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「人は生まれると苦しみに会う」
 






■聖書箇所

「ヨブ記 5章 7節」
5: 7 人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。





今日、私は皆さんとご一緒に「人は生まれると苦しみに会う」という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

ひとりの王様が、有名な歴史学者たちを呼び集めて「世界史を1巻に圧縮して出してくれ。」と言いました。歴史学者たちは、熱心に世界史を圧縮して1巻にまとめて王様の前に差し出しました。それを手に取って見た王様は、首を左右に振りながら「これは、余りにも分厚くて読めない。半分に縮小しなさい。」と言いました。

そのようなことが、何回も繰り返されました。「また、もっと、短くしなさい…。」「もっと縮小させなさい…。」「もっと…。」その繰り返しの反復が続いた後、学者たちがまとめて差し出したのは、一行の短い文章でありました。そこには、次のように記されていました。「人類の歴史は、苦難の歴史である。」

そうです。人間の歴史はまさに、苦難、それ自体なのです。人間が会う苦難は、程度の差はありますけれども、避けることができない運命です。生まれてから一生を暮らして老年になるまで、生きるための競争の中で心身ともに苦しみに会うのは、事実です。経済的、社会的、人間関係、及び疾病...、そして最後には死の苦しみに会うようになります。

苦しみを楽しむ人をご覧になったことがあるでしょうか。苦しみに会う時、それを歓迎し、喜ぶ人はいません。ところが一方、苦しみを通らずに生きることはできない、という事実は皆が知っています。そうだとしたら、苦しみの意味をはっきりと知って、苦しみが私たち人生の助けとなるようにしなければなりません。苦しみが私たちを盗み、殺し、滅亡させるものとしてはならないのです。

それでは、どうしたら苦しみを私たちに有益となるようにすることができるでしょうか? 苦しみに対する正当な認識をもって、よく理解し、苦しみを受け入れ、消化させたら、苦しみは私たちに大きな祝福となることができます。





第一、苦しみは、自分を省察し、人格的に成熟するようにします。

第1番目に、なぜ苦しみが祝福になるかと言いますと、自分を省察する機会となり、人格的に成熟をもたらすからです。それは、苦しみに会ってこそ、人たちははじめて悔い改めるようになるからなのです。すべてが平坦で良い時には、悔い改める理由を感じません。自分には間違ったことがないと思うからです。しかし、自分の行く道が険しくなり、逆境が襲ってきたら、何が間違ったからなのだろう、何か罰を受けることをしたのかな、と思って先ず悔い改めるようになるのです。

私たちが子供を育てたら知るようになります。子供が病気にでも罹ったら、父母は考えます。「私が何か過ちを犯したかな?」「子供がなぜ、病気に罹ったのだろうか?」胸に手を置いて考えるようになります。「詩篇119篇67節」に、『苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。』と記録されています。

自分勝手に暮らして来た人も、鞭打ちに会って苦しみに会うようになったら、神様のもとに帰って来るようになります。羊が真っ直ぐに行かずに間違った道に踏み入ったら、牧者が杖で打ちます。杖に打たれたら羊は正しい道に戻ります。そうせずに、牧者がその羊をほったらかしておいたら、羊は益々間違った道に深く入り込み、ついには獰猛な獣の餌食になってしまうのです。

「詩篇 34篇18節」に、『主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。』と記録されています。心がなぜ、打ち砕かれるでしょうか。苦しみに会ったら、人の心は打ち砕かれるのです。そうしたら悔い改めるようになり、罪を告白するようになります。それで、苦しみは私たちの心を打ち砕き、そうして悔い改めるようにするのです。

私は46年のあいだ牧会しながら、平坦な暮らしをしていながら悔い改める人を見たことがありません。平安で何も不足しないのに、なぜ悔い改めるでしょうか。しかし苦しみに直面したら、人たちは悔い改め、神様を切に捜し求め始めるようになります。苦しみは自分を省察する機会になり、人格的に成熟するようにさせるのです。

我が民族が今、相当な苦しみに会っています。政治的に混乱を呈しており、経済的に苦しく、私たちがどこに向かって行くのか、目標が確かでありません。夢がありません。何故でしょうか?我が民族全部に、悔い改めなさいと言うことです。その間、神様から祝福していただき、お恵みの中で別に不足を感じずに暮らして来ました。ところが、国民は神様を忘れ、人本主義に暮らし、世俗に従って世を暮らして来た罪を悔い改めるように、この苦しみを通して神様のもとに立ち返るようにとの、天からの信号であると思わなければならないのです。

私たちは心が打ち砕かれ、生きて行くことが苦しいです。民族的な悔い改めが起こり、国民的悔い改めが起こったら、神様は私たちを信仰的な面において成熟するようにしてくださいます。高慢で、自慢に満ち、軽挙妄動する人生を生きている人も、苦しみに会ったら、砕かれ、謙遜になり、自重するようになるのです。「詩篇119篇71節」に、『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』と記されているのです。

過ぎしときには神様の御言葉に耳も貸さず、教会にも出席せず、尚更メッセージには全く関心がなかった人も、苦しみに会い、砕かれたら、神様の御言葉に耳を傾けるようになるのです。神様は、驕慢な人には絶対にお恵みをほどこされません。謙遜な人にお恵みをほどこされます。お恵みは、高いところから低いところへと流れるのです。水が高いところから低いところに流れるように、私たちが腰を低くしたら、神様のお恵みが私たちに満ち溢れるようになるのです。驕慢で自ら高くなろうとする人には、神様のお恵みは臨むことができないのです。

彫刻する人をご覧ください。大きな岩の塊を持って来ておいて、その岩の塊の中に自分が作ろうとする彫刻品を夢見る如くに見つめます。第3者が見たら、自然が生んだ岩の塊に過ぎません。しかし彫刻家は、岩の中に自分が彫刻しようとする作品を見つめながら、槌とノミなどで岩を打ち割り、削ります。それを継続していったら、だんだんと美しい彫刻品が出来上がるようになります。

私たちの神様も、皆さん一人一人を見つめながら作品を作ろうと考えておられるのです。アダムとエバ以後、自然の巌のように頑なに堕落した私たちを選ばれて、キリストの形に似た作品を作ろうとなさいます。そのままにほったらかして置いては作品になりません。神様がノミを取り上げ、槌で叩かれるのです。勿論、痛いです。私たちの一部分が打ち割られ、削り取られるのですから苦しいです。しかし、これを通して私たちは成熟したクリスチャンになり、キリストの形に似た美しい神様の芸術作品になっていくのです。

ですから、苦しみは悔い改めさせてくれ、私たちを成熟させてくれる大いなる要素となるのです。それを理解し、私たちが受け入れて肯定的な態度を取れば、苦しみは私たちに立派な有益となることができるのです。





第二、苦しみは、自我が砕かれるようにします。

第2番目に、苦しみは頑なな私たちを砕かれるようにします。私たちも、自ら砕かれたらそんなに良いことはありません。砕かれて、主に従順に聞き従ったらどんなに良いでしょうか。しかし、自分の心ではそう思っても思う通りに砕かれてくれるものではありません。私たちの心を砕くのは私たちの手にあるのではなく、苦しみの手にあるのです。

苦しみが来たら自我が砕かれ、また隣人も尊い存在に見えるようになります。苦しみがなく、砕かれていない時は、高慢になって隣人たちを無視します。頑なな旦那さんは、奥さんがいくら忠告しても聞きません。聖書に、“妻は、夫にふさわしい助け手”であると言われました。神様が助け手としてくださったのです。すべてのことにおいて奥さんの忠告に耳を傾けて聞く謙遜さがあったら、その旦那さんは素晴らしい助けを受けることができるのです。

ところが高慢な人は、そんな事には耳も貸しません。「何?でしゃばったこと言うな…。聞きたくない。うるさい。」こんな調子です。隣人の忠告を聞かないとき、人は危険な立場に置かれるのです。「あ〜、僕は偉いんだ。僕は何でもすることができるんだ…。」こうして、その人は失敗と失望の道に踏み入ることになります。ヨブは、大きな試練に会ったとき、『それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。』(ヨブ記 42章 6節)と言いました。自我が砕かれたのです。

「ピリピ人への手紙 2章 3節」には、『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』と記録されています。自我が砕かれてこそ、人を自分よりもすぐれた者と思うようになるのです。

人は、砕かれ、謙遜になり、姿勢が低くなったら、「あなたの所為だ。」として責任転嫁してきた悪い習慣が変じて、「僕が悪かった。」と自認するようになります。自分の奥さんにも「おい、君。僕が悪かったよ!」奥さんも旦那さんに「私が悪かったんです!」隣人にも「私たちが悪うございました!済みません。」間違ったことを自分の所為だとして、砕かれる人には希望があります。しかし大多数の人たちが、間違いを犯し、結果が悪かったら、それらをすべて他人の所為とし、責任を転嫁します。そうしたら希望がありません。

子どもたちを育てる時に、よくあることです。父親が呼んで、「何だ、こんなことをして。駄目ではないか…?」と叱るとき、その場で「お父さん、悪うございました。」と頭を下げ、反省し、悔い改めたら問題はありません。ところが、その場では頭を下げて、ひざまずいていた子供が、部屋を出て行っては母のところへ行き、「お母さんが言いつけたんでしょ?だからお父さんが私を呼んで、叱るじゃないの…!」叱った効果がありません。父親から叱られたことを母親の所為にします。これでは、せっかく父親が叱った甲斐がありません。

道ばたで、交通事故を起こした両方の当事者たちが大声を張り上げて争い合うのをよく見かけます。両方とも、事故の原因は相手にあると主張し、今にも殴りつけるような物腰で怒鳴り合います。お互いに責任転嫁をするだけで、自分の過ちは全然認めようとしません。

主が、「ルカの福音書 6章42節」を通して言われました。『自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。』偽善者、驕慢な人は他人の間違いやしくじりだけ暴き出します。または、これも、あれも、すべてが相手の所為だと言います。

しかし、砕かれて謙遜になった人は自分の間違いやしくじりを先ず先に認め、反省し、自分の目の梁を先ず取り除けます。そうしてから、相手の目のちりを取り除けるように助けて上げるのです。ヘブルの格言に、“神様は、壊れ砕かれたものをご使用なさる”というのがあります。堅い穀物の実は、砕いて粉にしてから使用するのです。小麦も砕いて粉にしなければ、パンを作ることができません。ぶとう酒も、ぶとうを踏み砕いてから醸造します。オリーブ油も、オリーブの実を踏みにじり砕いてから得るのです。

私たちの人生も同様です。砕かれた程度によって成熟度が違ってきます。砕かれたら砕かれるほどに、成熟したクリスチャンになれます。砕かれなければ、成熟したクリスチャンにはなれません。私たちが幼かったときには、農家の庭に豆とか麦などを刈り入れてきて乾かした後に、殻竿で打ち叩きました。私もよく殻竿打ちの手伝いをしました。殻竿で打ち叩いたら、すべての穀物が藁から分離されて出てきます。打ち叩かれるときには、随分と苦しく痛いはずです。しかし殻竿で打ち叩かないと穀物と藁とを分離することができません。

私たちが人生を生きて行くとき、神様が私たちに殻竿打ちをなさるときが少なくありません。神様が、私たちを殻竿で打ち叩かれるのです。「痛いです。神様、なぜ私を打たれるのですか?痛くて、死にそうです…。」「そうしなければ、あなたたちの中から藁を取り除き、穀物を取り出すことができないからだ…。」苦しみは、間違った生き方を捨てて、主に立ち返るようにする大きな要素となります。

放蕩者の喩えをご覧ください。或る人に息子が二人ありました。弟は、父のふところの中で何一つ不足することなしに、幸福に暮らしました。天地の移り変わりとか、人生が何なのか、全く知りませんでした。それで弟が父に言いました。「お父さん、私に財産の分け前をください。」しきりに強請るので、父はその弟の分け前を分けて上げました。弟は何もかもまとめて、父の影がない遠い国に旅立って行きました。そして、そこで放蕩して湯水のようにお金を使いました。酒池肉林に溺れて暮らしました。

お金をさんざんに使うときには、英雄です。友たちも多く、美しい女性たちも彼を慕いました。しかし、お金を無限に持っているのではありません。彼はお金を使い果たしてしまいました。そして、その国に飢饉が襲いました。彼は襤褸をまとう身の上となり、食べるにも困るようになりました。はじめて彼は、飢えがいかに苦しく悲しいものか知るようになり、身を寄せるところもなくなりました。

ようやく、その国のある人のもとに身を寄せることができましたが、豚の世話をさせられました。腹が飢えてたまらなくなり、豚が食べるいなご豆で腹を満たそうともし、豚の糞の中で暮らしながら、誰からも何にも与えてもらうことができませんでした。苦しい人生でありました。苦しい中で、彼は自分を見つめ始めました。「私は飢え死にしそうだ。父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか…?」彼は、苦しみに会ってはじめて自分の過ちを悟るようになりました。

「ルカの福音書 15章18節〜20節」を見ますと、『立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。』と記録されています。苦しんでみてこそ、立ち返るのです。そうでなかったら、限りなく間違った道を駆け下りるようになるのです。

‘D.L.ムーディ牧師先生’と共に、アメリカと世界に大きなリバイバルをもたらした‘トーリー博士’という方がおります。‘トーリー博士’は聖霊運動の大家でありました。しかし彼は、青年の時に母親がしきりに「朝は早く起きなさい。聖書を読みなさい。祈りなさい。主日には教会に出席しなさい。神様の御言葉中心に暮らしなさい…。」と小言を言いました。 それが益々聞き辛くなった‘トーリー’は、或る日、決心をして、母親に言いました。「お母さん、お母さんの毎日の小言に、私はもう、耐えられません。私は家を出て行きます。お元気で過ごして下さい。」彼の母親は非常に驚きながらも、落ち着いて答えました。「そうですか。あなたに一言言っておきます。人生には苦労と苦しみが付き物です。耐えられない苦しみに会った時には、この母が、あなたのために祈っている、と言うことを覚えていてね!」その言葉を背にして、彼は家を出ました。

それから彼は、世の中のあらゆる罪に溺れました。手当たり次第に犯罪しました。淫乱、放蕩…、酒にも酔い、世俗にまみれて暮らしながら、醜悪な人間に堕落しました。心も身体も病に罹り、生活にも事欠くようになりました。それで或る日、彼は三流の安宿に泊まり、自殺を図りました。鏡に顔を映して見ました。髪の毛はぼうぼうで、髭だらけであり、憔悴しきった顔色でありました。「死のう!」と、覚悟を新たにしました。

その時、家を出る際に、母親が言ってくれた言葉を思い出しました。「耐えられない苦しみに会った時には、この母が、あなたのために祈っている、と言うことを覚えていてね!」その時の母親の言葉が、実際に耳に聞こえて来るようでありました。彼は、とめどもなく涙を流し始めました。どれぐらい泣いたか、知りません。彼は、安宿のテーブルに置かれている聖書を取り上げて、読み始めました。彼は心が悲しくなり、すべての罪を神様に告白しました。そして、家に戻ろうと決心しました。

家に戻って来た‘トーリー’は、母親に心から詫びました。母は彼と共にひざまずき、神様に感謝の祈りを捧げました。彼は神学校に入って勉強をし始め、立派な主のしもべとなり、後にはアメリカの‘D.L.ムーディー’と共に、リバイバルをもたらす聖霊の伝道者となりました。苦しみが、そのように造り直したのです。人生の苦しみが、人を主の許に立ち返るように変化させるのです。

「イザヤ書 55章 6節〜7節」に、『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』と記録されています。

私たちが、神様を呼び求め主に立ち返ったら、神様は私たちを迎え入れてくださいます。神様を求めもせず、呼びもせず、立ち返りもしない人を、神様が顧みて下さるはずがないのです。今日も神様は、私たちを待っておられます。長い間待っていてくださったのです。神様は、わたしを呼び求めよ、神に帰れ、あなたを豊かに赦してあげるから…、変化させて上げるから…、と言っておられるのです。

苦しみに会うとき、人たちははじめて神様を呼び求め、神様に立ち帰り、神様に拠り頼むようになります。苦しみは、神様に立ち帰る案内者であることを私たちは知らなければなりません。





第三、苦しみは、神様と新しい関係を結ぶようにします。

第3番目に、苦しみは、神様と新しい関係を結ぶようにしてくれます。苦しみと絶望の人に平安と希望を与えてくださる神様を、人たちは呼び求めるようになります。明るい昼間に、光りを捜し求める人はいません。しかし真っ暗い夜になったら、人たちは懐中電燈とか、ろうそくの明りでも欲しくなるのです。苦しみの暗闇が近づいて来てこそ、人たちは希望の光りを捜し求めます。苦しみに会う前には、神様を呼び求めません。しかし苦しみに会い、四面楚歌になったら、希望の光りである神様を捜し、呼び求めるようになるのです。

「ホセア書 5章15節〜 6章 1節」の御言葉を皆さん、一緒に奉読しましょう。『彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」』

ご覧ください。神様は「わたしの所に戻っていよう」と仰せられました。人たちが苦しみに会ったとき、「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」...。苦しみの暗い夜が訪れて来てこそ、希望の光りであられる神様に立ち返ろうと、人たちは神様を慕い求め始めるようになるのです。

「詩篇 91篇15節」にも、『彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。』と言われているのです。安らかで不足することがない時には、誰も神様を慕い求めません。苦しみに会い、息が絶えそうになったら、その時になってはじめて人たちは神様を捜し、呼び求めるようになるのです。

「詩篇 50篇15節」に、『苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。』と記録されています。

私たちの教会に出席している‘キム・キョンスン’姉妹さんの証しを聞いてみてください。その姉妹さんは、夫と共にイエス様を信じませんでした。お隣の聖徒さんが何度も伝道しましたが、「私たちはイエスが必要ありません。」と言って、聞き入れなかったのです。ところが、その姉妹さんの幼い息子が自転車を乗り回していましたが、道ばたでトラックと衝突しました。腕が砕けました。関節がみな台無しになりました。

驚いた父母が、息子を背負って病院に飛んで行きました。お医者から「腕の関節がみな砕かれてしまったので、人工関節をしてあげるしか、ほかに方法がありません。しかし、人工関節をしてあげたら、子供の腕が成長しません…。」と言い渡されました。これからも成長して行かなければならない息子の腕が成長しなかったら、片腕が“ちび腕”になって一生涯障害者として暮らさなければなりません。

母親は涙声で、一生懸命にお医者に頼みました。「何とか、人工関節はせずに、自然に直るように治療してください…。」病院では、結果をみながら治療して行く方針を決めて、先ず入院させました。4ヶ月が経ちました。子供の腕はだんだんと固まっていき、直る気配が見えません。母親は歯がゆく、胸が苦しくなって、病院の隅の方にいって座り込み、祈りだしました。「神様!罪があるなら、それは私に罪があるのです。幼い息子に何の罪があるでしょうか?私の罪を赦してくださり、息子の腕を早く直してください…。」

ちょうどその時、私たちの教会の聖徒さんが一人そこを通りかかりながら、廊下の隅にすわって一人で何か祈っている彼女をみました。クリスチャンは心が通じるところがあります。近寄って行って肩を叩きながら言いました。「イエス様を信じますか…?」すると、彼女が答えました。「いえ、信じません。」「それなら、何で祈っているのですか?」「どうしたら良いか、全く知りませんので、神様に一度祈ってみているのです。」「そんな…、イエス様も信じない、神様も信じない人が祈ったって、御答えが得られますか…?」

その日の午後遅く、その聖徒さんは自分の区域の区域長と一緒に、彼女の息子が入院している病室に行きました。息子さんの砕かれた腕に手を置いて、熱心に祈り、冷たくしたタオルで湿布して上げたところ、全く動かなかった手が動き出したと言います。それを見た患者の母親が驚いて、「神様は居られますよね…?」と言ってその場で砕かれ、涙で悔い改めてから、息子を退院させて家にそのまま連れ帰りました。

彼女の旦那さんと全家族がみな砕かれ、悔い改めて、主に向かって祈り、区域長と区域会員たちがその家に集まって2ヶ月間祈ったところ、事故で砕かれて使えなかった腕がきれいに直ってしまいました。神様の栄光が現れたのです。

事故に会った息子の母親が、このように告白しました。「今になって考えてみたら、子供が自転車を乗り回してトラックにぶつかり、腕の関節が砕けたことがどんなに有り難いか知れません。そんなことがあったお陰で、今私たちの家族はみなイエス様を信じて救われ、天国に行けるようになりました。苦しみに会ったことがかえって祝福でしたの!」苦しみが、神様を捜し求める機会となるのであったら、それが大きな祝福でなくてなんでしょうか。

大多数の聖徒さんたちが神様を捜し求めるようになったのは、大小の苦しみを通るようになり、そしてそれを通して神様に会うようになったからのです。平安で苦しいことがなく、いつでもお腹いっぱいに食べられる時は、誰もが神様は必要がないと思います。そんな人たちは中々神様を捜し求めません。しかし、風浪が近づいて来て苦難に会うようになったら、安逸に座っていられなくなるので、神様を捜し求め、イエス様を救い主として受け入れ、神様と正しい関係を結ぶようになるのです。

苦難が私たちを謙遜になるようにし、柔和な人にし、神様に従順に聞き従うようにするのです。苦難に会う前には自分が最高だと思い、神を信じずに自分の拳を信ぜよと威張り、何事にも自分の知識と知恵と聡明と青春を自慢しますが、苦しみに会い、砕かれるようになったら、そんなものはすべて吹っ飛んで行ってしまうのです。

「ヘブル人への手紙 5章 8節〜10節」に、『キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。』と記録されています。

人が新しい人に変化される熔鉱炉が、まさに苦しみです。熔鉱炉に入って行ったら、金も銀も不純物もすべて溶けてしまいます。そうしてから不純物をみな取り除き、純粋な金、銀を得ることができるのです。私たちの主は、苦しみの火を通して私たちから不純物を取り除かれるのです。苦しみによって私たちが砕かれ、溶かれるとき、私たちのすべての不純物を取り除き、キリストの形に似るようにしてくださるのです。

「ローマ人への手紙 5章 3節〜4節」に、『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』と言われているのです。





第四、苦しみは、祝福の器を作る過程です。

第4番目に、苦しみは、祝福の器を作る過程です。皆さん、私たちは今朝も、ご飯、お汁、おかずなどと、色々様々な器にそれらを盛って食事をしました。器なしには食膳を準備することができません。私たちの人生と器は分離して考えることができないのです。昔の言葉に、「乞食も器を持っていてこそ、食べ物を分けて貰える」と言うのがあります。乞食をするにも、器を差し出さなければならないのです。

神様が、私たちを祝福してくださるために、先ず器を準備させてくださいます。その器は、私たち人間が器なのです。神様がご覧になる時、人間が祝福をいただくことができる器になっていてこそ、祝福してくださるのです。それで神様は、イスラエルの民たちを乳と蜜の流れるカナンの地に導かれるとき、荒野を通らせたのです。苦しみを通して器を準備させるためでありました。イスラエルの民たちが40年間、苦難を通して器を準備するようになさってから乳と蜜の流れる地に入らせたのです。

「申命記 8章 3節」に、『それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』と記録されています。また「申命記 8章16節」には、『あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』とも記録されています。

何年か前に、米国のABC放送が‘エリザベツ・マレン’という少女に関する報道を大きくしました。この少女は家もなく、道ばたをさまよう乞食少女でありましたが、その少女が、米国最高と言われる“ハーバード大学校”に優等で入学合格したのです。元来、彼女は麻薬中毒者である父母から生まれ、15年間も家なき子として道ばたとか空いた倉庫の片隅で寝ました。父母は、その少女が物乞いして貰ってきた外套までも脱がして麻薬を買うほどに深刻な中毒者たちでありました。

この少女は、10歳になった時から道ばたで物乞いしてお金を貰ってきては父母を養わなければなりませんでした。そうするうちに父親は死亡し、相次いで母親がエイズで死ぬや、少女は「自分は、父母のようには生きない。社会に貢献する人物になる。」と決心をして、色々と努力した結果、公立高等学校に入学しました。公立高等学校は授業料がないので、道ばたで露宿しながら学校に通いました。

家どころか寝場所もなく、まして勉強部屋があるはずがありません。しかし彼女は、こっそりとあちこちの会社の外側にある階段とか、地下鉄の階段などに小さく座って勉強し、雨に襲われたことも1〜2度ではありませんでした。ところが猛烈に勉強したお陰で、彼女は同級生たちより何倍も授業進度が速く、それで彼女は公立高等学校を卒業しながらニューヨーク・タイムズが与える奨学金を貰い、有名なハーバード大学校に入学することができました。彼女のこのような事情が新聞に報道されるや、米国各地から奨学金としてお金が送られてきました。それが現金20万ドルにも及びました。

一方、彼女は父母を恨むとか、自分の環境を嘆いたりは絶対にしませんでした。或る日彼女は、成功の秘訣を質問する人たちに次のように答えました。「私の過去の苦しみは、今日の私があるようにしてくれた滋養分となってくれました。私の父母が貧しかったので、私は道ばたで凄い苦境の中を生きてきました。私はいつも、決してこれ以上の苦しみには会わない、と覚悟をし、その苦境を克服しながら生きてきました。そして心にいつも、‘成功して見せる’との夢と希望を抱いて生き抜いてきました。ですから私に、もしも苦しく悲しい過去がなかったら、他の人たちのように世俗に酔った、安易な生き方をしたと思います。貧しく、苦しかった過去が、私は有り難いのです。」

皆さん、苦難に会った人たちの中には意外と成功した方たちが多いです。私たちの社会でも見ますと、美味しいものをたらふく食べる、立派で高価な服を着ている、何一つ不足しない豪奢な家庭で育った子どもたちは、生の挑戦に揉まれていないので、苦しみを克服するといった徹底した覚悟ができていません。

しかし、飢えと貧乏で苦しみに会った若い人たちが目に光を点して、その苦難を克服しようと熱心に勉強し、熱心に働き、努力して立派な指導者になった人たちを、私たちはいくらでも見ることができます。苦しみは、私たちに神様の祝福を受けることができる器を準備してくれるのです。必ずしも苦しみが悪いと言うべきではありません。苦しみを理解し、消化したら、大きな祝福となるのです。

ある大学教授が、学生たちにこのような質問をしました。「皆さん、或る男性がおりますが、彼はアルコール中毒者で、酔っ払いでありました。家にある家財道具を売り飛ばしてはお酒を飲み、その次には、お金を借りてこないと言っては、肺病で、しかも出産直前の奥さんを容赦なく殴りつけました。この奥さんが、何をどうしたら良いでしょうか?」学生の一人が立ち上がって、言いました。「先生、私だったら先ず、孕んでいる子供を堕胎させます。」

するとその教授が、声を出して笑いながら言いました。「あなたは今、ベートーヴェンを堕胎させましたよ。」世界的音楽家ベートーヴェンの父親は、大酒飲みで、毎日飲んでは酔っ払う癖がありました。ある物ない物全部酒代で費やし、家財道具もみな売り飛ばしては酒を飲み、肺病患者で、しかも出産間際の自分の奥さんを、酒を飲んで家に帰って来てはいつも殴りつけました。ところが、その奥さんから生まれた息子がベートーヴェンでありました。

ベートーヴェンは11歳の時から、劇場を訪ね回りながら物乞いをし、音楽を勉強しました。しかも30歳の時には、生命にも等しい貴重な聴覚をも失ってしまいました。彼は生活が貧しく、人生が孤独で苦しかったので、これを克服しようとして無数に覚悟を新たにし、決心を繰り返しながら音楽を勉強し、努力して、ついに彼は不朽の偉大な作曲家になりました。後日、彼は自分の人生を顧みながら、こう言いました。「苦しみを通り過ごしてから、はじめて喜びを発見しました。」と。

信仰を通して彼は苦しみの意味を発見し、これを美しい音楽に昇華させたのです。ベートーヴェンの音楽を聞いてみますと、強い主題を持っていながらも、大部分終わりでは歓喜の音楽に転じます。苦しみの中で神様に会い、その感激を音楽を通して昇華させた彼の人生を素晴らしく表現しているのです。栄光というのは皆さん、苦しみを通らないことには近づいて来ません。凄い苦しみが美しい栄光を産みだすのです。

イエス様が十字架に釘付けになられ、身を裂き血を流されたことは、どんなに大きな苦しみであったでしょうか。キリストがその苦しみを通して、何を私たちに与えてくださったでしょう。赦しと義と平安の栄光を与えてくださいました。聖と聖霊充満の栄光を与えてくださいました。癒しと健康の栄光を与えてくださいました。アブラハムへの祝福とすべてに幸いを得る栄光を与えてくださいました。復活と永生と天国の栄光を与えて下さったのです。キリストの十字架の苦しみがないことには、美しい栄光を私たちに与えてくださることができなかったのです。

苦しみは実に、栄光を生みだす母となるのです。「コリント人への手紙 第二 4章16節〜18節」の御言葉を、皆さん、声を出して一緒に奉読しましょう。『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』

私たちの今の時の軽い患難は、測り知れない、重い永遠の栄光を私たちにもたらすと言われました。軽い患難が重い栄光をもらす母となるのです。苦しみなしには、栄光はありません。偶然に栄光が近づいて来たと言います。それは嘘です。ですから、私たちに苦しみが近づいて来たら、私たちに栄光も近づいて来ることを期待しなければならないのです。

「ローマ人への手紙 8章17節〜18節」に、『もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』と記録されています。

今の時の小さな色々な苦しみが、凄く大きい栄光を、将来私たちの人生のなかにもたらすと言われたのです。英国のジョン・プランクリンは探検隊の隊長でありました。隊員たちを引率して北極探検に行きました。そこがどんなに寒いところなのか、燃料にするつもりで持参したアルコールまでもが凍ってしまいました。零下70度だったのです。その上に凍った雪の中を歩かなければなりません。骨が折れるので隊員たちが疲れきり、「隊長さん、ちょっと眠らせてください。」と懇願しました。

しかし、プランクリンは良く知っていました。寒い所で寝たら、必ず死にます。「絶対に寝ちゃいかん。」と命令しました。すると今度は、「それなら、天幕の中に入って少しだけ休むようにしてください。」と言うので、止む無くそうするように許可しました。ところが、時間が経っても隊員たちが天幕の中から出てきません。天幕の中に入って見ました。みんなが正体もなく眠りこけていました。

寒い所で眠りに落ちたら、麻薬に中毒されたのと同じ現象が起こります。脳の中に寒波が入っていって、異常なほどに気分が良くなります。体が柔軟になり、雲の中に浮かんでいるような、凄く快い状態になります。それで、それらに酔って眠りに落ち、凍え死んでしまうようになるのです。プランクリン隊長がいくら起こそうとしても、一人も目を醒まして起きてくれません。仕方がないので、プランクリン隊長が手当たり次第に殴り、蹴り、踏み躙りつけました。鼻から鼻血を流し、目が膨れ上がり、腕に負傷をし、痛くてたまらなくなってから一人、二人…、眠りから覚めて起き上がりだしました。

その隊員たちをみな叩き起こしてから、やっと北極探検を終えて無事に英国に帰還することが出来たと言います。私たちがよく、この探検隊員たちのように世の眠りにこけ落ちるのです。主を信ずる人たちまでもが、主を待ち通すことができずに肉の欲、目の欲、この世の自慢、どん欲に溺れて正体もなく眠りこけます。この世の眠りに落ちたら霊的に死んでしまい、地獄に落ちるようになってしまいます。

それで神様が、私たちの目を醒まさせて起こそうとなさいます。ところが、優しくしてはほとんどが目を醒ましません。「起きなさい。主の日が近づいたよ。あなたの天国に行く日が近づいて来たよ。起き上がって祈りなさい。」この世の眠りに酔ってアヘン中毒者のようになり、誰も目を覚まして起き上がろうとしません。そんな状態なので、神様が容赦なく殴りつけ、蹴り飛ばし、踏みつけられるのです。そうしてくださってこそ、人たちは眠りから目を醒まして起き上がるのです。

大きな風浪に見舞われてから、人たちはこの世との絆を断ち切ります。風浪に見舞われなかったら、人たちはこの世に酔って眠りこけてしまうのです。主が、天国に連れて行かれるがために、こんにち、眠りこけている人たちを苦しみに会わせ、色々な傷を負わせながら、目を醒ますようになさるのです。

私たちは、環境と運命にぶつかる苦しみを避けることができません。しかし、その苦しみに対処する態度は誰もが自分で左右することができます。苦しみに会うとき、不平、不満、反撥、挫折、失望などしたら、その人は大きな傷を負い、破滅されるようになることもあります。しかし、苦しみを肯定的に受け入れ、その中で悔い改め、砕かれて、神様の御前にもっと従順に聞き従い、明日に対する希望と夢を失わなかったら、苦しみは驚くほどに私たちを助けてくれる大きな祝福に変化されるのです。苦しみを理解し、肯定的に受け入れる皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します。

ペスタロッチは、「私を高い叡智に導いてくれたのは、宝石とか楽しみではなく、苦しみと涙であった。」と言いました。トルストイは、「苦しみは、生理的や精神的に人間に必ず必要な条件である。」と語りました。イギリスの俗諺に、「静かな海は、決して老練な海軍を育てることはできない。」と言うのがあります。ゲーテは、「苦しみに会う度ごとに、それがまことの人間になって行く過程であることを記憶しなければならない。」と言いました。

ブラウニン・ウェイアー牧師は、「最悪の環境は、私たちの人生に新しい意味を与えようとする神様のもっとも有り難いお恵みであることがある。」と話しました。J.B.ピリップスは、「人間の逆境は、神様が与えてくださる機会である。」と説破しました。孟子は、「天が或る人に大きいことを任せようとするときには、必ず、その前に彼の心を苦しませる。」と語りました。

神様が、皆さんに天国を与えてくださるために、苦しみの過程を通るようになさるのです。平凡な塊が、地の中で数千度の熱と高い気圧を受けたら、それがダイヤモンドになるのです。天国には、12の真珠の門を通って入ると言われます。それがなぜ、黄金でもなく、ダイヤモンドでもなく、真珠の門でしょうか。真珠は、ハマグリの舌の下に異物質が入っていって、それがハマグリを苦しませるのでハマグリがしきりに液体をだしてそれを包み、また包み…繰り返して包むうちに玲瓏な真珠になるのです。真珠は苦しみを通して作られるものです。

天国に入って行く門は、真珠の門です。この世で苦しみを通してダイヤモンドのようになり、真珠のようになった人が入って行くところが正に天国なのです。神様は必ず、先ず苦しみを通るようにした後に神様の栄光に参与するようにしてくださるのです。

ですから、皆さんが色々な苦難に会うようになる時、「奇怪な目に遭う」などと考えないでください。苦難が襲ってきたら、イエス・キリストの御名によって神様に拠り頼み、肯定的に受け入れ、苦難の中で希望と夢を失うことなく、感謝し、克服していけば、その苦難が皆さんを、金、銀、宝石、ダイヤモンド、真珠のようにしてくれるのです。





お祈り

聖く、栄光であられる、我が父なる神様!

私たちは、火花が上に飛ぶのと同じく、苦しみの為に生まれました。しかし苦しみを否定的に対処し、怨み、不平を言い、嘆息し、挫折し、絶望したら、私たちは苦しみに踏み躙られ、さんざんに敗北してしまいます。

しかし、私たちに襲ってくる苦しみをキリスト・イエス様のうちにあって、神様のお恵みにより、私たちが肯定的に受け入れ、苦しみを通して砕かれて悔い改め、変化されて、もっと神様に拠り頼む機会とすることができるようになったら、私たちは栄光のダイヤモンド、真珠のように変化されて、天の御国に入って行くことができる真理を今日、悟りました。

愛であられ、全知全能であられる、我が天のお父さま!

苦しみを避けることはできませんが、苦しみを否定的に対処するか、肯定的に対処するかは、私たちの意志によるのだと言われました。キリストにあってどのような苦しみも肯定的に受け入れ、神様のお恵みにより、いつもそれらを克服することができるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!