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「予防信仰」
 






■聖書箇所

「詩篇 91篇 1節〜7節」
91: 1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
91: 2 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
91: 3 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
91: 4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
91: 5 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
91: 6 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
91: 7 千人が、あなたの傍らに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。




今日、私は皆さんと一緒に、『予防信仰』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

‘クリス・クロリー’と、医学博士‘ヘンリー・S・ローチ’さんが著述した“Younger Next Year”という本を見ますと、80歳以後にも、50歳の人のように暮らすことができる秘訣に関して記録しています。彼らは、人たちが年を取ってからも病気に罹らず、気力喪失した余生を送らずに、健康で、きれいに老いて行く「三つの道」を強調しています。その第1は、1週間に6日間は、無条件に1日1時間以上運動しなさいということです。いかに強調しているのか、運動をせずに済まそうと弁明する人は「馬鹿野郎」であるとまで表現しています。ですから、運動は必ずしなければならない、ということです。

第2は、高蛋白、高脂肪の食事をしてはならず、できるだけ少食で済まし、それも菜食主義で食事をし、安定した生活を営みなさい、と言っています。そして第3には、夫婦間、隣人との間で立派な人間関係を保ち、なるべく広く交わり合いながら楽しく暮らしてこそ、健康で、長生きすることができる、と言うのです。病気になるまで待ってから、病院に行って医者のお世話になろうとしないで、病気に罹る前に予め上記の「三つの道」を守り、対策を立てることによって予防しなさい、と言うことです。

信仰生活も、これに譬えて言うことができます。試練と患難と大きな苦しみに遭ってから神様を捜し求め、あたふたと早天祈祷に参加し、徹夜し、断食し、祈祷院に駆け込むなどせずに、平素、正しい信仰生活をしたら、試練も患難も大きな苦難も避けることができるのです。




第一、神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。

予防信仰の第一条件が、「神の国とその義とを先ず第一に」求めながら暮らすことです。神の国と、この世の国が対決する時に、即ち神様に仕えることと、この世に仕えることとが対決する時に、どちらを択ぶべきか...。これは私たちに凄く重要なことです。

「選択」は、私たち人生にとても重要なことです。人生を生きていく時、どんな友人を選択すべきか。どんな花婿、どの花嫁を選択すべきか。どのような職業を選択すべきか...。このようなことが別に問題にならないように考えられますけれども、このようなものが実に私たちの毎日の生活に絶対的な影響を及ぼすのです。神様の国と、この世の国とが同時に近づいてくる時、どちらを選択すべきか...?これは私たちの予防信仰にあって絶対に重要なことです。

イエス様が、荒野で40日40夜断食なさった後に、この世の代表である悪魔が近づいて来ました。そして、空腹を覚えておられるイエス様になんと言ったでしょうか。「神の子としての権勢を活用して、この石で先ずパンを作って食べなさい。」と誘惑しました。天の御国よりも、先ずこの世での空腹を解決しなさい、と言ったのです。その時、イエス様は断固として『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。』(マタイの福音書4:4)と、神様の御言葉を先ず選択なさることで、悪魔に対抗されました。

すると、悪魔がイエス様を連れて神殿の頂きに上って行き、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。御使いたちがあなたの足を途中でささえ、あなたの足が石に打ち当たらないようになって、多くの人たちから拍手喝采を受けることになるでしょうから。」と言いました。その時、イエス様は、『イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」』(マタイの福音書4:7)と、神様の御言葉で一喝なさることによって、悪魔の誘惑を退けられました。名誉よりも、神様を試みることをせず、神様に仕えることがもっと重要であると言われたのです。

すると悪魔が、今度は、イエス様を非常に高い山に連れて登って行き、この世のすべての権威と富貴、栄華、功名を見せながら、「ひれ伏して、私を拝みなさい。そうしたら、これらを全部、あなたに差し上げましょう。」と誘惑しました。その時、イエス様は悪魔に向かって断固として拒否なさりながら、言われました。『イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」』(マタイの福音書4:10)それを聞いて、遂に、悪魔はイエス様から離れ去りました。

私たちも同様です。私たちの人生にも、天の御国とこの世の国が度々ならず、頻繁に躓きあいながらぶつかって来ます。私たちは、そのような時、天の御国でもなく、この世でもない、いい加減な中間路線を択ぶ時が凄く多いです。それで、数多くの試練に会うようになるのです。皆さん、「マタイの福音書 22章37節〜38節」に、『そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。』と記されています。

また、「ヨハネの福音書 12章26節」には、『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。』と記録されているのです。神様を第一に愛し、イエス様に第一に仕え、イエス様の御言葉に従順に聞き従う人生を私たちが生きる時、神様は私たちに報いてくださるのです。

米国の大統領であり、ノーベル平和賞受賞者であった‘ジミー・カッター’氏には、本当に偉大な点がありました。彼が、大統領選挙に出馬した時のことです。遊説期間中に「主日」を迎えました。大部分の立候補者たちとは違い、彼は得票を意識して近くの大きい教会に出席することをしませんでした。かえって飛行機に乗って平素通っていた故郷“ジョージア州”の教会に行って、礼拝を捧げました。そして礼拝が終わったら、23年間毎週してきた「主日学校」の先生として、子どもたちに聖書の御言葉を教える奉仕をしました。

大統領選挙遊説がそんなに忙しいのにも彼は、アメリカのどこにいようとも、主日には飛行機に乗ってでも“ジョージア州”の自分の故郷に帰り、そこの教会に、主日を聖く守るために出席したのです。そうした或る主日、約70名の記者たちが彼を取材するために教会に押しかけて来ました。すると、‘ジミー・カッター’氏は彼らに向かって言いました。「記者の皆さん、今日は、皆さんが私を取材するためにここまで来られましたが、次の主日には、皆さんが所属している教会に必ず、出席してくださるようお願いします...。」‘ジミー・カッター’氏は、何よりも神様優先、神様第一主義に生きた人です。

その結果、彼は大統領にも当選し、退任後の2002年度には“ノーベル平和賞を受賞するなど、人たちから大いに尊敬される人物となりました。この世のその何よりも、神様を愛し、神様に仕えることが最優先でなければなりません。誰でも、「神の御国と、その義とを先ず第一に求める人」には、試練と患難と大きな苦しみがなしに、平坦で、安らかに、祝福された人生を生きて行くことができるのです。

また私たちが、イエス様の義とこの世の欲とがぶつかり合い、対決することに出会う時、イエス様の御教えに従うべきか、この世の欲に従うべきかの重大な岐路に立たせられることが頻繁にあります。私たちはこの世に生きているのですから、この世の欲から私たちが誘惑されることを免れることはできません。肉の欲もあり、目の欲もあり、この世の自慢もあります。従って、イエス様の義とこの世の欲とがぶつかり合う時、どちらを択ぶべきかはとても重要なことです。

「マタイの福音書 6章24節」に、『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』と記録されているのです。その何よりも、人たちの富とか物質に対する貪欲はもの凄いものです。イエス・キリストの義よりも、富とか物質を択ぶ人たちが多いのです。富や物質に対する貪欲というものは、神様の義よりも私たちをもっと惑わすものです。このような時、私たちが先ず第一に求めるべきものを求める時、即ち神様の御国とその義とを求める時、神様の愛をいただくようになるのです。

石油王として知られている‘ジョン・ロックフェラー’氏は、孫たちに厳格に金銭教育をさせたことで有名です。“マンハッタン銀行”頭取を歴任した‘ロックフェラー’氏の孫‘デェイビッド’氏は、お祖父さんが自分にした金銭教育に関して次のように語りました。

彼が幼かった時、お祖父さん‘ロックフェラー’氏は自分に毎週25セントを週給としてくれながら、必ず、「週末には、お祖父さんに、お金をどこに使ったかを計算して報告するんだよ。お前がお金を使う時には、先ず、間違いなく25セントの中から10%の“十分の一”を先ず神様に捧げること、次には、10%のお金を救済金として使わなければいかんよ...。」そうして、そのとおりに使用したら褒美として5セントをもっとくれたと言いました。しかし、そのとおりに使用しなかった場合には、罰金として次の週給から5セントを差し引いたと言います。

お祖父さんがあまりにも厳格に、必ず、先ず十分の一を捧げ、次に救済金10%を取り除いてからお金を使いなさい、と教えたその教訓のお陰で彼は一生涯、先ず神様を択び、お金を第一とはしないことによって、神様から祝福していただき、“マンハッタン銀行”の頭取にまでなることができた、と彼は述懐しました。そして彼も、自分の子どもたちを全く同じく教育していると言いました。

このように、神様と正しい関係を結んでいたら、神様の無限なる資源から全てのものをいただく事ができるのです。主が、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言われました。私たちが神の国とその義とを先ず第一に求めたら、神様と私たちとの関係が正常的に正しく立ちますので、神様はその栄光の中から豊かに私たちの全ての必要を豊かに満たしてあげる、と言われたのです。

しかし、実際には、私たちの人生において、これは並大抵のことではありません。凄く難しい試練です。神様の義か...、この世の欲か...。イエス・キリストの義か...、貪欲か...。どちらを択ぶべきか?私たちが毎日毎日ぶつかる試練です。私たちがここで、断固として神様の義、神の御国を択んだら、神様は私たちの味方になってくださるのです。

「詩篇100篇 3節」に、『知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。』と記録されています。神様の民であり、神様が育てられるその牧場の羊なのですから、私たちが神様を信じて従順に聞き従ったら、神様が顧みてくだされない訳にはいかないのです。「マタイの福音書 7章11節」に、『してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』と記録されているのです。




第二、正しいものを蒔きなさい。

第2番目に、私たちの予防信仰は、私たちの人生に何事でも正しいものを蒔きなさい、と言うことです。人は、何を蒔こうともその通りに刈り取りもすることになります。豆を蒔いたところには豆が生え、小豆を蒔いたところには小豆が生えるのです。「ガラテヤ人への手紙 6章 8節」に、『自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。』と記録されているのです。

「人は皆、各々が自分の相続人である。」という言葉があります。自ずと、すべての自分の行為の結果が自分に相続されると言うことです。自分が与えただけ受け、自分が蒔いた通りに刈り取る、と言うことです。

いつだったか或る聖徒さんが、私に次のような内容の手紙を送ってよこしました。「私は、テレビとか新聞を見るのが怖いです。毎日のように起こる大型の事故、絶えることを知らない暴力、示威、不正、腐敗...などの報道に接したら、胸に動悸を感じ、背筋が寒くなって継続視聴することも、読んで行くこともできません。なぜ、私たちの社会がこのようになり、私たちがどのような間違いを仕出かしたのでこのようなことが起こるのでしょうか...?」

皆さん、この質問に対する答えは簡単です。過去に、私たちがこのようなものを蒔いたので、これらを刈り取るのです。人生は“ブーメラン”(Boomerang)と同じです。人が何を蒔こうとも、その通りに刈り取るのが宇宙の秩序です。ですから、平穏で祝福された人生を生きようと願うのでしたら、常日ごろ正しいものを蒔きながら暮らしてこそ、良いものを刈り取りながら毎日を生きることができるのです。簡単なことです。

聖書に、『「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。』(エペソ人への手紙6:2〜3)と言われました。私たちが父と母を敬うことで蒔けば、その結果として、将来この世で幸せになり、健康で、長生きするようになる、と言うことです。

「どうして、こんなにも私は生活が苦しく、呪いが付きまとって離れず、すべてに骨が折れ、病弱で、艱難だらけの毎日なのだろう...?」と悲嘆する人がいます。それは振り返ってみたら、父母を敬わず、かえって逆らい、不従順することで蒔いておいた結果を刈り取るのだからです。蒔いてから、そして刈り取ることには嘘も偽りもありません。土地は正直です。豆を蒔いたら豆が生え、小豆を蒔いたら小豆が生えるように、宇宙も私たちの菜園なのです。

私たちは、人が見ている前であろうが、見ていないところであろうが、生活を通して蒔いておいたものを、私たちが刈り取るようになるのです。従って、私たちの人生の中で父母を敬うことはしても良く、しなくても良い、と言うものではありません。父母を敬わずに虐待しながら過ごしたとしたら、自分が正しいものを蒔かなかったことになるのです。その結果、自分が世の中で呪いを受け、病弱になり、苦しみを受けるようになるのは、火を見るよりも明らかです。

聖書に、『殺してはならない。』(出エジプト記20:13)と言われました。ところが、人たちは「殺したい程に憎い!」と、平気で言います。既に殺人を犯したのです。殺したい程の憎悪を蒔いておいたら、結局は不幸と苦痛を刈り取るようになるのです。今年の1月1日のお正月にも、憎悪がつのって兄弟たちを銃でみな撃ち殺し、自分も自殺した事件が起こりました。憎悪とは、結局自分自身も凄く不幸になり、不幸を刈り取るようにするのです。憎しみを蒔いておいてから、幸福で刈り取りをすることはできません。ですから、憎しみは殺人をすることであり、殺人した人は死の実を刈り取るようになるのです。

また聖書に、『姦淫してはならない。』(出エジプト記20:14)と言われています。“いやー、隠れてちょっと姦淫したと言って、それが何の大きな罪になると言うんだ...。”と言う人がいるかも知れません。しかし、これは宇宙の菜園に‘姦淫’という不法を蒔くことになります。その結果は、良心の呵責と、心の不安と、家庭の破綻を刈り取るようになるのです。

「ヘブル人への手紙13章 4節」に、『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。』と記録されています。性道徳の紊乱は、お互いに肉体的疾病をもたらすだけでなく、精神的疾病、家庭破綻の実を必ず刈り取るようにするのです。地上の数多い人たちが性的疾病によって苦しんでいます。これは、間違ったものを蒔いたからなのです。

韓国の2003年度の“司法年鑑”によりますと、2003年の1年間に、家庭裁判所が受付けた離婚訴訟は47,500件に上り、1日平均130件の離婚があったと言います。その中で配偶者の不倫行為によって訴えられたのが49.3%に達し、離婚全体のほぼ半分に近かったのです。「姦淫」が結局には精神的疾病、肉体的疾病、家庭破綻の実を刈り取るようにするのです。人は何を蒔こうとも、その通りに刈り取ります。蒔いたら刈り取る法則は、万古の真理なのです。聖書に、『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』(ガラテヤ人への手紙6:7)と記録されているのです。

また、『盗んではならない。』(出エジプト記20:15)と言われました。“僕は、盗みを働いても生きて行ける。”と勘違いをしている人がいます。盗んだら、必ず、呪いを刈り取るようになるのです。人の物を盗んで、それで豊かな暮らしをする人を見たことがありません。いつかは身代をつぶし、身を滅ぼしてしまいます。盗むことは呪いを蒔くことであり、結局には呪いを刈り取るようになるのです。人の物を盗んでも呪いを刈り取り、神様の物を盗んでも呪いを刈り取るのです。

神様に“十分の一”を捧げ、神様の物を盗まなかった人は、貧困と患難が訪れて来ても大胆に祈ることができます。「主よ!私が主の御前に“十分の一”を正確に捧げました。神様の物を盗まない人は、すべての祈りが聞き叶えられると教わっています。今、私が難しい状況にぶつかりました。助けてください...。」と、大胆に祈ることができるのです。

世界的富豪‘ロックフェラー’氏にも、危機の瞬間がありました。彼が若かった時、友人の紹介で鉱山業を始めましたが、失敗の連続で投資金をすべて失い、少なからぬ借金までも背負うようになりました。労働者たちは暴徒化して滞っている賃金の支払いを要求し、債権者たちは毎日訪ねて来て返済をせがみ、横暴を欲しいままにしました。‘ロックフェラー’氏は余りにも苦しくて、自殺を考えてもみました。‘ロックフェラー’氏は平素、神様を信じ、神様に拠り頼んできた人でしたが、その時は、どうしたら良いか分からず、廃鉱も同様になった坑道の入口に呆然と座り込んでしまいました。

ある夜、彼は神様に祈りました。「主よ!神様の御言葉は、一点一画も変わることがないことを信じます。私は今まで、完全な十分の一献金を捧げてまいりました。神様は、完全な十分の一献金を捧げる者には祝福してあげると約束なさいました。ところがこんにち、私には祝福ところか、凄い試練が押し迫ってきています。私は、この絶望に耐えることができません。神様が助けてくださらなかったら、もう私は自殺するしかありません。全知全能であられる主よ!私を助けてください...!」彼は夜通し祈りました。

そのように祈っている時、「もっと深く掘り下げよ!もっと深く掘り下げよ!」と、誰かが言うような気がし、全身に意欲が満ち溢れ出しました。彼は、それが神様の御声なのだと受け止め、他のところからもっと借金をして、坑道をもっと掘り下げ始めました。人たちは彼を見て、気が狂ったのだと囁き合いました。そんなことには介意せずに、‘ロックフェラー’氏は継続して掘り下げていきました。その結果、何日目かに、その鉱山から黄金の代わりに黒い水が噴水のように湧き出ました。鉱山の下、深いところに底知れない広大な油田があったのです。油がどんどん継続して噴出しました。

それで彼は、文字通りに「黒い黄金」を掘り出した‘ロックフェラー’、米国最高の富豪になったのです。私たちが信じる神様は、全知全能なるお方です。それで、私たちが神様と正しい関係を結んでいるとしたら、神様は無限なる資源で私たちを祝福してくださることができるのです。

それから聖書に、『あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。』(出エジプト記20:16)と言われました。讒訴するな、と言うことです。隣人をしきりに讒訴し、意地悪を行う人が、幸福な生活をするのを見たことがありません。人を讒訴したら、人たちから見捨てられ、侘しくなり、疎外されてしまうのです。「なぜ、人たちは私を喜ばないのだろうか?」「なぜ、人たちは私から離れて行くのだろうか?」「なぜ、人たちは私を蛭(ひる)を見るような目で見るのだろうか?」嘆かわしくなります。それは、自分が讒訴を蒔いたので、その結果を刈り取るようになったからなのです。

隣人を讒訴する人には、決して長く付き合ってくれる古い‘親友’がいません。聖書の「箴言 19章 5節」に、『偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、逃れられない。』と記されています。自分の行為に対する報いを免れることはできないのです。そのような人には、いつも罰が付きまとうのです。

聖書にはまた、『あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。』と記録されています。他人の成功を嫉んで、妨害することは、悪い種を蒔くことです。そうしたら、自分に悪いことが返って来るのです。人が良くなることをしきりに祝福してあげ、褒めてあげ、益々の幸いを祈ってあげたら、その祝福が溢れて自分のところに返って来るのです。しかし、しきりに嫉み、引っ掻き、非難し、踏み躙ったら、それは禍となって自分に返って来るのです。

人生の生活は、ちょうど“山のこだま”とも同じです。それはすこぶる正直なもので、自分が他人を褒めたら、その褒め言葉がこだまして自分のところに帰って来ます。他人の悪口を言ったら、その悪口が向こうの山にぶつかってから自分に返って来ます。

或る人が、新聞を読みました。そこには素晴らしい“とうもろこしの種”に関した記事が載っていました。それで、その人は急いで駆けつけて行って、改良された素晴らしい“とうもろこしの種”を買い求めてきて、自分の畑に熱心に蒔きました。その年の秋、そのとうもろこしが素晴らしい豊作をもたらし、お隣の家のそれよりも倍の収穫がありました。

お隣の農夫さんが来て、頭を下げながら頼みました。「その、とうもろこしの種を少し分けてください...。」すると、「いゃー、それはできません。」と、その人は冷ややかに断りました。その人は心の中で、自分自身に囁きました。“僕だけ収穫が良かったら、それで良いんだ。他人まで良くなるようにして上げる必要がどこにある...。”

ところが翌年、その人は大いに期待しながら同種の“とうもろこしの種”を熱心に蒔きましたが、どうも収穫の成績が芳しくありませんでした。「これは、ちょっとおかしい...。なぜだろう?」そのまた翌年の3年目には、お隣の畑よりもみすぼらしい収穫でありました。その人は農協の技術者を招いて、原因が何なのか、調べてみました。

調べてみた結果は、こうでありました。風向によって、お隣の家の畑の“とうもろこしの花粉”がその人の畑のとうもろこしに飛んできて受精されるので、“とうもろこしの品種”が前より悪くなり、それで収穫の成績が悪くなったのでありました。お隣の農夫の願いを聞き入れて、良い種を分けてあげたなら、花粉が互いに交接して立派なとうもろこしを生産し、収穫も向上していた筈だったのです。皆さん、隣人のために祈ってあげたら、その祈りの結果が自分の方にも返って来るのです。隣人に良いことが起こるのが腹の痛い人には、その人にも良いことが臨まないのです。蒔いた通りに刈り取る法則があることを知らない人は、不幸な人です。




第三、愛を実践しながら暮らしましょう。

第3番目に、私たちがまた、予防信仰のためには愛を実践しながら暮らさなければなりません。この世で愛を実践しながら暮らす人には、いつも神様の恵みと祝福が臨むようになるのです。人たちは皆、共同体として共に、一緒に暮らさなければなりません。一人では生きて行けません。一緒に、共に暮らすためには人に仕える心構えで生きなければなりません。一つの家庭でも、夫婦が共に暮らすためには、旦那さんは奥さんに、奥さんは旦那さんに仕えようとしなければならないのです。

子どもは勿論のこと父母を敬い、誠実を尽くして父母に仕えなければならず、父母も子どもに仕える姿勢で暮らさなければなりません。一緒に暮らすためには、人たちはすべて自分を低くして他人に仕える生活をしなければならないのです。私に仕えてくれ、私の言うことに従いなさい...、自己主張をしたら決して共に生きていくことはできません。愛を実践する生活をするためには、高慢を捨て、自己中心を捨てて、人を理解し、同情し、愛しながら、仕える人とならなければならないのです。

「箴言 16章18節」に、『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』と記録されています。「ペテロの手紙 第一 5章 5節」には、『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。』と記録されているのです。

イエス様も、『あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。』(マタイの福音書20:27〜28)と仰せられました。

オーストリアの心理学者‘アルフレッド・アドルラー’博士は、彼を訪ねてきた憂鬱症の患者たちにこのように話しました。「2週間だけ、私の処方通りにしてください。そうしたら、あなたは健康になるでしょう。」その処方内容は、別に難しいものではありませんでした。毎日、どうしたら人を嬉しくしてあげることができるか、考えて、隣人を嬉しくしてあげ、喜ばせてあげることを実践してください、ということでありました。

‘アルフレッド・アドルラー’博士の名声を聞いて、素晴らしくずば抜けた処方であろうと期待して来た多くの人たちが、常識以下のような平凡な処方に失望して、彼を非難し、彼の処方を無視しました。しかし、‘アルフレッド・アドルラー’博士の処方を信じて、その通りに実践した人たちには直ぐに効果が現れました。他人を喜ばせてあげることに努力し、研究し、難しい立場の人たちを助け、疎外された人たちに愛を実践したところ、その人の憂鬱症がきれいに消え去った、と言いました。

『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。』(ルカの福音書6:38)他人を嬉しくしてあげたら、それがブーメランとなって嬉しいことが自分に返って来るのです。隣人を喜ばして上げたら、自分にも喜びが返って来るのです。隣人を平安にしてあげたら、自分にも平安が返って来るのです。

ですから、私たちの心の中に憂鬱症があり、喜びがなかったら、私たちは貧しい人たちの養老院を訪問したり、孤児院を訪ねて行き、障害者たちの再生院を探して行って、彼らに奉仕し、仕えながら、助けてあげる時、自然と自分の憂鬱症と自分の心の苦痛が消え去ってしまうのです。私たちが隣人にほどこすことは、ブーメランと全く同じです。世の中に向かって愛のブーメランを飛ばしてみてください。想像もしなかった驚くばかりの主の恵みが皆さんに飛んで返って来るようになります。

奥さんが、自分に愛をほどこさないと言って不平してはいけません。奥さんに一度、愛をいっぱいにほどこしてご覧ください。すかさずに奥さんから愛が返って来ます。旦那さんに、凄い愛と同情をほどこしてみてください。必ずそれが30倍、60倍、100倍となって返って来るようになっているのです。愛したら、愛されるようになるのです。自分だけが愛して貰おうとしたら、その人は相手から愛して貰うことができなくなります。人生は、ブーメランであることを知らなければなりません。

愛と言うものは、自分が貰うものではなく、与えるものであることを、私たちは心から忘れてはなりません。貪欲は掃き捨てて空にしなければならず、神様の愛はいつも与えるものであることを知らなければならないのです。神様は、実に、世を愛されました。それはどのような愛であったでしょうか。そのひとり子をお与えになったほどの愛でありました。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためであったのです。イエス様は、どうであったでしょうか。イエス様は、十字架に釘付けになられて、私たちのために身を裂き、血を流してくださいました。

悪魔は、絶対に私たちに何かを与えてくれることをしません。かえって悪魔は、私たちから何でも奪っていこうとするのです。悪魔は、神様の御座を奪い取ろうとしました。アダムとエバを誘惑して、神様の御座を奪い取ろうとしたのです。『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(ヨハネの福音書10:10)と、主が言われました。

悪魔はいつも、私たちに近づいて来ては奪っていきます。神様はいつも、私たちに与えてくださるだけです。太陽の光を与えてくださり、空気を与えてくださり、水をくださり、日用の糧をくださり、命をくださるのが神様のみわざなのです。神様が、愛する御子を与えて下さった程に、私たちを愛しておられることを忘れてはならないのです。

従って、私たちもいつも愛するというのなら、与えてあげようと努力しなければなりません。愛します、という温かい一言、愛する温かい体温、そして物質、喜び、楽しみを分かち合わなければならないのです。“私には、何も与えるものがありません。どうしますか...?”皆さん、私たちは、お金があったらお金を、着物があったら着物を、靴があったら靴を分かち合ったら良いのです。そんなのもなかったら、温かい一言を分かち合うことです。どんなに良いことでしょうか。

心配、懸念、思い煩い、焦燥、絶望に瀕している人に、勇気と希望と激励を与えること、また侘しく、疎外されている人のところに行って、温かく手を握って振ってあげることが、いかに素晴らしい分かち合いでしょうか。人は、分かち合ってあげてこそ、自分も豊かになり、幸福になるのです。与えたら、与えられるのです。与えたら、人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるのです。

愛は、与えるものです。愛は、しきりに与えてくれと言って、貰うものではないのです。しきりに与えてくれとせがんだら、不幸が訪れてきます。与えるところに、いつも豊かな幸福が訪れてくるようになるのです。人は、愛を実践しながら生きて行かなければなりません。「箴言11章25節」にも、『おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。』と記録されているのです。




第四、信仰で生きなければなりません。

第4番目に、私たちの予防信仰のためには、私たちは信仰で生きて行かなければなりません。私たちがこの世を暮らしながら環境を見つめ、見えるまま、聞えるまま、嗅ぐまま、触り、感じるままに暮らしたら、不安で生きていくことができません。堅固な信仰の巌の上で、暴風が吹きまくろうが、嵐に襲われようが、揺り動かされずに突進して行ける信仰がなくてはならないのです。夜が来たら朝が来ることを、暴風雨が襲来したら晴れる日が臨むことを、険山峻嶺を越える時には平地が現れることを信じなければなりません。

皆さん、私たちは、夜が変じて昼となり、暴風雨が変じてなぎとなるようになさることのできる神様を信じなければならないのです。神様に対する信仰がないことには、私たちは決して安らかに人生を生きて行くことはできないのです。こんにち、神様をどこでお会いすることができるでしょうか。神様は、御言葉を通して現されるのです。神様を遠いところから探し求めてはいけません。ひざまずいて、御言葉を開いて読む時、御言葉を通して神様は、こんにちも、私たちに話し掛けてくださるのです。

聖書に、『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(ローマ人への手紙10:17)と言われました。『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩篇119:105)とも、聖書に記録されているのです。また主は、ヨシュアに仰せられました。「ヨシュア記 1章 8節」の御言葉です。『この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。』

ですから、御言葉を通して神様を知り、神様を皆さんの避け所とし、神様を皆さんの難攻不落のとりでとし、皆さんが神様を信頼したら、神様は皆さんを狩人の罠から、恐ろしい疫病から救い出してくださるのです。良い時には、人たちは安らかに暮らすことができます。しかし、悪魔は決してそのような人をほっては置きません。患難と試練で覆い被さって来るのです。そうした時に、人たちには避け所がなければならず、隠れ場がなければならず、信頼すべきところがなければなりません。

全知全能なる神様だけが、私たちの避け所、私たちのとりで、私たちの信頼すべき方なのです。ですから、狩人が来て私たちを捕らえようとして罠を設け、網を張っても、私たちは神様が救い出してくださることを信じることができ、津波のような苦しみが押し寄せて来ても、神様が私たちを救い出してくださることを信じることができるのです。

夜、知らぬ間に驚くべき問題が起こっても、神様が共にいてくださったら、私たちを守ってくださることができます。昼、矢が飛んで来ても神様がご自分の羽で私たちをカバーしてくださり、助けてくださるのです。また、神様を信じて拠り頼む人には、いつも共に居てくださって、暗闇に歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも、神様は防御して下さることができるのです。千人が私たちの傍らで、万人が私たちの右手に倒れても、神様が私たちと共に居てくださるので、それらは私たちに影響を及ぼすことができないのです。

神様を信じる時、人生を肯定的に、希望を持って生きて行くことができます。人生を肯定的に見渡すことは、凄く重要なことです。いつも、“私にはできない。”“私はもう破滅だ。”“私は絶望だ。”と思う人に、明日はないのです。そのような人には、ただ破滅と挫折と絶望しかありません。

小さな光でも、光を見ることができたら、人は挫折しません。皆さん、植物を鉢に植えて家の中で育ててみてください。すべての葉が窓を向かうようになります。光に向かって葉が向きを変えます。このように、私たちの心もいつも神様に向かい、肯定的に、創造的に、希望に向かって生きて行かなければならないのです。希望を持たない人とは、神様は共に居てくださることができないからです。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」と、使徒パウロ先生は聖書に記されました。

「ローマ人への手紙 8章32節」には、『私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』と記録されています。御子をさえ惜しまずに、神様は私たちのために死に渡されました。その御子を救い主として信じ、仕える私たちに、神様が何をくださらないことがあるでしょうか。

皆さんが、私の所に来られて、助けを求められたとしましょう。私が皆さんに金塊を一つ差し上げとします。ところが、皆さんが私に、その金塊を包んで持っていくための新聞紙一枚を要求しました。金塊を差し上げた私が、新聞紙一枚を差し上げないことがあるでしょうか。御子を私たちのために渡してくださった神様が、御子に良く仕えながら、御子と一緒に生きて行こうとする私たちに、何を下さらないことがあると言うのでしょうか。イエス様を心の中心に迎え入れ、イエス様に仕えながら生きる人には、すべてを与えて上げると、神様が約束してくださったのです。

一生涯を、人間と人間の潜在能力に関して研究してきた偉大な心理学者‘アルフレッド・アドラー’博士は、「人間にあってもっとも驚くべき特性の一つは、マイナスをプラスに変える力である。」と言いました。人生にマイナスが来るのにも拘わらず、これがプラスになると信じること、これが人間の能力であると言うのです。人間が動物と違うところは、敗北から勝利を期待すること、闇の中で光明を期待する心を持ったことである、と言ったのです。

そのような心の力は、神様に拠り頼む時に生じます。なぜなら、神様は巨大な変化の神様であるからです。神様は、不幸を幸福に変えることができます。絶望を希望に変えることができるのです。大きな敗北を、成功に変えることができるのです。大きな災難を、大きな祝福に変えることができるのです。‘アルベルト・シュヴァイツアー’博士も、「成功の秘訣は、全生涯を通して希望を失わないことである。」と言いました。希望を捨ててはいけません。私たちは、自ら希望を捨てる場合がとても多いのです。

人が極限状況に置かれるようになったら、自分の人格を喪失します。生きると言うことを放棄して、自殺する人たちを見てきました。このような時に、皆さん、私たちを助けてくださり、私たちをしっかりと掴んで下さるのが、実にイエス・キリストの内にある神様の御言葉なのです。私たちが神様の御言葉を胸の中によく納めていたら、私たちが絶望と挫折に捕らわれても、それが希望の光となって私たちを立ち直らせてくださり、引き起こしてくださって、私たちが肯定的、積極的、創造的な希望を持つことができるようにしてくださるのです。

人が希望を捨てない限り、神様はその人を決して見捨てることはなさいません。絶望しない以上、神様はその人を立ち直らせてくださり、引き起こしてくださるのです。聖書は言っています。『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから。』(詩篇23:4)皆さん、これが私たちの希望です。「死の陰の谷を歩くようになったのだから、私は死ぬしかない。」と言うのであったら、その人には希望はないのです。挫折であり、絶望です。

父母、兄弟、妻子、友人...が皆、離れ去って行きました。自分一人で苦しい谷を通っています。誰も、知ってくれません。その絶望から、そのまま死ぬしかないのですが、しかし、聖書は言われます。「神様が共に居られるのだ!」真っ暗い絶望に瀕していても、神様は共に居てくださって、神様の権威である鞭と、神様の知恵と聡明と明哲と力である杖とをもって、私たちを導いて下さるのだ...!と言う肯定的、積極的信仰だけあれば、私たちはどのような死の陰の谷をさ迷っているとしても、勝利の歓喜で喜び踊りながら、そこから出て来ることができるのです。

ですから皆さん、このような信仰が私たちにいかに重要な財宝なのか知れません。皆さん、このような信仰を持って私たちが祈り、気落ちしなかったら、神様が私たちと共に居てくださって、すべてを働かせて益となるようにしてくださるのです。私はいつも、難しい目に会う時ごとに口ずさむ御言葉があります。『地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ書33:2〜3)

私はそれで、神様に感謝するのです。私が知っている限り、希望がありません。出て行く門が見えません。再起することがとてもできません。しかし、聖書は言われます。「あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」この御言葉が、如何に心に希望となるのか分かりません。

また、聖書は言われます。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙8:28)良いこと、悪いこと、悲しいこと、嬉しいこと、健康である時、病気の時、成功した時、失敗した時...、すべてが皆、私たちには益となる、と言われたのです。ですから、私たちは希望を持つことができるのです。

「マタイの福音書 7章 7節〜8節」に、『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』と記録されています。ですから、私たちは希望を失わずに、最後まで呼ばわり、祈り、求めなければならないのです。座ろうが、立とうが、泣きながら、笑いながら、私たちが神様に呼ばわり祈ったら、主は、その祈りを聞きかなえてくださるのです。

ある時には、神様が私たちを見捨てられたのだと思われる時もあります。しかし神様は、いつも私たちの祈りを聞いてくださっておられるのです。そして私たちに御手を伸ばして、導いてくださるのです。主は、「あなたの口を大きく開きなさい。わたしがそれを満たそう。」と言われました。私たちが気落ちせず、放棄せずに呼ばわり祈ったら、満たしてくださるために、私たちに近づいて来られる神様なのです。

私たちは、神様の前でいつも、生活の順序を正しく択ばなければなりません。先に求めるべきことを先に求め、後で求めるべきものを後で求めなければならないのです。順序を間違えてめちゃくちゃになったら、それは到底ほどいて行くことができません。

先ず、第一に神の御国とその義とを求める人生を生きて行かなければならないのです。そして、私たちの人生で、蒔いて刈り取る法則を知っていることは本当に重要なのです。私たちは何を蒔こうとも、その通りに刈り取ることにもなるのです。曖昧にぼやかして乗り越えることはできません。人に大いなる加害をしてから、「私は大丈夫だ。」と思ったら、とんでもない間違いです。神様はそれを詳細に記録して置かれるのです。その結果を、人は間違いなく刈り取ることになるのです。

人の物を盗んでから、「誰も見なかったから、安心だ。」と思うのは、勝手過ぎる錯覚です。神様はちゃんと見ておられるのです。必ず、蒔いた通りに刈り取るようになります。人は何を蒔こうとも、その刈り取りは必ずするようになるのです。正しいことを蒔いたら、正しいものを刈り取り、悪いことを蒔いたら、悪いことを刈り取ることになります。蒔いたら刈り取るようになることを覚えて、私たちはいつも良いこと、正しいものを蒔くように努力しなければなりません。

そして、愛を実践する人生を生きなければなりません。隣人に仕え、隣人と分かち合う愛で暮らしたら、その人はいつも愛の報いを受けながら生きるようになるのです。

また、神様を信じ、拠り頼みながら生きて行かなければなりません。暗闇と試練と苦難の死の谷を通ることがあっても、希望を捨てず、落胆せずに、神様だけを信じて祈りながら突き進んで行けば、その人とは神様が共に居てくださいますので、その人の一生は祝福されるのです。皆さん、人の人生には「蒔いたら、刈り取りもするようになる」因果応報が必ずつきまとうという事実を、絶対に忘れないでください。

いのちの源泉である愛を実践しながら生き、神様を信じてすべてに聞き従ったら、神様が皆さんを愛で待遇してくださる、という事実も絶対に忘れないでください。私たちが予め、予防信仰を持って生きて行ったら、私たちは試練も患難も大きな苦難も避けることができるのです。

病気や老衰を予め予防して健康を維持すよことができるように、信仰にも予防信仰を持たなければならないのです。私たちが1週に6日間、1日1時間以上、勤勉に運動したら、からだの健康が目に見えて良くなります。頭脳の働きも衰えません。高蛋白、高脂肪の食べ物を食べず、少食して良い生活を送り、菜食して良い毎日を過ごしながら、健康を維持しなければなりません。

また、心に平安をもって暮らしたら健康な人生を生きるようになるのと同じく、私たちのたましいも、神様の御前で正しい信仰生活をしたら、試練も患難も大きな苦難も避けることができ、神様の祝福の中で、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても溢れるまでに豊かに得ながら、安らかに立派な生活を営むことができるようになるのです。




お祈り

愛であられ、聖き、わが父なる神様!

私たちが患難に遭い、苦しみ、嘆くことがないように、前々から予めすべてを予防する信仰をもって生きて行くことができるように助けてください。火災が起こってから消そうとせずに、火災が起こる前に火種に注意するように生きる私たちとなるように導いてください。

私たちが人生を生きながら、いつも神の国とその義とを先ず第1に求め、私たちが、それが何であろうとも、正しくないことを蒔いたら不幸を刈り取り、良いものを蒔いたら幸福を刈り取るようになる、と言うことを肝に銘じて、常に正しいもの、良いものだけ蒔く人生を生きるように助けてください。

そして、愛を実践しながら生きて行けるように助けてください。御言葉を信じて、信仰で生きる私たちとなるように助けてくださり、神様が共に居てくださって、この世で生きながら試練、患難、大きな苦難に出会わないようにしてください。

すべて、イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!