教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「なぜ感謝しなければならないか」
 






■聖書箇所

「詩篇 50篇22節〜23節」
50:22 神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。

50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。





今日、収穫感謝祭を迎えて、『私はなぜ、感謝しなければならないか?』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

感謝は、神様に栄光をお返しし、感謝したことにより神様が喜ばれて、私たちの祈りに御答えを与えてくださいます。それで私たちは、神様に感謝する生活をしなければなりません。神様に感謝する時、私たちの心は肯定的になり、感謝する時、心が嬉しく、幸福にひたるようになります。不幸であったら、心が悲しくなり、益々不幸になるのです。

神様は、主を信じる者はすべてにおいて感謝しなさい、と言われました。自分の有益となり、良い時に感謝することは、誰もができることです。勿論、有益になっても感謝しない人が少なくはありません。しかし自分に損害が及び、苦しく、悲しい時に感謝することは、まことに勇気があり、能力があるクリスチャンです。

殉教者‘ソン・ヤンウオン’牧師さまは、麗順反乱事件の時に、師範学校と中学に通っていた二人の息子が学校で伝道したということから、共産党の友人によって銃殺されました。‘ソン’牧師は二人の息子のお葬式に参加して涙を流しながら、神様に感謝を捧げました。人間的に考えるとき、至極不幸な事件であったのにも拘わらず、彼は次のように感謝しました。「第1に、息子たちをアメリカに留学させようとしましたが、もっと素晴らしい天国に連れて行ってくださったので感謝します。第2には、息子一人が殉教しても有り難いことですのに、息子二人をみな殉教の供え物として捧げることができる栄光を賜ってくださった神様に感謝します...。」

本当に、感謝することができない立場でありましたが、涙を流しながら彼は神様に感謝を捧げました。そして、二人の息子を殺した青年を、後日養子として迎え入れ、牧師となるように後をみてあげました。私たちは生きていきながら、感謝すべきことを捜したらいくらでも感謝すべきことを見つけ出すことができます。一方、怨み、不平すべきことを捜したら、又いくらでもそんなことを捜し出すことができます。

今日、私たちはなぜ、神様に感謝しなければならないかを調べてみようと思います。

‘カールビン’は、「信仰の薄いあるクリスチャンは、危急なときに神様に祈る。しかし、その危急から救い出された後には、感謝することをしない。それは偽善者であるからなのだ。」と説破しました。スペインの劇作家で、“ドン・キホーテ”を書いた‘セルバンテス’は、「人間が犯すもっとも大きな罪は、感謝することを知らない罪である。地獄は恩知らずの群れで溢れている。」と言いました。

日本の有名な神学者・内村鑑三さんは、「いくら理解心が豊かで、熱心に抜群の行動をしたとしても、神様に向かって熱い感謝を捧げない人には、命がある信仰生活は不可能だ。」と言いました。‘アイジャック・ワットン’は、「神様には二つの居所がある。一つは天国であり、もう一つは神様を愛し、感謝する人の心の中である。」と言ったのです。

なぜ、私たちは神様に感謝しなければならないのでしょうか?





第一、イエス様を信じて、救いを受けたことに感謝すべきです。

第1番目に、イエス様を信じるようにしてくださったことを、先ず感謝しなければなりません。「マタイの福音書 16章26節」に、『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』と記録されています。

人がいくら、富貴、栄華、功名を享受するといっても、それは一時的なものに過ぎません。歳月は流れ、時は過ぎていき、この世の終わりが近づいて来るのです。自分の一生の終末が近づいてくるとき、富貴、栄華、功名を享受しことは過去のことであり、何も残るものがありません。夢の中でご馳走にありつけたとしても、目が醒めたら相変わらず腹が空いているのと同じことです。イエス様を受け入れずに世の中の富貴、栄華、功名を享受することは、もっと大きな空しさに陥ってしまうことです。

米国の‘ハワード・ヒューズ’は、映画製作会社、放送局、航空会社、ホテル、カジノ等々、50個に及ぶ事業体を持った、凄い富豪でありました。若い時には、ハリウッドの映画俳優たちとの数多い艶聞を振りまきもしましたが、彼は45歳の時から対人忌避症にかかって、人たちと対面することなく独りで過ごしました。家にも‘無菌室’を作って置いて、病菌が恐ろしくてその中で暮らし、食事に毒が入っているかも、と恐れてチキン・スープだけで済ましました。

床屋がもしも剃刀や鋏みで自分に害を及ぼすかも知らない、という恐怖心から髪の手入れもせず、それで彼の髪の毛は女性の髪の毛のように長く、伸ばし放題であり、手足の爪も鷹のそれのように長かったと言います。彼は系列会社の社長たちとも面談をしないで、電話かマイクで用事を済ませるほどでありました。彼は遂に栄養失調になり、後には飛行機出張中に死にましたが、彼が残した言葉は有名です。「Nothing! Nothing! Nothing!」即ち、「空であり、空であり、空である!」と言ってから死にました。大富豪でありましたが、彼は何一つ手に持って行ったものもなく、彼は嘆きながら真っ暗な地獄に向かって落ち込んで行ってしまいました。

ノーベル賞を受賞した‘アーネスト・ヘミングウェイ’も62歳で死ぬまで、彼は空しい人生を生きて来たと言いました。彼は富貴、栄華、功名、名誉…、すべてを手にしていました。結婚も何回かしました。しかし彼は、最後に「フィラメントが切れた電球みたいに、空虚である。」との遺書を残してから、猟銃で自分の頭を撃って自殺しました。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得があるでしょうか。富貴、栄華、功名が自分の命を救ってくれるものではありません。空虚なだけです。

しかし、私たちがいつも感謝しなければならないことは、たとえ世の中の富貴、栄華、功名は持っていないとしても、もっとも貴重な‘命’を持っているのですから感謝しなければならないのです。「信じる者はみな、人の子にあって永遠の命を持つ。」「御子を信じない者は、すでにさばかれている。」と言われました。私たちは、神様の御子を信じる信仰によって救いを受けたのです。そのことを私たちは限りなく感謝しなければならないのです。

また私たちは、福音を聞くことができる時代に生れたことを感謝しなければなりません。皆さん、昔生まれた人たちは、イエス・キリストの福音を聞いたなら救われたでしょうが、彼等には福音が伝えられなかったので、信じることができずに死んで、地獄に落ちた人が多いです。私たちは福音を聞くことができる時代に生まれました。「ローマ人への手紙 10章17節」に、『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』とあります。

「ペテロの手紙 第一 1章20節〜21節」にも、『キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。』と記録されています。

私たちが、福音を聞くことができる世の中に生まれたことがどんなに有り難いか、知れません。我が国でも最初に福音が伝播された頃、当時の人たちは“イエスを信じる”という理由から甚だしい迫害を受けました。1784年、‘リ・ソンフン’と言う人が北京で洗礼を受けた時から、信仰の自由が認められた1886年までの約100年の間、我が国でイエス様を信じて殉教した人が無慮10,000名に達します。

また、日本の植民地であった36年間、イエス様を信じることがいかに難しかったかを私たちは体験しました。日本の植民地であった時には、「神社参拝をしない」と言うことで牧師、長老、聖徒さんたちがいかに迫害され、まては検挙され、ついには何人が殉教したか知れません。また6・25韓国戦争の時には、クリスチャンであると言う理由だけで、同族である北朝鮮の共産党員たちから銃剣で殺され、教会は彼らの放火で焼かれ、たくさんの教会の指導者たちが死にました。

こんにち、私たちは本当に平安の中でイエス様を信じ、声高く神様を賛美し、ついには天国に行くことができる時代を生きているのですから、感謝せずにはいられません。私たちがその迫害の時代に生まれて生きているのであったら、信じずにはいられないし、信じるとしたら言うに言えない迫害と苦しみに会っているはずです。平安の中で自由にイエス様を信じ、天国に行くことができることを、私たちは神様に感謝しなければならないのです。

そして韓国のように、自由に信仰生活をすることができる国に住んでいるのですから、感謝しなければなりません。「詩篇 33篇12節」に、『幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。』と記録されています。こんにち、自由の空も、自由の地もない、そのようなところでイエス様を信じようとして、表現できない苦しみに会っている人たちがいかに多いことか知れません。

私たちの国・大韓民国は、信仰の自由が保障されているので、どこででも自由に礼拝を捧げることができ、自由に教会を建てることができ、伝道することができるので、本当に素晴らしく良い国に私たちは住んでいるのです。たとえ国民たちが今、政治的に混乱しており、経済的に難しく、社会的に無秩序なので不平、恨みを言っていますが、しかし我が国は自由国家なのです。私たちは祖国を愛し、神様に感謝しなければなりません。

国際オープンドアー宣教会が、2004年1月に発表した「宗教の自由迫害国家」の順位を見ますと、北朝鮮は最悪のキリスト教迫害国家として連続2年間、不動の1位を占めています。彼らは‘ピョンヤン’(平壌)に展示用教会を2つ建てていますが、まことのクリスチャンは発見されたら即時に投獄されるか、処刑されてしまいます。それで現在、北朝鮮には40万人のクリスチャンがいると推定されていますが、この人たちは皆地下に隠れて密かに神様に礼拝を捧げ、或いは韓国から放送している‘極東放送局’の福音に人知れずに耳を傾けているのです。イエス様を信じるためには命を賭けなければならないのです。

それに比して、私たちはいかに自由で立派な国に住んでいるか分かりません。全世界的に約2億のクリスチャンたちが、キリストを信ずるという理由だけで甚だしい迫害に会っており、約4億ほどの信者たちは相当な処罰を受けています。迫害国家2位の‘サウジアラビア’の場合を見ますと、国教である‘回教’を捨ててキリストを信じるようになったら、即時に死刑に処すると言われています。そして外国人も、神様に礼拝を捧げる姿が見つかったら強制追放されます。

しかし我が国では、いくらでも自由に礼拝を捧げ、賛美し、伝道することができます。私たちは大韓民国に生まれて、自由に信仰生活をすることができることを当然のことのように思ってはなりません。神様のそのお恵みに心から感謝し、国家民族のためにもっと熱心に祈らなければならないのです。

また私たちが感謝しなければならないことは、立派な教会があることに感謝しなければなりません。「エペソ人への手紙 1章23節」に、『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』と言われました。教会は、イエス・キリストの御体です。ここに来て私たちは、霊的糧食を食べるのです。自分の家があるということは、どんなに嬉しいことか知れません。自分の家があるから家族たちが集まって暮らし、あたたかく美味しい食事をすることができますから、どんなに幸いか知れません。

教会は霊的家であり、霊的糧食を供給していただくところです。私は世界色々な国に行って福音を宣べ伝えますので、度々体験することですが、何処の都市に行っても、韓国の食堂を発見したら凄く幸福を感じます。私は昼も夜もその食堂に行って食事をします。よく食べたら健康を維持することもできますが、何よりも情熱的にメッセージを立派に述べることができるのです。韓国の食堂を見つけることができなかったら、私はその都市をはやく離れたくなります。よく食べることができなかったら、凄く骨が折れるのです。

人がよい環境の中で、立派なものを食べることができるということは素晴らしく嬉しいことです。霊的に、自分の気に入る教会を見つけ、自分が満足する霊的糧食を食べることができるクリスチャンになるということは、素晴らしい祝福であることを知らなければなりません。

最近、一つの教会にずーっと馴染むことができないので、あちこち移り回る信者が少なくありません。2003年‘教会成長研究所’が発表したところによりますと、我が国の改新教信者の76.5%が教会を移した経験があり、また他の統計によりますと、クリスチャン6名のうち1名が教会に登録せずに、毎週この教会からあの教会にと転々しながら信仰生活をしている、と言うのです。もっと驚かす統計は、キリスト教以外の信者のうちの58.4%が、過去にはキリストス教を信じていたが気に入らないので改宗したと告白したと言うのです。

また、今は信仰生活をしていないが、過去には信仰生活をしたと言う人たちのうちの73%が、クリスチャンであったと言うのです。このように、数多くのクリスチャンたちが良い教会を見つけることができなかったので堕落したのです。言い換えれば、約1,000万名以上の人たちが、教会に適応することができないので転々し、信仰をなげうつとか、或いは他の宗教に改宗したのです。

従って、私たちが気に合う良い教会、霊的糧食を供給して貰える教会を見つけて通っていると言うことは、凄く感謝しなければならないことです。そこで天国に行くまで神様に仕え、神様のお恵みの御言葉を聞くことができるのですから、私たちはとても幸福なのです。





第二、神様の恵みによって、自分を探し当てたことに感謝すべきです。

第2番目に、私たちが感謝しなければならにことは、神様のお恵みによって、自分を探し当てたのですから感謝しなければなりません。イエス様を信じる前には、私たちは自分を失った人たちでありました。正体不明の人たちだったのです。「あなたは、誰ですか?」「知りません。」「どこから来たのですか?」「分かりません。」「なぜ、生きていますか?」「知りません。」「どこに行かれるのですか?」「死んだらそれまでです。分かりません。」自分自身の正体が不明だったのです。

私たちが正体不明の人、道を失った人、自分を知らない人として生きたので、心に安定がなく、平安がなく、生きる意味と価値を知ることができませんでした。しかし、私たちがイエス様を信じてからは正体性が確立されて、失った自分を発見することができるようになったのです。「ヨハネの福音書 1章13節」に、『この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。』と記録されています。

イエス様を信じることによって、「あなたは、誰ですか?」「神様の子です。」「どこから来たのですか?」「罪の中に溺れていたのですが、イエス様を信じて救われました。」「なぜ、生きていますか?」「神様に仕え、神様に栄光をお帰しするために生きています。」「どこに行かれますか?」「天国に行きます。」このように、確かに自分を発見して正体性を確立することができたのですから、私たちは、本当に心から神様に感謝しなければならないのです。

数多くの人々が退職後に、差し出す名刺がなくて自己喪失感を味わうと言います。退職した後には、人たちに会っても自分が誰であるかを紹介する名刺を差し出すことができません。社会では、相手の名刺を見て、「あ〜、この人はどこの会社の誰々なのだ。」「あ、この人は大きな会社の部長さんだ。」と知るようになって、初対面でも待遇するようになります。しかし、退職したら自分を紹介する名刺がないので、正体性を喪失するようになります。この世の中に居場所がなくて、空中を舞いまわる人になるのです。

亜洲大学の心理学科教授である‘キム・ヨンジン’博士は、この喪失感に関して次のように説明しました。「人たちのプライドは、自分の能力によるものではなく、ある職場や分野に所属されることによって自然に発生する場合が多い。これが正に後光の効果である。ところが職場を辞めたら位相が違ってくる。名刺を差し出す必要があるのでもなく、どこか行かなければならないところがあるのでもなく、会社の前の飲み屋で‘つけ’で飲む立場でもなくなった時などに、人たちは喪失感に捕らわれる。」と。

2002年5月号の月刊‘朝鮮’に、財閥系列会社の代表取締役であった人が退職した後、インタビューした内容が載っています。記者が「退職後、もっとも直接的にぶつかる問題が何でしたでしょうか?」と質問しました。すると、彼は次のように答えたと言います。「人に会ったら当然のこと、名刺を差し出したのですが、それができなくなったことです。当惑せざるを得ません。習慣的に、自分を紹介するつもりでポケットの名刺を取り出そうとするのですが、名刺がありません。そうなんだ。僕は会社を辞めたんだ…、と思い知るや、疎外された心情、見捨てられたんだと思われる虚無感に囚われてしまいます…。」

人が自己喪失におちいると言うことは、言うに言えない苦痛です。それで、主婦たちが40代以後に彷徨するのは、若かったときは旦那に仕え、子供たちを育てることに追われて忙しく立ち回ったのですが、出世した旦那は社会の仕事に忙しく、子供たちはみな大きくなって見てあげる必要がなくなり、すると時間が余って自然と孤独を感じるようになります。そうした時に喪失感に囚われるのです。「何だ、あたしは。今まで夫に仕え、子供たちのために犠牲しながら生きていきたのに。もう夫は夫なりに離れて行き、子供たたちは大きくなったとして母を見返りもせず、今のあたしは一体、何なのだ…?」自問するようになり、深い喪失感に落ち込むようになります。これは警戒しなければならないことです。

しかし、私たちが主を信じるようになったら、キリストの十字架の血潮の贖いにより新しい被造物となった自分を発見するようになります。それで、正体性喪失の危機に瀕することがありません。「私は誰か?私はイエス様の十字架を通して罪が赦され、義の人となり、神様の栄光と平安をいただき、神様から愛されている人だ!」「私は誰か?私は罪と悪魔から解放され、聖くなり、聖霊充満な人だ!」「私は誰か?イエス様の打ち傷によって癒しを受け、霊肉共に健康な人だ!」「私は誰か?キリストが私への呪いを担われ、呪いと貧乏から解放されて、アブラハムへの祝福とすべてに幸いを得ている人だ!」「私は誰か?イエス様が死と陰府(黄泉)を撤廃され、私のためによみがえられたことによって、私は復活と永生と天国をいただいた人なのだ!」私たちは、自分の確かな住所を持っているのです。

皆さん、私は軍隊にいた時、夜、寝ている時に上級者が来て足で私の脇腹を蹴りました。私は驚いて飛び起きました。すると「お前は、誰か?」と訊きます。その時、「私はチョー・ヨンギです。」と答えたら、直ちに一発食らわれてしまいます。「はいっ、10822398です!」と、自分の認識票に刻まれている‘軍人番号’をはっきりと言わなければなりません。当時昼夜区別なくこの番号を叫んだので、70代に近くなった今もこの番号を私は忘れません。これが、私の当時の現住所だったのです。私たちクリスチャンは、「貴方は誰か?」と訊かれたら、即座に、「私は十字架を通して赦された義人です。私は聖霊を受けた人です。癒された人です。アブラハムへの祝福をいただいた人です。永生と祝福をいただいた人です…。」と、自分の正体をはっきりと言えるようにならなければなりません。

「コリント人への手紙 第二 5章17節」に、『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と記録されています。新しく造られた者とされた自分の正体を知るようになったのですから、私たちは神様に感謝しなければならないのです。

また、私たちが人生を肯定的、積極的、創造的に生きて行くことができるのは、神様が「良き神様である」ことを悟ったからなのです。神様が恐ろしい神様、審かれる神様、鞭で打つ神様であるとだけ知っているのであったら、私たちは縮みこんで、否定的な人間になったかも知れません。神様がいかに有り難く、良き神様でしょうか。神様は、御子を与えられたほどに世を愛されました。神様は、最後まで忍耐され、私たちを救ってくださる神様なのです。

私たちはアダムの子孫として、3大災いの中で暮らしました。罪と魂の死、呪いと貧乏、肉体の疾病と死と永遠なる滅亡...、このような3大災いの中で苦しみながら生きている私たちを、御子イエス様を遣わされて十字架で死なれるようにし、その血潮を通して私たちの罪を赦され、永遠の命を与えてくださり、呪いを撤廃され、アブラハムへの祝福を与えてくださり、復活を通して永遠の天国に行けるように、三重の祝福を私たちに与えてくださったのです。たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康であるようにしてくださったのです。

こんにち、私たちは五重の福音の衣を着ており、その上に三重の祝福のオーバーコードを着こなして、堂々とこの世を生きて行くことができるようになったのですから、どんなに神様に感謝すべきか知りません。このようなことに因って、私たちは神様に感謝しなければならないのです。

また、私たちは神様のお恵みにより、信仰によって人生を生きています。イエス様が「マタイの福音書 11章28節」を通して、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と仰せられました。自分が疲れ、重荷を負っているとき、誰かにそれらを代わりに負わせることができたら、どんなに良いでしょうか。代わりに担ってくれる人がいなくて、自分がそのまま背負って行くとしたら、それは大変な苦労です。

ところが私たちは、人生の重荷をすべて委ねることができるのです。イエス様が、「あなたがたは皆、わたしのところに来なさい。わたしが、あなたがたの重荷を負ってあげ、わたしが、あなたがたに代わって働いてあげましょう。」と仰せられたのです。従って、私たちは負っている重荷をイエス様に委ね、私たちの苦しいことをイエス様に託して、主のふところの中で休むことができる人生になったのですから、心から神様に感謝しなければならないのです。

皆さん、私たちが‘ハンカン’(漢江)を自分の力で渡ることはできません。しかし、主の背に負われたら、主が私たちを背に負って‘ハンカン’を渡って行かれるのです。コビ砂漠とかサハラ砂漠を、私たちは通って行くことができません。人生はこれらの砂漠を通るようなきつく、辛いものです。しかし私たちが主に抱かれたら、主は私たちを抱いて、これら砂漠のような人生を通って行くことができるようにしてくださるのです。

「詩篇 23篇 1節」に、『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』と言われ、また、「申命記 1章31節」には、『荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。』と記録されています。

皆さん、主に拠り頼んだら、どんな川も、どんな人生の砂漠も、主が私たちを抱いて渡ってくださるのですから、主のお恵みに私たちは感謝しなければなりません。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物が来て攻撃しても、私たちは恐れません。主が私たちを保護して下さるからです。このように力ある主に拠り頼んで、祈り、お恵みに与る私たちは、神様に感謝せざるを得ないのです。

「詩篇 37篇 5節」に、『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』と記録されています。また「詩篇 55篇22節」には、『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』と記録されています。「ペテロの手紙 第一 5章 7節」にも、『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』と記録されているのです。

人生の道を、重荷を、思い煩いを、“委ねる”ことができると言うことは、どんなに有り難いことか知りません。誰にも自分の事情を明かすことができず、自分の重荷を委ねることができないとしたら、その人は侘しく、孤独で、見捨てられた人生だと思うようになり、悲しくなります。人生には、いかに疲れとか重荷とかが多いことか知りません。

しかし、聖書に記録されているのです。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ書33章3節)神様は、皆さんと私の為に何をどうして上げたら良いか、ご存知なのです。神様は、私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を、私たちに告げ知らしてくださる、と言われたのです。ですから、主に祈り、すべての重荷を主にお委ねして生きて行くことができると言う事を、私たちは感謝しなければならないのです。





第三、永遠なる天国への希望を与えてくださったことに感謝すべきです。

第3番目に、私たちは、永遠なる天国への希望を与えてくださった神様に感謝しなければなりません。神様は、私たちを悪魔の権勢の下から解放させてくださいました。「コロサイ人への手紙 1章13節」に、『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。』と記録されているのです。

イエス様を信じるとき、神様は、私たちを悪魔の暗やみの圧制から救い出してくださり、愛する御子・イエス様のご支配の中に移してくださいました。自由と解放を与えてくださり、律法の束縛から解放させてくださったのです。律法の審きによっては、神様の前に立つことができる人間は一人もいません。

ところが、イエス様が私たちのすべての罪を担われ、律法の審きに会われて、十字架の上で身を裂き血を流して、その律法の要求をすべて満たして上げたので、イエス様にあって律法は撤廃されてしまったのです。主にあって律法の審きと罪に定められることから解放を得、今からは自由に主に礼拝を捧げ、賛美しながら、天国に行くことができるようになったのですから、私たちは神様に感謝しなければならないのです。

「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」に、『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記録されています。

私たちは律法から解放されました。律法の罪の定めと死から解放されたのです。罪を犯したのにも拘わらず、醜悪であるのにも拘わらず、捨てられて然るべきであるのにも拘わらず、律法は私たちを死なせようとするのですが、イエス様は「わたしがすべてを負う。わたしにあってあなたは赦されました。」と言われるのです。イエス様によって神様の前に立つことができるようになったのですから、私たちは神様に感謝しなければならないのです。

或る教会で、聖徒さんたちに証しをするように勧めました。ところが、司会者が相当に律法的な人でありました。良いこと、善を行なわなければ神様の前に行くことはできない、と言いました。聖徒さんの一人が立ち上がって証しをしました。「私はイエス様を信じて、血潮によって罪を赦していただきました。そして義の人となり、神様の栄光によって新しく生まれ、聖霊さまの証印を押していただいて忠誠を尽くしており、神様の子となってからは毎日が楽しく、嬉しく、平安の中で暮らしております。礼拝の時間にはいつも涙が流れます。神様がただただ有り難いのです…。」と言って彼は座りました。

すると、律法的な司会者が、その聖徒さんに訊きました。「聖徒さん、もう一度言ってみてください。あなたがそのような恵みを受けるために、何か良いことを行なったからではありませんか?善を行なったので、神様がそのような恵みを施されたのではありませんか…?」それを聞いて、その聖徒さんが立ち上がって答えました。「イエス様を信じる前までは、私はあらゆる悪いことはみなしました。私には罪を犯したこと以外にはしたことがありません。ところが主は、慈しみと憐れみで無条件に私を赦してくださり、色々とお恵みを施してくださいました。」

皆さん、「イザヤ書 64章 6節」を見ますと、『私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。』と記録されています。私たちの義を、神様は認めてくださいません。不潔な着物のようだ、と言われています。

「ローマ人への手紙 3章27節」に、『それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。』と記録されています。罪人であっても、男女、老幼、貧富、貴賎を問わずに、イエス様を信じたら罪を赦され、義と認められるのです。イエス様が十字架の上で身を裂かれ血を流されてから、「完了した。」と言われました。完了したのですから、足す事も引く事もできません。主がすべて完了させたのですから、私たちは苦労する事なしにただで、お恵みにより、信仰によって救いを受けるのです。

「エペソ人への手紙 2章 8節〜9節」に、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』と記録されています。私たちが救われたのは、私たち自分自身から出たのではありません。救いは、私たちの‘良い行い’によって得たのはないのです。神様からの賜物なのです。

従って、救いは立派な人も賜物として受けることができ、そうでない人も賜物とした受けることができます。男女、老幼、貧富、貴賎を問わずにただで賜物として受けるのであって、お金を払うとか、行いによって受けることができるものではありません。ただ、イエス様を信じたら、賜物として救いを受けるようになるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」と聖書に記録されています。人たちが行いの業績によって天の御国に行くことができるとしたら、天の御国に行ける人は一人もいません。天の御国に行ける道は、ただ一つの道しかありません。主を信じて救われてから、私たちはその道に行くことができるのです。信仰により、神様のお恵みによって代価なしに赦しを受け、義と認められて、天の御国に行けるようになったことを思うとき、私たちは神様に感謝せずにはいられないのです。

そして、私たちの信仰の最後の希望は天国です。「ヨハネの福音書 14章 1節〜3節」に、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と記録されています。

私たちがこの世を去るとき主が傍に来られて、私たちを連れて行く、と言われました。主が黄金の馬車を持って来られて、私たちが肉の幕屋を離れるときに、私たちの手をとって天国に導いてくださる、と言われたのですから、それこそ安心です。そうでなく、広漠とした死の道に自分一人で踏み入るとしたら、その真っ暗やみの挫折と絶望の道を私たちが一人で行くことはできません。イエス様なしに死を迎えるという事は、表現することができない恐ろしい災難です。しかし、イエス様を信じる人たちには、死と黄泉の鍵を握っておられ、死と黄泉に勝たれたイエス様が来られて、連れて行ってくださるのです。

「ペテロの手紙 第一 1章 3節〜4節」に、『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。』と記録されています。

 また「ヨハネの黙示録 21章 3節〜4節」には、『そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』と記録されているのです。

 或る牧師先生が、主日のメッセージを終えた後、「来週の主日には、天国に関するメッセージを述べさせていただきます。」と、披露しました。ところがその週の半ば頃に、牧師先生はその教会の会員であるひとりの老聖徒さんから手紙を貰いました。

「牧師先生、私は55年前に、何の代価も払わずに天国にある土地を得ました。しかしその土地を私に下さった方は、身を裂き血を流して物凄く高い代価を払われました。その上に、その方は素晴らしい建築家なので、私に見目麗しい家を建ててくださいました。その家は、改造とか修理が必要ない永遠の家です。火災や洪水を心配しなくてもいいのです。また、そこには盗人がいませんので、門に鍵をかけなくても構いません。そして私の家ですから、家賃を払えないということで追い出される心配もありません。私が住んでいるここと天国の間には、元々死と言う深い、暗やみの谷がありましたが、はるかな昔にその方が暗やみをすべて追い出して、復活の光で明るくしてくださいました。牧師先生、私は天国に対することを思ったら、どんなに感謝したくなるか知れません。私がこの手紙を書くのは、私があまりにも老衰していて、今度の主日に天国に関するメッセージを聞く前に、この世を去って行きそうです。もしも、牧師先生がメッセージをなさる時に私が居ないかも知りませんが、天国でまたお会い出来ることを楽しみにしています。」

死を目の前にして、数多くの人たちが恐怖と混乱に陥ります。しかし、まことの信仰の人はかえって喜び、感謝します。それは、イエス様が死からよみがえられ、その死の道を案内してくださるために私たちの傍に近寄って来てくださる筈ですので、恐れる必要がないからです。イエス様の死は私の死、イエス様の復活は私の復活、イエス様の天国は私の天国なのです。私たちはキリストと共に死に、キリストと共によみがえりました。キリストと共に天国に座らせていただけるお恵みをいただいたのですから、私たちはいつも神様に感謝しなければならないのです。

私たち個人個人が、神様に感謝すべきことがどんなに多いことか知れませんが、クリスチャンとして、共通的に感謝しなければならない事柄を考えてみました。感謝はすればするほど神様と親近になり、恨みと不平はすればするほど神様からは遠ざかり、悪魔と親近になるようにするのです。感謝は、したらするほどもっと感謝すべきことが生じるものです。

私は、ドイツの財務大臣であった‘マルチン・バデーヌ’の話を読んで、大いなる感動を受けました。彼は元来、自由主義思想の人でありました。若かったとき執権勢力であった極保守派から去勢されて、凄く苦しんだこともあります。ある日、地方を旅行したとき、ポケットが貧しいので安宿に泊まりました。朝起きたところ、盗人が来て靴を盗んで行ってしまいました。彼は怒りに徹してその盗人を呪いまくりました。

その次には、神様まで恨みました。「神様はなぜ、こんなにまで無関心なのですか。貧しい私の靴を盗んで行くのをなぜ、黙って見過ごされたんですか…。」自分のミスで靴を盗まれたのに、神様に責任転嫁をしながら神様まで恨みました。ちょうどその日は主日でありました。頭のいただきまで怒りに燃えている‘マルチン’をなだめながら、宿屋の主人が「そんなに怒らずに、教会に一緒に行きましょうよ。」と誘いました。

彼は、「何を履いて、行くんですか?この雪の中を裸足で歩けと言うんですか…?」それで宿屋の主人が、倉庫から朽ちた靴を一足持ち出してきて、「これでも履きなさって、行きましょうや!」その誘いが振り切れずに、自分の足には大きい朽ちた靴を履いて一緒に教会に行きました。席を取って座り、何気なく横の人を見ました。その横の人は、両足がない障害者でありました。

その障害者は、横に人が来て座ってもお構いなしに、声を出して祈っていました。「主である神様、私を顧みてくださり、お恵みをほどこしてくださって有り難うございます。この索漠とした世の中で、希望を持って生きて行くことができるようにしてくださって、あまりにも感謝です。足がないのにも、このように主日には教会に来て、礼拝を捧げるようにしてくださって感謝です。また、足がないものですから、靴を買わなくても済むようにしてくださって、あまりにも感謝です…。」

その祈りの声が、‘マルチン’の胸に熱くぶつかって来ました。彼は顔が真っ赤に火照ってくるのを感じました。「この人は、両足がないのにも、こんなに神様に感謝しているのだ。自分は立派な両足を持っていながら、神様に感謝すことはおろか、かえって古ぼけた靴を盗まれたことから、盗人を呪い、神様を恨んだのだ。恥ずかしい…!」彼はその場でひざまずき、神様に悔い改めの祈りを捧げました。

「神様!私に両足が完全であるようにお恵みをほどこしてくださって、有り難うございます。横の人は両足がないのにも、神様に感謝しています。私には両足があるのですから、彼より以上に感謝します。靴を盗まれたことにも感謝します。朽ちかけている古靴を余りにも長らく履いているので、新しい靴に履き替えなさいとして、古靴をなくさせてくださって、有り難うございます。靴がなくなりましたから、新しい靴を与えてくださることと信じます。感謝します…!」

その日以後、‘マルチンはすべてに対して神様に感謝する生活を始めました。そうするや彼の人生がだんだんと変化され、遂にはドイツの財務大臣になり、国家に貢献しながら、国民からは尊敬される政治家になることができました。靴を盗まれたことに感謝したのですが、彼の生涯が変化してしまったのです。皆さん、小さい事でも感謝する生活をしたら、私たちの人生は積極的、肯定的進取的な人生に変化されるのです。一方、神様が与えてくださったお恵みに感謝せず、恨み、不平し、嘆いたら、持っているものまでも失ってしまいます。

イギリスの有名な牧師先生であった‘スポールゾーン’は、「神様は、ろうそくの明りを見て感謝したら、電燈の明りをくださり、電燈の明りに感謝したら、月の明りを与えてくださり、月の明りを見て感謝したら、太陽の光を与えてくださる。また太陽を見て感謝したら、ろうそくも電燈も月も太陽も必要がない、天国を与えてくださる!」と言いました。私たちが、ろうそくの明りに不平を呟いたら、すべてを失ってしまいます。

太陽の光の下で神様に感謝しなかったら、私たちは何を持って感謝することができるでしょうか。イエス様を信じるようになったことを、私たちは先ず感謝しなければなりません。失った自我を探し当てたのですから、感謝しなければなりません。そして私たちの人生に天国への希望を持たしてくださったことに、私たちは感謝しなければならないのです。

イエス様を信じる人は、信じない人に比べて根本的に感謝することができる理由があります。この土台の上に立って、良いことは良いから感謝し、良くないことはすべてを働かせて良いことにしてくださる筈ですか感謝しなければなりません。現在の環境を見つめて不平せずに、私たちと共に居られる神様に拠り頼んで、感謝する人たちになってください。

私の荷を負われ、私の代わりに働いてくださる神様が、両手をいっぱいに広げて、「さ、わたしの背に負われなさい。川を渡してあげましょう。わたしに抱かれなさい。わたしが砂漠を通り過ぎるようにしてあげましょう。」と言われる、その有り難い主と共に暮らしているのですから、私たちは夜昼なく、神様に感謝しなければならないのです。何事にも、神様に感謝する皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願致します。





お祈り

全知全能で、愛であられる、わが父なる神様!

率直に申し上げて、私たちは不平を呟きながら生きて参りました。自分にあるものを見て感謝せずに、自分にないものばかり見ながら、いつも不平を呟き、恨み、嘆いたことを悔い改めます。

聖き、わが天のお父さま!

‘マルチン’のように、靴を失ってしまったことをかえって感謝したら、愛であられ、聖く、全知全能であられる神様が、もっと立派な靴を与えてくださった筈です。失ってしまったことに不平を言わず、もっと立派なものをあたえてくださることを期待しながら、神様にいつも感謝する私たちとなるように、助けてください。

持っていないことに不平せず、持っているもので神様に感謝する私たちとなるように導いてください。

イエス様の御名によって、感謝し、お祈り申し上げます。アーメン!