の挑戦に勝ったイエス様

第2番目に、生の挑戦に勝たれたイエス様を考えて見ようと思います。勝ったら、王様になります。負けたら奴隷になるのです。

イエス様は荒野に行かれて、試みに会われました。40日40夜断食なさった後に、サタンの試みに会われたのです。「マタイの福音書 4章 1節〜2節」に、『さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。』と記されています。

その時、悪魔が近づいて来て肉の欲でイエス様に挑戦しました。神様よりも、先ず食欲を満たしなさいと言ったのです。神様の御力を利用してでも先ず、空腹を満たすのが最高だと誘惑しました。「マタイの福音書 4章 3節〜4節」に、『すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』と記録されています。

ここで、イエス様は断固として応戦なさり、サタンの誘惑を拒否なさいました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」と。

次にサタンは、目の欲で試みました。神様よりも名誉をもっと貴重なものと思いなさい。神様の名を売ってでも名誉を得なさい、と誘惑したのです。「マタイの福音書 4章 5節〜7節」に、『すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」』イエス様は今度も、断固としてサタンの挑戦に対抗して応戦なさり、勝利なさいました。

その次にサタンは、この世の自慢を手に入れるようにと挑戦しました。神様よりも、富貴、栄華、権力を手に入れなさい。神様よりも、先ず富貴と栄華と権力を手に入れるべきです...と。「マタイの福音書 4章 8節〜11節」に、『今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』と記録されています。

イエス様は、断固として神様の御言葉に立って、サタンの挑戦に応戦されたので、サタンはイエス様を奴隷にすることが出来ずに断念して離れて行き、イエス様はサタンを支配する王様となることができたのです。

イエス様は、ゲッセマネの丘でも悪魔の挑戦に会われました。十字架の死に対する拒否感の挑戦でありました。イエス様は完全な神様でありますけれども、完全な人間として来られましたので、イエス様は33歳で、十字架の上で人類の罪を代わりに負われて、惨い死を迎えることに凄く心に苦痛を覚えざるを得なかったのです。

「マタイの福音書 26章38節〜39節」に、『そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」』と記録されています。

イエス様は、凄い苦痛と恐怖と悩みの挑戦を受けられたのです。しかし結局には、その挑戦に対してイエス様は応戦なさいました。神様に従順に聞き従うことによって、イエス様はその挑戦に応戦して勝つことができたのです。

「マタイの福音書 26章38節」に、『そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」』と記されています。そして「マタイの福音書 26節42節」に、『イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」』と記録されており、さらに「マタイの福音書 26章44節」には、『イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。』と記録されています。

以上の聖書の御言葉を通して、イエス様が肉体的死の苦痛を避けたい心の欲求があったのですが、これらに応戦なさって遂にはそれらを克服なさり、神様の御心に従順に聞き従ってご自分を献身なさることによりサタンの挑戦を克服なさり、勝利されたことを私たちは知ることができます。

どん欲とはどんなに恐いものか知れません。どん欲は人たちを支配して奴隷にします。どん欲の挑戦に応戦して勝つことができなければ、どん欲の奴隷となって苦しみに会うようになります。国際透明性機構が調査した「国家別腐敗指数」によりますと、韓国は42位だと言います。これを見たら韓国の公職社会がどんなに腐敗しているかを良く知ることができます。この腐敗はどこから来るのでしょうか。人たちのどん欲から来るのです。どん欲に勝たなければ犯罪するようになり、この犯罪は結局破綻をもたらします。

最近、マスコミを通して賄賂与えたとか、貰った公職者たちが手錠はかけられて監獄に連れて行かれるのを見るとき、何故こうなったのかと私たちは怪訝に思います。それは、彼らがどん欲の挑戦に応戦せずに負けてしまったからなのです。どん欲の甘ったるい誘惑に強力に応戦したなら、彼らは勝ったでしょうし、今日のような憂き目に会わなくてもよかってのです。私たちの生活は、絶え間ないこの世の誘惑とどん欲に対する戦いです。生きると言うこと自体が戦いなのです。ただの一瞬間も放心せずに、持続的なお祈りと御言葉で武装して応戦しなければならないのです。





第三、私たちの生活自体が挑戦の連続

第3番目に、挑戦を受けると言うことは、私たち人生の現実的生活である、と言うことを知らなければなりません。生きること、それ自体が戦いなのです。私になぜ、このような苦痛が押し寄せてくるのだろうか。私になぜ、このような試練が襲って来るのだろうか…などと、質問する必要がありません。火花が上に飛ぶように、人生は苦難に会うために生まれ出たのだと言われました。

「ヨブ記 5章 6節〜7節」に、『なぜなら、不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さないからだ。人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。』と記録されています。

フランスの作家ビクトル・ユゴーは、「今日の問題はなにか?戦うことである。明日の問題はなにか?勝つことである。すべての国の問題はなにか?死ぬことである…。」と言いました。人間にはいつも、三つの戦いがあります。第1は、人間と自然との戦いです。第2は、人間と社会との戦いです。第3は、人間と人間の心との戦いです。従って人間は、生まれてから死ぬまでいつも挑戦を受け、それに応戦し、負けたら奴隷になり、勝ったら王になる、そのような人生を生きるようになるのです。

私たちが毎日受ける挑戦に関して考えて見ようと思います。私たちは毎日、罪の挑戦を受けており、それに応戦しております。罪の挑戦を受けない人は誰一人おりません。「詩篇107篇17節」に、『愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。』と記されてあり、「詩篇 38篇 4節」には、『私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。』と記録されています。

「イザヤ書 64章 6節」では、『私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。』と嘆いています。人間には罪が絶え間なく襲撃して参り、私たちに挑戦しているのです。これに対して私たちが応戦しなかったら、私たちは罪の奴隷になってしまいます。

また、この世の誘惑とどん欲が休みなく私たちに挑戦しております。「エペソ人への手紙 4章22節〜23節」は、『その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、』るようにと、勧めているのです。

また「ガラテヤ人への手紙 5章17節」には、『なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。』と記録されています。肉の欲が絶え間なく挑戦しており、私たちの中におられる聖霊さまが私たちを助けて戦っておられ、肉の欲の挑戦に負けないように応戦してくださっておられる、と言うのです。

「コロサイ人への手紙 3章 5節」に、『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。』と記録されています。このように私たちは、限りない罪悪と誘惑と欲の挑戦を受けているのです。

ある古事に、「人生の数多い問題は、節制することができないのがその起因である。」と記しています。アメリカの16万名の刑務所収監者たちに対する設問調査で、収監者たちの92%が「節制することができなかった」ので、犯行をしてしまったという結論を下したと言います。人間は、欲望の挑戦に応戦することができなかったら犯罪者になってしまうのです。人間の欲望には限がありません。欲望を満たすことで喜びがくるのではなく、欲望を節制することで、私たちは喜びを得ることができるのです。

人生に襲ってくる挑戦の中で、一番苦しく悩ましいもののうちの一つが疾病です。いくら富貴、栄華、権勢があっても、からだが弱かったらそれらは何の価値もないものです。お金を失えば少し失ったことであり、名誉を失えばたくさん失ったことになり、健康を失ったら全部を失ったことになる、と言われています。病の挑戦は、私たちの生活の中にいつも執拗に継続しております。

ワールストリートジャーナル紙によりますと、過ぎし30年間に35種の新種伝染病が生じて、人類を脅かしていると言いました。この中の代表的なのがエイズですが、1981年にアメリカで最初に発見されて以来、今までの20余年間に全世界を恐怖に巻き込んでいます。現在、地球上に約4千万名の感染者がおり、その中の2千万名は既に命を失ってしまいました。

一昨年には、全世界を恐怖で震え上がらせた新種疾病サースが発生して、去年9月までに8,098名の患者が発生し、そのうちの774名が命を失いました。これ以外にも、人類を脅かす疾病は数限りなくありますが、そうした疾病の中でももっとも恐ろしいのがガンです。このガンの発生度数がますます増えて来ています。我が国でも、国民200名のうち1名が各種のガンに罹っていると言われています。疾病に関することも、私たちが一生の間休みなく受ける挑戦であり、応戦しなければならないことなのです。「伝道者の書 5章17節」に、『しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。』と記録されています。

人はまた、生きていく間に人間関係に対する戦いも絶え間なく継続しています。人が生きて行くということは、いつも人間関係の中で生きて行くことであり、それで互いに嫉妬と憤怒と紛争が絶えません。「詩篇 56篇 1節〜3節」に、『神よ。私をあわれんでください。人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。』と記録されています。

人たちの間で絶え間なく遭う嫉妬、憤怒、紛争の挑戦も、私たちがそれらに応戦して勝ったら王になり、負けたら奴隷になるのです。

生活苦に対する戦いも継続されています。何を食べるか、何を飲むか、何を着るか…、と絶え間ない挑戦を受けます。「創世記 3章18節〜19節」に、『土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』と記録されています。

この苦しみと苦労は、既に運命付けられているのです。この挑戦に立派に応戦することができなかったら、人は飢え死にしなければなりません。この挑戦に応戦することができなかったら、人は人類社会の敗北者に落ちぶれてしまいます。

「伝道者の書 2章22節〜23節」に、『実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。』と記録されています。人たちは一生涯の間、生活のことで心配し、骨を折り、悲しみ、煩うのです。食べる、そして生きて行くと言う問題は、人類がこの世を暮らす間、毎日継続する戦いです。これは過去にだけあった話しではありません。科学文明が発達したこんにちも、この食べる、そして生きて行く問題にぶっつかって数多い人たちが苦しみに会っています。

国際連合傘下機関である世界食糧計画の発表によりますと、世界飢餓人口が8億4千2百万人に達すると言います。その中で毎年、1千4百万名の幼い子どもたちが飢え死にしているが、これは7秒ごとに1名が死んで行く割合であると言うのです。このように貧乏と飢えは、人類に対する絶え間ない挑戦です。この挑戦に対して私たちクリスチャンは、神様に祈り求めながら知恵深く応戦して行かなければなりません。

そして人間に最終的に集中される挑戦は、死の恐怖です。「ヘブル人への手紙 2章14節〜15節」に、『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』と記録されています。

死とは、人類に対する最後の挑戦です。これに応戦して克服しなければ永遠なる地獄の奴隷となり、これに応戦して勝てば、天国に入って行ってキリストと共に王となって永遠に暮らすようになるのです。ですから色々な艱難に会い、挑戦を受けるとき、とんでもない目に会うと言った口惜しい思いをしてはなりません。苦難と挑戦に会わない人生はないのです。

「ペテロの手紙 第一 4章12節〜13節」に、『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。』と記録されているのです。すべての人が会う苦難であり、試練です。それらに対して応戦して勝つべきか、敗北して奴隷になるか、人たちは二つのうち一つを択ぶしかないのです。





第四、どのように応戦すべきでしょうか?

それでは第4番目に、私たちはどのように、これらの挑戦に応戦すべきでしょうか?数限りない挑戦に会いますが、応戦して勝ってこそ私たちは王のようになれるのです。挑戦に負けたら、個人、家庭、生活、子どもたちだけでなく、集団も国家も奴隷になるのです。奴隷になって幸福な人は誰もいません。王になってこそ幸福になれるのです。それではどのように応戦すべきでしょうか?

皆さん、生活して行く中で色々な挑戦が襲って来ます。そのような時、人たちは言います。「なぜ、私がこのような苦しみに会わなければならないのか?」怨み、嘆き、答えがない心の苦痛を味わうようになります。「他の人にはこんなことがないのに、私はなぜ、こんな苦痛に会わなければならないのか?なぜ、私にこのような問題が起こるのだろうか?」そういう質問をするようになります。

しかし、色々な生の挑戦が襲ってくるとき、私たちはこれを収容しなければなりません。抵抗し、反撥したら、苦しみは益々甚だしくなるばかりです。「ペテロの手紙 第一 4章15節〜16節」は、『あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。』と記録しています。

苦しみを収容しなさい、と言うのです。自分の分の運命として受け入れなさい、自分の一生の運、星回り、定めとして受け入れなさい、と言うことです。数多くの夫婦たちが連れ立って、私のところに信仰相談に来ます。私が素晴らしい判断で信仰相談に応じてくれるものと思って、夫婦間の軋轢とか問題を解決してくれ、と要求します。しかし、私には素晴らしい判断力はなく、いつも簡単に答えて上げます。

旦那さんが、「私は、この人と結婚してから毎日が煩わしく、苦しみ、悩みの連続です。どうしたら良いでしょうか?」と話し出します。私は、「それは、あなたの運命です。」と答えます。奥さんが、「この人は、結婚してから家庭も顧みず、子どものことも考えません。私には苦しみだけ負わせます。もう一緒には暮らして行けません。」と嘆かわしく訴えます。私は、同じく簡単に答えて上げます。「姉妹さんの運命です。定めだと思ってください。」

そして、私は次のように付け加えます。「あなたたちに与えられた十字架を脱ぎ捨てることはできません。不平、不満せずに、自分の定め、星回りだと思って、現実を受け入れてください。そして最善を尽くして、克服しようと努力してください。いくらそれらを脱ぎ捨てても、あなたの運命がそのようなものですから、また、他の人と結婚しても、またそのような十字架を負わされるのです。自分の分である十字架は、自分が背負って行かなければなりません…。」

「詩篇 34篇19節」に、『正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。』と記録されています。正しい人、義人にも苦しみや悩みはあります。しかし私たちは、その苦しみや悩みをキリストに拠り頼んで克服しなければならないのです。脱ぎ捨てようと足掻いてはなりません。それは、脱ぎ捨てられないものだからです。

「ローマ人への手紙 8章17節」に、『もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。』と記録されています。私たちが苦難の目に会うとき、主は私たちと共に苦難を受けてくださるのです。主が助けてくださいますので、イエス様を信じる人が苦難や悩みに応戦するとき、それは一人で応戦するのではなく、主と一緒に応戦することになるのです。

「コリント人への手紙 第二 12章 9節」に、『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』と記録されています。

弱かったら弱いほど、主がもっと力を与えて下さって、それらに勝つようにしてくださいますから、皆さん、押し寄せて来る苦難を怨んだり、不平を呟いたり、嘆いたりせずに、自分の運命、自分に定められたことと思って抱き寄せなければなりません。そのような挑戦から逃げようとせずに却って近づいて行って、抱え込まなければならないのです。それらを押し出しながら怨んだり、嘆いたりしても、それらは押し返されたり消え去ったりするものではないのです。それらを抱き込んで、私たちの主イエス・キリストの御名によって神様に祈ったら、それが素晴らしい応戦となってそれらの挑戦に打ち勝ち、勝利を得ることができる力が私たちに与えられるのです。

アメリカの著名な銀行家ダウリンが、傷痍軍人会から招かれて特別講演をすることになりました。その講演会には全国から傷痍軍人たちが集まって来て、立錐の余地もないほどに満席でありました。そこには、戦場で目を失った人、腕を切り取られた人、片足の障害者となって松葉杖に寄りかかっている人、或いはフィールチェアに乗せられて来た傷痍軍人たちでいっぱいでありました。

ところがダウリンが講義の途中に、傷痍軍人たちを攻撃しはじめました。「あなたたちは敗北主義者たちです。他人に拠り頼み、国家の年金だけを食い潰し、いい加減に生きている悪い人たちです。なぜ、熱心に働かずに他人のお世話になろうとだけするんですか…?」そうするや、講義を聞いていた傷痍軍人たちが一斉に、彼に向かってビール瓶、灰皿などを投げ飛ばしながら、「この野郎、何をぬかしてるんだ…。黙れ…っ。」と声を張り上げました。

それでも、ダウリンは沈黙せずに「あなたたちの私考方式が間違っているんです…。」と、継続して攻撃しました。すると瞬間、聴衆の一部の人たちが講壇に飛び上がって行って、ダウリンの胸倉を掴もうとしました。その時、ダウリンが自分の一方の袖をまくり上げました。驚くことに、腕が見えるはずの彼の一方の捲り上げた袖の中から現れたのは、鉄製の義手でありました。ダウリンは、もう一方の袖もまくり上げました。そこから現れたのも鉄製の義手でありました。

ダウリンはズボンもまくり上げました。両方共に義足でありました。場内が粛然と静まりました。「皆さん、私は12歳の時に交通事故に遭いました。私は雪の上に投げ出されて、10時間以上も捨てられたままで過ごしました。そのお陰で私は、両手、両足を切り取らなければなりませんでした。しかし、私は意欲を持って、最善を尽くして生きよう。他人のお世話にならずに生きて行こう。必ず私は成功して見せる、とした覚悟で、自分の運命を呪わず、誰をも怨んだり、自身を嘆いたりせずに、一生懸命努力して、今は銀行の頭取になりました。あなたがたは、身体条件からして私より幸運です。なのに、ごろごろ遊びながら食って生きているんですか…?」傷痍軍人たちは首を垂れて、口をつぐんでしまいました。

ブリンクリンと言うアメリカのニュース・キャスターは、このように語りました。「神は、たまに私たちの前にパンの代わりに煉瓦を投げてくれることもある。或る人は、それを怨んで、煉瓦を足で蹴り付けては足指が折れることもあり、或る人は、その煉瓦を礎として美しい家を建てることもある。」と。

従って、挑戦に対して私たちがどのように応戦するかによって、私たち個人の生活と国家の運命が違ってくるのです。私たちには、神様のお助けの約束の御言葉があるのですから、挑戦に遭うとき、神様がどのように助けてくださるだろうかと、聖書の約束の御言葉を探して見なければなりません。神様の御言葉は、挑戦に対して応戦するとき勝って余りある武器となるのです。

聖書「詩篇119篇48節〜50節」にある御言葉です。『私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。 どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。』

主の御言葉が、私たちの慰めとなり、私たちを生かしてくださるのです。ですから、御言葉を「創世記」から「ヨハネの黙示録」までいつも読み、勉強し、口ずさむことによって苦難の目に会うとき、私たちは苦難に応戦することができる御言葉を準備していてこそ、あらゆる挑戦に勝つことができるのです。神様の御言葉なしには、私たちは苦難の挑戦に対して応戦することができないのです。

そして、その次には、苦難が押し寄せて来たら、猛烈なお祈りで応戦してください。私が猛烈に…と言ったのは、優しく、柔弱に応戦してはならないと言うことです。苦難が私たちの肉を裂き、骨の髄まで齧ろうと飛びかかって来るとき、それに対等する、いやそれ以上の猛烈な祈りで応戦しなさいと言うことです。

「マルコの福音書 9章29節」に、『すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」』と記されています。また「エレミヤ書 33章 3節」には、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記されているのです。このような神様の約束の御言葉があるのですから、私たちは挑戦に会ったとき、その度にひれ伏して猛烈に祈らなければならないのです。

各種の挑戦は、人生に有益をもたらします。と言うのは、挑戦に会って甚だしく苦しい目に会う人は拠り頼むところが神様しかないので、主の御名によって猛烈に、必死の祈りを捧げるようになるのです。挑戦に会う前には別に祈りもせず、或いは祈るとしても生温い祈りをした人が、挑戦の辛く苦しい目に会ったら熱く祈り出すようになるからです。

そして、人たちは大きな試練や艱難や疾病の挑戦に会ったら、我執が砕かれ、身悶えしながら猛烈に祈るようになり、情熱的に神様に助けを祈り求め、遂には立派に応戦して苦しみを克服し、勝って、王として勝利をおさめ、遂には神様の満ち溢れる豊かなお恵みに与るようになるのです。

「ペテロの手紙 第一 5章 8節〜9節」に、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』と記録されています。

悪魔の挑戦に対して、応戦しなさい。怨み、不平を呟き、嘆き、泣き、手を上げるようなことをするな。自分に近づいて来た十字架である。それは運命的なものであるのだ。応戦して克服すると言う決心を固めて、御言葉に立ち、祈りなさい…、と言うことです。そうしたら私たちは、勝つことができるのです。

私たちの教会に出席しておられるチェ・オクジャ執事さんの証しを読みました。或る日、小学校に通っている娘さんが家に帰って来るや、カバンを投げ出して床に倒れました。よく見ると、娘さんの首の辺りが目につくほどに膨れ上がっていました。驚いた執事さんが娘を抱いて病院に駆けつけたところ、甲状腺機能低下症という病名が出ました。それで姉妹さんの娘は、小学校3年生のときのことですが、成長が止まってしまいました。お医者さんが、「長期間薬物治療をしても、完治は難しいです。」と宣言しました。

執事さんは、娘の病気の癒しのために10年間以上を祈って参りましたが、大学に入った娘さんの背丈は小学校3年生程度の背丈で、それ以上は成長しませんでした。それで執事さんは、そのときからは娘の問題だけを集中的に祈り始めました。1日に2時間以上祈り、1時間以上は賛美を捧げ、「主の祈り」を1日に300回以上繰り返し繰り返し口ずさみました。神様にはできない事がない、という信仰をもって、執拗なほどに祈った結果、遂に奇蹟が現れました。

病院に行って再度検査して見たところ、12年間も患ってきた甲状腺機能低下症がきれいに直っていた、と言うのです。精密に手術してもこのようには直らないほどだと、お医者たちが舌を巻いて驚いたと言いました。姉妹さんは、娘さんの病の挑戦に大胆に応戦しました。1年、2年、3年だけでなく、4年、5年...12年間を根気強く応戦した結果、勝利してしまったのです。

もしも気落ちして応戦することを途中で放棄したなら、娘さんは一生涯成長を中止して、惨めな一生を終えるようになったかも知れません。母親の信仰と根気による応戦のお陰で、娘さんは甲状腺機能低下症という挑戦に勝って、それからは体重も身長もぐんぐんと成長して一般の人と同じ正常な人生を生きて行くことができました。

そして、私たちが挑戦に対して応戦するときには堅固な信仰の上に立たなければなりません。「ヨハネの福音書 16章33節」に、『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』と記録されています。

私に力を与えてくださる主にあって、私はすべてのことをする事ができる、と言ったパウロ先生のように、結局は私たちが勝つのです。なぜ?イエス様は悪魔と戦って勝ってくださったのです。そのイエス様が私たちと共におられますから、私たちはどのような挑戦に会っても、終局には勝つのです。このような信仰を、私たちは強く堅固に持っていなければなりません。

「マルコの福音書 11章23節〜24節」に、『まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』と言われました。

思ったより以上の立派な結果が現れることを、信じなければなりません。いつも心の中で疑い、不安におののいていてはなりません。勝利することを夢見、それを口で告白しなければならないのです。私たちが挑戦に会うとき、また私たちが神様の御言葉の上に堅固に立って祈るとき、私たちの心の中に敗北の夢を持ってはいけません。

私がこのすべての挑戦に勇敢に応戦して勝ち、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、命を得るにしても豊かに得る...と言う夢を持って、そして、それらを口に出して是認しなければならないのです。夢もなく、口で告白もしなかったら、その人は敗北者になってしまいます。

私は、アメリカのボクシング選手ジン・ターナーの証しを読んで感動を受けました。彼は、当時国民的ボクシング英雄であるジェック・テンパースとヘビー級選手権タイトルマッチで立ち会うことになりました。ところが、或る新聞が「ジン・ターナーは、ジェック・テンパースの一撃で、首をへし折られて負けるだろう」と予想記事を報道しました。ところが結果は、ジン・ターナーの圧倒的勝利で終わりました。記者たちがつめかけて来て、ジン・ターナーに質問しました。「あなたの勝利の秘訣を話してください。」

すると、ジン・ターナーは次のように答えたと言います。「私が負ける、と報道した新聞を読んで、私は何日間か苦しみ、悩んだ。気落ちして試合を放棄しようかとも思った。私は涙を流しながら、神様に熱心に祈った。そして聖書を読んだ。そこに神様を信じる者には出来ない事がない、と記録されていた。私は「必ず勝つ」と夢見、「必ず勝つ」と運動しながらも口に出して連呼した。その時から、私は気が安らかになり、試合結果、私が勝ったよ。」

「詩篇 30篇 4節〜5節」に、『聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。』と記録されています。この聖書の御言葉をご覧ください。御怒りは束の間、いのちは主の恩寵のうちに永遠にあり、夕暮れには泣いても夜明けには喜ぶようになる、と言われたのです。結局、私たちクリスチャンには良いことが必ず起こると言われたのです。

同じく「詩篇 30篇11節」には、『あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。』と記録されています。私たちが耐え忍んで勝ったら、このように、王様のように振舞うことが出来ると言ったのです。ですから、私たちは決して後ろに退いてはならないのです。

どのような絶望的な状況に置かれるとしても、勝利の夢を見なければなりません。イエス様のお恵みに拠り頼み、御言葉に立って、勝利の夢を見なければならないのです。死の代わりに生命を、敗北の代わりに勝利を、病気の代わりに健康を、失敗の代わりに成功を夢見なければならないのです。『あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。』(詩篇81篇10節)と言われました。私たちの口を何をもって大きくあけることができるでしょうか。夢を見ることであけることができるのです。

私たちが肯定的で、積極的であり、創造的で生産的な夢をもって、絶え間なく口で勝利を是認しながら生きるとき、私たちはあらゆる挑戦に対して応戦することができ、勝利することができるのです。

イギリスの有名な歴史学者であるアーノルド・トインビーは言いました。「すべての文明には、挑戦と応戦の法則がある。文明には、誕生してから成長する第1幕と、成長をやめて徐々に衰退してから崩壊されて行く第2幕で構成されているのだ。どの文明であろうと、その文明が直面する挑戦に対して成功的に応戦したら、成長を継続するが、もしも何か一つにでも応戦に失敗したら、その文明は衰亡してしまう。」と。

人類歴史上、数多い原始文明が発生しましたけれども、自然と社会環境の挑戦に正しく応戦した文明だけが生き残りました。エジプト文明とスメル文明は旱魃と言う挑戦に、印度文明は熱帯山林の挑戦に、アンデス文明は高温砂漠という挑戦に、中国文明は沼地帯と洪水と言う挑戦に成功的に応戦したので、偉大な文明の国に成長することができたと言われています。

ひとりの個人も、襲ってくる挑戦に応戦して成功してこそ、継続成長し、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で居ることができますが、応戦に失敗したら、その人の人生はその時から衰退してしまうのです。社会も国家も、押し寄せて来る挑戦に対して絶え間なく応戦して成功したら、その民族とその国家は栄え、成長し、祝福されますが、敗北したら衰退し、滅んでしまうのです。

大きいとか小さいとかの差はあっても、挑戦と応戦と言う戦いがない人生はありません。この世に生き残るためには、限りない試練と艱難の山を越え、川を渡らなければならないのです。生の挑戦に応戦することができなかったら奴隷となり、応戦して勝ったら永遠に権威ある王となるのです。

すべての人たちは、生まれる時から死ぬ時まで、色々な挑戦に遭います。私たちはイエス・キリストを救い主として迎え入れ、神様に拠り頼み、強く雄雄しく応戦して、個人、家庭、社会、国家を問わずに、全人類がすべての生の挑戦に立派に応戦して勝ち、永遠に王となって主と共に生きて参りますよう、主の御名によって祈願致します。




お祈り

愛であられる我が父なる神様!

アダムとエバは生の挑戦に応戦することができず、敗北して、衰亡してしまいました。アダムとエバを知っている私たちも、彼らと同じように無気力に、挑戦に対抗せず、真理に立って応戦することができない時があまりにも多いです。

しかし、私たちの主イエス・キリストは、サタンの猛烈な挑戦に対して御言葉に堅固に立って断固として応戦し、それらに打ち勝って、王様となられました。

全知全能であられる我らの天のお父さま!

アダムにあって奴隷となった私たちが、イエス・キリストにあってすべての挑戦に立派に応戦して勝利をおさめ、みんなが王となれるように助けてください。

主に拠り頼み、神様のお恵みに与って、聖霊さまのお助けによりどのような生の挑戦も恐れ、おののかずに、私たちがそれを定められた事として受け入れ、克服することができるように助けてください。

それらに立派に応戦して勝利を得るように助けてください。そして、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得るように助けてください。

主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!