教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「神様の御心がある所に道がある」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 6章 9節〜10節」
6: 9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。




今日、私は皆さんたちとご一緒に、『神様の御心がある所に道がある』という題目で、恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

ある人が私のところに来て、こう質問をしました。「牧師先生、人には解決する道のないことを、神様には解決する方法があるでしょうか?」

それで、私が、「兄弟さん、あなたの周囲にいる数多い人たちの中で、顔が同じ人を見たことがあるでしょうか?60億名と言われる人たちの顔がみな違います。過去の人たちの顔も互いに違い、これから生まれ出る人たちの顔もみな違います。僅か手のひら二つぐらいの大きさの人の顔ですが、それが数限りなく互いに違う顔かたちの人たちを造られる神様の広大無辺なみわざを考えてみてください。問題に対する人間の解決策は、幾つしかありません。しかし神様には無限に解決策があるのです。神様の御心が行われるためには、天上天下にどのような奇跡も起こることができるのです。ですから、神様の御心だけ知ったら、限りなく、強く大胆に祈り求め、信じて、不可能に挑戦することができます...。」と、答えて上げました。




第一、モーセの強く雄雄しい信仰

皆さん、モーセがどのようにして、そんなに恐れがなく、強く雄雄しい信仰を持つことができたでしょうか?それは、モーセが確かに、イスラエルの民たちをエジプトから導き出して乳と蜜の流れるカナンの地に到着させるのが、神様の御心であることを確実に知っていたからです。聖書を見ますと、『今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』(出エジプト記3:10)と、神様がモーセに仰せられました。

また「出エジプト記 3章16節〜17節」に記されているように、『行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。「わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。」』と、モーセは神様から指示されていたからです。

神様の御心があるところには必ず、道がある、ということをモーセははっきりと知っていたのです。それで、紅海の海辺に到着してからも、すべてのイスラエルの民たちが挫折と絶望で泣き騒いでも、モーセは「生きる道がある。」と信じていたのです。それは、神様の御心があるところにには道が必ずあると、信じていたからです。神様の御心が、イスラエルの民たちをエジプトから導き出してカナンの地に行かせることが確かなのですから、いくら紅海が前をさえぎり、エジプトのパロ王の大軍が後ろから怒涛のように押し寄せてきても、神様は解決策を持っておられる、という確実な信念をモーセは持っていたのです。

それで、モーセの大胆な信仰告白を「出エジプト記 14章13節〜14節」を通して私たちは知ることができます。『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』このように、大胆に宣言することができたのは、人間の前にいかに絶壁のような絶望が襲ってきても、神様の御心があるところには道がある、ということを知っていたからなのです。

ついに、モーセの信仰通りに神様は道を出してくださいました。紅海の海底に道を造ってくださって、イスラエルの民たちが陸地を歩いて行くように海を渡らせてくださったのです。

彼らがシュルの荒野に出て行き、三日間を歩きましたが、水が見つからないので喉の渇き、凄く苦労しました。ところが、マラに到着して水を見つけましたが、その水は苦くて、とても飲むことができませんでした。民たちがモーセに恨み言をあけすけに呟き出しました。「どうしたら良いんだ?人も動物もみな、喉が渇いて死にそうだよー?」

しかし、モーセは知っていました。イスラエルの民たちがエジプトから出て来て、乳と蜜の流れるカナンの地に入って行くのが神様の御心なのだから、いくら水がなく、たとえ苦い水に会ったとしても、そこには確かに神様の道がある筈だ、ということをモーセは信じていたのです。

それで、モーセは気落ちせずに、信仰をもって祈りました。すると、主の御霊が一本の木の枝を示されました。モーセは躊躇せずにそれを取り上げて苦い水に投げ入れました。すると、水が甘い水に変化しました。神様の御心があるところには、必ず道が生じるのです。

荒野の旅程で、どのような苦難や障壁が立ちはだかっても、いつも道はありました。「申命記 1章29節〜31節」に、『それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。 また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。』と記録されています。

神様は、イスラエルの民たちが荒野を進軍する時、昼は雲の柱で、夜は火の柱で導いてくださり、人たちが思いもしなかったマナと鶉を食べさせながら保護してくださいました。神様の御心があったら、どのような荒野を通ろうとも、神様が共に居てくださって、或いは背負って川を渡ってくださり、または抱いて荒野を通ってくださりながらでも、道を開いてくださるのです。




第二、神様の御心を知りましょう。

私たちがこの世を暮らしながら、失策を繰り返して慌て、失望に会って前途が真っ暗闇になるとしても、神様の御心だけ知ったら、道が見えるのです。そのままでは、人はその道を知ることができません。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(コリント人への手紙 第一 2:9)のです。神様の道は、人の理解を越えた大いなる道なのです。しかし、神様の御心を知ったら、その道は開かれるのです。

1787年、イギリスの下院議員であった28歳の‘ウィリアム・ウオールボポーズ’は、神様から“奴隷解放”に対する使命をいただきました。当時、奴隷貿易は国家収入源の3分の2を占める程に重要な、イギリス植民地産業の柱であると共に、経済の根幹でもありました。国家の安保にもすこぶる重要な役割をしました。しかし‘ウィリアム・ウオールボポーズ’は、奴隷解放が神様の御心であると確信して、奴隷制度を廃止するためにあらゆる努力を傾けました。

王族と貴族、または財閥のような既得権層から激しい脅威を受け、中傷謀略の的となりました。しかし‘ウオールボポーズ’は、「神様の御心が、奴隷解放なのだ。神様の御心があるところには必ず道がある。イギリスのすべての王族、貴族、財閥が総合して脅迫し、攻撃しても、奴隷解放は神様の御心なのだ。イギリスの奴隷は解放されなければならない。神様の御心があるところに道があるのだ。」と繰り返しながら、彼は気落ちすることがありませんでした。毎日、朝の祈りを捧げ、かえって彼の信仰は篤くなっていきました。

彼は、詩と歌などを通して文化的に接近し、嘆願書を提出し、一方、奴隷を働かせて生産された砂糖の不買運動を展開もしました。この他にも多様な方法で大衆の世論を形成していっただけでなく、下院議員の立法活動など、すべての手段を総動員して神様の御心を成就させようと努力しました。結局、奴隷解放と言う神様の御心は、それから46年後である1833年に、イギリスから奴隷制度を廃止するる法案が通過されました。そして、10日後に‘ウィリアム・ウオールボポーズ’は、神様の御心が成就されたという歓喜と感激の中で、天に召されました。

彼は、神様の御心が奴隷解放であることを知ったので、46年間、後ろに退かずに最後まで戦い、信じ通し、奴隷解放を追求した結果、一人の人‘ウィリアム・ウオールボポーズ’、彼の信仰によってイギリスの奴隷解放が合法化されたのです。神様の御心があるところには、必ず道があるのです。たとえ、一人の人が悟った神様の御心ではありましたけれども、これに対するその一人の確信は、ついに偉大な歴史を作ることができたのです。

それでは、神様の御心をどうしたら知ることができるでしょうか?神様の御心を知ったら道があるのですが、神様の御心を知るためにはどうしたら良いでしょうか?と、質問なさる聖徒さんが居られることと思います。皆さん、聖書には、人間に対する神様の御心が記録されているのです。聖書を、私たちは神様の御言葉であると言っています。神様の御言葉は、神様の御心なのです。「創世記」から「ヨハネの黙示録」に至るまで、聖書には多種多様な立場に置かれている人たちに、神様の御心を見せてくださっているのです。

聖書「詩篇119篇105節」に、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』と記録されています。神様の御言葉がともしびとなり、光となって、私たちを導いてくださるのです。神様の御心を知り、私たちが祈ったら、道が開かれるのです。

5万回の祈りの応答をいただいたことで有名な‘ジョージ・ミュラー’牧師先生は、30歳の時に孤児院を始めました。彼がある日、祈りながら「詩篇」の御言葉を読んでいるとき、神様の御心を知ったと言います。『68:5 みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。』と記録されているのです。この御言葉に、彼は引き付けられました。神様は、孤児の父なのだ...。

数多い孤児たちがロンドンの道端をさまよっていたのです。それを見て、胸が痛かったのですが、神様の御心を知らなかったので、その時まで、彼はどうすることもできませんでした。ところが聖書に、「孤児の父は、神様...!」と記録されているのを読んで、“子どもに食べさせない父がどこにいるか?”“神様は、孤児たちに食べさせられるのだ...!”そこで彼は、孤児院の総務になることを決心して、神様の御心に従い、一生涯、ひれ伏して、祈りだけを捧げました。

30歳の時に孤児院を始めてから、93歳の時に天に召されるまでの63年間、彼はひとえに神様にだけ拠り頼んで孤児院を運営しました。彼が生きていた時に祈りの応答としていただいた金額が、無慮150万パウンド、今のお金で換算したら約400億ウオンに及ぶと言われています。彼はただの一度も、人の前に手を伸ばして救済を願わずに、ただ、神様の前にひざまずき、ひれ伏して、神様に祈るだけで、神様から応答していただいたと言うのです。

なぜだったでしょうか?神様は孤児のお父様ですから、当然、神様が孤児たちに食べさてくださる筈なのです。その神様の御心を知っており、信じたので、彼は3,000余名の孤児たちを食べさせ、着させ、教育をさせました。400億ウオンのお金を、ただ祈りを通して、神様から答えていただくことができたのです。

ここで特異なことは、‘ジョージ・ミュラー’牧師先生は、祈られる前に必ず聖書の御言葉を通して、神様の御心を捜したと言うことです。彼は、神様に捧げる祈りの内容が聖書のどこに約束されているかを捜し出して確認した後に祈りました。漠然として祈りを捧げたのではなかったのです。‘ジョージ・ミュラー’牧師先生は、神様の御言葉を捜し出して、神様の御心に拠り頼んで祈ったのです。そうしたところ、神様が解決策を与えて下さった、と言います。

ところが、ある時は、祈る前に何日間も聖書を読みながら、自分が求めようとする祈りの題目が神様の御言葉の中に記録されているか、どうかを、捜して見たと言います。‘ジョージ・ミュラー’牧師先生は、聖書に神様の御心が記録されているという事実を知っていたので、彼は聖書を通して神様の御心を捜したのです。こんにちも、皆さん、私たちが神様の御心が知りたかったら、聖書の御言葉を読み、詳しく考えて見なければなりません。

神様の御言葉をいつも聞き、口ずさみ、御言葉を通して神様の御心を捜し出そうと努力する時、神様は御言葉を通して、私たちに神様の御心を教えてくださり、見せてくださるのです。

また、聖霊様のお導きによって、私たちは神様の御心を知ることができます。聖霊様は、夢や幻を通して、私たちに神様の御心を教えてくださるとか、見せてくださるとかします。皆さん、イエス様の母マリヤをご覧ください。マリヤには、神様の天使ガブリエルが幻の中に現われて、イエス・キリストを身ごもるであろう、と告げました。幻を通して、神様の御心を見せてくださったのです。「ルカの福音書 1章35節」に、『御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」』と記録されています。

マリヤとは婚約した間柄であるヨセフが、二人がまだ一緒にならないうちにマリヤが身重になったことを知って、彼は凄く気落ちしてマリヤとの婚約を破ろうとしました。その時、神様の御心が彼の夢に現われたのです。「マタイの福音書 1章20節〜21節」に、『彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」』と記録されています。

ご覧下さい。マリヤには幻を通して、ヨセフには夢を通して、神様がご自分の御心を見せてくださったのです。東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬を持参して、神様の御子である幼いイエス・キリストの前にひれ伏して拝んだ後、夢を通して、神様からヘロデ王のところへ戻らずに、ほかの道から自分の国に帰るようにと指示されました。「マタイの福音書 2章12節」を見ますと、『それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。』と記録されています。夢を通して、東方の博士たちにも神様が御心を見せてくださったのです。

ダマスコの途上のサウロにも、神様が幻を通して御心を見せてくださいました。「使徒の働き 9章 3節〜7節」に、『ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。』と記録されています。

ここでご覧ください。夢と幻を通して、聖霊さまがこんにちも私たちに語ってくださるのです。すべての夢がみな、神様の啓示であるのではありません。夢に神様の天使が現われて話してくださるとか、イエス様が現われて言ってくださるとか、確かな神様の啓示として現されて神様の御心を話してくださる時があります。夢や幻は、私たちに神様の御心を教えてくれる重要な手段になるのです。

私は、宣教旅行中にアメリカの“ニューオリオンス”で、とても驚くべき体験をしたことがあります。土曜日に飛行機に乗って“ルイスビール”に行き、アメリカの教職者600名を対象に教会成長セミナーをした後、韓国人教会に行ってまた1時間ぐらい講義をして、主日の朝には第2部の礼拝を導き、再び“オクラホマ”行きの飛行機に乗って“テルーサ”に行き、2,000名ほどの聖徒さんたちにメッセージを宣べ伝えました。体があまりにも疲れて水に浸された綿のようになりました。それで、祈ってくれと集まって来られる人たちから逃げるために、その教会の牧師先生の事務室に隠れました。

ところが、どのようにして知ったのか、一人の韓国人の老人がそこへ来られました。そして按手祈祷をしてくれと言われました。その人は肺ガン末期で、もう死にかけているのだと言われながら、シカゴから来たのだと言われました。それで、どうしようもなく私は渾身の力を尽くして祈って差し上げました。そして、尋ねてみました。「どのようにして、あなたは私がここに来たことを知ったのですか...?」すると、彼は驚くべき話を聞かせてくれました。

「私は、牧師先生がアメリカに来られるということを全く知らなかったのです。ところが、夢に、神様が、趙繩(チョー・ヨンギ)牧師が“ルイジアナ”の“ニューオリオンス”に、教職者修養会を導くために来る。訪ねて行って、按手祈祷を受けなさい。」と言われたそうです。それで、電話で、私の行く先を確かめて、“シカゴ”からそこまで来られたのでありました。確かに、私はその人に逢ったこともなく、全く知らない人でありました。ところが夢に神様が啓示してくださったので、訪ねて来ることができた、と言うのでありました。

それで私が、熱く祈ってあげてから、帰っていただいたのですが、私が韓国に帰ってきてから間もなく、その人が私に電話をかけてくれました。「先生から、按手祈祷してもらう前には呼吸も苦しく、ひどく苦しみましたが、按手祈祷をしていただいた日の夕方に、咳をしました。ところが、肺ガンの細胞が喉からどんどん出て来て、今はきれいに癒されました...。」と言うのでありました。夢に神様が現われて、神様の御心を見せてくださったのです。皆さんにも、時々、聖霊さまが夢に現われて、皆さんを導かれることがある筈です。

または、牧師のメッセージや心の悟りを通して、神様の御心を教えてくださる場合もあります。夢でもなく、幻でもないのに、祈りの途中に聖霊さまが心に、静かに、微細に語ってくださいます。私たちの教会の姉妹さんの一人は、卵巣に水のこぶができたので、苦しい中でも断食祈祷院に上って祈りました。そして礼拝の時間に、メッセージが終わって献金する時間になり、準備して行った献金を献金袋に入れる時に、献金奉仕の執事さんが彼女の肩に手を置いて、祈ってくれたそうです。

その瞬間、突然、心の中に「あなたが病気の癒しを受けるために来たんだね。あなたの病気は癒されましたよ!」という、かすかな神様の御声のようなささやきが聞こえたような気がしました。あまりにも有り難く、感激して、家に戻ってきて検査を受けたところ、卵巣の水のこぶがどこへいったのか、きれいになくなっていたと言います。心に、細微で微妙な神様の黙示と悟りを通して、神様が話してくださるのです。「箴言 4章20節」に、『わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。』と記録されています。

「マタイの福音書 11章27節」に、『すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。』記録されているのです、これが啓示を言うのです。心の啓示です。皆さんがイエス様を救い主として信じるのは、神様が聖霊さまを通して御子イエス・キリストを啓示してくれたので信じるのです。イエス様を見たこともなく、イエス様の裾に触ってみたこともないのですが、イエス様が神様の御子であると言う黙示が心の中にあったから、悟るようになったのです。

「ルカの福音書 24章45節」に、『そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて...、』と記録されています。心に黙示が来たら、心が開かれて悟るようになるのです。「マタイの福音書 13章19節」にも。『御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。』と記録されています。

アメリカの“カーネーション・ミルク”は世界的なミルクメーカーで、その他にも色々な乳製品を生産しています。その会社の副社長は、私とは凄く親しい友人です。彼は、霊的でいつも祈りを捧げ、恵み溢れる”アッセンブリーズ・オブ・ガッド“系の教会の執事さんでありました。その人が或る夜、眠りから目を覚まして起き上がり、祈っている時、突然聖霊が彼に臨まれて、このように言われました。「もう直ぐ、ドルが切り下げられるようになり、ドイツのマルクが高騰するはずである。早く持っているドルを精算して、マルクを買い入れなさい...。」

これを聞いて、その明くる日、会社に出勤するや、全世界にある支社に連絡して、ドルは全部売り払い、マルクを買い入れるように...。」と指示しました。そうするや、全社員の間に「うちの副社長が、どこかおかしくなったのではないか?出し抜けにドルを売って、ドイツのマルクを買え、と言うんだ。これ、どうしたことなんだろう...?」大きく騒動が起こりました。しかし、この副社長は神様の黙示を受け入れ、それに対しては自分の首をかけて、全世界に出て行っている支社に連絡して、ドルはみな売り払い、マルクに代えるようにしました。

ところが、約10日程が過ぎた後、‘ニクソン大統領’が突然、ドルの切り下げを断行しました。自然とドルの価値は落ち、マルクの価値が高くなりました。ドルをマルクに代えたこの会社は、いきなり大金持ちの会社になりました。数千万ドルものお金を瞬間的に儲けたのです。全社員が「うちの副社長は天才だ。どんなにしてそのようになることを知ったんだろう...?」と言いながら感嘆しました。

ついにはFBIから調査を受けることになりました。FBIの調査官は彼に、「もしかして、‘ニクソン大統領’と事前に共謀したのではないか?そうでなくては、どうしてドルが切り下げられる10日前に会社のドルを全部売って、マルクを買うことができたか…?」と尋問しました。それに対して副社長は、「私は、‘ニクソン大統領’と共謀したことがありません。私は、‘ニクソン大統領’の心を知っておられる聖霊さまと交わっており、聖霊さまから黙示をいただいただけです...。」と答えたと言います。

聖霊さまが与えられる知識と知恵の御言葉の賜物によって、その副社長は会社に大きな利益をもたらしただけでなく、その代価として高額のボーナスを貰い、今は神様に益々熱心に仕えながら、この世の仕事はせずに豊かに暮らしております。

私たちが祈る時、聖霊さまが私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を啓示してくださるのです。ですから、夢と幻だけではないのです。私たちの心に黙示と悟りをあたえてくださって、私たちに神様の御心を見せてくれるのです。

そして又、もっとも平凡に神様の御心を知る道は、心の中に湧き起こる希望を通して神様の御心を知ることもあります。「ピリピ人への手紙 2章13節」に、『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』と記録されています。「詩篇107篇30節」には、『波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。』「詩篇 10篇17節」には、『主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、』と記録されているのです。

祈る時、限がない望みが心の中に湧き起こります。それは朝起こってから、夕方になったら消え去る、そのようなものではありません。火のように燃え上がる望みです。寝てから起きても、その望み、目が覚めたらその望みでいっぱいになります。それは頭の中で起こる望みではなく、腹の奥底から湧き上がる望みです。祈る時、望みの火の柱が心の中から燃え上がるのです。“その家を買いなさい。”“その土地を買いなさい。”聖霊さまの導きを通して、“その事業をしなさい。”“その事業は早く売り捨てなさい。”“その人と結婚しなさい...。”と、色々教えてくださるのです。

私たちが祈り、求める時、腹の奥底から溢れ出る望みがあります。軽く思い出すような、そんな望みではありません。雲の柱のような、火の柱のような望みが腹の底から湧き起ります。いくら消そうとしても、忘れようとしても、なくなりません。そうした時が、神様が私たちを導こうとなさる時なのです。

また、神様は、強力な望みを持たしてくださりながら、同時に環境を通して私たちを導かれる時もあります。私たちは、言わば「鈍感」なのです。それで、私たちが置かれている環境を通して神様が私たちに悟らせてくださる時があるのです。

ペテロが、ヨッパのシモンと言う皮なめしの人の家に泊まっている時、或る日、昼の食事の用意がされている間、屋上に上って祈っているところへ、天から大きな敷布のような入れ物が降りて来ました。その中には地上のあらゆる種類の動物などがいっぱいに入っていました。神様が、「さあ、ほふって食べなさい。」と言われました。ぺてろは、「それはできません。きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答えました。すると神様が、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない...。」と言われました。こんなことが3回繰り返されてから、その入れ物が天に引き上げられました。

ペテロが、これはどう言うことだろうと思い惑っている時、外で声をかける人がいました。「ここに、ペテロと言う人がいるでしょうか?」それで、誰かが「どなたでしょうか?」と尋ねました。すると彼らは、「百人隊長から遣わされて、シモン・ペテロという人を訪ねて来た者です。ここにそう言う人がいますか...?」と聞き返しました。その時、聖霊さまが、ペテロにこう言われました。

「使徒の働き 10章19節〜20節」の御言葉です。『ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」』

百人隊長コルネリオは、ローマの軍人でありました。彼が神様の啓示をいただいて、皮なめしのシモンの家にいるペテロを招くために使者を送りました。当時、ローマ人、特にローマの軍人はキリスト者たちを迫害する階級の人たちでありました。従い、キリスト者たちはローマの軍人たちを忌み嫌いました。

夢うつつの中でみた幻が何を意味するのか、ペテロは解き明かすことが出来ずにいました。そこへ、ローマ軍人たちが来て彼に会いたいと申し込んだのです。ペテロは、そこで悟りました。自分が夢で見た「神様がきよめた食べ物」とは、このローマの軍人たちであったのです。幻を通して見たものと、環境の中で起こったことの内容が一致したのです。それで、これは神様の御心であると知ったペテロは、彼らと一緒にコルネリオの家に行きました。

コルネリオの家に行ったペテロは、集まっている人たちに御言葉を証しして聞かせ、そこに聖霊のみわざが起こって、異邦人たちにも五旬節の運動が起こった事件を、私たちは聖書を通して知ることができます。このように、神様はこんにちも、御言葉を通して、夢や幻を通して、黙示とか悟りを与えてくださり、心に熱い望みを持たせて、又は周囲の環境を通して私たちに神様の御心を見せてくださるのです。

私たちの信仰生活の中で、もっとも重要なのが神様の御心を知ることです。御心を知ったら、道が開かれるのです。神様の御心だけ知ったら、どのような悪条件が押し寄せて来ても、道は開かれるのです。恐れる必要がありません。「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」と言われたのです。神様の御心だけ知ったら、私たちの知らない、理解を越えた大いなる奇跡が起こるのです。




第三、信仰で行いなさい。

私たちが神様の御心を知ったなら、信仰で行わなければなりません。神様の御心を知ったなら、目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものがなくても、信仰によって行動しなければならないのです。神様の御心を知ったなら、道は神様が開かれるのです。私たちが自分で開くのではありません。「御心を知ったら、道が開かれる!」信仰で進めて行かなければなりません。

神様の御心を知っていながらも、それを信じなかった10人の偵察隊員をご覧ください。神様の御心は、イスラエルの民たちが乳と蜜の流れるカナンの地に入ることでありました。そうであるとしたら、信じて、入って行かなければなりません。ところが10人の偵察隊員たちは、「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。私たちは、そこを占領することはできない。私たちも家族たちも捕虜にされるだろう...。」と言って、神様の御心を知っていながらも、信じようとしなかったのです。

彼らは、人本主義的に考えました。神様の御心を知っていながらも信じなかったので、神様は彼らに向かって怒りを発せられました。「ヘブル人への手紙 3章18節〜19節」に、『また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』と記録されています。

しかし、ヨシュアとカレブは神様の御心を知っていましたので、いくら住民を食い尽くす地であっても、城壁が高く築かれてあっても、強く、背の高い者たちが住んでいても、神様の御心が入って行くことなのだから、道は神様が開いてくださる。入って行こう。神様が、彼らを私たちに餌としてくださったのだ。入って行こう...!神様の御心を知って、無条件に信じて入って行った彼らは、子孫と共にその後カナンの地に入って行くことができましたが、神様の御心を知っていながらも、それに逆らったイスラエルの民たちと10人の偵察隊員はみな、滅亡されてしまったのです。

皆さん、イエス様が或る日、荒野に出られました。男だけ5,000名、婦女子を合わせたら幾万名もの群集が来て御言葉を聞きました。ところが日暮れになりました。腹が減った群集が草原に座り込んでしまいました。その時、イエス様がピリポを呼んで言われました。

「ヨハネの福音書 6章 5節〜7節」に記録されている御言葉です。『イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」』

神様の御心を、既にイエス様はピリポに見せてくださったのです。どこからパンを買って来て、この群集に食べさせようか...?それは、主が彼らに食べさせたいと望んでおられることです。確かに、主の御心を見せてくださったのにも拘わらず、ピリポは主の御心に自分の解釈を添えました。「主よ。ここは荒野です。もう時間的にも遅いです。パンを買うところもなく二百デナリのパンがあっても足りません。どうにも仕方がありません。」人間的な考えで神様の御心を解釈してはならないのです。人間的な考えで神様の御心を解釈したら、何もできないのです。

神様の御心があったら、道は神様が拓かれるのです。目には何も見えず、耳には何も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、道は神様が拓かれるのです。イスラエルの民たちが荒野で肉が食べたいと喚く時、モーセが神様に呼ばわり、祈り求めるや、神様が1〜2日でもなく、1ヶ月もの間肉を食べさせようと言われた時、モーセは気が遠くなるのを感じました。

「民数記 11章22節〜23節」に、『「彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」』と記録されています。ご覧ください。モーセまでも、イスラエルの民300万名に1ヶ月間肉を食べさせて上げると言われた時、到底人間としては信じられないので、「彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか?」と聞き返しました。その時、神様が答えられました。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」神様の御心があるところには道が開かれるのです。

「マタイの福音書 13章58節」にも、『イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。』と記録されています。御力を働かせるのが神様の御心なのですが、人たちが信じないことには、神様はみわざを働かせないのです。「ルカの福音書 8章25節」にも、記録されています。『イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』

御心があるところに道があることを信じて、行わなければなりません。アンデレをご覧ください。アンデレは、「そうなんだ。イエス様の御心はこの群集を食べさせることなのだ!」アンデレは、ピリポと同じ主の弟子でありました。イエス様から何の質問もいただきませんでしたけれども、「この群集に食べさせたいのが主の御心なのだ!」と悟って、群衆の中を駆け回り、幼い少年がお昼の弁当として持っていたパン五つと魚二匹を譲ってもらって、恥ずかしがりながらイエス様の前にそれを持って来ました。そして言いました。「主よ。この大勢の人たちに麦のパン五つと魚二匹でどうしようもないでしょうけれども、しかし、主の御心があるところに奇跡が起こることを期待して、持ってきました…。」

主が喜んでくださって、ピリポは論外にし、アンデレの心を受け入れられて、麦のパン五つと魚二匹を手にして神様に感謝してから、男だけで5,000名に及ぶ大群衆が腹いっぱいに食べて、そして12の籠に余りを残す奇跡を施されました。御心があるところに、道は必ず主が開いてくださいます。

「マルコの福音書 9章23節」に、『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』「マルコの福音書 11章23節」に、『まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。』「ヨハネの福音書 15章 7節」には、『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』と記録されています。

神様の御心であったら、不可能な中でも道が開かれるのです。神様の御心があるところに、紅海の道が開かれ、御心があるところに、苦い水が甘くもなり、御心があるところには、マナも降り、鶉も来るのです。

牧会者であり、伝道者であった‘メッコイ牧師’先生は、50年間の牧会を終えて71歳の時に引退式を挙げました。ところが、この時、インドから来られた一人の宣教師先生がこの引退式に参加しましたが、‘メッコイ牧師’先生にインドに宣教師として来てください、と要請しました。引退式に参加して、その引退者に、宣教師としてインドに来てくださいと頼んだのです。その宣教師は講壇に立って、宣教に献身しなければならない理由に関してメッセージを宣べ伝えました。そしてメッセージを終えてから、‘メッコイ牧師’先生に近づいて来て、言ったのです。

「神様が、インド宣教を任せたい方を会衆の中から探して居られるとは思いません。神様は、今日引退なさった‘メッコイ牧師’先生、あなたを適任者であるとしてインドに招いておられるのだと、私は思います。」‘メッコイ牧師’先生はびっくりと驚かれました。「宣教師先生、今、何と言われたのですか。私の年71歳で、今日引退式を挙げたんですよ。私に、これからインドに宣教師として来いと言われるのですか?私は海外に出たこともありませんし、飛行機に乗るのも怖くて嫌です。私には無理なお話です。私は、出かけられません…。」

 そうした後、家に帰って来た‘メッコイ牧師’先生は、ひとり笑いをしながら「ほほー、50年の牧会を終えて、私が今、引退したのに、私にインドに来なさいと…?」そうして祈りを捧げているのに、聖霊さまが「そうなんだよ。わたしの心は、あなたが宣教師として新しく出発することです!」と言われるのでありました。‘メッコイ牧師’先生は尻餅をつかんばかりに驚いてしましました。神様の御心が臨んだのです。「主である神様!私は年が71歳です。もう年を取ってしまって力がありません。どうしますか…?」

「それは、わたしに任せなさい。あなたは、わたしの言うことを受け入れるだけで良いのです!」それで、‘メッコイ牧師’先生は、人間的な考えと理性と判断を主の足元に下ろして、神様のお召しに従順に聞き従うことに決心しました。彼は、71歳の時にインドに向かって出発し、その後15年間、インドで宣教師として働き、立派に成功して、数多くの人たちを救い、教会も建てて、86歳の時に天に召されるまで、‘メッコイ牧師’先生は全世界を駆け回りながら福音を宣べ伝え、多くの人たちをキリストの許に導くことができました。

神様の御心があるところに、道は開かれるのです。“私はできません。”“私は駄目です。”“私には力がありません。”と言う言葉を口にだしてはいけないのです。神様の御心であるなら、信仰で前進しなければなりません。目には何も見えず、耳には何も聞こえず、手には何も触れるものがなくても、理性とか感覚的な判断によって迷わずに、神様を信じ、神様に拠り頼み、その御声に従順に聞き従ったら、神様の奇跡はその後から付いて来るようになるのです。

神様は、モーセの後継者ヨシュアに、神様の御心をはっきりと話してくださいました。「ヨシュア記 1章 1節〜4節」に、『さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。』と記録されています。

ヨシュアに、神様が御心を確かに見せてくださいました。その時、ヨシュアが聞き返すこともできたはずです。「主よ。とてもできません。訓練も、武装もできていない、ただの群集に過ぎない民たちを率いて、立派に武装されているカナンの地の七部族がいるところへ攻め入って、そこを占領することはとても不可能です…。」しかし、ヨシュアはそのような疑問に対して神様に質問したりはしませんでした。なぜでしょうか?神様の御心であったら、必ず道があるという信仰があったからです。

神様の御心であったら、必ず道があるのです。しかし、その道には苦難も試練もあるのです。しかし神様の御心は、絶対に成就するのです。聖書「ヨシュア記 1章 9節」に、『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』と記録されています。

神様の御心を知ったら、強く、雄雄しく、恐れずに、信仰で押し進んで行く皆さんとなりますよう、主の御名によって祈ります。

そのような大胆な信仰で生きて行く時、主が言われるのです。「あなたの信仰通りになりますように!」「できるならと言うのか。信じる者には何でもできるのです!」神様の御心があるところに、道があるのです。




お祈り

全知全能であられ、聖き、父なる我が神様!

神様の御心があるところには、どのような逆境が押し迫って来ても道が開かれます。

私たちが皆、神様の御心を知ることができるように助けてください。そして、神様の御心を知ったなら、少しも気落ちすることなく、後ろを振り返り見ずに、強く、雄雄しく、大胆に、祈りながら進んで行くように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!