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「お祈り、どのようにすべきでしょうか」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 18章 1節〜8節」

18: 1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18: 2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18: 3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

18: 4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18: 5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18: 6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

18: 7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18: 8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」




今日、私は皆さんたちとご一緒に『祈祷、どのようにすべきでしょうか?』と言う題目で、お恵みを分かち合いたいと思います。

 概、祈祷には三つの形態があります。第一は、神様と交わる祈祷です。私たちが毎日毎日、神様に感謝と賛美の礼拝を捧げる交わりの祈祷がそれです。とても重要な祈祷です。お互いに交わってこそ親密になり、近づき合うことができるのと同じように、神様と交わるお祈りは、神様に近づくようにする道です。

第二は取り成しの祈祷です。私たちは国と民族のために、私たちの家族のために、隣人のために、せつに祈っています。この取り成しの祈りは偉大な力を発揮するのです。

そして、第三は使役のための祈祷です。神様の前で、特別な目的をもって集中的に捧げる祈りです。このお祈りは、確実な神様のお答えを望みながら捧げるお祈りです。神様に礼拝を捧げ、交わるためのお祈りは、即答をいただくお祈りではありません。取り成しの祈りも、私たちが取り成ししながら祈りますけれども、すぐに現れる結果を期待する祈りではありません。しかし使役のためのお祈りは、問題が切迫しているので御答えを直ぐにいただかなければならないお祈りのです。

それで、今日は確実な御答えを望みながら捧げる使役のための祈りに関して重点的にメッセージを宣べさせていただきたいと思います。

2〜3年か前に、胃潰瘍に罹った姉妹さんのお一人が、あっちこっちの病院に通いながら色々と治療してもらいましたが治らないので、私たちの教会に来られました。その姉妹さんは教区を通して、私に按手祈祷を申請してきました。姉妹さんの事情を聞いてから、私が訊ねてみました。「姉妹さん、今まで神様にどのよう祈って来られたでしょうか?」すると、姉妹さんが答えてくれました。「普通、一般的に人たちがしているようにしています。全知全能で、愛であられる神様!昨日も今日も、いつまでも同じであられる我が神様!栄光であられる神様!私を憐れんでください。私の病を癒してください…。」

それを聞いて、私が言いました。「姉妹さん、今、姉妹さんは病で苦しんで居られます。病を癒して下さいと祈る言葉は少しだけで、修辞が多すぎます。切迫した中で、そのように祈る人はいません。今、水に溺れていると仮定しましょう。私を助けてください。私を水から救い上げてください。私を救ってください…。神様。助けてください…。私を助けてください、とだけしか言うことができないのです。修辞は必要がありません。」

そして、私が付け加えて言いました。「姉妹さん、これからは、こう祈るようにしてください。神様!私の胃潰瘍を癒してください。イエス様の御名によって治してください…。ほかのことは言わずに、このように集中的に、1日に3時間ずつ、祈るようしてください。」と言ってから、帰ってもらいました。

それからいくらか過ぎてから、その姉妹さんが満面に微笑を浮かべて、私の事務室に現れました。「牧師先生が言われた通りに、1日に3時間ずつ、神様、私を癒してください。イエス様の御名によって治してください。イエス様の御名によって、私を癒してください。私を癒してください…と、このように反復しながら祈りました。その結果、疼痛が消え去り、病院に行って内視鏡検査を受けましたが、胃潰瘍がきれいに治ってしまっていました…。」

私たちが使役の祈りを捧げることは、神様の今直ぐの御答えを望み、期待し、求めながらすることです。御答えが臨んできてこそ、問題が解決されるのです。使役の祈りを捧げるとき、私たちがいつも気をつけなければならない、いくつかの方法があります。




第一、神様と正常的な関係を保たなければなりません。

第1番目に、神様との関係が正常的であるかどうかを、先ず考えてみなければなりません。はっきりと罪と咎とを告白して、赦していただいた状況のもとで祈りを捧げなければなりません。罪がある状態での祈りは御答えをいただくことができないのです。「イザヤ書 59章 1節〜2節」に、『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』と記録されています。

また「イザヤ書 55章 6節〜7節」には、『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』と記録されているのです。

「詩篇 32篇 5節〜6節」には、『私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ。それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。』と記録されています。私たちは、自分の罪をしきりに隠そうとします。神様の御前に私たちの罪を隠したら、神様から憐れみをいただくことができません。

しかし、神様の御前に出て行ってひざまずき、私たちの心を開いて罪を告白し、悔い改めたら、神様は私たちの罪を赦してくださり、神様と私たちとの間の仕切りをみな取り除いてくださるのです。人が使役の祈りを捧げるとき、神様の御答えを今直ぐにいただかなければならない時には、心に恥じるとか隠したものが何もないことが重要なのです。

子どもを育てる人たちは、子どもたちのために少なくない涙のお祈りを捧げるようになります。私は、私の子どもたちが幼かったとき、或る日、聖徒さんの家を訪問してから、家に遅く帰って来ました。帰ってみると、2番目の息子が寝床の中に横になっていましたが、直ぐにも死にそうな状態でありました。学校の付近のお店で、級友たちと一緒にお餅を買ってたべたそうです。急いでお医者さんを呼びました。お医者さんが「何か毒物が混じっているものを食べたようです。毒が全身に広がっているので、手の施しようがありません…。」と言うのでありました。

息子を失う羽目におちいったみたいな失望感で、全身の力が抜け、泣きたいほどでありました。それで、ひれ伏して神様に祈ろうとしました。ところが、祈りが出ません。早く御答えを得なければならないのに、祈りが喉から出ないのです。「主よー!」と言ってからは、黙り込んでしまいました。何回か知れません。胸が苦しくなり、呼吸が止まりそうになりました。ようやく祈った内容が「神様!息子を召されるのでしたら、代わりに私を連れて行ってください…。」と言うことがやっとでありました。こんなお祈りが何の効果があるでしょうか。

どうにも仕方がないので、書斎に入って行って再びひざまずき、私の罪を悔い改め始めました。子どもの時から今まで生きて来ながら、思い出される罪はすべて口に出して、主の御前に悔い改めました。そして、赦してくださいと熱く熱く祈り求めました。私の罪のために息子がこうなったたのだ、と思われました。大声を出して喚くように、身悶えしながら悔い改めの祈りを捧げました。いつからか、心の中が爽やかになりました。キリストの血潮によって私が聖潔になったような気がしだしました。

そして、神様との間の隔ての壁が取り除かれるのを感じました。心が落ち着き、答えていただいた、と言う確信が胸の中いっぱいになりました。勇気を得て立ち上がり、息子が寝ているところに行って、按手して上げながら、また祈りました。すると、息子のヤツが起き上がり、口を開いて食べたお餅と一緒に、黒々とした液体を吐いてから、すぐに生き返ったように元気を戻しました。

これが、使役の祈りなのです。使役のお祈りを捧げるときには、神様の前に隔ての壁があってはなりません。どんな程度のものであろうと、罪や咎の仕切りの壁がふさがっていては、祈りが神様の御前に届くことができないのです。こうして私は、息子が神様の御力で癒され、生き返って立ち上がる奇蹟を体験しました。

私たちが神様にお祈りするときには、罪を悔い改めるだけでなく、平素、聖徒の義務を実践しなければなりません。主日も守らず、主日に個人的活動をしたい放題して回ってから、死にそうになる困難に出会ったときに、「主よ!私を助けてください。」と声を出して祈ったところで、何の効果があるでしょうか。主日は主のよみがえりの日であり、主が教会で私たちと会ってくださる日なのです。イエス様がよみがえられてから、その次の主日に弟子たちが集まっているところに来られて、弟子たちに会ってくださいました。

その日以後、弟子たちは主日にイエス様が来られることを期待して集まりました。こんにちも、私たちがこのように聖日に集まったら、主は聖霊を通してここに来られて、私たちに会ってくださるのです。主が、私たちに会おうとして待っておられるのに、主には会わず、主を蔑ろにしたあと、自分に問題が生じたとき「主よ。私に会ってください!」と叫ぶのでは、まったく話になりません。それで聖書「出エジプト記 20章 8節」に、『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。』と言われているのです。ユダヤ人の安息日は、今日、私たちがよみがえられた日を記念する主日なのです。

それだけではなく、私たちは心を尽くし、思いを尽くし、まことを尽くして主である神様に仕えなければなりません。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」と言われました。私たちが本当に神様に仕えるのであったら、私たちの宝は主の居られるところにいなければなりません。「マラキ書 3章10節」に、『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』と言われました。

私たちが神様に十分の一を捧げず、物質を神様より以上に愛するのであったら、私たちが急な目に会ったときに神様に呼ばわり祈ったら、神様が何と仰せられるでしょうか。「物質に頼りなさい。物質をわたしより以上に愛したではありませんか。あなたには物質が神であり、あなたの偶像です。あなたの主人である物質に拝み、祈りなさい。」と、言われはしないでしょうか。

私たちが物質よりも神様をもっと愛し、十分の一を正確に捧げ、神様の天国拡張事業に真心込めて協力したら、難しい目に会ったとき、「主である神様!私が苦難に瀕しています。私を助けてください。」と祈るとき、神様は、「よろしい。あなたが心を尽くし、思いを尽くし、まことを尽くしてわたしを愛したのだから、わたしがあなたを助けて上げよう。」と仰せられないことがあるでしょうか?

「箴言 28章 9節」に、『耳をそむけて教えを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。』と記録されています。神様の戒めを聞き入れず、神様の御教えに背を向けるとしたら、そのような人の祈りは神様が聞きもなさらず、忌み嫌われると言うのです。私たちは人生を生きて行くにあたって、神様の御教えに聞き従い、守らなければならないのです。

私たちは個人的な生活にあっても正直に暮らさなければならず、恥ずることなき真実な生活、聖き生活を営まなければなりません。どのように正直に暮らさなければならないのでしょうか。それは、神様の戒めを守り、偽りがない人生を生きて行かなければならないのです。神様は蛇を憎みます。蛇は真実なところがなく、曲がりくねっているからです。

それで聖書を見ますと、神様は蛇に向かって「お前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりも呪われる...。人たちはお前の頭を踏み砕く。」と言われました。神様は、曲がり曲がってくねくねすることを望まれません。正しい心を持ち、真実に基づいて暮らすことを願われます。この世と調子を合わせず聖い生活をすることを、神様は願っておられるのです。

また、隣人に接するときにはいつも、心優しく、柔和で、謙遜に、赦しと愛をもって接しなければなりません。人たちに接するとき、律法的に批評したり、或いは害を加えるような、そのような人生を生きるのでは、神様にいくら祈っても答えていただくことはできません。ですから私たちは、いつも相手を赦し、愛する心と、心優しく柔和で謙遜な姿勢で接し、神様の御前に義と真理と聖なる人生を生きて行ったら、私たちの祈りは神様の耳に届き、答えていただくお恵みに与ることができるのです。

それだけでなく、神様にいつも、お恵みをいただいたことに感謝しながら生きてこそ、捧げるお祈りに答えていただくことができます。「詩篇 50篇23節」に、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と言われました。感謝を捧げたら、神様は栄華を感じてくださると言うのです。皆さん、私たちも他人に恵みを施してから、感謝のお手紙でも貰ったり、有り難うと電話でも貰ったら、心に満足を感じ、嬉しくなります。神様も同様なのです。

「ピリピ人への手紙 4章 6節」に、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』と記録されています。ただ祈らずに、感謝の香辛料を加えて祈りを捧げなさいと言うことです。「エペソ人への手紙 5章20節」にも、『いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』と言われているのです。

こんにち、人たちは神様から祝福していただいてからも、知らん顔して神様に感謝しない人たちが少なくありません。度が過ぎるほどに感謝をしません。家庭でもそうです。夫が妻に、妻が夫に、父母が子どもに、子どもが父母に、そして隣人に、感謝しながら生きて行くとき、油をさす結果を招くようになるのです。お互いに感謝し合ったら、各自の生活を幸福にする油をさすようになるのです。

或る旦那さんが、貯めて来た銀行通帳からお金をおろして、久しぶりに奥さんに外出用の晴れ着を一着、買って来て上げました。すると奥さんが、それを手渡して貰ってから無表情のままダンスの中にしまい込みました。「おい、ちょっと着てみてご覧。」と言いましたが、「後で、時間があったら着てみます。」と言うだけで、奥さんは済ました顔で台所に向かって行ってしまったそうです。

それで、その旦那さんが私に、「私は、又と、着物なんか買って来て上げないことにしました。」と言うのでありました。折角、旦那さんが晴れ着を買ってきてくれたのですから、躍り上がるように嬉しがり、感謝しなければなりません。夫の前で着てみて上げるのも感謝の表示です。そうしたら夫も満足して、また買って上げたくなるのです。

それをダンスに仕舞い込んで、後で時間が空いたら着てみる、と無表情な顔で出て行っては、買って来て上げた甲斐がありません。人も、感謝して貰うとき、もっと良くして上げたい心が湧くのです。神様は、言うまでもありません。感謝する人は、神を崇める人であると認めてくださるのです。そういう人の祈りは、すばやく聞いてくださり、答えてくださるのです。ですから私たちは、大小に拘わらず、何事でも神様に感謝するようにならなければなりません。感謝は天の窓を開くのです。聖書にも、「感謝する人に、わたしは神の救いを見せよう。」と言われたと記録されているのです。

私は、私たちの教会に出席しておられる一人の姉妹さんから、次のような証しを聞きました。彼女の会社同僚である女性が結婚をしました。結婚初夜から、花婿はお酒に酔っ払って宵の口から寝込みました。花婿はお金が手に入ったら毎日毎晩飲み、いつからかアル中毒になってしまい、ついに家庭は経済的貧困に直面するようになってしまいました。生活費を調達するために、花嫁さんが改めて会社に顔を出すようになりました。それからも、花婿さんは相変わらずのアル中毒者で、それがずーっと10年間も続きました。

或る日その女性が、私たちの教会の会員である姉妹さんに、「もう、あたしは離婚しようと思います。生きて行くのも骨が折れるだけで、楽しみも、希望も、何もありません…。」と、嘆息と一緒に訴えるように語りました。それで、教会の会員である姉妹さんが言いました。「そんなに、簡単に離婚を考えたりしちゃ、いけませんよ。私たちの教会の牧師先生がね、説教の時間に“何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。”と言われたの…。」と言いながら、彼女を教会に伝道しました。

その後、アルコール中毒者の奥さんである姉妹さんが次のように語ったと言います。「良いことも、悪いことも、すべて神様に感謝しなさい、と言われたのですが、結婚当日から酔っ払う夫のことで感謝することはとてもできませんでした。しかし、祈っている中でだんだんと、夫が可哀相に思えて来ました。継続、すべてに感謝するように努力し、祈りを捧げていると、いつからか、夫が気の毒で、憐れな人だと思うようになりました…。」

そうして幾らか過ぎてから、その姉妹さんが教会に行くために着替えをしているところへ、アルコール中毒者の夫が近寄って来て言いました。「どこへ行くんだ…?」それで「教会に行くのよ。」と答えて上げました。すると、「僕も一緒に行っていいか?」と言うのです。これは冗談だと思って、「笑わせるんじゃないよ。」と言って上げたところ、「いや、本当だ。」とまじめな表情で答えたと言います。それで二人が並んで、私たちのヨイド純福音教会に出席しました。

主のメッセージを聞いた後、新しい信者になるための誓いのお祈りの時間に、その夫は誰からも勧められることなく席から立ち上がって、牧師先生のお導きに従って誓いの祈りを捧げ、案内の執事さんからお祝いの花を手渡して貰うや、その場に崩れこんで泣き出した、と言います。それからは変化されて、酒も飲まなくなり、水のバプテスマも受け、その家庭が10年ぶりにあらためて新婚生活を始めた、と言う証しを聞きました。

感謝の祈りが、神様と私たちとの間の仕切りや隔ての壁を除き去るようにするのです。感謝のお祈りを捧げたら、神様は喜びを持って私たちの祈りに耳を傾けてくださり、ついには、感謝の祈りを捧げる人の願い、求めることに答えてくださるのです。それで、アルコール中毒者の奥さんの熱心な感謝の祈りも、聞き叶えられたのです。




第二、目標が確かでなければなりません。

第2番目に、私たちが使役のお祈りを捧げるときには、目標が確かでなければなりません。祈祷課題をたくさん羅列して祈るとか、同じ言葉を繰り返すとかしたら、神様が決定的な何かを答えてくださることができません。「マタイの福音書 6章 7節〜8節」に、『また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。』と言われています。

神様は、私たちの願うことが何であるかを既にご存知ですから、単刀直入的に、そして明快に、目標を確かにして祈らなければならないのです。目標が漠然としており、つまらない同じ言葉を繰り返ししてはいけません。

また「ヨハネの手紙 第一 5章14節」に、『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』と記録されています。

イエス様が次のような喩えを上げられました。「ルカの福音書 11章 8節〜9節」の御言葉です。『あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」』

真夜中に友人が訪れて来たのですが、食べさせるものがありません。所がお隣の人はお金持ちなので、食べ物はいくらでも持っていました。それで、訪れて来た友人のためにお隣の家に行って、門を叩きました。何の答えもありません。それでも継続して門を叩きながら、「友人が来たんだが、食べさせるものがないんだよ。君。パンを三つだけ貸してくれ。」と大声でお願いしました。すると中から、「面倒だね。私も家族たちも、もう寝てるんだよ。何かやることができないんだよ。」と答えが返って来ました。

しかし、この人は、「友人が腹が減っているんだ。食べさせなきゃいかんよ。パンを三つだけ貸してくれ。パンを三つ貸してくれよ。パンを貸してくれ…。」と、門を叩きながら継続して叫びました。やがて、静かだった家の中から答えが聞こえました。「あなたが友だちだからということで起きて何かを与えることはできない。あくまでもうるさくて眠れないから、パンを貸して上げるよ…。」と言いながら出て来て、パンを貸してくれたと、イエス様が言われました。

これは、私たちにもこのように祈りなさい、と言うことです。私たちが祈るとき、漠然とした祈りを捧げないで、確かな目標を持って、簡潔に呼ばわり、継続して祈りなさい、と言うことなのです。

また、私たちは祈りながら、いつも目標が達成された姿を描きながら祈らなければなりません。そうしないことには、祈りに力が入りません。「見渡す法則」がとても重要なのです。聖書に、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と、主が言われたと記録されています。山に「ここからあそこに移れ。」と言って、それを心に描いて見ながら祈りなさい、と言われたのです。漠然とした祈りではありません。山がここからあそこに移るのを、心の中で描き、見ながら祈ったら、その通りになると言われたのです。

皆さん、アブラハムがこの「見渡す法則」を使用した代表的な信仰の祖先です。「創世記 13章14節〜15節」を見ますと、『ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。』と、神様が仰せられたと記録されています。カナンの地を神様がアブラハムにただで与えたのではありません。目を上げて、北と南、東と西を見渡し、そしてそれを自分のものだと主張しなさい、そうしたら、それをあなたとあなたの子孫に与えよう、と言われたのです。これが「見渡す法則」なのです。

アブラハムの年が85歳になり、彼の妻が75歳になって、もう子どもを生むことが出来なくなっていたとき、神様はアブラハムを呼び出されて、夜中に空の星を数えなさいと言われました。「創世記 15章 5節〜6節」に、『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』と記録されています。見渡す法則です。

 神様は、ただ漠然と子孫を与えると語られたのではありません。空の星を数えてみなさい。アブラハムは空の星を数えました。一つ、二つ、三つ……、数えたところ、神様が「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。無数の星を通して子孫たちの顔と数を、アブラハムは見たのです。見渡す法則は、私たちの心の中に信仰を強化させるのです。ですから祈るとき、私たちは成就された姿を見つめなければなりません。

何もないのに、どのように見渡しますか…?聖書に、神様は死んだ者をよみがえらせ、無い物を有る物のように呼ばれるお方である、と記録されています。無い物を有る物のように見渡し、見つめながら祈らなければなりなりません。

皆さん、この「見渡す法則」を軽視してはいけません。見渡す法則が重要なものでなかったら、神様がなぜ、アブラハムにこの見渡す法則を使用しなさいと言われたでしょうか。ある一部の人たちが、私がこの見渡す法則を使用しなさいと言ったと言うことで、私を非難していると言うことも聞いています。しかし神様は、私たちが祈るとき、確かな目標を設定してそれが成されることを見つめながら祈ることを望んでおられるのです。是非とも、見渡す法則をご使用してくださるよう、お勧めいたします。




第三、確実に成されると信じなければなりません。

第3番目に、私たちが祈るとき、それが確実に成されることを信じなければなりません。祈りながら、果して成されるかどうか、心の中で疑ってはなりません。しきりに疑いが生じるのを、どうしますか?と言う人がいます。皆さん、信仰とは選択することです。自分で「信じる」と選択したら信じるようになるのです。疑い出したら、疑うようになるしかありません。私は、死のうが生きようが信じる。私は疑わない...と心に決したら、疑いはイエス様の御名によって退き、信仰に堅く立つことができるのです。

「ヤコブの手紙 1章 6節〜7節」に、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』と記録されています。ここに、疑うなと命令されているのです。私たちが心から「疑わない」と決心したら、疑わないようになるので、そう言われているのです。

ペテロをご覧ください。イエス様が水の上を歩いて来られるとき、「主でしたら、私に、水の上を歩いて来い、とお命じになってください。」と叫びました。イエス様が「来なさい。」と言われるや、ペテロはイエス様だけを見つめて、疑わずに水の上を歩いて行きました。人が水の上を歩いたのは、ペテロが初めてです。ところが風が吹きつけ、海水の飛沫が顔にあたるや、ペテロはイエス様を見つめていた目を波立つ海に向け、心が凍りつくように恐くなってしまいました。疑ったのです。その結果、ペテロは海の中に沈みかけました。

その時、イエス様が何と言われたでしょうか。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」疑う人は、信仰の薄い人なのです。しかし疑いを振り捨てて堅く主を見つめたら、信仰の篤い人になります。私たちが祈るとき、目には何のしるしも見えず、耳には聞こえるものが何もなく、手には触れるものがなくても、私たちは決心しなければなりません。「私は最後まで信じる。死のうが生きようが私は信じる。」と。

これは凄く重要なことです。そうせずに、生半可な心で、信じられたら信じ、信じられなかったら信じない...ようでは、揺れ動く海の大波のようなもので、神様から何も得ることはできません。

私たちが疑うことをせずに神様に祈るためには、御言葉を念頭にいれて、縋りつかなければなりません。天が崩れ、地が消えることがあっても、一点一画も変わらないのが神様の御言葉なのです。私たちはその御言葉に縋りつかなければならないのです。波風が狂い荒れても、神様の御言葉は揺れ動くことがありません。

「コリント人への手紙 第二 1章20節」に、『神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。』と記録されています。

昔、太平洋を横断する途中、船が破船して20日間以上を板切れにしがみついて漂流してから、劇的に助け出された人がいます。それはリーガン・ベイカーと言う船長と二人の若い船員でありました。昼は炸裂する太陽で全身が焼かれるようであり、喉が渇き、そして夜は、凍え死にそうな寒さと、鮫の攻撃、寂寞と孤独の中で彼らは20日間以上も海を漂流しました。

 そうする間、船長はクリスチャンなのでいつも、「詩篇 23篇」を口ずさみました。『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』

または「マタイの福音書 6章31節〜34節」の御言葉を暗誦しました。『 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

彼は上記の御言葉を口ずさみ、暗誦しながら、神様に縋り続けました。そうして20日間以上が過ぎ、23日目に救助されました。新聞記者が彼に質問しました。「どのようにして、人間の限界線を飛び越え、23日間も海上で生き残ることができたんですか?」船長が答えました。「私は、良き牧者である神様が、聖書の御言葉通りに私を“いこいの水のほとりに伴われる”ことを信じました。その約束の御言葉に縋り付いて祈りましたので、心配せず、一日一日勝ち抜くことができ、結局、逆境を克服して生き残ることができました…。」

ご覧ください。御言葉がいかに重要であるかを。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの御言葉による…と言われているのです。どのような逆境に置かれても、御言葉に縋り、疑わず、神様に祈り呼ばわれば、神様のみわざが現れることになっているのです。

 また、いつでも私たち人間的な理性で考えてはなりません。自分の理性で考えてみるとき、これは不可能だ、経験的に思ってみるとき、これは不可能だ…と考えたり、思ったりしてはならないのです。神様は奇蹟を行われる神様です。人の理解を越えた大いなることを行なわれるお方なのです。自分の思いや想像を超越した神様の奇蹟が起こることを期待しなければならないのです。

「エレミヤ書 33章 3節」に、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と、神様は言われたのです。私たちが知らない道を、神様は見せてくださるのです。神様は、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために」すべての道を備えて置かれたのです。ですから私たちは祈りつつ、私たちが知らない道、神様が備えられた…理解を越えた大いなる事が現れることを待たなければならないのです。それらは、人間の権力によらず、能力によらず、神様の霊によって成されるのです。

「詩篇145篇19節」に、『また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。』と記録されています。キリスト教の歴史上、捧げたお祈りに対してもっともたくさんの御答えをいただいたことで有名な方がおられます。それは「孤児の父・ジョージ・ミューラー牧師」です。彼はどんな人にも手を差し伸べずに、ひとえに聖書を持って祈祷室に入り、ひざまずいて祈るだけで3,000名の孤児を食べさせ、着させ、教育させ、結婚させた方です。

彼は一生のうち、5万回の御答えをいただいたと言います。或る人が彼に、祈りに御答えを得る秘訣が何かと訊きました。すると彼は、「私は、聖書・マルコの福音書11章24節に“だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。”と記録されていますので、祈る時、必ず、既に受けた、と信じるのです。」と答えたと言います。

 或る寒い冬、天気予報にもなかった凄い寒波が襲来しました。ところが子どもたちが収容されている建物のボイラーが故障を起こしまた。子どもたちがみな、凍死する羽目に落ち入りました。その数多くの子どもたちを他のところに移す方法もありませんでした。非常事態です。ところが、ジョージ・ミューラー牧師は少しも動揺することなく、聖書を手にして祈祷室に入って行き、神様に祈り始めました。

「主よ。父なる神様は孤児たちのお父さまです。私はお父さまの命令に従って孤児たちを顧みる総務に過ぎません。今日は恐ろしい寒波が押し寄せ、子どもたちが収容されている建物のボイラーが故障を起こしましたので、その建物に暖房を効かす方法がありません。子どもたちが凍死するかも知れません。どうか私たちの理解を越えた大いなるみわざを働かしてくださって、子どもたちが凍死しないようにしてください...。」

ミューラー牧師の切なる祈りが捧げられてから間もなく、東風が吹き始め、イギリス全国が春日和になりました。人たちは、真冬にこんな温かい日が訪れるとは…と驚いて、冬の着物を脱いで春の服装に着替えました。そうする間にボイラーが修理され、火を焚き始めるや、真冬の寒さが再び訪れ、冬風が吹きまくり始めました。神様が、人たちの理解を越えた大いなる奇蹟をほどこしてくださったのです。

私たち人間の思いや考えを超越して、神様はこんにちも、呼ばわり祈る聖徒たちのために理解を越えた大いなるみわざを働かせてくださるのです。それで、私たちには希望があるのです。私たちの理性的な考えや思い浮かぶことだけがあるこの世であったら、私たちが絶望の時にどこに期待することができるでしょうか。神様は、私たちの考えや思いや想像を超越して、奇蹟をほどこすことの出来るお方なのです。




第四、切に集中しなければなりません。

第4番目に、私たちが使役の祈りを捧げるときには、祈祷課題とか目標に全的に思いを集中しなければなりません。熱湯のような熱い心、恨み骨髄に徹したような集中力で祈らなければならないのです。このようなお祈りを捧げるときには、つまらない同じ言葉を繰り返したり、心の中が冷え冷えとしていたりしては神様から御答えをいただくことは絶対にできません。心が沸き上がるような熱さ、恨みに徹しているような集中力がなければならないのです。

「ルカの福音書 18章 6節〜8節」に、『主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」』と記録されています。

 皆さん、人は骨髄に徹した恨み事があったら、それは夜も昼も忘れられません。そんな恨み事は起きていようが、寝ていようが、食事のときも、仕事中にも忘れることがないのです。私たちが神様から祈りに対する御答えをいただこうとしたら、熱い心、寝ていようが起きていようが、食べるときも、働いているときも、それを忘れずに集中する心で継続祈らなければならないのです。

聖書を見ますと、ひとりの寡婦がおりましたが、恨めしい目に会って裁判官のところへ行き、ひっきりなしに相手を裁いてくださいと訴えていました。その裁判官は神を恐れず、人を人とも思わない人でしたので、ひとりの寡婦の言うことなんかは取り合ってもくれませんでした。ところがこの寡婦は、熱い心、恨み骨髄に徹したみたいな心で夜も昼もその裁判官のところへ行って、私の相手を裁いて、私を守ってください、と継続して呼ばわり求めました。

いくらかの間は無視しましたが、後には裁判官の心が悩ましく乱れ、それが苦痛になって堪らなくなりました。それでついにその裁判官は、「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」と言って、その寡婦の問題を解決して上げた、と言います。

 不正な裁判官も、熱い心と昼夜かまわずひっきりなしに訴える寡婦の問題を解決して上げました。この例えを語られながら、主は言われました。「ルカの福音書 18章 6節〜7節」に、『主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」』と記録されているのです。

「ヨエル書 2章12節〜13節」を見ますと、『「しかし、今、・・主の御告げ。・・心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。』と言われています。

 このように、「死んでもかまわん!」との覚悟で熱く、切に祈ったら、神様の奇蹟が現れるのです。熱い心、恨み骨髄に徹しているような心で祈ったら、神様はすぐに答えてくださるのです。

 私がいつだったか、水曜礼拝を終えてから事務室に下りて行きましたところ、或る人を担架に乗せたままで連れて来ました。よく見ますと、顔色が黒色で、肝臓ガン末期だと言うことでありました。そしてリンゲルを腕に注射していました。見たところ、到底人の力ではどうにもならない状態でありました。病院でもなげうったと言うことでありました。

それで私が、患者と、一緒に来た人たちに言いました。「この人は、どうしようもありません。死ぬか、生きるかの境目に来ています。病院に行っても死に、家に帰っても死ぬしかありません。しかし、生きる道がただ一つあります。神様に縋りつくことです。今からみんな一緒に、断食祈祷院に行って、三日間断食祈祷を捧げるようにしてください。」

すると、彼を連れて来た一人が答えて言いました。「この人の家族たちは、誰ひとり、イエス様を信じません。ヨイド純福音教会に行ったら、病気が癒される、と聞いたので、イエス様も知らずに、無条件にここまで来たんです。」それで私が言いました。「人が死ぬ目に会っているのに、信じる、信じないは関係ありません。何が何でも祈祷院に上って行って、家族たちがみな集まって断食しなさい。断食が何なのか知らなかったら、一切食事をせずに、天の神様に、この人を助けてください、と大きな声で呼ばわり、祈りなさい。」と強権的に勧めました。

 その患者と家族たちがみな、祈祷院に上って行きました。患者の父母もイエス様を知らないまま、祈祷院に上って行って断食をし始め、お兄さんも会社を休んで同行し、兄嫁さんも妊娠中であるのにも一緒に祈祷院に上って行ったと言います。そしてみんなが呼ばわり祈り、毎回の礼拝にも参加してメッセージを聞きました。すると自動的に悔い改めるようになり、間もなくイエス様を信じるようになり、彼らは一つ心になって熱く、「助けてください。」と切に祈り、呼ばわり求めました。

ところが、患者が昏睡状態に落ち入りました。意識が全くなく、呼吸も怪しくなりました。それにも拘わらず家族たちは継続して祈りました。断食三日が過ぎてから、患者が意識を回復し、水をくれと言いました。水を上げると、それを飲んだあと、お手洗いに連れて行ってくれと言い、お手洗いに行くや、真っ黒い血を継続して吐き出し、その次にはけろりと治りました。

その家族たちが私のところへ挨拶に来ました。「その時、担架に乗せられて来られた方はどうなったでしょうか…?」すると、横に立っていた人が、「それは私です。」と言うのでありました。驚いた私が、「あなたですか、生き返られましたね…?」と言うと、「はい、断食祈祷後、生き返って、今は何でも良く食べますし、病院に行って検査を受けましたが、肝臓ガンがきれいに治った、と言われました。」と、本人が元気な声で答えてくれました。熱い心で、全家族が断食しながら呼ばわり、祈り求めるや、悪魔が離れ去り、神様の奇蹟が現れるようになったのです。ですから、私たちが神様に切に祈り求めるときは、冷ややかな心で祈ってはなりません。

それから、祈る時、途中でたやすく退いて行く人がいます。少し祈ってから、御答えがないとしてそのままそれで終わってしまう人がいます。私たちの祈りは戦いなのです。戦争をするときには、進退を繰り返しながら最後まで戦う軍隊が勝つのです。簡単に退いては戦争に負けてしまいます。祈りは霊的戦争です。サタンと戦争することです。相手のサタンは、そう簡単に退くことをしません。私たちは継続して攻撃しなければならないのです。

祈るときは全力を傾けて、熱い心で熱情的に、集中的に祈り、最後まで忍耐しなければなりません。「ヘブル人への手紙 10章36節〜38節」に、『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」』と記録されています。

 祈るときには最後まで祈り通さなければなりません。簡単に投げ出して、途中で退いてはならないのです。よく訓練された猟犬は、獣の首に噛み付いたら死ぬまで放しません。人も祈るときには、猟犬のように最後まで食い下がり、途中で放してはならないのです。私たちは悪魔と戦うとき、悪魔の首に噛み付いたなら、放してはなりません。最後まで噛み続けなければならないのです。最後まで祈り、最後まで噛み続けて食い下がったら、堪らなくなった悪魔は尻尾を巻いて逃げ去るようになるのです

「マタイの福音書 15章27節〜28節」に、スロ・フェニキヤの女のお話しがあります。自分の娘がひどく悪霊に取り付かれて苦しんでいるので、娘を助けてください、とイエス様にお願いしました。しかし、イエス様は一言も答えてくださいませんでした。弟子たちがその女のことでイエス様に、何とかしてやってください、と願いました。すると、イエス様が答えて言われました。『「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」』(マタイ15:24)

 しかし、スロ・フェニキヤの女はイエス様の行かれる道をさえぎって、その前にひれ伏し、「主よ。私を助けてください。」と、再度お願いしました。すると、イエス様が答えて言われました。『「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」』(マタイ15:26)これは、彼女には凄く侮辱的な言葉でありました。あなたは犬です、と言われたのです。こうまでになったら、普通の女だったら、それで退いてしまったでしょう。直してはくれないまでも、あなたは犬だとまで言ったのですから、反抗する心もあったはずです。

しかし、スロ・フェニキヤの女はすかさずに言いました。「主よ。そのとおりです。私はイスラエルの民ではなく、犬です。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。私たちにパン屑だけでも施してください。」その時、イエス様が彼女に言われました。『「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」』(マタイ15:28)すると、彼女の娘はその時から直りました。スロ・フェニキヤの女が、まだ異邦人の時が来ていないので主のお恵みをいただく立場ではありませんでしたが、最後まで主に呼ばわり、執拗にお願いをしたので、その結果彼女は主から御答えをいただいたのです。

祈りのしもべであるジョージ・ミューラーに関して、もう一つ皆さんにお話ししたいことがあります。彼には竹馬の友が5人いました。彼はこの友だちを主の下に導いて天国に行かせようと決心をして、その5人のために祈りました。彼が祈りだしてから18ヶ月目に、一人が救われ、それから5年が過ぎて2番目の人が救われました。そして又継続して祈ったところ、12年後に3人目の友だちが救いを受けました。しかし、4番目と5番目の友人のためにジョージ・ミューラーは52年の間継続して祈りました。

 彼が年も老い、病弱になって、もう死にそうになりましたが、或る日、身体が痛く、力がないのにも最後の説教をしようとして彼は神様に祈り、力を得て講壇に立って、彼の最後のメッセージを宣べ伝えました。その時、そのメッセージを傾聴していた4番目の友人が、後で主を信じて救われましたが、ジョージ・ミューラーはそれを見ることができずに、天に召されました。

ジョージ・ミューラーのお葬式の時に5番目の友人が参加していましたが、棺桶が土の中に降ろされて行くのを見てその場にひざまずき、悔い改めて祈り、変化されて、主のしもべになりました。この最後の友人が全英国を巡り回りながら、証ししました。「ミューラー牧師のお祈りは、全部答えて頂きました。私がその最後の答えです。ですから、皆さんのすべてのお祈りも必ず答えていただくことができます…。」と、伝道しました。

皆さん、私たちのお祈りは必ず御答えをいただくようになっており、また神様は、答えて上げようと望んでおられるのです。私たちは祈りを通して、私たちの人生の問題を解決していただき、私たちはたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る人生を生きて行くことができるのです。

ですから今日、神様と私たちの間の関係を先ず、正常化するようにしてください。罪の仕切りや隔ての壁をみな壊してしまうようにしてください。すべての罪を告白して、主の十字架の血潮で洗い清められるようにしてください。そして、皆さんの祈りの目標を確かに立ててください。祈りの内容が右往左往することなく、つまらない同じ言葉を繰り返さないようにしてください。お祈りの目標をはっきりと定め、見渡す法則を通して成された姿を心で見つめてください。それから、確実に成就することを信じ、疑うことがないようにしてください。

そして、信仰の道に突き進んで行ってください。熱く、切な心、恨み骨髄に徹したような集中的なお祈りを捧げたら、皆さんは間違いなく御答えをいただくことができます。ジョージ・ミューラーのような主のしもべも、52年間も祈ってから、巌のような友人の心を砕いて主に立ち返らせることができたのです。気落ちすることがあってはなりません。後ろに退いてはいけません。

イエス様が、「ルカの福音書 18章 1節」を通して、『いつでも祈るべきであり、失望してはならない…。』と教えてくださいました。それは何故かと言えば、主が答えて上げようと望んでおられるからなのです。





お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様!

私たちのお祈りに答えてくださる父なる神様が居られますので、私たちはこの世を暮らしながら、心に大いなる慰めと平安を得ることができます。私たちの行く道が漆黒のように暗く、私たちの生活が砂漠のようなものであるとしても、全知全能なる神様が私たちと共に居てくださり、私たちの呼ばわる祈りに耳を傾けてくださり、私たちの理解を越えた大いなるみわざを働かせてくださいますので、私たちは気落ちすることがありません。絶対に後ろに退いたりしません。

全知全能であられる、我が天のお父さま!

今日も主の民たちが、個人、家庭、生活、子ども、事業の重荷を背負って出て参りました。すべてを主の御前に下ろし、お委ねすることができるように助けてください。漠然としたお祈りを捧げることなく、断固として決断し、堅固に信じて祈るように導いてください。後ろに退かずに、集中的に熱く祈ることができるように助けてください。奇蹟は起こります。

愛であられる神様が、答えてくださることを信じます。神様に心から感謝申し上げます。どうぞみわざを働かしてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!