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「疑いと恐れはいつも生じる」
 






■聖書箇所

「ヨシュア記 1章 5節〜9節」
1: 5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1: 6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1: 7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1: 8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
1: 9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。




私は今日、皆さんたちと一緒に、『疑いと恐れはいつも生じる』という題目で、御言葉を分かち合いたいと思います。

ある戦場で、将軍が二人の兵士を呼び出しました。そして「二人は、敵陣に深く入って行って、敵情を偵察して来い!」と命令しました。二人のうち、一人は背が高く頑丈な体格で、勇敢で大胆な兵士でありました。彼は将軍の命令を聞いて、少しも恐れる気色がありませんでした。ところがもう一人の兵士は、体格が矮小で顔色は蒼白であり、命令を聞くや、ぶるぶる震え出しました。それを見た大勢の兵士たちが、笑いました。

二人は、色々な障碍を乗り越え、危険を突破しながら、敵情を偵察して無事に戻って来ました。背が高く頑丈な体格の兵士は、落ち着いた態度で、自分が偵察して来た敵情を将軍に報告しました。ところが体格が矮小で顔色の蒼白な兵士は、その時までも全身ぶるぶる震えながら、たどたどしくやっとの事で情報を報告しました。その場にいた将兵たちがみな笑いました。

偵察報告を受けた将軍は、ぶるぶる震えている矮小な体格の兵士に近づいて行って、彼の背中を叩いて上げながら、「お前は、本当に立派な軍人だ。なぜなら、お前は先天的に弱く、恐がりやで、虚弱な体質であるにも拘わらず、指揮官の命令に絶対服従して、危険を冒しながら偵察の任務を全うしたからだ...。」と、褒めたと言う記事を読んだことがあります。

皆さん、イエス様の生涯を扱った本“イエス、地下鉄に乗る”を書いた日本の小説家‘遠藤周作’氏は、「信仰とは本来、99%の疑いと1%の希望である。」と言いました。少なからず誇張された表現だとも言えますが、事実です。信仰とは、多くの疑いの中で小さな希望の光をもつことです。「私は、全然疑わずに信じます。」と言う人がいますが、それは真実ではありません。信仰とは、いつも疑いながら、しかし小さな希望の灯火が光り輝くものです。

金を採鉱するところへ行ってみますと、大小様々な石塊が凄くいっぱいごろごろしています。その中の小さい金塊を見つけ出すために山を崩し、掘り下げているのです。同じく、疑いながらも信仰を守り通そうとして私たちが熱心に信仰生活を継続する時、私たちの王様であられるイエス様が私たちの背中を叩いてくださりながら、「疑いながらも、良くぞ、信仰を守っている。偉い!」と、ほめてくださるのです。




第一、信仰の祖先アブラハムも疑い、恐れた。

私たちの信仰の祖先アブラハムも、私たち同様に疑い、恐れた人でありました。‘アブラハム’と言えば、私たちは彼をとても偉大な信仰の人であり、立派な人だとほめたたえます。しかし、実際に彼の生涯を深く覗いて見たら、信仰が弱く、虚弱で、多くの恐れにおののきながら暮らした人であることを知ることができます。

彼は75歳の時に、神様から召され、生まれ故郷、父の家を出て、神様が示されるカナンの地に行きました。そこに行ったら神様の祝福が満ち溢れるに違いないと、凄い期待を抱いて行きました。ところが、これがどうしたことでしょう。ようやく到着しましたが、そこは飲む水もなく、草もなく、すべてが枯れており、激しい大飢饉の地でありました。連れて来た羊の群れも牛の群れも飢え死にし、ついて来た人々は全部逃げ去り、全く途方にくれてしまいました。

それで、アブラハムの心は信仰から遠ざかり始めました。神様が、カナンの地に行ったらあなたを祝福しよう。あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される...と言われたのですが、全く信じることができなくなったのです。アブラハムは自分の生存のために、手段方法を講じなければならなくなりました。

アブラハムは、目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞えず、手には触れるものが何もなくても、最後まで、「主よ!死のうが、生きようが、栄えようが、滅ぼうが、私は、主だけを信じて、カナンの地にこのまま留まります...!」といった信仰の勇士ではありませんでした。彼は環境を見つめて、神様の約束の御言葉に疑いを持ち、生きていくことに恐怖をおぼえてしまいました。それで、生きていくために食べ物を探し求めて、あたふたとエジプトに下って行きました。神様は、彼にエジプトに下って行きなさい、と言われた事がなかったのです。

そしてアブラハムは、嘘まででっち上げました。『彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」』(創世記12:11〜13)そうして彼らは、兄弟姉妹の間柄のように振舞いました。

神様に対する、彼の偉大な信仰をみせてくれそうなものですが、アブラハムは凄く弱々しい信仰の持ち主でありました。神様の約束を信じずに疑い、不安と恐怖に恐れおののきながら、エジプトに下って行った彼は、人としては本当に耐えられない恥辱と数々の試練に会いました。しかし、そこで悔い改め、自分の罪を告白し、悶え苦しむアブラハムを憐れに思われた神様は、彼を助けてくださり、再びカナンの地に帰ってくることができるようにしてくださいました。

アブラハムが、カナンの地に戻って来て10年が経ちました。彼の年が85歳になったのです。ところが、彼には跡取の息子がありませんでした。それで、アブラハムは神様にそのことで熱心に祈りました。

ある日の夜、神様がアブラハムを外に連れ出されて、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と仰せられました。アブラハムは、感激しました。そして、主の御言葉を信じた、と聖書に記録されています。

ところが、家に帰って来たアブラハムに、妻のサラが言いました。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」(創世記16:2)これを聞いて、アブラハムの信仰は荒れる海の波のように揺れ動きだしました。サラの女奴隷ハガルは、きれいで、健康で、若い女性でありました。アブラハムは、神様の「あなたの子孫は、空の星のように数え切れないほどになる。」と仰せられた約束の御言葉を忘れて、ハガルを娶りました。そして、イシュマエルを産みました。

その時、アブラハムが神様の約束の御言葉を信じ通して、イシュマエルを産むことがなかったら、こんにち、中東地域に悲惨で血なまぐさい戦争は起こらなかったはずです。アメリカとイラクの戦争も起こらなかったでしょう。その時、アブラハムの不信仰によって蒔かれた種が、こんにち、数多い悲劇と殺傷を刈り取るようにしたのです。

皆さん、アブラハムが偉大な信仰の勇士のように見えますが、実際には、彼は柔弱で疑い深く、最後まで神様を信じる信仰心がしごく薄い人でありました。そうであるのにも拘わらず、彼がいつも素早く悔い改めて神様の御許に立ち返り、小さな火種のような信仰心を持っていて、それに縋り付いていたので、神様がそれらを通してアブラハムが勝利を収めるようにしてくださり、後には信仰の祖先となるように祝福してくださったのです。

信仰が揺れ動く時、御言葉に縋り付かなければなりません。私たちが信じ、拠り頼むことができるのは、神様の御言葉しかないのです。もの凄い風が吹く時、力強い柱に取り縋らなければ吹っ飛ばされてしまいます。私たちは、信仰が揺れ動き、迷いで前途が見えない時、御言葉に取り縋らなければならないのです。

‘リチャード・バムブラント’牧師は1948年、ルーマニアが共産化する時、共産党に逮捕されて10年以上も監獄に閉じ込められ、ひどい苦しみに会いました。数年間は、地下の暗いところに入れられて日の光を見ることもできませんでした。しかし‘バムブラント’牧師は、監獄の中で聖書を数百回も読みながら慰めと勇気を得たと言いました。

しかし一方では、彼の心の中に「果たして、神様は生きておられるのだろうか。神様は、私をどうしてこのように捨て置かれるのだろうか。私は福音を証しする主のしもべであるのに、なぜ私を共産党の手に渡したのだろうか。神様は、こんなにも力がないお方なのだろうか...?」と、言うに言えない信仰に対する疑いと、不安と、恐怖で、何日間も寝られなかった時もあると語りました。

それでも、彼は聖書を読み続けたと言いました。そうする内に、聖書に「恐れるな。」という言葉が365回も記録されている事実を発見しました。彼は、これを1年365日間、毎日毎日、「恐れないで、生きて行きなさい。」という神様の御言葉であると受け入れました。そして、その信仰の通りに彼は最後まで神様に拠り頼み、後日解放されて自由を得、アメリカに渡って行って立派な信仰の証人となりました。

御言葉を読み、いつもそれを口ずさみ、神様を信じる人は、どのような環境の中にいても、疑いと恐怖に打ち勝つことのできる力を得ることができるのです。疑いと恐怖と言う冷たい吹雪が降り荒れる時、この吹雪から守ってくださり、からだを温かくして雪を溶かしてくれることができる力は、御言葉しかありません。他には、そうしてくれることのできるものが全くないのです。それで、御言葉は絶対に重要なのです。

‘ジョン・バニャン’が書いた“天路暦程”を見ますと、天国に行く巡礼者・クリスチャンが、「疑いの城」に閉じ込められる場面が記録されています。天国に行く途中、疑いと言う大きな城にクリスチャンが閉じ込められてしまいました。そこの城主は‘絶望’という巨人でありました。その城主がクリスチャンをさんざんに叩きのめしてから、城の裏庭に連れて行き、先に死んでいった人たちの骸骨を見せながら、絶望を植え付けました。「この野郎。お前は“疑いの城”に入って来たんだから、もう絶望だ。生きてここを出て行くことはできないんだ!」

その夜、暗い地下牢の中で、クリスチャンは神様に熱く祈りました。そうして、あくる日の朝、彼は大声で叫びました。「そうなんだ!私には“神様の約束の鍵”があったのだ。この鍵は、‘疑いの城’の中のすべての門を開ける事ができるのだ...!」そして、クリスチャンは神様の約束の鍵を、地下牢の門扉の錠に差し込みました。錠が簡単に外れ落ちました。クリスチャンは「疑いの城」の幾重もの門を次々と開いて外に出ました。そして、天国への巡礼の道に進んで行くことができた、という内容が記録されています。

皆さん、私たちもこの“天路歴程”に出てくる巡礼者のように、天国に行く途中、数々の「疑いの城」に入っていき、絶望と言う巨人に叩きのめされ、信仰が散々に裂き千切られる体験をするようになります。しかし、「疑いの城」を脱出することができるのは、“神様の約束の鍵”があるからなのです。神様の約束の御言葉を思い起こし、約束に従って祈ったら、私たちも「疑いの城」のすべての門を開いて飛び出ることができるのです。

ですから、私たちが信仰を捨てず、失わずに耐え抜くことができるのは、神様の約束の御言葉を信じるからなのです。普通の時は、神様の御言葉が大したものではないように思われます。ところが、私たちが苦しく、真っ暗い艱難に落ち込んだ時には、神様の約束の御言葉だけが疑いと恐れを克服することができる唯一の手段となり、力となるのです。




第二、疑い、恐れたイエス様の弟子たち

イエス様の弟子であったということで、疑わず、恐れなかったのではありません。イエス様の弟子たちも疑いと恐れで震えおののきました。特に、兄弟子格であるペテロをご覧ください。ある日、イエス様が荒野で奇跡を行われ、数万名を腹いっぱい食べさせてから、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベッサイダに行きなさい、と言われました。

弟子たちが舟に乗って湖を渡って行きました。夜中の三時ごろ、まっくらい中で向かい風が吹き、海が荒れました。弟子たちは舟を漕ぐのにひどく骨が折れました。そこへイエス様が水の上を歩いて近づいて来られました。高い波、低い波を踏み、水の上を上下しながらイエス様が近づいて来られるのを見て、弟子たちは、それが幽霊であると勘違いしました。船乗りたちには、海で幽霊に出会ったら舟が転覆すると言うジンクスがあります。「幽霊だーっ!。」と叫び声をあげて、弟子たちは恐怖におびえてしまいました。

その時、イエス様が「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と、弟子たちに話しかけられました。それを聞いて、ペテロが勇敢に答えて言いました。「主よ。あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、と命じてください。」主が、「来なさい。」と言われました。ほかの弟子たちはおびえて、小さくなっていました。ペテロは立ち上がり、舟から出て、イエス様を見つめ、「来なさい。」と言われた御言葉に拠り頼んで、水の上を歩いてイエス様の方に行きました。

そこへ風が吹きつけました。波が高く荒れました。ペテロは、イエス様を見つめていた目を荒波に移しました。風が強く彼に吹き当たりました。ペテロは瞬間、恐くなりました。するや、ペテロは沈みかけてしまいました。「主よ。助けてください。」ペテロは、我を忘れて叫びました。そこでイエス様は、手を伸ばしてペテロを掴み上げられました。そして、言われました。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか?』(マタイの福音書14:31)

ペテロがチョット前には、主を見つめ、主の御言葉を信じ、御言葉に拠り頼んで水の上を歩いて行きました。ところが、イエス様から目をそらして風と波を見つめるや、疑いと恐れが入って来て、水に溺れたのです。湖の水が変化したのではありません。ペテロの心が変化したのです。主を見つめ、主の御言葉の上に堅固に立っていたのですが、目をそらして風と波を見つめ、現実を見つめるや、疑いと恐れが彼の心に入って来たので、彼は水の中に沈みかけてしまったのです。

私は、ある印度の宣教師が記録した証しを読んで、大いにお恵みに満たされたことがあります。或る日、彼は伝道のために山の中を通って行きました。ところが深い山の中で、彼はニシキヘビの襲撃を受け、転がって蛇に巻かれてしまいました。ニシキヘビは凄く力が強いので、大きな動物も巻き殺されて呑み込まれます。大変なことになりました。この宣教師は、何とか蛇から抜け出そうと足掻き、もがきましたが、蛇の力がだんだんと増し加わってきました。

その時、ひょっと「イザヤ書 30章15節」の御言葉が思い浮かんだと言います。『「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」』それで即時、彼はもがく事をやめて、じっと動かずに、ただ主の御言葉を黙想しながら、蛇の気配をうかがいました。暫くして、その蛇が巻いていた彼を放して草むらの向こうへ行ってしまったと言います。

九死に一生を得た思いで助かった宣教師が、そこの住民に聞いて見たところ、その種のニシキヘビは死んだ動物は絶対に食わないと言うのでありました。巻き込んで、最後まで暴れるものは巻き殺すと言うのです。ところが、死んで、動かない動物は呑み込まないと言うことでありました。もしも、この宣教師が蛇から抜け出そうと継続してもがいたなら、その蛇に巻き殺されて、蛇の餌食になってしまったでしょう。「静かにすれば、あなたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、力を得る。」と言われた神様の御言葉が思い浮かんで、彼が落ち着いて、静かにしていたところ、彼が死んだと思って蛇が彼を放してくれたのです。

こんにち、私たちの信仰生活にあっても、同様です。難しい目に会った時、私たちが不安、恐怖、絶望でもがき、自暴自棄になって足掻いたら、悪魔に呑み込まれます。しかし、主の許に立ち返って静かにし、落ち着いて、主の御言葉に拠り頼んだら、主が必ず、勝利を与えて下さるのです。

ベッサイダの荒野でのピリポとアンデレを見ても、二人が皆、偉大な信仰の勇士たちではなかったのです。イエス様が荒野に出られて、男だけで5千名、婦女子を合わせて何万名かの群集が来て、御言葉を聞き、病の癒しを受けました。夕暮れになって、みんながひもじくなりました。イエス様がピリポを呼ばれて、群集に何か食べ物を与えなさいと言われました。その時、ピリポはイエス様の御言葉を受けはしましたが、環境を見渡して、彼は疑い、恐れました。「主よ。ここは荒野です。パンを売るところもなく、お金もありません。この群集を食べさせることはできません。」ピリポは、当初から疑いと恐れで放棄してしまいました。

同じ弟子であるアンデレは、疑いながらも、一方イエス様を信じ、信じながらも、疑いました。それで、アンデレは疑いながらも、少年が大麦のパン五つと小さい魚二匹とを持っているのを見て、主に報告しました。『弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」』(ヨハネの福音書6:8)

アンデレには、パン五つと魚二匹では何の用にもたたないと思ったのです。しかし、当初から放棄してしまったピリポを主がご使用なさることはできませんでしたが、それでも、疑いながらも信仰を放棄せずに聞き従ったアンデレをご使用して、男だけで5千人、男女老幼合わせたら何万名にも及ぶ群集を皆食べさせ、12のかごにいっぱいの余りを残す奇跡を、主はほどこされました。主の御言葉に取り縋って、身悶えしながら祈り求める人を、主は見捨てられないのです。

或る日、中国の宣教師であった‘ハドソン・テイラー’が、ロンドンの宣教本部から「もう、これからは宣教費を送ることができなくなりました。従い、宣教事業を中断して帰国なさるよう、お伝え致します。」という内容の手紙を受け取りました。それで、一人の力ではどうにもならないので、早速荷物をまとめて上海に出ました。その夜、旅館に泊まった‘ハドソン・テイラー’は、向後の事など、色々と悩ましいので神様に祈りを捧げながら、お導きを請い願いました。

夜中に、突然、2箇所の聖書の御言葉が思い浮かびました。最初の御言葉は、「サムエル記 第一」に出てくる“エベン・エゼル”、即ち「ここまで、主が助けてくださったのだ。あなたの力で宣教したのか。今まで神様が助けてくださったので、中国の奥地で福音を宣べ伝えたのではないか...。」次の御言葉は、“アドナイ・イルエ”、「神様は最初からご存知なので、備えてくださるのだ。遠い将来まで見渡しながら、生きていくことができる道を備えてくださる神様ではないか...。」

‘ハドソン・テイラー’は眠れないまま、夜通し二つの御言葉を口ずさみ、色々と噛みしめました。そうして、「そうなんだ!今まで助けてくださった神様は、これからも助けてくださるはずだ。また、すべてを予めご存知の神様は、ロンドンの宣教本部が助けてくれなくても、継続宣教することができるように備えてくださるはずなんだ...。」‘ハドソン・テイラー’は夜が明けるや、荷物を担いで中国の奥地に帰って行きました。

それから‘ハドソン・テイラー’宣教師は、“信仰宣教会”という宣教会を組織して、信仰で祈り、熱心に広く宣教した結果、中国が共産化される前に、深くキリストの福音が中国一帯に根を下ろすようになりました。それで、中国が共産化された後、キリスト教が地下に潜み、ついには完全に消え去ったと思われたのですが、中国政治がある程度自由を寛容するようになってから確かめて見ましたところ、‘ハドソン・テイラー’が蒔いた福音の種が数千万の中国人クリスチャンを育んだ事実を発見することができました。

この偉大な勝利は、‘ハドソン・テイラー’が信仰の試練の中で疑いながらも信じ、従順に聞き従ったのでそのような結果が生まれたのです。信仰とは、霊的戦いです。戦いでは死にもし、殺しもします。ボクシング試合をご覧ください。相手を打ち叩いて鼻血を流させ、自分も打ち叩かれて目が裂かれ、血を流すようになります。選手が傷もなく、きれいな顔でリングを降りてくることはできません。信仰とは、悪魔から叩かれることもあり、悪魔を打ち叩くこともあるのです。悪魔は疑いと恐れで打ち叩き、また私たちは信仰で反撃する、そのような戦いなのです。

私が西大門教会(ヨイドに移転する前の教会)で牧会する時、ある大学の学生さんが“金曜徹夜礼拝”に、祈って貰うために出席しました。彼は田舎から上京して来た貧しい大学生でありましたが、ひどい胃潰瘍ですごく苦しんでいました。病院に行って治療を十分に受けることもできず、薬も思うままに買って服用することができず、もう死ぬしかない立場でありました。メッセージが終わり、病人のための祈りの時間に私が祈りました。

すると、その大学生が「信じます!」と言って立ち上がりました。ところが次の瞬間、「先生、本当に直るでしょうか...?」と聞くのでありました。私は今も、その学生の半信半疑な表情を忘れることができません。立ち上がって、「今日、私の病気が直ったことを信じます!」と言ったのは、彼のまことの願いであり、告白であったのです。しかし、次の瞬間、「牧師先生、本当に直るでしょうか?」と言ったのも真実な彼の告白であったのです。

信じながらも疑い、疑いながらも信じる...、これが私たち人間の信仰体験なのです。自分の口で「信じます!」と告白しながらも、不信仰がその中に共に存在し、「本当に直るでしょうか?」と疑いながらも、信仰が心の中から消え去りません。それで、信仰と不信仰は互いにもつれ合いながら絶え間なく闘争するのです。

聖書「ヤコブへの手紙 1章 6節」に、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。』と記録されています。「ヘブル人への手紙 11章 6節」には、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記録されているのです。

どうしたら疑わず、神様を心から信じることが出来るでしょうか?絶え間なく疑いと恐れと不安が攻撃してきます。どのようにしたら、断固とした信仰を持つことができるでしょうか?皆さん、神様は、モーセが世を去った後、イスラエルの民たちを率いてカナンの地に入って行かなければならない後継者ヨシュアに、断固とした信仰を持つことができる方法を教えてくださました。

「ヨシュア記 1章 5節〜9節」の御言葉です。『1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』

ここに、ヨシュアが疑いと恐れを克服して信仰で勝つことができる道を、神様が教えてくださいました。それが第1に、御言葉をいつも口ずさみなさい、ということです。律法とは即ち、御言葉のことです。「創世記」から「ヨハネの黙示録」までの御言葉を律法とも言うのです。この御言葉をいつも憶えていて、口ずさみ、御言葉を心の中に刻み込みなさい、ということです。なぜなら、暴風雨が荒れまくり、津波が襲ってきても、御言葉という揺り動かされない柱に抱きついていたら、吹き飛ばされず、押し流されないからです。

御言葉から手を離したら、吹き飛ばされるか、押し流されますから、神様がヨシュアに言われたのです。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。」と。「詩篇119篇92節」には、『もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。』と記録されています。御言葉に取り縋り、希望を持っていたので、苦しみの中でも滅ぼされなかった、と言うのです。

「エレミヤ書 23章29節」に、『預言者たちに対して。・・私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の聖なることばのために。』と記録されています。「エペソ人への手紙 6章17節」には、『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』と記録されているのです。

第2次世界大戦当時、連合軍総司令官であり、戦争を勝利に導いた‘ドワイト・D・アイゼンハワー’は素晴らしい人でありました。彼の父母は、‘ドワイト・ムーディー’牧師先生のメッセージに感銘を受け、息子‘アイゼンハワー’を生んだ時、‘ドワイト・ムーディー’牧師先生の名前を取って‘ドワイト・アイゼンハワー’と名前を付けました。このような信仰の家庭で成長した彼は、神様がいつも共に居てくださることを堅く信じました。戦場でも、その信仰をもって神様に拠り頼んだ結果、暴虐な独裁者‘ヒットラー’と‘ムッソリニー’に勝ち、ヨーロッパを解放させたのです。

当時‘アイゼンハワー’は、いつも自分の事務室の壁に貼りつけていた聖書の御言葉がありました。また彼の手帳にも記録しておいた聖書の御言葉があって、いつもそれを見つめては読み、手帳を開いては口ずさみました。それは「ゼカリヤ書 4章 6節」の御言葉です。『「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」』

‘アイゼンハワー’は、戦争が「権力によらず、能力によらず、主の御霊による。」と言われた御言葉を厳しく記憶して、戦争中、戦略を練る時などにはいつも、先ず神様に祈りました。「主である神様!私に、知恵と聡明と明哲と力を与えてください。権力でもできず、能力でもできません。ひとえに神様の御霊のお導きによるのです。私を助けてください!」彼が聖霊に拠り頼んで戦争に臨んだので、ドイツにもイタリアにも勝つことができ、ヨーロッパを解放させることができる偉大な勝利を、神様が彼に与えてくださったのです。神様の御言葉がいかに驚くべき力になるのか分かりません。神様の御言葉が実に、疑いと恐れと不安を克服することができる力となるのです。

12年前に、英国ロンドンのある新聞編集者が、国会議員、大学教授、事業家、作家...など、社会各界の重要人物100名を対象にして、次のような設問調査を行いました。「若しも、あなたが3年間、刑務所生活をしなければならないとしたら、是非とも持参したい3冊の本はなんでしょうか?そしてその理由も説明してください...。」ところが調査結果、驚くことには98%の人たちが第1番目の本として聖書を挙げたと言います。調査対象の中には、クリスチャンは少数に過ぎず、大部分が不信仰者か無神論者であったのです。聖書を持参したいと言った理由は、“苦難に会うとか疎外された時に、聖書が勇気と慰めを与えるからである...。”と言ったそうです。

人々は、良い時、閑な時には小説も読みます。面白い漫画も見ます。しかし、極限の苦難に会った時には、自分をその苦難の中でも慰めてくれ、激励してくれ、勇気と希望と夢を与えてくれるのは、聖書しかないと言うことです。それで、もしも刑務所に入れられる時、もっとも必要な親友が聖書の御言葉であると、彼らは異口同音に答えたのです。神様の御言葉に取り縋り、拠り頼む時、私たちは疑いと恐れと不安を克服することができるのです。

疑いがない信仰の世界はありません。恐怖と不安がない信仰の世界はないのです。私たちはその中で暮らしているのです。そこで私たちは、悪魔と戦っているのです。しかし、神様の御言葉を聞き、それをいつも口ずさみ、覚えていたら、どんなに凶悪な悪魔と戦おうとも、私たちは勝利の歓喜を体験することができるのです。

そして第2には、祈りに励み、聖霊充満であることです。祈り、聖霊で充満であったら、疑いと恐れと不安に勝つことができるのです。

米国の第32代大統領であった‘フランクリン・ルーズベルト’は、たとえ小児麻痺の障害者ではありましたけれども、素晴らしく篤実なクリスチャンでありました。彼が大統領であった時、第2次世界大戦が勃発して数多くの人たちが死に、負傷しました。1944年6月6日、米軍が属する連合軍は‘アイゼンハワー’総司令官の指揮のもとに、大規模の“ノルマンディー”上陸作戦を展開しました。ところが、フランスの北西側に位置している“ノルマンディー”海岸は、険しい絶壁である上に、上陸作戦が展開される前日の天気予報によれば、その日は暴雨と濃い霧に包まれるとのことなので、とても作戦を展開することができない、と判断されました。

本国でこの報告に接した指導者たちは、何よりも先ず、神様のお助けを請い願いました。米国の‘ルーズベルト’大統領、英国の‘チャーチル’首相、‘アイゼンハワー’司令官は皆、戦争の勝利のために一斉に神様に祈りました。特に‘ルーズベルト’大統領は、執務室に立ちこもって17時間も食べずに、神様に縋りついて祈りました。「ノルマンディー作戦が、成功するように助けてください...!」

「エレミヤ書 33章 2節〜3節」に、『地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記録されています。‘ルーズベルト’大統領が17時間も、執務室で祈りを捧げていた間、元来は“ノルマンディー”海岸は暴風雨に荒らされ、霧が立ち込めて、とても上陸作戦を敢行することはできないと、専門家たちによって判断されていたのです。

その上に、予め軍事情報によってドイツの“ノルマンディー”防衛軍司令官は、連合軍の大々的な上陸作戦が展開されると知ったので、直ちにタンク部隊と重武装した機械化部隊を動員して防備しなければならないと軍事計画を練り、それを‘ヒットラー’総統に報告して、裁可を受けようとしていました。‘ヒットラー’の命令がなしには、他の戦線に配置されているタンク部隊と機械化部隊を“ノルマンディー”防御戦のために集結させることができなかったからです。ところがその時間、‘ヒットラー’総統は昼寝をしていました。

防衛軍司令官からの軍事計画書を手にして、参謀の一人が‘ヒットラー’の執務室のドア−の外で、両手を揉みながら右往左往しました。“総統閣下、早く起きてください。大緊急裁可が必要なのです!”参謀は血を吐く思いで‘ヒットラー’が昼寝から目を覚ましてくれることを念願しました。‘ヒットラー’の性格があまりにも短気で且つ凶暴なので、昼寝している彼を呼び起すということは思いもよらなかったからです。ところが、その時間に連合軍の上陸作戦が開始されました。その日、‘ヒットラー’が目を覚ました時には、すべてが後の祭りでありました。連合軍の上陸作戦が上々の首尾で終わり、ドイツの防衛軍は崩れて敗退してしまった後であったのです。神様が‘ヒットラー’を熟睡するようになさったのです。

気象専門家たちまでもが、暴風雨と濃い霧で絶対に上陸することができない、と言いました。ところが、その時間、“ノルマンディー”海岸には暴風雨も襲わず、霧も立ち込みませんでした。そのような疑いと不安も、祈りが、きれいに克服するようにし、神様の恵みが大いに臨むようにしてくれるのです。

皆さん、こんにちも、疑いと恐れと不安があっても、私たちが神様に呼ばわり、祈り、願ったら、神様がみわざを働かしてくださるのです。聖書の御言葉には、絶対に偽りがありません。神様はいつも、私たちの理解を越えた大いなる事を備えておられるのです。私たちが神様に祈ってこそ、それが現れるのです。私たちが祈らなかったら、神様は私たちの理解を越えた大いなるみわざを現してはくださらないのです。『あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』(ヨハネの福音書14:14)と言われたのです。




第三、信仰とは霊的戦争です。

次に、聖書を見ますと、主が、ヨシュアに言われました。『強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。』(ヨシュア記1:9)私も信仰相談に来た聖徒さんに、数限りなくそのように言い含めています。会社が倒産し、家庭が破綻直前になっている時、私から祈ってもらい、出て行く時、いつも私はその聖徒さんに言います。「心を強くして、大胆に信じてください。恐れずに、神様に拠り頼んでください。そうしたら、神様が必ず、災い転じて幸いとなるようにしてくださいます!」

「申命記 31章 8節」に、『主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。』と記録されています。また「箴言 4章23節」には、『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』と記録されています。

「ヘブル人への手紙 13章 5節〜6節」を見ますと、『金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』と記録しています。強く、雄々しくなることは、皆さんの決心によるのです。

19世紀、ドイツの‘クリストフ・ブルームハルト’は、“テビンゲン”大学で物理学、天文学、世界歴史、及び哲学を学んで、当代最高の学識の人であると言われ、凄く敬虔な人物として指折り数えられた人です。そして彼は、篤実なクリスチャンでありました。彼が出席している教会に、20年間も悪霊に憑かれて精神病者になっている‘ドボス’という姉妹がおりました。‘クリストフ・ブルームハルト’は、彼女のために悪霊と霊的戦争をすることに決心しました。

彼は、その時から彼女のために毎日祈りました。そして1845年7月20日、朝8時から午後4時まで、彼は彼女のために、「サタンは退け!イエス様の御名によって命じる。悪霊は、‘ドボス’姉妹から離れ去れ!」と呼ばわり、祈りました。ところが、何の効果も現れませんでした。そのことを知った教会の牧師と聖徒たちが、“あー、‘ブルームハルト’博士が空しい苦労をしているなー。そんなことで直るもんじゃないのに...。”と囁きあいました。しかし‘ブルームハルト’博士は、神様を堅く信じて、心を強くし、屈することなく継続して、その姉妹のために祈りを捧げました。

その結果、同年12月に、‘ドボス’姉妹が突然、全身痙攣を起こし、何か大声で喚いてから、彼女から悪霊が離れ去り、彼女はきれいに正気に戻りました。こうなるや、その教会の牧師と聖徒たちが彼女を見て、「これこそ、神様の奇跡が‘ブルームハルト‘博士の祈りを通して現れたのだ...!」と感嘆しました。どうして、このような奇跡が起こったのでしょうか? ‘ブルームハルト’博士はこの世で成功した学者であり、碩学でありましたけれでども、悪霊との霊的戦争はただ神様への祈りを通してだけ勝つことができる、ということを堅く信じていましたので、彼は時間がかかっても気落ちせず、強く、雄々しく、大胆に神様に祈り、縋ったからであります。

皆さん、私は毎年海外宣教に出て行きます。数万名、数十万名、ある時には百万名が集まっている時もあります。メッセージを宣べ伝えてから、救いを受けていない人たちを講壇の前に呼び出して悔い改めさせ、救いを受けるように導きます。そうしてから、次には病人のための祈りをします。ところがこの時、私はいつも心に葛藤を起します。悪魔が来て、私に囁くのです。「今日は、病人のための祈りはするな。癒されたと言う人が一人も出て来ないよ。お前が病人のために祈ってから、癒された人は前の方に出て来なさいと言った後、誰一人出て来なかったら、お前も恥をかき、お前の神も恥をかき、合同で恥をかくようになるんだ。だから適当に、祝祷で終えなさい...。」

しかし、もう一方では、聖霊さまが言われます。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れるな。あなたがわたしの名によって求めることは、何でも、わたしがそれをしてあげる...!」私はいつも、この葛藤の中で苦しみます。皆さんもご存知のように、私が海外宣教を1度や2度したのではありません。数十年間して参ったのです。そうですから、もう今は、心が勇敢になって、大胆にやって行くことができそうなものですが、それが、そうはいかないのです。

いつも、数多い群集の前に立ってメッセージを伝え終わったら、すぐに悪魔が来て言うのです。「おい、今日は絶対に奇跡が起こらないぞ。恥をかく事は最初からやめたがいいよ。これで終わっても、お前に損はないではないか。あんなにたくさんの人々が救いを受けたのだから、良かったじゃないか。誰もお前に文句言う人はいないんだ。もう終えてしまえな...。」この囁きに従いたい思いもします。ところが、次の瞬間、「恐れるな。驚くな。強く、雄々しく、大胆でありなさい。わたしが、あなたと共にいるのだ...。」また神様の御声が聞えます。

主が言われることを聞いて、目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞えなくても、「感謝します!」と言ってから、大胆に、進めて行った時には、いつも奇跡が起こりました。意外なほどに、驚くべき奇跡が起こったのです。しかし、そのような体験を何度もしていながらも、その次にまた、海外宣教の時には、こころが揺らぎ、疑いと恐れと不安で、瞬間、ためらうようになり、また足踏みするのです。

私がこのような体験談をお話しするのは、私が強く、雄々しく、大胆であった時ほどに、もっとも素晴らしい神様の奇跡が現れたという事実をお話ししたかったからです。私が恐れ、疑い、不安なので、後ろに引き下がった時には、何の神様の御力も栄光も現れなかったのです。強く、雄々しく、大胆になることがいかに重要なのか知りません。クリスチャンが信仰的に心が堅固になり、大胆であってこそ、神様がみわざをほどこしてくださるのです。

そして第4番目に、私たちが疑いと恐れを克服するためには、敵の前で勇敢に信仰告白をしなければなりません。

ペリシテ軍隊がイスラエルに侵攻して来た時、サウル王とその部下の歴戦の勇士たちは皆、恐怖に包まれて恐れおののきました。ペリシテ軍の勇将ゴリヤテが現れて、“誰か、おれに向かって出て来い!”と大声で喚き、挑戦する時、イスラエル軍からは誰も出て行って応戦しようとしませんでした。40日間、ペリシテ軍の勇将ゴリヤテがイスラエル軍を脅迫し、恐喝するので、イスラエル軍は立ち向かう事もできずに、ただ恐れおののき、意気消沈してしまいました。

その時、父の羊を飼っていた17歳の少年ダビデが戦場に来ました。ダビデは大いに憤慨して、サウル王の前に出て行き、「私が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。割礼を受けていないペリシテ人が、生ける神様の軍隊をなぶるとは、もってのほかです。私が行って戦います。」と言い出しました。サウル王は頭を左右に振りながら、言いました。「あいつは、若い時から戦士だったのだ。17歳のお前が、あれと戦うことはできない。だめだ。」

その時、ダビデが言いました。「サムエル記 第一 17章34節〜36節」に記録されています。『ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」』

ダビデは、強く、雄々しい少年でありました。歴戦の勇士であるサウル王とイスラエルの軍隊が小さくなって震えているのに、わずか17歳ほどの牧童が出て来て「私が出て行って、戦います。」と言い出したのです。神様は、強く、雄々しい人をご使用なさいます。それが 幼い少年であろうと、壮年であろうと、強く、雄々しいところがなかったら、神様は使い道がない人と思われるのです。悪魔がいつも人たちから奪って行くのは、強さ、大胆さです。そして、その代わりに注入するのが、疑いと、不安と、恐れと、挫折感なのです。

ダビデが強く、雄々しく、「出て行って、戦います。」と言い張るので、サウル王も、将軍たちも、“行きなさい!”と言って、ダビデを戦場に出してあげました。ダビデは、牧童の服装のまま、五つの石と石投げとを手にして、一線に出て行きました。先ずダビデは、ゴリヤテとの口論からして勝ちました。ダビデがどんなに口達者なのか、聞いてみてください。

「サムエル記 第一 17章45節〜47節」に記録されています。『ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」』

相手の背筋を寒くする怒号です。ダビデの口の信仰告白が、既にゴリヤテの度肝をひしぎました。悪魔との戦いでは、先ず口の信仰告白で機先を制しなければならないのです。皆さん、キリストに拠り頼んで疑いと恐れと不安に勝つためには、いつも肯定的で積極的で大胆な信仰告白をしなければなりません。この告白が弱かったら、夜も昼も悪魔に負けます。悪魔と戦う時にはいつも、御言葉の上に堅固に立たなければならず、祈りと聖霊さまに拠り頼んで強く雄々しく対抗しなければならないのです。

神様は、死んだものを生かし、無いものを有るもののように呼ばれる、と言われました。無いものが有るもののように大胆に口で告白したら、その人は悪魔に勝つのです。それでダビデが出て行って、石投げでゴリヤテを打って大勝利をあげました。

私が尊敬する‘オースティン・タプ’牧師先生が、臨終を目の前にして夢を見られました。それを、息を引き取る前に証しなさったのです。夢に悪魔が現れて言いました。「タプ。お前は一生涯の間、よくも俺の仕事を妨害したな。お前は俺の仇敵だ。お前は今、病気で、力もなく、死のうとしているんだから、俺が復讐してやる。お前を引っ張って地獄に下りて行くぞっ!」

それを聞いて、‘タプ’牧師先生がかえって怒鳴りつけました。「おいっ、何を言っているのだ。知らんのか?“主はわが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、私を救い出されるからである。”お前は指一本も、私に触れることができないのだっ!」すると、返し言葉も無く悪魔は身をひるがえして消え去った、と言いました。信仰告白で勝ったのです。臨終を目の前にしていながらも、悪魔が襲いかかろうとする時に、信仰告白で勝たれたのです。

「マタイの福音書 16章19節」に、『わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』と記録されています。天の御国のかぎで、つないたり、解いたりする...と言われました。天の御国のかぎとは何でしょうか?それがまさに、口の信仰告白なのです。

特別に“信仰の賜物”をいただいた人のほかには、すべての人が心の中で疑いと恐れで苦しい戦いをするようになっているのです。「私は、少しも疑わず、少しも恐れず、少しも不安がることがない。」と言う人がいるかも知りませんが、それは真実ではありません。「神様が、果たして私の祈りを聞いてくださるだろうか?神様が本当に、私を愛しておられるだろうか?神様が果たして、私を顧みてくださるだろうか...?」人たちの心の中には、絶え間なく疑いと恐れと不安があるのです。これが現在のクリスチャンなのです。

皆さん、「マルコの福音書 9章」を見ますと、悪霊に憑かれた幼い息子を連れてイエス様の前に来た父親がいます。イエス様が山の上で祈られてから、弟子たちと一緒に下りて来られるところへ、その父親が来て、「先生、息子が悪霊に憑かれて、何度も火の中や水の中に投げ込まれました。もし、おできになるものなら、私たちを憐れんで、お助けください。」と願いました。その時、イエス様が言われました。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』(マルコの福音書9:23)

それに対して、その子の父親が叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコの福音書9:24)「信じます。」と言ってから、それでも信じられないので、「不信仰な私をお助けください。」と叫んだのです。これが人生なのです。信仰があると思うのですが、有りません。信仰が無いようですが、実はチョットした信仰を持っているのです。信じると言いながらも、中々信じられません。しかし、それでも時には信じることもあるのです。

採鉱の現場をご覧になったことがあるでしょうか。金を探して山を崩し、大きな岩の塊を砕きます。その岩の塊の中に小さな金塊が隠れているのです。その金塊を探し出すために山の中へ坑道を作り、岩を掘り出しては突き崩し、岩の塊を砕くのです。小さな金塊が貴重なので、そのような作業にお金を投資し、汗を流しているのです。岩が大きいとか、堅いとか、不平を言いません。金を発見するのがそんなにも嬉しいのです。

皆さん、人たちの心の中には大きな岩の塊のような不信仰があります。しかし、その中に小さな金塊のような信仰が一つあります。神様は、皆さんの中の、その小さな金塊のような信仰をご覧になって、喜ばれるのです。大きな、堅固な信仰を持っていたら、それに越したことはありません。しかし神様は、疑いが泰山のようであっても、その中に小さくても良いから、信仰があったら、それを「良し!」とされるのです。

それで、イエス様が、『もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ。」と言えば移るのです。』と言われたのです。主が喜ばれるのは、みなさんの大きな疑いの中にある小さな信仰なのです。からし種ほどの信仰だけあったら、それを通して、主が言われるのです。「あなたの信仰通りになるように!」

ですから、不信仰を見つめずに、疑いながらも心の中にからし種ほどの信仰があることを神様に感謝してください。疑いながらも信じ、信じながらも信じられない自分の心情を告白したら、神様はそれを「純金」とされて、皆さんの人生の中に栄光を現してくださるのです。信仰とは、疑いと恐れがないことではなく、疑いと恐れがあるのにも拘わらず信じることが信仰であることを忘れませんよう、主の御名によってお祈り致します。




お祈り

愛が豊かなる、我らの父なる神様!

この世を暮らす人たちの中に、疑い、恐れ、不安、挫折、絶望がない人は、一人もいません。しかし、その中に小さな粒の純金みたいな信仰を持っているのをご覧になって主は喜ばれ、そのからし種ほどの小さな信仰を通して神様に祈る時、神様は、山を移すほどの奇跡をほどこしてくださいますことに感謝申し上げます。

主を信じ、慕う聖徒さんたちが、不信仰な自分を見つめずに、自分の中にも信仰があることを見出すように助けてください。からし種ほどのその小さな信仰を持って御言葉の上に堅固に立つように助けてくださり、いつも神様にあつく祈り、聖霊さまに拠り頼むように助けてください。そして、聖徒さんたちが皆、どのような悪魔の誘惑にも強く、雄々しく、大胆に対抗することができるように導いてくださり、断固とした信仰告白で何事にも勝つことができるように祝福してください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!