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「心の平安」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 14章27節」
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。






私は、今日、皆さんたちとご一緒に『心の平安』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

或る凄いお金持ちがおりました。彼は富貴、栄華、功名などすべてを持っておりました。ところがいつも何か不安で、心の中に平安がありませんでした。それで或る日、平安に関する絵を買って応接間にかけて置き、朝晩とそれを見ていたら心が平安になるだろうと思って、平安に関する立派な絵を買いたい、と広告を出しました。

数多くの画家たちが平安に関する絵を描きました。定められた日に、すべての絵をギャラリーに展示しておき、お金持ちは画家たちにご馳走をもてなしてから、展示されている絵を観に行きました。お金持ちの人が一つの絵の前で立ち止まりました。その絵には、深い山の中の自然に取り囲められた大きな湖があり、その回りには青々とした柳の枝が垂れているのが水面に影を落としており、空の白い浮雲も水の面に浮かんでいました。連れの中から誰かが嘆息を漏らしました。「やー、この絵は本当に平安を描写しているね…。」しかしお金持ちは、首を左右に振って、その場を離れ去りました。

幾つかの絵の前を通り過ぎてから、お金持ちの人が立ち止まって、一つの絵に視線を止めました。その絵には、農村ののどかで静かな真昼、雄鶏一羽が両足を突っ張って羽ばたきしながらコケコッコーと首を伸ばして鳴いており、少し離れた所では黄色い犬がのんびりと伸ばした前足の上に頭を乗せてぐっすりと寝ておりました。そしてその向こうには、坐ってゆっくりと餌を食んでいる牡牛が見えました。不安さは全く見えない、のんびりとした風景でありました。「こりや、典型的な平和だー。」誰かが、嘆声を上げました。しかしお金持ちは、黙ったままそこも通り過ぎました。

いくつかの絵の前を通り過ぎました。次には、凄く大きい瀑布が描かれていて、高いところから滝の水が轟々と流れ落ちておりました。お金持ちがその絵の前で足を止めました。天地を振動させる轟音が聞こえて来そうです。横の岩壁の間には一本のひょろ高い木が生えてあり、その木の枝に胸が赤い、名も知らない鳥が巣を作って卵を暖めておりました。風でも吹いてきたら、木の枝が揺れて鳥の巣は滝の中に落ち込みそうに見えました。しかし、胸の赤い鳥は巣の中で少しも不安を感じずに静かに坐っています。「これが平和なのだ…!」と言って、お金持ちはその絵を買い取りました。

取材中の記者が質問しました。「私たちには、凄く不安を感じさせました。ところが、あなたはこれが平和だ、と言ってこの絵を買われました。理由を説明して頂きたいです。」すると、お金持ちが記者を振り向いて言いました。「まことの平和とは、環境から来るものではありません。環境がいくら平和に見えても、人の心に不安が襲ってきたら環境の平和は何の役にも立ちません。人はすぐに不安のとりこになります。しかし環境がこのように劣悪で、瀑布の滝の水の音が轟々と聞こえ、岩壁の岩の間から柔弱に生えた、細々とした木の枝が風にゆらゆらとなびいているその上の巣の中いるこの鳥をご覧下さい。少しも不安がらずに、じっと卵を温めています。鳥の表情は全く平安そのものです。これがまことの平安なのです…。」

皆さん、まことの平安とは心の中の平安を言うものです。お金があるとして、環境が良いので、あるいは権勢を握っているので...平安なのは、いくらも経たないで崩壊してしまいます。心に平安がなかったら、環境の平安は何の意味もありません。環境の満足とか平安とかは、私たちに平安をもたらすことはできないのです。

それでは、どうしたら私たちは心の中に平安をもつことが出来るでしょうか...?




第一、どん欲と心の平安

第1番目に、心の平安は、どん欲や欲望が入ってくると散々に砕かれます。どん欲や欲望を除去してこそ明鏡止水のような心の平安を保つことができるのです。アダムとエバをご覧ください。いかに平安な環境の中で暮らしたか知れません。傷つけるものも害するものもありませんでした。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか...、心配することが全くありませんでした。神様が造られた楽園で暮らしていたのです。彼らに平安がない理由がありませんでした。

しかし、サタンが来て彼らの心の中にどん欲を注ぎ入れました。欲望が生じました。神様のようになろうとするどん欲と欲望が入ってくるや、彼らの平安は散々に砕かれ、吹っ飛んでいってしまいました。結局、彼らは心の平安を失ってしまい、遂には神様に逆らい、神様に背を向け、それでエデンを追い出され、夫婦の間で責任転嫁をし合い、家庭は不安に襲われ、長男が次男を打ち殺す、大きな不幸まで覆い被されるようになってしまいました。どん欲が入って来たら、平安は消え去ってしまうのです。

それで私たちは、私たちの心の中にサタンがどん欲や欲望を持ち込むことがないように、常に警戒しなければなりません。イエス様は、どうして最後まで心の平安を維持し、使命を果たすことができたでしょうか?イエス様が心の平安を失わなかったのは、どん欲とか欲望とかを持たなかったからです。

悪魔が死力を尽くして、イエス様の心の中に欲望を植え付けようと画策しました。食欲…この世の欲望を植え付けようとしました。名誉欲を植付け、そして富貴・栄華・功名の欲を植え付けようとしましたが、イエス様は断固として拒まれました。イエス様の心の中にどん欲や欲望が入って来られなかったために、主は神様の前で完全な平安をもって、神様に献身し、忠誠を尽くし、死ぬまでもご自分のからだを捧げることができたのです。

私たちはこの世を生きながら、私たちに与えられた人生を感謝をもって受け入れ、節制する生活を営まなければなりません。いくらか前にTVでみましたが、北朝鮮を脱出してきた一人の女性がインタビューに応じました。アナウンサーが質問しました。「北朝鮮と南の韓国とを比較して、どう評することが出来るでしょうか?」すると、その女性は「とても比較することができません。数値的に比較することが出来ないほど、北朝鮮は貧しく、韓国は豊饒です。」と答えました。

最後の質問が発せられました。「韓国の国民に対して、あなたが何か忠告したいことはありませんか?」即答が出ました。「あります。節制する生活を営まなければならないと思います。あまりにも豊かなので、韓国の人たちには勿体ないものがありません。例を上げれば、北朝鮮では小さな紙一枚でも、鉛筆で書き、余白がなくなったら、その上にボールペンで書きつくした後に、その紙切れを捨てます。ところがここでは、紙が有り余るのですから、余白がたくさん残っているのにも、それをくしゃくしゃにして捨ててしまうのを見ました。勿体なくて心が痛いです…。」

正解です。私たちには節制する心があってこそ、心の平安を得ることができるのです。限界がない供給があり、裕福な物質生活を営んでいるとしても、それによって心の平安を得ることは先ずありません。節制する心と、持っているもので満足し、感謝し、喜ぶ心があってこそ、心が平安になれるのです。

しきりに他人と比較して、貧しいことを訴え、嘆いたら、その人はいつまでも不幸です。しかし、持っているもので満足し、神様に感謝したら、神様はもっと与えてくださるのです。スポールゾーンは言いました。「ろうそくの火をみて感謝したら電燈の火をくださり、電燈の明りを見て感謝したら月光をくださり、月光を見て感謝したら太陽の光をくださり、太陽の光を見て感謝したら天国をくださる…!」と。現在持っているもので満足し、感謝しなければならないのです。

自分にないものをいつも欲しがり、怨み、不平を呟き、嘆き、欲を張って足掻いたら、持っているものまでも失うようになるのです。しかし、持っているもので満足し、それで自足するようになって神様に感謝し、喜んだら、神様はそのような人にもっとたくさんのものを与えてくださるのです。

「ピリピ人への手紙 4章 4節〜7節」に、『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』と記録しています。

私たちは、神様に対して何事に関しても感謝しなければなりません。神様に向かって感謝し、太陽を見て感謝し、月を見て感謝し、環境を見回して感謝し、野草一本、花一つにも感謝するようになったら、私たちの心に平安が訪れるようになるのです。怨みとか不平とかは、心の中に波動を起こして不幸を招くのです。

「テモテへの手紙 第一 6章 6節〜8節」に、『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。 衣食があれば、それで満足すべきです。』と記録されています。私たちは、持っているもので満足するようになれたら、心の中は平安であり、不幸にはなりません。

私はたまに、1958年度の時を回想します。当時は、ブルクァングドン(仏光洞)で教会を開拓するときでありました。古びた天幕を張り、カマス(叺)を敷き、夏は恐ろしいほどに暑く、冬は凄く寒く、食に飢えて米軍の援助物質であるメリケン粉で小さなパンを焼き、それを分かち合って食べました。ところが、不幸とは思いませんでした。それでもお互いに話合い、お互いに笑い合い、そして神様に祈りをささげ、感謝しながら賛美し、礼拝を捧げました。

心の中にキリストが居られるのでいつも平安であり、環境がそんなにも劣悪そのものでありましたけれども、不幸だとは思わなかったのです。いくら考えてみても、今よりその時が不幸であったとは思われません。今は、その時と比較して素晴らしく立派な家で暮らし、食事も思いのままにするし、立派な着物も着ているのですが、しかし、その時と現在とを比較して見るとき、今がその時よりはもっと幸福である、とは感じないのです。

なぜかと言えば、物質世界は心が平安である時には有益となりますが、心に平安がなかったら、いくら裕福な環境にあっても心の中に幸福をもたらすことはできないからです。或る調査結果によりますと、国民10名のうち4名が宝籤の当たることを夢見ると言います。我が国でも高額のロト宝籤が発売され始めるや成年男女の40%が買ったと言われています。ところが我が国より早くから宝籤が発売されている米国で、ある新聞社が、当たったら1千万ドルの宝籤に当たった人70名を対象に、5年後の彼らの生活がどうであるかを調べて見ました。

ところが驚くことには、80%に該当する56名が、籤に当たってからもっと不幸になったと答えたと言います。その第1の不幸は、先ず家庭破綻であったと言うのです。当初はお金が手に入ったので、立派な車を買い、大きな家に移り、食事も服装も思いのままにする、欲しいのがあったらいくらでも買う、といった満足に浸りましたが、いくらも経たないうちに奥さんが実家にひそかに送金し始める、実家の父母や兄弟たちにもしきりにお小遣いを送って上げる…始末になりました。旦那さんは旦那さんなりに自分の実家の人たちに色々な形で送金して上げました。遂にはお金のことで夫婦の間に争いが起こり、結局は離婚して別れてしまう家庭が一番多かったと言います。

我が国にもそのような実例がありました。婚約して同居中の若い男女が、宝籤に当たりました。ところが女性が籤に当たった宝籤を手にして、実家に逃げて行きました。それで男性が法院に訴え出たと言います。宝くじに当たらなかったら、夫婦が家庭をなして睦まじく、和やかに暮らしたでしょうが、その宝籤のお陰で禍が生じ、家庭の幸福が散々に壊れてしまったのです。

その第2の不幸は、心の平和を失ったことだと言います。宝くじに当たらなかった時は、夜も両足を伸ばして寝られたのですが、宝籤に当たってからは、盗賊が入って来はしないかと恐れるようになり、窓の隙間の風の音にもびっくり驚いて夜中に起きるようになったと言います。また、訪問客のブザーの音にも神経質的に鋭敏になると言ったそうです。宝籤に当たってお金持ちになったとクチコミで知らされ、あらゆる知人、親戚、親類の人たちが「お金を貸してくれ」と訪ねて来ると言うのです。全部を聞きかなえて上げるわけにはいきません。それで殆どの人たちと敵になり、不幸になったと言います。

このように、数多くの人たちが念願する宝籤に当たったら、それが結局には家庭を崩壊させ、心から平安を奪っていってしまうのです。まことの幸福と心の平安は、宝籤に当たるとしたどん欲を満たすことにあるのではなく、主を信じ、平和に暮らしていることに対する感謝、それに満足する心を持つことなのです。




第二、罪責と心の平安

第2番目に、心の平安を得るためには、自分の心の中に罪責感がないことが必要です。罪責感がある人には心の平安がありません。罪責感とは何でしょうか?戒めを犯すときに罪責感が襲って来るのです。

わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。偶像を造って、それらを拝んではならない。あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。隣人の家、すなわち隣人の妻、隣人の持ち物を欲しがってはならない…。

 神様の戒めであるこれらのことを踏み躙ったら、その代価として襲ってくるのは良心の呵責です。これらの戒めに背を向けても良心の呵責が責め、戒めが見えないように目隠しをしても心の良心は黙ってはいません。戒めを知っていながら犯すとき、良心は苦しいのです。

「ローマ人への手紙 7章22節〜24節」に、『すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』と記録されています。

良心の呵責は、心の中に深い困苦をもたらします。夜昼区別なく、心が苦しいです。時間が過ぎたら忘れるだろうと思い勝ちですが、戒めを犯して心に良心の呵責を受けたら、それは去って行くことなく、いつも頭をもたげるのです。

19世紀の米国の詩人であり、小説家でもあったエドガー・アラン・ポーの作品の中には、罪責感で苦しみに会う人間の良心を生々しく描写した「罪に定める良心」という本があります。この本の主人公は、誰にも知られずにひそかに人を殺して、自分の家の地下室に埋めてしまいました。そして口をつぐんで知らん顔をしました。

ところがその日から、地下室に埋めておいたその死体の心臓の音が耳に聞こえ始めました。寝ようとしても、その死体の心臓の音が聞こえます。驚いた彼は、懐中電灯を手にもって地下室に下りていき、埋めておいた死体を掘り出して、死体の心臓に手を乗せて見ましたが、全く動きません。それで、埋め直してから部屋に上がって来たら、また心臓の音がどきっどきっと聞こえてきます。昼も夜も死んだ人の心臓の音が聞こえるので、彼は狂いそうになりました。

後になって知るようになりましたが、死体の心臓の音だと思ったのは実は彼自身の心臓の音で、良心の呵責がそのように聞こえるようにしたのであり、彼は堪えられない苦しみに会ったというストーリーでありました。罪を犯した人には平安がありません。良心が絶え間なくその人を罪に定め、批判するからです。

良心の苦しみから解放されることができる唯一の道は、神様の前に出てきて悔い改め、イエス様の十字架の血潮で洗い清められる道しかありません。そうしない事には絶対に平安がありません。罪を犯したままで、心に平安を持つことはできないのです。

また、悪い心の持ち主には平安がありません。「イザヤ書 48章22節」に、『「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。』と記録されているのです。悪はたぎりまくる海の水泡と同じです。水泡がわき起こるように、その人の心の中に悪がわき起こったら自分も苦しく、お隣も苦しませるようになります。悪い旦那さんは家族を苦しませます。悪い奥さんは旦那さんを家から遠ざかるようにします。

悪いお隣に会ったら、ただの一日も争いが絶えません。悪は自分を悩ませ、お隣にも苦しみを与えます。ですから、この悪も悔い改めて赦しを得、神様から義人であると認めていただき、主にあって新しく生まれてこそ平安を得るようになるのです。神様は、この罪悪から立ち返るようにするために、恐ろしい鞭を振り下ろされる時が少なくありません。

「イザヤ書 38章17節」に、『ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。』と言われました。罪悪は、心から悔い改めるか、神様が親しく来られて変化させない限り、絶対に人を解放させない力なのです。

「ヨハネの手紙 第一 1章 9節」の御言葉です。『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』皆さん、悪は自分自身を苦しめ、他人をも苦しめるのです。

有名なドイツの哲学者・ニーチェは、“神は死んだ”と叫んで、多くの人たちの信仰を破壊しました。しかし彼は、12年のあいだ精神病を患い、苦しみながら死んで行きました。ニューヨークの地下鉄駅の壁に‘ニーチェは“神が死んだ”と言った。’と書かれており、その下にもっと大きく、鮮明に‘神いわく、“ニーチェは死んだ”と言う。’と記録されていると言います。

そうです。神様は死なれたのではありません。ニーチェの死後にも神様は生きておられ、みわざをほどこしておられます。しかし、ニーチェは死にました。神様の前で人間がいくら抵抗し、足掻いても、それは束の間に終わってしまいます。

ドイツのヒットラーをご覧下さい。彼は神様に逆らい、その心に悪が生え茂るや、全ヨーロッパを焦土化し、ユダヤ人600万名を虐殺する悪を働きました。そして自分の同族500万名を銃弾の盾として死なせました。そうした後に、自分は最後の地下室で拳銃自殺してしまいました。悪は他人も自分も不幸に追い込むのです。

神様を恐れず、反逆するところには平安がありません。そこには恐ろしい殺傷と悲惨な死があるだけです。それで、悪を悔い改めなければならないのです。悪を心の中に抱いたら、平安を得ることは絶対にできません。独裁者が幸福そうに見えますが、独裁者は決して幸福ではありません。独裁者は権力を思うがままに振るいながら悪を働きます。それで、その悪が自分を殺す結果を招くのです。彼が働いた悪が、独裁者自身のの心の中に極限の不幸と苦痛を植え付けるのです。




第三、神様との正しい関係

第3番目に、私たちが心の中に平安を得るためには、神様と正しい関係を結ばなければなりません。なぜなら、神様は宇宙と万物を造られ、支配なさいます。宇宙と万物を造られ、ご支配なさる、その神様の統制下で暮らしていながら、その神様に反逆し、対抗しては、心の中が平安であることはできません。一つの家庭の中でも、父母に逆らい、父母に対抗する子どもに平安がないのと同様なのです。

「イザヤ書 37章16節」に、『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。』と記録されています。天と地と世界とその中のすべてを神様が造られたのです。創造主に逆らっては、平安はありません。歴史を主管なさる神様に敵対しては、平安があるわけがないのです。

「ヨハネの黙示録 1章 8節」に、『神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」』と記録されています。歴史は神様が主管しておられます。

皆さん、ヨーロッパの歴史を見るとき、アシュルが天下を統一して永遠に存在すると思いましたが、バビロニアに滅ぼされました。バビロニアが永遠に継続するものと思われましたが、ペルシアに滅ぼされました。ペルシアのアレキサンダー大王が天下を号令するものと知らされましたが、彼も死に、その後には散々に分割され、ローマに統一されました。歴史上ではもっとも強力で厖大な土地を持っていたローマが永続すると見なされましたが、崩壊してしまいました。

皆さん、ナポレオンも世界を征服しようとしましたが崩れ去り、ヒットラーもその夢を失い、ソ連のスターリンも崩れ去りました。独裁的に抑圧し、強制して、歴史を自分の力で主張しようとする人は生き残ることができません。人が歴史の主人公であり、歴史は人が作って行くものだと傲慢不遜なことを語る人は、神様に抵抗し敵対する人です。決してそれが実現されはしません。神様はアルファであり、オメガであり、最初で最後なのです。

我が国の歴史も、ある政治家の手によって動かされはしません。日本も同様です。神様の御手によって動かされるのです。北朝鮮の歴史も、神様が動かされるのです。南北の統一も、人間の知恵と聡明と努力で成されはしません。神様の御手によって成されるのです。従って、神様なしに歴史を主管しようとすることは愚かなことです。神様に従順に聞き従いながら、神様と共に歴史を動かして行こうとしたら、その人には神様が祝福してくださるのです。

また、人間の生死禍福も神様が主張なさいます。40代以上を生きてきた人は誰もが、後ろを振り返って見るとき、人生が自分の力では何も出来ないことを知る、と率直に告白します。20代の血気旺盛なときは、神を信じずに自分の拳を信じると言い、自分の知恵と聡明と手段方法で運命と環境を支配して行く、と大言壮語します。しかし、その人も40代を越すようになったら、人生が自分の思う通りにはならないことを悟るようになるのです。

人生は自分の努力以外に、或る外部的偉大な力が支配していることを知らなければなりません。この偉大な力とは何でしょうか。神を信じない人は定め、運命だと言いますが、私たちはそれが全知全能なる神様の御力であることを知っているのです。「サムエル記 第一 2章 6節〜7節」に、『主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。』と記録されているのです。

ですから、人間の定めとか運命とかは私たちの手にあるのではなく、神様の御手にあるのです。それで主が仰せられたのです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と。

神様の人生主張を、私たちは信じて従順に聞き従わなければなりません。こんにち、主権は人にあるのではありません。絶対主権は神様にあるのです。神様の命令があったら、太陽も月も止まります。神様が命令なさったら、海も二つに分かれ、泰山も変じて平地になることができます。

「歴代誌 第一 29章11節〜12節」に、『主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。』と記録されています。

この絶対主権者を私たちの神様として畏敬し、この主権者を我が国の神様として崇めたら、神様は私たちを高く上げてくださり、祝福してくださる筈です。この神様を無視するとか、この神様に逆らうところには絶対に平安がありません。どのようにして神様を無視し逆らうところに平安が臨むでしょうか。

「詩篇 127篇 1節〜2節」に、『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。』と記録されています。人間が神様なしに努力することは、現在は成功するように見えますが、実際にはそれは失敗で終わります。神様が居てくださらなくても良くなるだろうと思われますが、過ぎてみたら間違いであったと言うことを悟るようになるのです。神様は宇宙を支配なさる神様なのです。

「エレミヤ書 2章12節〜13節」に、『天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。・・主の御告げ。・・わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』と記録されています。

人本主義に立って人間が神様に背を向け、互いに人生の水溜めを掘りましたが、その水溜めは、水を溜めることのできない壊れた水溜めであると言うのです。これが人生の現実なのです。神様なしに素晴らしい生活を営んでみると言います。できそうです。しかし、彼が計画し進めているすべては既に亀裂が生じ、壊れた水溜めと同様なのです。

「エレミヤ書 2章19節」に、『あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。・・万軍の神、主の御告げ。・・』と記録されているのです。

なぜ、この世にはこんなにも苦しみが多いのでしょうか。なぜ、我が国にこのように苦しいことが甚だしく多いでしょうか。なぜ、私たちの家庭に、私たちの胸の中に苦しみが絶えないのでしょうか…? そのような質問をする人が少なくありません。聖書に、「あなたが、わたしを畏敬しないのが悪であり、苦痛であることを知りなさい。」と言われています。神様を畏敬しなかったら、それが悪となり、苦痛となって、その中で人々は苦しみ呻くようになるのです。私たちは神様と和解してこそ平安であり、祝福していただくことができるのです。

聖者アーガスチンは、神様にあって得た平安に関して次のように語ったことがあります。「主よ。あなたはあなたのために私たちを造られました。従って、私たちがあなたを発見する前には、私たちの心の中には安息がありませんでした。」神様を私たちが発見し、神様を迎え入れる前にはどこもがいばらの道であり、白い砂場であり、私たちの憩いの場所は見つけることができないのです。




第四、隣人との正しい関係

第4番目に、心に平安を持つためには、隣人と平安な関係を維持してこそ自分の心にも平安をたもつことができます。親近なお隣との平和が、心の平安の源泉となるのです。何よりも父母と睦まじくならなかればなりません。不孝する人、父母に逆らう人の中で、心が平安な人はいません。神様は、人間に対する戒めの中で、その第1として「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」と言われました。

父母を敬わなかったら、この世の人生の中で難関に逢着し、短命するであろう、と言うことです。父母に逆らう人に対して、神様は絶対に平安を与えることはなさいません。ですから人は、父母と和解し、睦まじく暮らさなければなりません。「箴言 19章26節」に、『父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。』と記録されています。また、「箴言 23章25節」には、『あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。』と記録されているのです。

その次に、私たちが心に平安を持つことができないようにするのが夫婦間の不和です。皆さん、夫婦が争い合うとしたら、その夫婦の心が安らかであることができるでしょうか。私も若いときには家内と随分争いました。今は争うことなどしません。夫婦の間で争ってから出勤したら、仕事に熱中することができません。何事にも集中することができず、不安で、心が安定しません。夫婦間でよく争う人のなかで、事業がうまくはかどるとか、家庭生活に恵まれる人は誰もいません。

奥さんの場合も同様です。朝から旦那さんと争って、旦那さんが朝ご飯も食べずに出勤したら、一日中、心が安らかではありません。いたずらに、かわいそうな子犬を足で蹴ったり、または子どもを殴りつけたり、故意に食器を投げ出して割ったりします。平安がありません。夫婦間で愛し合い、睦まじく過ごすのが平安の根本になるのです。

それで、お互いに最善を尽くして努力しながら、理解し合い、同情し合い、忍耐し合いながら、愛し合い、お互いに歩調を合わせて生活して行かなければならないのです。そうしてこそ、夫婦の間に平安が臨むのです。『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。』と、「箴言 17章 1節」に記されています。また「箴言 15章17節」には、『野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。』と言われているのです。歯ぎしりしながら、泡を口にして争い合っては幸福はありません。野菜を食べながらも和気藹々、愛し合ったらどんなに幸福でしょうか。

去年のことです。病気に罹っている姉妹さんから信仰相談を受けました。その姉妹さんは病気が悪化一路なのでお仕事をすることができませんでした。お仕事をしていくらか稼がなければ子どもたちと食って行けない立場にあったのです。それであっちこっちの病院にもお世話になり、色んな薬も服用しましたが効かないので、私のところへ信仰相談に来た、と言いました。それで、向かい合って姉妹さんの言うことを聞いてみました。

「牧師先生、私は夫が殺したいほどに憎いのです。今でも、夫が傍にいたら包丁で刺し殺したいです。夫のことを考えたら、祈りも口から出ません。神様に感謝することもできません。礼拝中にも、夫が憎くて身震いするほどです。どうした良いでしょうか?夫は2年ほど前から浮気はする、目に付くお金があったら持ち出しては湯水のように使い、女遊びにふけります。家庭や妻子は目にありません。私が稼がなければ、子どもたちと一緒に食って行くことができません。今は疲れ果ててしまい、病人になってしまいました。どうしたら良いでしょうか…?」

私は、姉妹さんに按手しながら熱く祈って上げました。「…全知全能で愛であられる主よ!この姉妹さんから、夫への憎悪が消え去るようにみわざを働かしてください…。」この姉妹さんの病気は、夫のせいであると言うよりも、夫を憎悪する心から来たものでありました。勿論、その夫に責任がないと言うことではありません。しかし、憎悪する心が彼女に深い病をもたらしたのです。

憎悪と憤怒は、その人の心を破壊するのです。こんにち、心理学者たちは「人間を破壊するもっとも恐ろしい精神的要素は、憎悪と憤怒である」と言います。憎悪と憤怒を抱いていたら、これが人たちのたましいを破壊し、心を破壊し、肉体に疾病をもたらすようにするのです。シェクスピアーは言いました。「敵の為に、火をあまり盛んに燃え上がらせてはならない。その火があなた自身を燃やすかも知れないからだ…。」憎悪と敵愾心の火が心の中にあまりにも盛んに燃え上がったら、敵を焼き殺す前に自分が先に焼き殺されてしまうかも知れないのです。

また、父母と子どもたちとの間が不和であったら、その人たちの心には平安がありません。この頃の若い子どもたちは昔と違って、父母の言うことを素直に聞き入れ、従順に従おうとしません。最近、もっとも困難なのは「大人」(おとな)がないと言うことです。若い人たちが「大人」を見向きもしません。家庭内で父母の言うことを聞かない子どもが、学校に行って先生を先生として対するはずがないのです。社会に出て行っても、先輩を先輩として待遇することをしません。指導者を指導者として尊敬しません。みんな自分と同級・同質なのだと考えます。これは大きな問題です。

それでこの頃は、父母が子どもたちと和やかに睦まじく暮らすということが大変に骨が折れます。子どもたちが余りにも父母の言うことに従ってくれず、世代の差だと言うことで父母の思考には目もくれず、至ることで父母に逆らいます。それでも、父母は子どもたちをよく訓戒し、子どもたちのために祈り、よく顧みて上げながら平和を維持してこそ、父母は心に平安を保つことができるのです。

そしてまた、隣人との平和がいかに必要なのか知れません。隣人と不和な関係にあっては平安がありません。「箴言 10章12節」に、『憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。』と記録されています。「ピリピ人への手紙 2章 3節」には、『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』と記録されています。「エペソ人への手紙 4章 2節〜3節」には、『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。』と記録されています。

ところが、この世に暮らしている人々が御言葉通りに暮らそうとしません。私たちすべての人たちは、律法の尺度をもって人生を暮らして行こうとしています。律法の尺度では、いつも他人の咎を見出すだけです。律法主義的な旦那さんはいつも、奥さんの過ちをほじくり出しては傷つかせ、責任転嫁を欲しい侭にし、人格を踏み躙ります。律法的な奥さんは、旦那さんのしくじりや間違いをことごとく指摘し、けなそうとします。お互いに律法の尺度で見るからなのです。世界の政治界も同様です。分派が激しいです。相手が悪いとして争い合います。

「ヤコブの手紙 4章 1節」は、『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。』と指摘しています。個人的欲望の故に、政治的動機と目的のために、お互いに対決し合い、争い合っては、みんなが一緒に、ともに滅んでしまいます。それで「ペテロの手紙 第一 2章 1節」に、『ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて…、』と記録されているのです。

それで、人たちは律法的な関係を結ばずに、お互いに恩恵的な関係を結ばなければなりません。旦那さんたちも恩恵的な恵みの目で奥さんを見なければなりません。奥さんも勿論、恵みの目で旦那さんを見なければなりません。父母も子どもたちを、若い人たちは父母を、恵み豊かな目で見なければなりません。咎を覆ってあげ、傷を癒し、罪を洗って上げるのが恵みなのです。

「エペソ人への手紙 2章 8節」に、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。』と記録されています。私たちを見られる神様の目をご覧下さい。私たちは罪を犯し、不義で、醜悪で、捨てられて然るべき人生たちです。律法的に見たら、私たちは裸にされて地獄に突き落とされなければならないのです。そうであるのにも拘わらず、神様は御子イエス様を遣わされて私たちの代わりに十字架に釘付けになさり、身を裂き血を流して私たちを救うようにして下さいました。

そして、その血潮で私たちを聖くしてくださり、私たちの病を癒してくださり、私たちにいのちを与えるにしても豊かに与えてくださるお恵みを施してくださいました。私たちは神様からお恵みをいただいた人たちなのです。神様からお恵みをいただいた私たちですから、私たちはお隣の人たちにお恵みを分かち与えなければならないのです。自分は神様からお恵みを頂いているのに、その人が隣人に対しては律法的に審き、律法的に対応しては決していけないのです。

私たちが主である神様に仕えるとき、罪悪と世俗と欲望を遠くし、お隣と睦まじく過ごすとき、私たちの心は主が与えてくださる平安で満たされるようになり、心の平安は万病を癒す薬となるのです。こんにち、万病の根源はストレスから生じる、と言われています。この複雑極まりない世の中を暮らして行くとき、ストレスによってすべての病気が襲って来るようになると言うのです。しかし、私たちがキリストにあって心に平安を得たら、すべての病は消え去り、健康を維持することができるのです。

英国の医療宣教師で、探検家であったデイビッド・リビングストーンが、1856年にアフリカで大きな危険に会ったことがあります。平素自分に害を加えようとしている、凶暴な原住民酋長の土地を通過しなければならなくなりました。彼らとは言葉も通じません。明日はその土地を通らなければならない、その日の夜、リビングストーンは恐怖と不安で眠れないまま、聖書を読んでいました。

「マタイの福音書 28章18節〜20節」にある御言葉を、彼は祈る心で読みました。『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

彼は、日記に書き入れました。「1856年1月14日、私は神様の御言葉を聞いた。“マタイの福音書28章18節〜20節”は主の御言葉なのだ。この御言葉は、私に恐れと不安の終息を意味する。主は‘世の終わりまで、いつも、私たちと共に居て下さる’と言われたのだ。そうなんだ。今も、全知全能なるイエス様は私と共に居られるのだ。私は主に感謝を捧げる…。」その夜、彼はぐっすりと熟睡しました。

そしてあくる日、生命の脅威を強く感じる極限状況に置かれていながら、神様の御言葉を信じたリビングストーンは、心に大きな平安をもって、大胆にその酋長所有の地域を通って行きました。彼も、彼の一行も、何の害も受けずにスムースにそこを通過することができ、ついに目的を達成することができたと言います。

御言葉は霊的な糧です。この世の糧も食べてこそ、力を得ることができるのです。私は幼かった時、私が病気にでも罹ったらお祖母さんがお粥を作って食べさせてくださいました。2〜3匙飲み込んでは、私が嫌々と拒みました。するとお祖母さんが、「このお米一粒一粒が、悪霊100匹を追い出すんだよ。これを食べてこそ、悪霊たちが追い出されて行くんだよ…。」私のお祖母さんは勉強をした方ではありませんが、そのお祖母さんがしてくださった話が私の人生を変化させたことが少なくありません。

私はこの頃も、食欲がない時にはお婆さんの言われたことを思い出します。「お米一粒が、悪霊100匹を追い出すのだよ…。」そうなんだ。食べてこそ、力が生じるんだ…。それから私は、美味しくなくてもご飯を一生懸命に食べます。私たちがお米一粒、一粒を食べてこそ、肉体の力を得る如くに、霊的な御言葉の糧を食べてこそ、私たちに霊的な力が生じるのです。御言葉を食べずに、口に合う清涼飲料水だけを飲んではいけません。

御言葉を食べてこそ、霊的に力を得ることができるのです。そうして、御言葉にあって神様に拠り頼むことができ、まことの平安に与ることができるのです。

私たちは、毎日毎日心に平安を得るために努力しなければなりません。神様と親しく近く交わることで、心に平安を持つことができるのです。そうなるためには、神様の御言葉をいつも読み、口ずさみ、祈り、賛美し、礼拝を捧げなければなりません。そうして神様を主として崇め、仕えるとき、悪魔は私たちの中に入って来られないのです。

私たちの心の主人はイエス・キリストと、父なる神様です。イエス・キリストと父なる神様を、私たちの心の中に主人として迎え入れていると、この世の支配者悪魔が入って来られないので、私たちは心が平安になることができるのです。

罪悪とこの世の欲望を警戒しなければなりません。私たちは生きて行きながら、神様が私たちに与えてくださったもので喜び、感謝し、満足しなければなりません。そうする時、神様はもっと与えてくださるのです。怨み、不平を呟き、嘆き、欲張ったら、そのような人はエデンの園に連れて行って置いても心に平安を持つことができません。

また、良き人間関係を結ぶためには家庭から出発しなければなりません。父母と立派な人間関係を結び、夫婦間で睦まじく愛が溢れる生活を営み、和気藹々なる人間関係を発展させて父母と子どもたちとお隣とも素晴らしい人間関係を保つように努力しなければならないのです。韓国には“家(イエ)和(ワ)して万事成る“と言う言葉があります。家庭が睦まじく和やかであれば、万事が成就されるのです。国が平和であれば、その国は強く、また富むようになるのです。人間社会はいつも平和を追求し、和解を追及しなければならないのです。

ですから、律法的な人間関係を結んではなりません。恵みで交わり、遠くを見渡しながら和解し合い、どんなにしてでも相手の咎や罪を覆って上げ、隣人の痛い所を包んで上げ、他人を助け起こして立たして上げる、お恵みの主のみわざが現れますよう、主の御名によって祈願します。





お祈り

愛であられる、我が父なる神様!

私たちのように罪を犯し、不義で、醜悪で、神様から捨てられて当然な人間がまたと何処にいるでしょうか。そうであるのにも拘わらず、神様は私たちを罰しようとなさらず、審判しようともなさらず、踏み躙ることもなさらずに、私たちを救ってくださり、癒してくださり、覆ってくださり、聖潔にしてくださり、その上に命を豊かに与えてくださるみわざを働かせてくださって、有り難うございます。

聖く、全知全能であられる、我が天のお父さま!

何よりも偽りで満ち、空しいのが人間の心ですので、私たちは人間に拠り頼むことができません。ひとえに父なる我が神様と、イエス様だけに拠り頼みます。父なる我が神様、私たちの心の中に驚くべき平安を与えてください。

尊き、我が主である神様!

私たちには平安がありませんので、すべてが空しく、毎日が苦しみの連続です。富貴・栄華・功名が心に平安をもたらしてくれるものではなく、幸福を持って来てくれるものでもありません。父なる神様と、イエス・キリストが主人として私たちの心を占領しておられる時だけが、私たちにまことの平安と幸福を享受させることができるということを、今日、礼拝に参加したすべての聖徒さんたちが悟るようにしてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!