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「捨てて、従いなさい」
 






■聖書箇所

「創世記 12章 1節〜3節」

12: 1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12: 2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

12: 3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」






私は、今日、皆さんたちと一緒に『捨てて、従いなさい』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

釣師が釣餌を付けないで釣をするとしたら、その人は一日中待っても魚を釣ることはできません。しかし魚が好む餌を釣り針に付けておいたら、間もなく魚を釣ることができるようになります。悪魔が人を釣る釣餌は欲です。アダムは欲の故にエデンで悪魔の釣り針に引っ掛かって盗まれ、殺されて滅亡に会う悲劇を体験しました。

しかし、イエス様は心に欲がなかったので、悪魔が必死になって誘惑しましたが少しも動揺することなく、悪魔の釣り針にかからなかったのです。私たちが悪魔の邪悪な詭計に引っ掛からないためには、是が非でも欲の誘惑に陥らないようにしなければなりません。

「ヤコブの手紙 1章13節〜15節」に、『だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』と記録されています。




第一、アブラハムの従順

第1番目に、神様がアブラハムを呼ばれるとき、どのように呼ばれたでしょうか?「創世記 12章 1節」を見ますと、『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」』と記録されています。神様に従順に聞き従うためには、払わなければならない代価があります。先ず、古い生活を捨てて出発しなければなりません。

神様はアブラハムに、ただで「あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と仰せられたのではありません。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と仰せられました。70歳を越すまで生きて来た生まれ故郷、父の家を出て行く」と言うことは、なまやさしい事ではありません。しかし、神様が祝福してくださる前に必ず古い生活を清算しなければならないのです。肉の欲、目の欲、この世の自慢から離れなければなりません。

この世と神の国とを、両方ともみな持つことはできません。人たちは、肉の欲、目の欲、この世の自慢からも離れず、天の御国も共に所有したいと望みますが、絶対にそうすることはできません。

中国、宋の時代に李ムが書いた太平御覧という本に、次のようなお話しがあります。昔、その国に美しい処女がおりました。ところが或る日、その処女に二つの家から同時に結婚申し込みが入って来ました。東方の家は凄いお金持ちですが、婿さんの体格が矮小で醜男でありました。西方の家は赤貧そのものの家ですが、婿さんが体格も立派であり凄い美男でもありました。それで、選択に迷ってしまった娘さんの両親は本人に聞いてみるつもりで、こう質問しました。

「どちらを選ぶべきか、困っている。あんたはどちらが良いと思うか。もしも東方の家に嫁に行きたかったら右の手を上げなさい。それとも西方の家に行きたかったら左の手を上げなさい…。」すると暫く考えていた娘さんが、両手をさっと上げました。びっくり驚いた両親が娘に、その理由を尋ねました。すると、娘が次のように答えました。

「東方の家はお金持ちですから、食べるのは東方の家で食べます。西方の家は花婿さんが美男子ですから、夜は西方の家で寝たいのです。」ここで、“東家食・西家宿”という言葉が生まれたと言います。いくらそうだとは言っても、二つの家の花婿さんと結婚することはできません。全く不可能なことです。ところがこんにち、数多いクリスチャンたちの姿が、この娘と同じです。神様とも共に暮らし、世俗とも一緒に暮らすと言うのです。

しかし、神様の御国とこの世の世俗とを共に同時に持つことはできません。神様に従うためにはこの世の世俗を捨てなければならないのです。皆さん、アブラハムが生まれ故郷は捨てましたが、父の家は捨てることができませんでした。その父の家が何でしょうか。甥ロトです。甥ロトは、アブラハムの末の弟の息子です。末の弟ハランが早く死にました。孤児になったその甥をアブラハムが自分の実の息子のように家で育てました。

「生まれ故郷、父の家」を出て、即ち、すべてを捨てて出て行きなさいと言われたのに、生まれ故郷は捨てて出ましたが、父の家である甥を捨てることができないで、甥ロトを連れて出かけました。これがアブラハムには大きな禍の根となりました。なぜかと言えば、彼がカナンの地に着いたとき、カナンの地に激しい飢饉が襲いました。井戸の水はすべて涸れ、草木はみな枯れました。連れて行った家畜はみな飢え死にし、伴って来た召使の人々も散々に散らばって逃げてしまいました。

それでも、神様がカナンの地に行きなさいと言われたのですから、そこに居続けながら祈り、神様を信じ、神様に拠り頼まなければならなかったのですが、甥ロトがひもじいとしきりに泣き声を出すので、アブラハムは甥に対する憐れと痛ましさが、神様の命令に従順に聞き従うことより先立つようになったのです。神様の偉大なお召しに与ったアブラハムでしたが、腹がへって泣きじゃくる甥への憐憫が故に、彼は妻と甥ロトを連れてエジプトに下って行きました。

エジプトは、この世を象徴するものです。エジプトに下って行ってはならなかったのですが、彼はそこに下って行きました。その結果、妻をパロ王に奪われてしまい、この世でもっとも惨めな目に会ってしまいました。神様のお助けがなかったら、アブラハムはエジプトから再び生還することはできなかった筈です。アブラハムは、神様の憐れみとお恵みのお陰で、パロ王から解放されて無事にカナンの地に上って来ることができました。ところが、この甥の故に又、問題が起こりました。

それは、アブラハムにも家畜の群れが多くあり、甥ロトにも家畜が多かったのですが、牧草地は広くなく、水も充分でありませんでした。それで、アブラハムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちが、互いに牧草地や水を占めようとして争い出しました。「子どもの争いが親の争いに発展する」と言われています。両方の牧者たちの争いが、アブラハムとロトの争いに発展しました。これが、捨てて離れて行かなければならないことを、そうしなかったことが故に起こる、限りない人生の苦痛なのです。

それで、アブラハムが決断を下しました。「神様の御言葉に、これからでも従順に聞き従おう。‘あなたの父の家’を出なさい、と言われたのだ。もう父の家である甥ロトを離れて行くようにしよう…。」それで「創世記 13章 9節〜11節」に、アブラハムが言いました。『全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。』

アブラハムとロトは、ようやく別れました。もうアブラハムは、‘生まれ故郷、父の家’を完全に捨てるようになりました。最後の‘父の家’を捨てるや、神様が祝福してくださいました。「創世記 13章14節〜17節」の御言葉を皆さん、大きく声を出して一緒に奉読しましょう。

『ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」』

最後の‘父の家’を捨てた時に、神様が祝福してくださいました。‘父の家’であるロトを連れ回ったときはずーっと、試練と艱難と苦痛が離れ去りませんでした。皆さん、世俗を抱き込んでいたら、いつも悪霊共がつきまといます。いくら「サタンは退けっ」と言っても、世俗を抱き込んでいますので悪霊共はつきまといます。世俗は悪魔に属しているからです。

アレキサンダー大王が、ペルシヤ軍との大戦を目指して進軍するときのことです。彼が後ろについて来る将兵たちを見守るとき、変なことが目に付きました。みんなが肩に重いものを担って、テクテクと疲れ果てた歩きかたをしていました。激戦場に向かっている将兵たちとは全く見えません。調べて見たところ、前回の戦争で分捕った戦利品を将兵たちが背にいっぱいに背負って行進していたのです。アレキサンダー大王は、引き連れている将兵たちの心が戦闘にあるのではなく戦利品に惹かれているという事実を発見しました。

それで、彼は進軍を止めさせた後、将兵たちが肩に担いでいる戦利品をすべて火に焼き捨てるように命令しました。将兵たちは大いに不平を呟き、大王を怨みましたが、命令ですから仕方なくみんんが従い、戦利品を全部火の中に投げ込み、全軍が身軽になりました。物質に対する未練もなくなり、重い荷も脱ぎ捨てた後、ペルシヤのダリヨス王の大軍と会戦して、大勝利を博しました。そしてアレキサンダー王の将兵たちは、焼き捨てた戦利品より以上のたくさんの戦利品を手に入れることができました。

私たちキリストの将兵たちも同様です。世俗をいっぱいに背負って、この世を愛しながら、私たちが敵軍と戦うことはできません。特に悪魔とは、それでは戦えません。世俗の荷を脱ぎ捨て、この世を愛する心をきれいに取り除いてから、私たちが戦いに向かってこそ、悪魔と戦って勝つことができるのです。従って祝福とは、捨ててこそ、得ることができるのです。世俗とこの世を捨てて離れないことには、神様から祝福していただくことはできないのです。

アブラハムが世俗を捨て、生まれ故郷と父の家を捨てた後に、「創世記 12章 2節〜3節」に記録されているように、『わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』と、神様が仰せられたのです。

神様は、アブラハムが生まれ故郷、父の家を離れたので、大いなる国民としてくださり、名を大いなるものとしてくださり、アブラハムの名を祝福としてくださり、彼を祝福する者を祝福され、彼を呪う者を呪われ、地上のすべての民族が彼によって祝福されるようにしてくださったのです。




第二、イエス様の従順

第2番目には、私たちの主イエス様の生涯を見てみましょう。イエス様は、人生を救うと言う神様のみわざを成されるためには天国を捨てなければなりませんでした。イエス様が天国にそのまま居られながら、この地を救うことはできないことでありました。天国の栄光と御座と権威とをすべて捨てて、みすぼらしいナザレの町の乙女マリヤのからだを借りて、人として生まれなければなりませんでした。形容することのできない凄い犠牲です。

聖書「ヨハネの福音書 1章 1節」に、『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』と記録されています。イエス様は神様の御言葉であり、神様です。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネの福音書 3章16節)と、聖書に記されています。それで、イエス様がこの世に来られたのです。天国の栄光と御座と権威とを捨てなければならなかったのです。そうしないことには、人生を救うために来られることができないのです。

またイエス様は、人間たちを救うためにご自分の人生を捨てなければなりませんでした。この世に来られましたが、この世を捨てなければならなかったのです。悪魔が荒野でこの世を受け容れるように誘惑しました。食欲を満たすように誘惑しましたが、神様の前で食欲を顧みませんでした。名誉欲で世の中に引き込もうとしましたが、神様の前で名誉欲を捨てられました。終いには世の権威と栄光で誘惑しました。悪魔も自分に従う者にはこの世の世俗的権威と栄華を授けるのです。しかしイエス様は、それも捨てられました。

「マタイの福音書 4章 8節〜10節」に、『今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」』と記録されています。イエス様は断固として、肉の欲、目の欲、この世の自慢を捨ててしまわれました。イエス様は全く悪魔の誘惑に負けられなかったのです。

イエス様が世に居られましたが、世はイエス・キリストの中に入って来ることができませんでした。イエス様は人間たちに天国を与えられるために、遂にはご自分のいのちを捨てなければなりませんでした。ご自分のいのちを供え物として出して上げないことには、世の人たちを救うことができなかったからなのです。主も、生に対する愛着を持っておられました。完全な神様が完全な人として来られた以上、人として生の愛着がなかったはずがありません。いのちに愛着がない人は誰ひとりいないのです。

「ルカの福音書 22章39節〜42節」を見ますと、『それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」』と記録されています。

この「杯」とは、世の人たちのために罪の荷を負って十字架で死ぬことです。ところが神様の御心ならば、わたしが死ななくても良いようにしてください、と祈られました。しかし主は、いのちへの愛着を直ぐに捨てられました。人類を救うために、救いの大いなる神様のみわざが現れるためには、主がいのちを捨てなければなりませんでした。主も生き、世も生かすことはできない事でありました。世の罪を負って死なれてこそ、世を救うことができるのです。

「ルカの福音書 22章42節」に、『「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」』と記録されています。こうしてイエス様は、父なる神様の御心通りに十字架にご自分の身を投げ出して釘付けになられ、死なれたのです。

「ピリピ人への手紙 2章 5節〜8節」を見ますと、このようにご自分を捨てられることによって、神様が大いに祝福してくださったことを知ることができます。『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』

イエス様が捨てられてから得られたことは何でしょうか。イエス様が十字架の上でご自分のいのちを捨てられたので、それで終わったでしょうか。天の御国は、神様に従順に聞き従って捨てて離れたら、全知全能なる神様が祝福で満たしてくださるところです。世のものを捨てて離れてこそ、神様が祝福を注いで下さることができるのです。

「ピリピ人への手紙 2章 9節〜11節」を見ますと、『それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』と記録されています。

十字架で死なれたイエス様が、今は、王の王、主の主となられて、全宇宙と万物をご支配するみわざを現わされ、天の御座に座っておられるのです。




第三、神様に従うためには

第3番目に、私たちが神様に従順に聞き従うためには、どうしたら良いでしょうか。私たちも同様です。アブラハムのように、イエス・キリストのように、それらを模範としてこの世の世俗を捨てなければならないのです。この世を愛し、世俗に仕えたら、神様とは何の関係もない存在になります。この世は、堕落したところです。アダムとエバが神様に背を向けて、遠く遠く離れて行ったところがこの世です。この世には神様も居られず、イエス様も居られません。

世の人たちは生きて行きながら、ただの1秒もイエス様や神様を考えません。この世は悪魔に捕えられています。全世界が悪い者に属しているのです。従って、私たちがこの世を愛し、この世に仕えたら、神様やイエス様とは何の関係もない存在になってしまうのです。

「ヨハネの手紙 第一 2章15節〜17節」に、『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。』と記録されています。

私は、ジャック・エカートというアメリカ人の証しを本で読んだことがあります。彼は何ヶ所かに薬局を出して経営していましたが、隣人の伝道を受けて教会に出席するようになりました。或る日、聖書を読んでいる途中、「あなたがたは世の光りです。世の塩です。」という御言葉を読みました。「そうだ。私はこの世の人とはどこか違う所がなければならないんだ。何か、良いことをしなければならないのではないか。私が世の光りなら光りらしく、塩なら塩らしく暮らさなければならないのじゃないか…?」それで彼は、色々と考えるようになりました。

当時のアメリカの薬局では、薬だけを販売するのではなく、成人用の桃色雑誌も販売しました。彼の心の中に、「この桃色雑誌は、なくさなければならない。」という思いが起こりました。「そうだ!私が商売はしても、人たちを淫乱に誘惑する桃色雑誌はあまりにも世俗的なものだから、陳列棚からこの世俗たちは追い出してしまわなければならない…。」それで、彼の薬局たちから売れていた桃色雑誌が年間500万ドルにも上っていましたが、彼は勇敢にそれらの販売を放棄してしまいました。

自然と売上は減り、各薬局の支配人たちが彼に反撥しはじめました。しかし、ジャックは諦めずに、彼の信仰通りに押し通しました。2年程が経って、全国的に桃色雑誌の追放運動が始まるようになりました。人たちはジャックを愛するようになり、尊敬するようになりました。神様も彼を祝福してくださって、いつの間にか彼の事業はぐんぐんと成長し、全国に1,700余の店を持つ、アメリカで第2番目の薬局連鎖店“エカート・ドラグ”の社長になりました。

神様に仕えるために目前の利益を追わず、世俗的有益に溺れずに、断固としてそれらを捨てて損害をこうむり、世の人たちから一時は嘲笑されもしましたが、彼は世の祝福の代わりに神様の祝福を受けるようになったのです。

皆さん、この世はロトと同じものです。アブラハムがロトを連れたままで神様に従ったとき、試練と艱難が絶えませんでした。アブラハムがロトを連れてカナンの地に着いたとき、旱魃が襲いました。エジプトに下って行ったときには、言うに言えない恥辱に会いました。ようやくカナンの地に戻るや、お互いに紛争に巻き込まれました。ロトを抱えていては試練と艱難が絶えないのです。

私たちが、イエス様を信じると言いながら世を抱えて生きていては、艱難も試練も苦しみも絶えません。何故でしょうか。いつも悪霊がつきまとって、私たちを盗み、殺し、滅亡させようとするからです。皆さんは大胆に、自分の十字架を負って、世に対しては死ななければならないのです。或る人には、自分の夫が十字架です。苦しいです。なぜ?夫が十字架となってこの世を捨てるように、しきりに悔い改めさせるのです。皆さん、十字架は苦しく、終いには釘付けにされて死ぬ苦しみが従います。

或る人には、奥さんが十字架です。あまりにも色々と旦那さんをいじめ、苦しめます。しかし、神様はその人の奥さんを通して、世に対しては釘付けになって死に、神様に向かって生きて行きなさいと命令されるのです。私たちすべてには、誰にも十字架があります。イエス様も十字架を負われました。私たちにも十字架がない訳がありません。十字架がないことには世に対して死ぬことがありません。

夫が、或いは妻が、子どもが、世間が、生活が十字架となって近づいてきたと、それらを脱ぎ捨てようとしないでください。十字架を脱ぎ捨てようとすることは、この世を抱き寄せることになります。十字架に架かって死んだら、世は去って行き、天の御国が近づいて来るようになるのです。

「マタイの福音書 10章37節〜39節」に、『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』と記録されているのです。

世と世のものを愛したら、神様とは関係がなくなります。私たちは断固として、十字架を負い、世のものを捨てなければなりません。世に背を向けて、神様に向かわなければならないのです。十字架を負い、この世を捨てて、神様に向かうようになるとき、新しい世界が私たちに近づいて来るようになるのです。ですから、神様の前で、私たちは自分を捨てなければなりません。

「ガラテヤ人への手紙 2章20節」に、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と記録されています。また「ピリピ人への手紙 1章21節」には、『私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。』と記録されています。

自分を捨てると言うこと、これは凄く難しい事ですが、しかし、そうすることがまことに生きることです。世にある自分を捨てたら、天の御国にある新しい自分を発見するようになるのです。

偉大な説教者であったチャールス・ピニーが、青年時代にニューヨークの弁護士会社で一介の若い弁護士として働いていたときのことです。或る日、彼が明け方頃に祈っている時、イエス様の御声が聞こえて来ました。「ピニー君、あなたは、今やっている仕事が終わったら何をしますか?」彼は答えました。「看板を掲げて、弁護士開業をしたいです。」すると、主が再び質問なさいました。「その次には、何をするつもりですか?」「お金持ちになりたいです。」「その次には...?」「引退します。」「その次には?」「そうですね。その次には死ぬでしょう…。」

主の御声が、また厳かに聞こえて来ました。「死んだ後には何をしますか...?」その時、ピニーはハッとしました。「審きを受けるでしょう!」と答えはしたものの、恐怖が全身に襲って来ました。“僕が果して、審判台の前に立つことができるだろうか?”そこで、ピニーは立ち上がって近くの山に登り、岩の上にひざまずいて、大きく声に出して呼ばわり、祈りだしました。「父なる神様!私が今まで、主を信じはしましたけれども、それは形式的なものに過ぎませんでした。私を救ってください。私にまことの平安を与えてください。」と、一日中、食事も忘れて呼ばわり祈りました。

日暮れが近くなりかけた頃、心に平安が訪れはじめました。平安が満ち溢れるようになるや、主の御声が聞こえて来ました。「ピニー君。わたしは、あなたが弁護士にならずに、あなた自身をわたしに委ねて、主のしもべになりなさい…!」ピニーにとっては、非常に難しいことでありました。若い弁護士として将来が認められており、いくらでも出世する自信があったのです。ところが神様が、それらを捨てて、主のしもべになりなさい、と言われたのです。

結局、チャールス・ピニーは自分自身を投げ捨てて弁護士を辞め、神学を勉強して牧師になりました。そして当時、アメリカが霊的にとても沈み込んでいたのですが、ピニーのリバイバル聖会を通して全アメリカがよみがえりました。ピニーがいかに聖霊充満であったか、彼が汽車に乗って都市に入って来たら、彼の説教が始まる前にその都市の人たちが感泣しだしました。或る紡績工場を訪問して彼が工場内を見て回ると、彼が通り過ぎる至るところで作業中の工員たちが皆、主のお恵みに満たされて涙を流しながら喜びました。それで、その工場でにわか聖会を開催し、全工員を主の下に導きました。

このように、彼は主のしもべとなって、霊的に危機に瀕しているアメリカを救うことに大いに貢献するしもべとなりました。神様に従順に聞き従うために自分の保証された未来を果敢に捨てて従うとき、神様は彼を道具として取り上げられ、霊的に死んだ人たちを数限りなく生き返らす偉大なみわざを働かされるのです。神様のためにこの世を捨てる人たちに、神様は約束通りに、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康になるようにしてくださるのです。

ですから、生全体を神様に捧げてください。アブラハムが100歳のときに息子イサクを得た事件は周知の通りです。イサクが17〜18歳になった時、アブラハムには目に入れても痛くないひとり息子でありました。朝夕、お父さんのお手洗い水を汲んで来ては目の前に準備してくれるなど、世話してくれました。年老いた父親の肩を叩いたり、揉んでくれたりもしました。家の内外の色々と骨が折れる仕事をやってのけてもくれました…。

あまりにも息子が可愛いので、いつの間にかアブラハムと神様の間に息子が入り込んでしまいました。そうした或る日、「創世記 22章 2節」を見ますと、こう記録されています。『神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』青天の霹靂でありました。

愛は一つしかありません。神様を愛するか、世を愛するか、二つのうちの一つなのです。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と言われたのですから、妥協がある余地はありません。神様は「妬む神様」なのです。神様以外に、他の何事も愛することは許されません。

「創世記 22章 9節〜10節」に、『ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。』と記録されています。

その時、神様が仰せられました。「創世記 22章12節」の御言葉です。『御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」』

ワールボー・チェプマン博士がロンドン滞在中に、救世軍創立者であったウィリアム・ブ−ス将軍に会う機会がありました。当時ブース将軍は80歳の高齢でありましたが、チェプマン博士が“成功の秘訣が何であったでしょうか?”と問うや、暫くしてから涙を流しながら、次のように答えました。

「私の秘訣はただ一つ、神様にだけ仕えることです。事実、私より優秀な人も居りましたし、立派な機会があった人も多くありました。しかし私は、ロンドンの貧しい人たちを憐れまれる主の御心を悟って、私の人生を神様に全幅的に捧げることに決心しました。その日以後、神様が私と共に居てくださり、私を通して多くのことを神様が成されました。こんにち、救世軍が成したことがあるとしたら、それはすべて神様がなさったことです…。」ウィリアム・ブースが救世軍を創立し、神様の福音を伝えた原動力はまさに、神様に全幅的に捧げた彼の人生でありました。

神様に正しく仕えたいと願うのでしたら、神様に皆さんの人生を捧げてください。そうしたら、神様が行なわれる驚くべきみわざを体験することができます。もしも皆さんが、自分を自分のものと主張したら、神様が皆さんをご使用なさるためには、皆さんの許可を得なければならない、ということになりはしないでしょうか。しかし皆さんが、全的にご自分を神様の前に捧げたら、神様は皆さんから許可を得ることなしに皆さんをご自由にご使用なさることができるのです。

私たちが、神様に「私の思う通りにしてください。」と祈るとしたら、神様は私たちに仕えるしもべにならなければなりません。しかし、皆さんが神様の御心通りに生きて行きたかったら、皆さんご自身を神様に捧げなければならないのです。

「孤児の父」と呼ばれたジョージ・ミューラーは、ただ祈りを捧げることによって、人たちの世話になることなく、神様のお恵みをいただいて3,000余名の孤児たちを食べさせ、着させ、成長させました。皆さん、自分の子どもを1〜2年育てるにも骨が折れます。尚更の事、3,000余名の自分の子どもでもない、道ばたで拾い上げた孤児たちを食べさせ、着させ、教育させて行くということは、並大抵のことではありません。まして財産があるのでもなく、事業をしたのでもないのです。ただただ、祈りを通して営んだのです。

このジョージ・ミューラーが、次のように語ったと言います。「私は或る日、死にました。私に対して死に、私の意見に対して死に、私の好きなことに対して死に、世に対して死に、世間の賞賛と悪口に対して死に、遂には友だちや兄弟たちに対しても死にました。私はひとえに神様に対してだけ生きました…。」神様にだけ対して生きたので、神様が彼を通してこの偉大な孤児救済事業を成功させてくださったのです。

黄金の舌を持っていると言われた偉大なスポール・ゾーンは言いました。「献身とは、自分に対する所有権を神様に捧げることである。それでまことの献身者は、自分を自分の所有だと見なさずに、神様の所有であると見るようになる。」所有権の移転です。所有権を自分がもって神様を信じたら、それは献身ではありません。所有権を神様にお委ねしてしまったら、その時からは神様の所有になります。

ヤコブが自己中心に生きたとき、ヤボクの渡しで神様と格闘してモモの番を打たれ、ヤコブのモモの番がはずれてしまいました。自分自身を神様に捧げたときには、神様がヤコブのために色々と働いてくださり、共に生きてくださったのです。こんにちも、神様は、皆さんのために働かれ、共に生きて上げようと望んでおられるのです。しかし、その条件は皆さんの所有権を神様にお委ねしてからのことです。神様に皆さんご自身をお委ねしなければならないのです。

私は、次のようなお話を読んだことがあります。アメリカの或る教会の黒人執事さんでしたが、彼は、祈ると、神様からいつもお答えをいただくと言うのでありました。その黒人執事さんは病気に罹っても、祈ったらいつも癒されました。或る人が、彼が病気に罹って祈るのを聞いて見たと言います。黒人執事さんは、「神様、あなたの財産が病気に罹って、今、死にかけているんですよ。死んだら神様に損害がおよびます。早く来て、癒してください。」と祈っていたと言います。それでその人が尋ねました。「何のお祈りをそんなにするんですか…?」

すると黒人執事さんが、このように答えたと言うのでありました。「私は、神様に私のすべてをお委ねしましたので、この体は私の体ではなく、神様のものです。私は神様の財産なのです。私が死んだら、神様が損します。私は損することなんか何もありません。」このように大胆に祈ることができるのは、所有権を全的に神様にお委ねしたからなのです。私たちは、捨ててこそ、祝福していただくことができるのです。

世を捨てて、自分自身を十字架に釘付けてしまい、すべてを神様に捧げなければならないのです。捨ててしまわずに、「祝福してください…!」「祝福してください…!」と祈っても、何のお答えもいただくことはできません。神様と悪魔との間には、妥協というものがありません。天の御国とこの世との間には、はっきりした境界線があるのです。聖書に、『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。』(コロサイ人への手紙 1章13節)と記録されています。ですから、又と世と悪魔とを心の中に入れてはなりません。

ペテロが或る日、イエス様に質問しました。私たちは主に従うために、故郷も家族も職業もすべて捨てて従って参りました。私たちに何を下さるおつもりでしょうか?その時、主がこのように仰せられました。「マタイの福音書 19章27節〜30節」の御言葉を、皆さん、声を大きく出して一緒に奉読しましょう。

『そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』

私たちが主のために世を捨て、世俗から離れたら、主は天の御国の報酬は言うまでもなく、また天の御国の栄光は言うまでもなく、この地に住んでいる間にも、捨てたものの百倍をも受け、悪霊の迫害や誘惑に会っても負けることはないと言われたのです。勿論、この世の中で立派にイエス様を信じ、熱心に信仰生活をしても、試練や艱難に会うことはあります。

私は、フランクというひとりのアメリカ青年の証しを聞いて、凄く感動したことがあります。彼は篤実なクリスチャンでありました。勤務している会社で契約関係の営業部署に配属されていました。或る日、幹部たちと一緒に契約相手の会社の人たちを接待しなければならなくなりました。その日、相手の会社の人たちが、ストリップショーをする豪華な店に行って飲みましょうと言い出しました。それで、自分の会社の幹部の意見も一致して、彼らは女たちが裸で踊る大きな店に行って飲み始めました。

フランクは、その場に付き合わされるのがひどく辛く、苦しかったのですが、どうする術もないまま同席していました。しかしフランクは、だんだんと良心の呵責を受け始めました。彼は、イエス様を愛し、神様に仕える立場の人間が、座っていてはならない場所に来ているのだ、と心が暗くなりました。叩きつけるような急テンポの音楽に合わせて、裸の女たちが踊っており、みんなが洋酒のグラスを競争でもするように飲み干しています。

フランクは、先に失礼しようと思い立ちました。しかし、彼が敢えて失礼して席を立ち、帰ってしまうことの結末が心配になりました。契約の件が霧散することはないだろうか?重要なお客に失礼したとして会社から首になりはしないだろうか?そうなったら、明日からの食事にも事欠くようになるのではないか…?彼は、あのようにも、このようにも態度を決めることができないまま、その場で悩みました。

フランクは、神様に祈りました。「愛であられる、父なる神様!どうしたら良いでしょうか…?」すると、聖霊さまの声が聞こえて来ました。「断固として立ち上がり、帰りなさい。世俗には背を向けなさい!」それでフランクは、勇敢に立ち上がりました。そして自分の会社の幹部と相手の会社の重役さんに向かって、言い切りました。「皆さん、私はクリスチャンです。イエスを信じ、神様を畏敬する者です。私はこの場に、これ以上、座っていることができません。済みません。お先に失礼させていただきます。」そう言って、フランクはそこを出ました。

歩きながら、フランクは考えました。「これで、会社からは首だな。これからはどこで、何を食っていったら良いんだい…。」しかし彼の心は軽く、明るく、嬉しいだけでありました。「…主よ!私は主に仕えるために、行ってはならない所には行きません。座って居ては悪い場所にも座ってはいません…。」彼は目に付いた小さいホテルに入りました。服を脱いでベッドに横になりました。

その時、ノックの音が聞こえました。ドアを開いて見たら、さっきまで一緒にいた契約相手の会社の重役さんが立っていました。「ここには、どうして来られたんですか…?」「部屋に入ってもよろしいでしょうか?」「あ、どうぞ!」部屋に入って来たその重役さんが、先に口を開きました。「私も、クリスチャンです。しかし、私にはあなたのような勇気がありません。恥ずかしく思っています。あなたの言ったことや態度を見て、私は大いに感動しました。私もそれで勇気を得て、そこから出て来ました。あなたのお陰で、私も信仰を守ることができたんです。有り難うございます。私が、実はその会社の社長です。明日、私と会ってくださいませんか…。」

翌日の朝、正式に契約が締結され、フランクは自分の勤務している会社から大いに褒められました。その次には、評判が立ちました。「フランクは、ほんもののクリスチャンなのだ。偽善者ではない。」「彼の言うことは、絶対に信頼できる。」フランクのお陰で会社が目覚しく成長し、発展しました。その後、彼も旭日のごとく出世したと言います。

私たちが神様に従うためには、この世のことを放棄しなければならない時が訪れます。これか?あれか?凄く迷うようになり、苦しいです。容易いことではありません。そうした時、勇敢に決断を下して神様を選んだら、神様は、その人に向かって天の窓を開いてくださり、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得るように祝福してくださるのです。

この世の祝福は、悪魔を通してついて来るのですが、天の御国の祝福は、イエス様によってついて来るのです。イエス様を信じると言いながら、この世の幸いにもありつこうとしたら、あれもこれもすべて失ってしまうのです。私たちが断固として自分の十字架を負い、神様中心に生きて行ったら、神様は私たちと共に生きてくださるのです。

イスラエルの民たちは農業に励まなくても、マナが降って来たので、それを食べて生き延びました。お医者がないのに、40年間荒野を彷徨いながらも病気に罹る人がいませんでした。神様は、全知・全能なる神様です。神様には何一つ、お出来にならないことがありません。神様は、全世界を隅々まで見渡しながら、心から神様を畏敬し、真実に神様を愛する人を祝福して上げようとして、探しておられるのです。

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。神様のお召しには、必ず、捨てて離れなければならない世があり、約束された祝福の世があります。捨てず、離れずに、十字架がない救いと祝福は、誰も決して享受することができないと言う事実を皆さんが悟るようになりますよう、主の御名によって祈願致します。




お祈り

愛であられる、我が父なる神様!

私たちは、アダムとエバを通してこの世に生れ出たとき、私たちの中はこの世でいっぱいでありました。世が私たちの中に、私たちが世の中にあって、私たちは悪魔の奴隷となり、悪い霊のとりことなって振り回されました。

ところが、神様が私たちを選んで、イエス様を信じて救いを得るようにしてくださり、私たちから悪霊共を追い出してくださり、私たちを清めて聖なる者としてくださり、私たちが聖殿となるようにしてくださいました。有り難うございます。心から感謝申し上げます。

全知全能なる、我が天のお父さま!世が私たちから追い出されましたから、又と私たちが世を受け入れることがないように助けてください。

主であられる、我が父なる神様!

船が水の上に浮かんでいますが、水が船の中にしみこんで来たら船は使いものになれません。それと同じく、私たちがこの世に暮らしてはいますが、世が私たちの中に入って来たら、私たちは何にも使えない者たちとなってしまいます。

いつも、主に心から仕え、ひとえに主に仕えるために生き、世俗とは絶対に妥協せず、神様の奇蹟と、神様の祝福によって生きる私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!