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「苦難の道は栄光に通じる」
 






■聖書箇所
「コリント人への手紙 第二 4章17節〜18節」
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。




今日、私は皆さんと共に、『苦難の道は栄光に通じる』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

苦難は、人生を深みがあるようにし、同じく苦難に会っている隣人を、胸から深く、熱く同情するようにしてくれます。それだけではなく、苦難は、それを克服したいという意志を起こさせ、それによって新しい人生を作り出すことができるようにします。

私たちクリスチャンも苦難に会ったら、真摯になって、熱く神様を探し求めて祈るようになり、信仰が向上し、神様の御答えを体験する栄光を得るようになります。聖書に記録されているすべての神様の栄光は、苦難の挑戦に対する神様の御答えとして現われたのです。





第一、旧約時代の挑戦と神様の栄光

第1番目に、旧約での苦難に対する挑戦と神様の栄光を、私たちは数多く見ることができます。イスラエルの民たちが、430年の間奴隷生活をしていたエジプトから離れ、彼らが紅海の海岸に着いた時、想像を超越する苦難に会うようになりました。300万名のイスラエルの民たちが紅海のほとりに来たのですが、彼らの前をなみなみとした海がさえぎっていました。ところが、エジプトの王パロが変心して、イスラエルの民たちを再び捕虜にしようとして、全軍を引き連れて疾風怒涛のように追撃して来ました。

イスラエルの民たちは完全にサンドイッチになりました。前は紅海の海がさえぎっており、後ろからはエジプトの大軍が押し迫って来ていました。彼らは、絶望に落ち入りました。全イスラエルの民たちが声を上げて泣きました。彼らは絶対絶命の状況に置かれて、モーセを恨み始めました。

「出エジプト記 14章10節〜11節」に、『パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。」』と記録されています。

神様を恨み、モーセを恨み、彼らには生きる道がありませんでした。もう皆が大量虐殺に会うしかありません。しかし、彼らの苦難には一つの違う点がありました。それは、一方的に一般の人たちは苦難に会ったら絶望するしかありませんが、イスラエルの民たちは、神様が彼らと共に居てくださる民たちであったのです。彼らが恐ろしい虐殺の目に会う直前に置かれていましたが、彼らの中には神様に呼ばわり祈る人がいたのです。

イスラエルの民たちは皆、恨み、不平を口にしましたけれども、その中の指導者であるモーセは神様を知り、彼が地にひれ伏して神様を拝み、呼ばわり祈った時、彼は神様の御声を聞くことができました。どのような苦難の時でも、そこに神様が共に居てくださったら奇跡が起こるようになるのです。苦難の時に、神様に呼ばわり祈らなかったら、神様がみわざを働かしてくださいませんけれども、呼ばわり祈ったら、神様の御手が動き出すのです。

苦難がなかったら、人たちは呼ばわり祈ることもせず、呼ばわり祈らなかったら、神様のみわざも起こらないのです。モーセが、神様に呼ばわり祈ってから、神様の御答えを聞き、彼はこのように言いました。「出エジプト記 14章13節〜14節」に、『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』と記録されています。

苦難がなかったら、主である神様が現われてくださる必要もありません。また、栄光のみわざもほどこされなかったでしょう。苦難があるが為に、苦難の問題を解決してくださる神様が現われてくださり、栄光のみわざを働かせてくださるのです。モーセの祈りを通して、神様は前代未聞の奇跡を行われました。それは聞いたことも、思って見たこともない奇跡でありました。海が分かれるとは、どうしたことでしょうか。イスラエルの民たちが海の中を陸地を歩くようにして渡りました。

その後を追撃して来たエジプトの大軍の上には、海の水が元に戻ってかぶさり、全軍が海の水に溺れて死んでしまいました。偉大な神様の栄光が現われたのです。苦難があったために、神様の栄光も現われた、と言うことを知らなければなりません。苦難がなかったら、このような神様の栄光の記録が聖書に残っていなかったはずです。苦難は辛いものです。けれども、しかし神様の栄光をもたらす道になることもあるのです。

彼らが荒野に出て行き、三日間、荒野を歩きましたが水がありません。また、苦難に瀕しました。太陽は照り輝きます。焼けつくような熱さでありました。全身の水分が蒸発して喉は渇き、唇が腫れあがりました。彼らは、水を飲ませてくれと大騒ぎをしました。そうする途中に、池の水を発見しました。飛んで行って飲んでみましたが、水が苦くて飲むことができません。苦難が押し寄せて来ました。水を発見はしましたが、苦いので飲むことができなかったのです。彼らは挫折と絶望に落ち込みました。

再び、イスラエルの民たちは叫び、喚きました。「モーセよー。水をくれ。水を飲ませてくれ...。」苦難が襲ってきました。人間の力では解決することのできない苦難でありました。しかし、神様には、驚くべき機会が近づいてきたのです。苦難がなかったら、栄光もありません。苦しい目に会わなかったら、神様のみわざが現われる機会もないのです。それで、「出エジプト記 15章25節」に、『モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。』と記録されています。

神様は、既に、その苦難が彼らを襲い、モーセが祈るであろうことをご存知なので、備えて置かれたのです。その苦い水の池のそばに一本の木があり、その枝を折って水に投げ入れたところ、水が甘くなったのです。これは、何を意味することでしょうか。苦い水があったら、その水を甘くする木の枝もそばにある、と言うことです。神様は、問題の解答をいつも私たちのそばに備えて居られるのです。

私たちが神様に呼ばわり祈らなかったら、解答も現してくださいませんが、呼ばわり祈ったら、問題の解答を発見することができるようにしてくださるのです。問題があったら、解答も近いところにあるのです。また、問題があってこそ、神様の栄光が現われるのです。神様の栄光は、苦難を通して現われるのです。

イスラエルの民たちが荒野に足を踏み入れた時、本当に難しい苦痛に落ち入りました。300万名がいきなりエジプトから出て来たのですが、食べる食糧を準備せずに出て来ました。食糧を準備したとしても、300万名が食べるのですから、その量を充当すると言うことは、とてもできないことです。彼らは、荒野でもう飢え死にするしか道がありませんでした。

「出エジプト記 16章 2節〜3節」に、『そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」』と記録されています。

食べ物がないのですから、飢え死にするしかありません。想像を超える一大事件です。300万名をどのようにして、1日3食ずつ腹いっぱいに食べさせることができるでしょうか。思って見たこともない絶望にぶつかりました。しかし、どのような場合にも私たちが知らなければならないことは、絶望は、神様が現われる機会となる、と言う事実です。人間にできることには、神様が現われてくださる必要がありません。人間ができない時に、神様が現われてくださるのです。

彼らが、もう皆、死ぬしかないと思った時、神様を探し求めたので、神様の奇跡が現われました。「出エジプト記 16章 4節」の御言葉です。『主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。」』 歴史上、聞いたことも見たこともない、偉大な奇跡である“マナ”が天から降る神様のみわざが起こったのです。

これは、イスラエルの民たちが荒野で食糧を調達することができずに、絶望に落ち込む苦難に会ったので、それに対する解答として神様の栄光が臨んだのです。また、彼らが一時、肉を食べさせてくださいと呼ばわり祈ったので、神様が“うずら”を送られました。“うずら”が飛んできて陣に落ちるようになさったので、彼らは肉をたらふく食べることができました。

「申命記 8章15節〜16節」の御言葉です。『燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』

主の御心は、私たちが苦しみに会って破滅するようになさることではありません。苦しみを通して砕かれ、練られ、悔い改めて、神様に呼ばわり祈るようにすることによって、主の栄光を現してくださって、ついには苦しみが変じて幸いとなるようにするのが、神様の御心なのです。神様を信じない人には、苦しみが幸いに変じることはありません。苦しみが禍となり、滅亡の原因となることがあります。

しかし、神様に拠り頼む人には、苦しみが神様の御手が現される機会となり、苦しみを通して練られて、変化され、信仰が篤くなり、過ぎし日よりもっと良くなることができる機会が提供されるのです。苦難+(プラス)聖徒の祈りは、いつも有益をもたらすのです。

しかし、苦難の時に祈らず、落胆し、挫折し、絶望してしまったら、その苦難は破滅する墓となることがあります。苦難が墓となるか、栄光になるかは、聖徒さんたちの祈りによるのです。神様が共に居てくださる聖徒さんたちは、祈ったら、天と地とその中のすべてのものを造られ、世界と宇宙を支配しておられる神様が苦難をいともたやすく変化させて、神様の栄光が現われるようにしてくださるのです。






第二、新約時代の挑戦と神様の栄光

第2番目に、新約時代の挑戦と神様の栄光を、私たちは見ることができます。イエス様がこの世に来られて天の御国を宣べ伝えられる時も、苦難が新約聖書に美しい神様の奇跡の歴史を記録するようにしました。苦難がなかったら、主の奇跡が現れることはなかったのです。主が私たちの中で救い主となられ、私たちの中に居られて、御力を現してくださった証拠は、実に苦難を通して起こったのです。

イエス様が、母マリヤと弟子たちと共に、ガリラヤのカナでの婚礼に招かれました。婚礼の宴会が絶頂に達しかけた時に、ぶとう酒が切れてしまいました。イスラエルの国では、ぶとう酒が宴会にはなくてはならない主要飲み物です。ぶとう酒が切れてしまったら、その宴会は一気に喜びが冷め、新婚夫婦はしごく困難な立場に落ち入ります。人間の力ではどうすることもできない、突然の絶望的な事件発生でありました。イエス様の母マリヤが、イエス様に近寄って行って「ぶとう酒がありません。」と言いました。

主の奇跡を、「ヨハネの福音書 2章 7節〜8節」は次のように記録しています。『イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。』…持って行ったところ、水がめの水が立派なぶとう酒になっていたのです。

その家には、ユダヤ人の清めのしきたりによって、手足を洗う石の水がめが六つ置いてありました。主が、水がめに水をいっぱい満たしなさい、と言われました。人たちが従順に聞き従って、水を水がめの縁まで満たしました。すると主が、その水を汲んで宴会の世話役のところに持って行きなさい、と言われました。持って行って上げたところ、それが立派なぶとう酒になっていたのです。

主が、カナの婚礼で最初の奇跡をほどこされました。「ヨハネの福音書 2章11節」に、『イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。』と記録されています。

苦難が近づいたら、主の栄光も近づいて来ます。難儀なことが近づいて来たら、キリストの御力が現われるのです。皆さん、主の栄光を体験したかったら、苦難を恐れてはなりません。苦難のトンネルを通り過ぎたら、主の栄光が待っているのです。苦難の深い谷に落ち込んだら、栄光の高い山の頂も近づいて来るのです。苦難を避けたら、栄光も近づいては来ません。苦難がなかったら、神様の御力も現われないのです。すべての神様の栄光は苦難を通して現われ、苦難は栄光に近づく近道であることを知らなければならないのです。

聖書を見ますと、ラザロの死は、マルタとマリヤには大きな悲劇でありました。幼い時に早く父母を失い、お兄さんラザロを頼って暮らすベタニヤの或る貧しい家庭の人たちでありました。彼らは非常に仲がよく、それで、イエス様もラザロとマルタとマリヤを愛されて、エルサレムに来られたら、夕方にはベタニヤに行かれて彼らの家に留まられ、彼らを祝福してくださいました。

ところが、イエス様がヨルダン川の向こう側、遠いところに居られる時、ラザロが病気に罹りました。マルタとマリヤの姉妹がイエス様に使いを送り、「兄さんラザロが病気です。」と知らせました。“ラザロが病気に罹ったのですから、早く来られて癒してください…。”しかしイエス様は、その知らせを受け取られてからも、姉妹のところにお出でになりませんでした。

ラザロは死に、墓に入れられてから4日が経ちました。イエス様が、なぜ来られなかったのでしょうか。ラザロが死ぬ、その凄絶な絶望があってこそ、イエス様がよみがえりであり、命であることを証明することができるからです。死ぬ人があってこそ、生き返らす奇跡を現すことができるのです。生きて居るのでは、イエス様がよみがえりであり、命である奇跡を現すことができないからです。

「ヨハネの福音書 11章 4節」に、『イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」』と記録されています。死んでこそ神様の栄光が現われ、死んだ人があってこそイエス様がよみがえらせるので、神様の御子が栄光を受けることができると言うことです。従って、苦難の道は栄光に通じるのです。

イエス様が来られて、死んでから4日も経ったラザロの墓の前に立たれました。そして、墓の入口に立てかけてある石を、「取り除けなさい。」と言われました。マルタとマリヤは、首を左右に振りました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。ラザロが死んで、墓に入れられてからもう四日になりますから…。」人たちに臭い匂いがするのですから、もう終わったのです。しかし神様には、死んで1日が経とうと、2日が経とうと、千年が経とうと、万年が経とうと、関係がありません。神様は“無から有を創り出される”お方なのですから、御言葉「一言」があったらどんなことでもできるのです。

そのことを証明なさるために、ラザロが死んで墓に入り、4日が経って腐敗し、臭くなるまで待たれたのです。イエス様が大声で、「ラザロよ。出て来なさい!」一言言われるや、ラザロは生きて起き上がり、立って、歩いて出てくるようになりました。ラザロは、手と足を長い布で巻かれたまま、顔は布切れで包まれたままで出て来ました。その場でイエス様は、言われました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

これを通してイエス様は、世の終わりの時に、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られて、「起き上がりなさい!」と言われたら、主にあって死んだ人たちが、数百年、数千年も過ぎた墓からも起き上がることを予め見せてくださったのです。主は、よみがえりであり、命なのです。イエス様の御声一声で、どんな死に方をした人もみんな生き返るのです。従って、イエス様を救い主として受け入れた人たちには、死は一つの、キリストの栄光が現される機会となるのであって、絶望ではない、と言うことを主が見せてくださったのです。

人間の絶対絶望である死も、イエス様の前では何事でもありません。イエス様が十字架に上られて、私たちの罪を代わりに担われ、悪魔と世俗を負われ、疾病と呪いと死を引き受けられて、十字架の上で身を裂き血を流されながら死んでくださいました。人たちは、イエス様がもうこれで最後なのだ、と思いました。弟子たちも、彼らの希望がもう完全に絶たれたのだと思い、挫折と絶望で失意しました。

ローマの軍人たちは、イエス・キリストが死なれた十字架の下で、くじを引いてイエス様の着物を分けました。大祭司とかパリサイ人とかサドカイ人たちは、祝杯を上げました。イエス様に従っていた人たちは、挫折と絶望でみんな思い思いの道に散らばって行きました。ところが、イエス様は、墓に入れられてから三日目によみがえられ、墓の石の扉を取り除いて出て来られました。イエス様は、死なれたので、よみがえることができたのです。

イエス様が死なれなかったら、よみがえりのみわざが起こることはできません。神様の御子がなぜ、死んだのか、と人たちは言いますが、キリストが死なれたので、その死を通して罪を贖われ、悪魔と世俗に勝たれ、疾病と呪いを克服なさり、永遠なる滅亡と地獄を克服されて、遂にはよみがえられて命と勝利の主となることができたのです。それで神様は、イエス・キリストを通して永遠なる勝利を証明なさったのです。

死があってこそよみがえりもあり、死んだ人がいるから生き返る人もいるのです。イエス様が死なれたから、よみがえりとなられ、命となられました。それで、今からはもう永遠に死亡と陰府(よみ)の鍵をその御手に握るようになられたのです。

「コリント人への手紙 第一 15章55節〜57節」に、『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。』と記録されています。

もう私たちは、イエス様ににあって死にも勝ち、墓にも勝ち、永遠なる天国の栄光で胸がいっぱいになれたのは、イエス様が死に打ち勝たれて勝利の種となられ、私たちの中に入って来て居られるからなのです。ですから皆さん、死の苦しみは栄光の門が開かれるようにするのです。死の絶望が、よみがえりの永遠なる栄光を成就するようになったのです。

「ヨハネの黙示録 1章17節〜18節」に、『それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。』と記録されているのです。

孔子は、素晴らしい宗教を与えてくれました。釈迦も、立派な宗教を与えてくれました。‘ソクラテス’は、哲学を与えてくれました。しかし彼らは、死んだ後に生き返ることができなかったので、命の大王となることはできませんでした。イエス様が、もしもよみがえられなかっとしたら、孔子とか、釈迦とか、‘ソクラテス’とかと違う点がなかった筈です。しかし、死と言う巨大な絶望の壁にぶつかって散々に砕かれてしまうしかない時、その死を克服して起き上がることによって、キリストは、ただの教訓者、宗教家、哲学者ではなく、「わたしは、よみがえりです。命です。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言われたことを証明なさったのです。

苦難は、栄光をもたらす機会となるのです。私たちに数多い様々な苦難が押し寄せて来ますが、私たちが祈ったら、その苦難を克服する神様の栄光が現われて、これを通して私たちに、より素晴らしい勝利の人生を体験するようにしてくださるのです。






第三、私たちの人生の挑戦と神様の栄光

第3番目に、私たちの人生の挑戦と神様の栄光に関して、私たちは知らなければなりません。人たちは、この世を生きながら無数の苦難に遭います。苦難に遭わない人は誰もいません。大きな苦難に遭う人、小さな苦難に遭う人...、人ごとに差異はあります。しかし、すべての人は苦難に遭います。「ヨブ記 5章 7節」に、『人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。』と記録されています。火を燃やしたら、火の粉が天に上がって行くように、この世に生まれた人は皆、苦難に遭うと言ったのです。

また、私たちが罪を犯したら、それを悔い改め、真理を悟るようになさるために神様が私たちに苦難の目に遭うようにすると仰せられました。「ホセア書 5章15節〜 6章 1節」を見ますと、『彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」』このように言うようになる、と言うのです。

人たちは、“衣服が立派で、腹満ちる”と、神様を捜し求めません。苦しく、悩ましかったら、「主に立ち返ろう!」と叫びます。神様は、私たちが罪を犯し、不義を行い、醜悪な生活を営む時は、私たちから御顔をそらして私たちを荒野に捨て置かれます。しかし、その苦しみの中から人たちは悔い改めて、神様の許に立ち返る、と言われたのです。

それでは、神様は私たちの苦難をご存知でしょうか?数多くの人たちは、“私が苦しんでいることを、誰が知ってくれよう。神様も知ってはくださらない。私がいくら叫び祈ろうとも、神様がどんなにしてそれを聞かれ、それに答えてくださるだろうか…?”と否定的に考えます。しかし、私たちが知っていなければならないことは、私たちの髪の毛さえもみな数えて居られる神様です。従って私たちが会っている大小様々な苦難をすべて、神様はご存知なのです。

「イザヤ書 40章27節〜31節」に、『 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』と言われているのです。

「私の苦しみは神様の前に見えず、私の正しい訴えは、神様から見過ごしにされている。」と主張しても、実際には、神様はそれらすべてをご存知である、と言うのです。ですから、主である神様を待ち望んだら、神様がすべて聞き叶えてくださるのです。

私の声が、少なからず嗄れています。今回の香港での聖会の時に、どんなに暑いのか、溶鉱炉の中のようでありました。ところが、雨が降って湿気が高く、じっと座っていても汗がだくだくと流れました。その上に、運動場である聖会の講壇には風が吹き付けて、それを吸い込みながらの説教ですから、声が嗄れてしまいました。

皆さん、去る3年間、香港ではリバイバルのための聖会が開催されませんでした。それで、久しぶりに香港の人たちに福音を証ししょうと、香港聖会に呼ばれて行ったのですが、ちょうど雨季なので、どんなに凄い雨が降るのか、表現することができません。それで私が、“神様は、この事情をご存知だろうか...?”と思い、一日中、部屋の中にひざまずいて祈りました。“この聖会は、神様の聖会です。雨がすごく降るので、人たちが集まって来るか、どうか、心配で息が止まりそうです。主が、この雨を降らないようにしてくださらなければ、結果がどうなるか分かりません…。”継続して祈りました。

そうした後、私が部屋の窓を開けて外を眺めました。まだ土砂降りは継続していました。聖会の時間は刻々と近づいて来ています。“神様は、この実情をご存知でないのだ。私一人で悩んでいるのだ...。”と思いました。ところが、ワシ(鷲)が2羽飛んで来て、ホテルの窓から外を眺め回している私の前を2〜3回旋回してから、天に高く飛び上がって行きました。見えなくなるまで高く、雲の向こうに飛んで行きました。

その時、私は聖霊さまの御声を聞きました。「ワシが、天高く翔け上がって行くのを見ただろう。低気圧の時には、ワシが空高く翔け上ることはしないよ。高気圧になったら、上昇する気流に乗ってワシが天高く翔け上がるのだ。わたしが風を送って、すでに高気圧を造成し、低気圧の雲が離れ去るようにしたよ…!」皆さん、神様の御答えがワシを通して現われたのを、私は生まれて初めて体験しました。瞬間、低気圧であった私の心も、高気圧に変じてしまいました。

ワシは、雲が低く立ちこみ、低気圧の時には上昇する気流がないので空高く翔け上がることがありません。ところが、現在雨が降っているのにも、ワシが2羽、ホテルの部屋の中にいる私の目の前を旋回してから、空高く翔け上ったのです。なぜ、香港市内に突然、ワシ2羽が現われたのでしょうか?そしてなぜ、私の目の前を旋回してから、他の方向でなく、天に高く翔け上がったのでしょうか?

神様が、「あなたの苦情を聞いたよ。見なさい。高気圧になるよ。低気圧は流れ去って、気圧が上昇し、それで雲が高くなり、雨は止むのだ...。」皆さん、集会直前まで降っていた雨が、私たちが集会の場に入るや、止みました。これが、大きな奇跡なのです。

明くる日も、同様でありました。車に乗って集会場所まで行くのに、雨が降っていたのです。それで、「主である神様!昨日は幸いに雨が止んでくれたのですが、今、集会場所に向けて車を走らせているのに、雨が降っています。何故でしょうか?どうしたら良いでしょうか...?」祈りに祈りました。ところが、聖霊さまのささやきが聞こえてきました。「これは、天の自然エアコンだよ。雨が降らなかったら、暑くてメッセージを宣べ伝えるのに大変だろう。集まった群衆もそうだろうしね。涼しい雨が降らなければならないのだよ...!」

そうです。雨が降らなかったら、暑くて大変です。ところが、雨が降ってくれるので、暑さが退き、涼しくなりました。集まってきた群集にも有り難い雨でありました。私が講壇に登った時、雨は止み、風が吹いてきました。何本も残っていない私の髪の毛が全部、荒れ狂うように風に吹かれてなびきました。どんなに涼しかったか知れません。本当に、涼しい中で御言葉を宣べ伝えることができました。

神様が、私たちの事情をご存知でない、と思われる時が多いです。しかし、神様は私たちのことをすべてご存知なのです。神様が、私たちの立つ、座ること一切を知って居られると言う事実を私たちは知らなければなりません。どうして上げたら良いのか、主はご存知なのです。

ある日、イエス様が弟子たちを連れてベッサイダの広野へ行かれました。男だけ5千名、婦女子を合わせて何万名の人たちが集まって来ました。御言葉を聞いてから、夕暮れになりました。群集がひもじがっているのをご覧になったイエス様が、弟子たちを呼ばれました。聖書はこのように記録しています。「ヨハネの福音書 6章 5節〜6節」の御言葉です。『イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。』

私たちが問題にぶつかった時、主はどのように解決して上げたら良いのか、ご存知なのです。どのように解決して上げたら良いのか、ご存知でありながら、私たちを試みられるのです。「あなたが本当に信じているのか、そうでないのか。まことに肯定的態度を取るか、取らないか。心から神様が干渉してくださることを期待しているのか、どうなのか...。」主が試みられるのです。

ピリポは、落第しました。「主よ。めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。私たちには、それだけのお金もありません。ここは広野です。時間も遅くなっているので、パンを買うこともできません。とてもできません…。」

しかし、アンデレは、広野にイエス様が居られることを見つめて、彼はキリストが奇跡を行われることができることを信じました。それで夢を持ち、期待したので、大麦のパン五つと小さい魚を二匹を求めて来て、イエス様の前に捧げました。イエス様はそれを受け取られ、感謝を捧げてから、群集に分けてやられました。すべての人たちが皆腹いっぱい食べてから、十二のかごがいっぱいになる程残るように、主は奇跡をほどこされました。

主は、どのようにしたら良いか、既にご存知なのです。皆さん、個人、家庭、生活、子供たち、事業...すべて、問題にぶつかった時、主は既にどうして上げたら良いのか、ご存知なのです。しかし主は、皆さんの立場、事情をすべてご存知であり、どうして上げたら良いのか知っておられますけれども、皆さんが、神様に呼ばわり祈って、信じてくれることを望みながら待って居られるのです。皆さんが夢を持ち、信仰を持って、奇跡を期待して主の前に出てくることを期待して居られるのです。ですから皆さん、問題にぶつかった時には、既にその事の解決策があると言うことを知らなければなりません。

イスラエルの民たちがエジプトを出て荒野を通り、マラに到着した時、そこの水は苦くて飲むことができませんでした。しかし、神様は水を苦くして置かれましたが、既にその水を甘くする木の枝もその傍に準備して置かれました。モーセが主に呼ばわり祈るや、主はモーセの目を開いてくださって、彼に一本の木を示され、見るようにしてくださいました。それで、モーセがその木の枝を苦い水に投げ入れるや、苦い水が甘くなりました。

祈らなかった時は、目にその木の枝が見えなかったのです。しかし祈るや、その木の枝が見えました。恨み、不平をつぶやき、嘆く時には、苦い水しか見えません。しかし、その挫折と絶望から、神様の奇跡を見つめ、夢を持って信じ、祈ったら、解答も目に見えるようになるのです。神様は、解答がない問題を私たちに送ることはなさいません。問題が起こったら、解答も間違いなく近づいて来ると言う事実を悟られるよう、主の御名によってお祈り申し上げます。

ですから、問題が生じた時には、主にお委ねして、私たちは祈らなければなりません。何故でしょうか。苦難は栄光に通じる道であるからです。私たちは苦難の道に歩む時には、主の栄光が臨むように祈らなければならないのです。祈りが、主の栄光が臨むパイプとなるのです。「詩篇 37篇 5節〜6節」に、『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。』と記録されています。

「コリント人への手紙 第一 10章13節」を見ますと、『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』と記録されています。

試練が押し寄せてきたら、避ける道も神様が備えて下さる、と言うことです。試練に会ったら、その試練におぼれて絶望してしまう人が少なくありません。しかし、祈ったら、主が避ける道も目に見えるようにしてくださると言うことです。

‘ハドソン・テイラー’と言うイギリス人の宣教師が中国内陸に入って行き、揚州で宣教していた時の出来事です。宣教師たちが日曜(主日)宣教を熱心にするや、イエス様に反対する揚州の学者たちと一部の軍人たちが、宣教師に対する悪い流言飛語をながしました。その結果、住民の間では、宣教師たちが死んで行く人の目をえぐりだし、幼い子どもたちを殺しては食べ、妊婦の腹を切り裂いてはそれで薬を作る...など、とんでもない噂が広がりました。

 このことを聞いた人たちは憤慨して、暴徒化しました。数多くの宣教師たちが投石に遭い、甚だしい傷を負いました。この事実がイギリスにまで知られて、両国間の葛藤にまで発展しました。その上にイギリスでは、‘ハドソン・テイラー’が主導する中国内陸宣教会が軍艦を先導にして活躍する宣教会であると言われて、宣教後援金までもが大幅に減りました。200余名を超える宣教師を抱えているその宣教会は、財政的にも深刻な問題にぶつかり、イギリスが宣教師たちを派遣して以来、最大の危機に瀕しました。

しかし‘ハドソン・テイラー’は、人たちに腰を屈めて弁明しようとはせずに、部屋に閉じこもって神様に呼ばわり祈りました。「主よ!重大な危機にぶつかりました。この難しい問題を人の力では解決することができません。主のしもべである私たちに襲って来たこの問題の裏には、神様の解決策も一緒にあることを信じます。主よ!この問題を解決してください!」絶体絶命の危機の前で、‘ハドソン・テイラー’は神様に呼ばわり祈りました。

そうするや、いくらか後に、世界的に有名な“孤児たちの父”と呼ばれる‘ジョージ・ミューラー’牧師から2,000パウンドの手形と共に、激励の手紙が届きました。神様は、‘ジョージ・ミューラー’牧師を通して2,000パウンドと言う凄い金額を送ってくださり、そして激励のメッセージまで送ってくださいました。そうした後、イギリスでは誤解が消え去って、以前よりももっと大きな“ハドソン・テイラー後援会”が活発に活動し、難題が変じて神様の栄光になってしまいました。

その前までは、‘ハドソン・テイラー’が中国内陸で宣教していることさえも知らなかった人たちが、問題が新聞を通して知れ渡り、噂が立ったので、イギリス全国民が知るようになり、その次にはイギリスの全教会が祈り始め、もっと多くの後援金を送ってくれるようになったので、中国内陸宣教が大いに活発になることができました。

私たちがどのような苦難に会っていようとも、神様は一切をご存知なのです。従がって、祈りを通して神様に縋り、待ち望んだら、神様が問題を解決してくださるのです。自分の力、自分の努力ではできません。神様が問題を解決してくださるのです。

香港聖会の時も、私はいつもそのような祈りを捧げました。「主である神様!私は、祈るだけです。天気は神様がご支配なさいます。私は雲一点も動かすことができません。私はただ、座って祈るだけです。神様だけを見上げながら、拠り頼み、神様のご所存にお委ねします...。」私たちには、全能なる神様がおられるのです。信じない人には神様がおられないので、自分の力でできなければ、絶望するしかありません。しかし私たちは、自分の力ではできなくても、どのようなことにも全能であられる神様が共に居てくださるのですから、絶望する必要がありません。

信仰と言うのは、感覚に拠り頼むものではありません。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る...ことで信じるのではなく、私たちの過去の経験を通して信じるのでもありません。人間的な理性で信じることでもありません。信仰とは、目にはなんの徴も見えず、耳にはなんの音も聞こえず、手には触れるものがなにもなくても、目の前が漆黒のように真っ暗闇であっても、神様が言われたので、私たちはその御言葉を信じるのです。御言葉の上に堅固に立つことがもっとも重要なのです。

東風が吹こうが、西風が吹こうが、御言葉の上に立たなければなりません。ガリラヤの湖を渡る時、突風が吹きおろしてきて舟が水をかぶり、舟が水でいっぱいになって今にも沈みそうになりました。舟に乗っていた弟子たちが魂げて、ぐっする眠っておられるイエス様に近寄って行って起こしました。イエス様は起き上がって、風と荒波を叱りつけられるや、風も波も治まり、なぎになりました。その時、主が弟子たちに向かってなんと言われたでしょうか?「あなたがたの信仰は、どこにあるのか...?」

イエス様が、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われたのですから、風が吹こうが、舟が水でいっぱいになろうが、舟が沈むことがあっても、渡るのです。神様の御言葉は、一点一画も変わることがありません。天が崩れ地が消えても、神様の御言葉は成就されるのです。イエス様の言われたことを信じずに、環境を見つめて恐れ慌てた弟子たちに、イエス様は叱りつけられました。「あなたがたの信仰はどこにあるのか?」

皆さんと私の信仰を、感覚に置いてはいけません。環境に置いてもいけません。自分の考えに置いてもいけません。私たちの信仰は、主の御言葉に置かなければならないのです。

「ヘブル人への手紙 11章 6節」に、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記録されています。また「ローマ人への手紙 4章17節」には、『このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。』と言われているのです。

貧しい商人の息子から、世界的に有名なホテルの主人となった‘ヒルトン’に、幼い時から彼の母親がいつもこのように言い聞かせました。「あなたが成長したら、私も、あなたのお父さんも、あなたの兄弟たちもみな、あなたの傍から離れ去ります。そうだと言って、あなたが一人ぽっちになるのではないのよ。なぜなら、それはいつもあなたと同行してくださる方が居られるからなのよ。そのお方がイエス様なの。それで、イエス様があなたのすべての心配や思い煩い事を代わりに担ってくださるのです。すべての心配や懸念をイエス様にお委ねして生きて行って頂戴ね。イエス様が、あたなたに力と知恵と聡明を与えてくださるでしょう...。」

当時の‘ヒルトン’は、年が幼かったので母親の言うことを理解することができませんでした。それで、お母さんがいつも宗教的なことばかり言ってるんだ、とだけ思っていました。しかし、歳月が経って‘ヒルトン’が成長し、事業家となった後、彼は難しい問題に出会う度毎に、母親の言われたことを思い出しては主に拠り頼みました。老後、彼は次のように告白しました。

「事業に手をだしてから、初めてホテルが破産する危機に落ち入ったとき、私の頭の中に、幼い時からお母さんが言い聞かせてくれた言葉が思い出された。それで私は、絶望的であったその問題に屈せずに、イエス様のところに駆け付けて行って、問題の内容を詳細に申し上げた。そして全的にイエス様に拠り頼んだのだ。そうしたところ、イエス様が私に力を与えて下さったのだ。それで私は、再び立ち上がったよ。それからは、私は何事でもイエス様に拠り頼み、どのような苦しみにも難関にも打ち克ち、その結果、今日のような“ヒルトン・ホテル・チェイン”を築き上げることができたのだ。」

神様は、私たちの苦難を知っておられ、私たちが祈ったらその苦難に打ち克つことのできる力と勇気を与えて下さり、神様は、私たちが苦難を打開していくことのできる解答を与えてくださる全能なるお方であることを、私たちは信じなければなりません。信じる者と信じない者の差が何でしょうか?

イエス様を信じない人は、苦難に出会った時“人間の力”を信じます。ところが、人間の力でできなかったらその人は破滅します。しかし私たちクリスチャンは、“死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神様”を信じるのです。それで、私たちは人間の感覚や体験に頼らず、神様の御言葉を信じ、主に最後まで呼ばわり祈って、結局には勝利を自分のものとするのです。

苦難に会った時、恨み、不平を呟き、嘆くことはいともたやすいことです。苦しかったら、恨むようになります。或る人は、自分の信仰は堅固なのでどんなことにも絶対に恨んだりはしない、と言いますが、実は、そう言う人も恨むようになるのです。

私は、47年間も牧会にたずさわって参りました。ところが、今回の香港聖会の時には、思わず恨み言が口から出ようとしました。「主よ!私が、私個人の利益のために香港まで来たのでしょうか。主から遣わされてここに来ているのです。それなのに、なぜ、雨を降らせて、人たちが集まらないようになさるのですか。私は今、気が気でなく、心配で落ち着くことができません...。」そう言う言葉が口から出ようとしました。

しかし、祈っている途中に気が変わって、「…悪魔は退けっ!どこで恨み言を言わせようとするのか...?」それからは、「主よ!雨を降らせてくださるのも感謝です。私は知りませんけれども、主は、必要だから雨を降らせておられるのです。また、主が雨を降るようにしてくださって、有り難うございます。色々と心配になって、私がもう少し長く祈るようにしてくださったのですから、有り難うございます...。」私の祈りの内容が感謝する祈りに変わって来ました。

どんなことに出会っても、感謝し、賛美し、待ち望むことが重要です。皆さん、苦難に会った時、恨み、不平を呟き、嘆いたら、心が否定的になります。心が否定的になったら疑いが生じ、疑いが生じたら悪魔が心の中に入って来るようになります。しかし、苦難に会った時、私たちが感謝し、待ち望んだら、感謝は肯定的思考を持たせてくれます。肯定的思考は信仰を回復させ、信仰が堅固になれば神様のみわざが現われるようになるのです。

「ローマ人への手紙 5章 3節〜4節」を見ますと、『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』と記録されています。患難に会ってこそ、忍耐が生まれ、忍耐したら品性が練られ、練られた品性が希望を生み出す、と言われたのです。

「詩篇 50篇14節〜15節」には、『感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。』と言われているのです。また「哀歌 3章26節」を見ましょう。(皆さん、一緒に声を出して奉読しましょう。)『主の救いを黙って待つのは良い。』

苦難に会う時、神様に感謝し、賛美し、祈りながら、黙って待つのは良い、と言われたのです。神様の恵み豊かなみわざを待ち望むことです。祈りとは、いつも呼ばわり、願い求めることだけが祈りではありません。祈ってから、その後にも継続して言うことがなかったら、静かに、黙って待つことです。

皆さん、昔、王様の心を動かそうとして、王宮の庭に入って行って茣蓙を敷き、その上にひざまずいて、王様の心が変わるまで罰を受ける気持ちで待った重臣たちがいました。その時、彼らは呼ばわり求めることをしなかったのです。夜昼、王様の前にひざまずいて、頭を下げたまま、待ちました。私たちが神様の御前に出て行って祈るということは、神様に呼ばわり、賛美を捧げ、そして疲れたら、何も言わずに待ち望むことも、祈りになるのです。「神様の前に、黙って救いを待つのも良い。」と言われたのです。そうしたら、それも、神様が見下ろして感心してくださるのです。

イギリスの、“サイス・ウェールス”の一つの小さい炭坑で坑道が崩れ、14名の坑夫が坑道のなかに閉じ込まれる事故が発生しました。救助班が彼らを助け出すために地を掘り下げて入って行きましたが、三日が過ぎても彼らを発見することができませんでした。もう既に息が絶えただろうと、人たちは悲しみ、嘆きました。

ところが、四日目になった日、地下の暗いどこからか、かすかな音が救助班員たちの耳に聞こえてきました。息をひそめ、耳を傾けて聞いてみると、それは賛美歌でありました。「…過ぎし世、きたる世、うちつらぬき、御神は岩なり、また家なり。/世々の、み民らの、頼りとせし、みくらの後ろぞ、隠れ家なる...。」聖歌249番を合唱する声が聞こえました。

坑夫たちが、真っ暗やみの坑道に閉じ込まれた中で、食べることも飲むこともできないまま、救いの手を待ちながら、祈った後、彼らは神様のみわざを待ち望みながら、一緒にこの賛美歌を歌っていたのです。この賛美歌の歌声がどこをどう通してか、救助班の人たちの耳に聞こえるようになったのです。それで、その賛美歌の歌声を頼りに、地下を掘って入って行ったところ、14名の坑夫たちが生きていたので全員を救い出すことができたのです。

祈りながら、賛美しながら、神様の助けを待ち望んだので、彼らは救われました。そうせずに、恨み、不平し、嘆き、焦って足掻いていたら、彼らは生き帰ることができなかったはずです。今、苦難の中に置かれている聖徒さんが居られますか…?神様に、力いっぱい祈ったのであったら、感謝しながら、賛美しながら、待ってください。1日も良く、2日も良く、10日も良いです。待ち望んでください。皆さんが感謝し、賛美し、祈ったなら、神様はそれらをすべて聞かれたのです。これからの問題は、私たちが焦らずに待つことしかないのです。

苦難がない信仰、希望、愛、義、平安、喜びはありません。私たちが信仰の翼を力強く広げて、神様の栄光を体験するようになるためには、苦難のトンネルを通過しなければならないのです。聖書「創世記」から「ヨハネの黙示録」までを読みますと、私たちは心から感動を覚えます。そして信仰を得るようになります。それは、数々の苦難に会った時、人たちが祈ったので神様の奇跡を体験した内容が記録されているからです。

苦難がなかったら、神様の奇跡も現われません。神様の奇跡が現われなかったら、聖書も記録されはしなかったでしょう。苦難は、まさしく、皆さんと私に神様が奇跡を見せてあげようとなさる表示なのです。すべての苦難の道は、主を信じ、拠り頼み、祈って、気落ちしなかったら、神様の栄光を体験することができる近道となるのです。

問題がなかったら、解答もあるはずがありません。苦難がなかったら、神様の栄光を見ることもない、と言うことを知らなければなりません。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(コリント人への手紙 第二 4:17)と言われたのです。

また「ローマ人への手紙 8章18節」には、『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』と記録されているのです。今、この世で私たちが苦難に会うことによって悔い改め、すべてを正直に告白し、祈ることによっって、私たちのたましいが成長したら、それによって、将来、私たちがいただくことになる栄光は、到底その苦難とは比較することができないものなのです。

できることなら、苦難に会うことがない方が望ましいです。苦難を好む人は誰もいません。しかし、苦難に会わなかったら栄光もない、と言うことを知らなければなりません。皆さんの信仰が成長するのは、苦難の糧を食べるからです。ですから苦難に会った時に、落胆してはいけません。皆さん、苦難に会った時、神様が居られるからその苦難が栄光に変じるのです。小さい苦難は小さい栄光として、大きい苦難は大きい栄光として、皆さんに近づいて来るのです。

今回の香港聖会の時、人たちは異口同音に言いました。「趙繩(チョー・ヨンギ)牧師のメッセージを通してお恵みをいただいたことよりも、雨が降らなかったので、大いなるお恵みをいただいた。」と。雨が最初から降らなかったら、神様の栄光も現われなかったでしょうが、集会の直前まで雨が土砂降りに降っていたのですが、聖会が始まるや雨が止み、そして聖会が終わるやまた雨が降り注ぎましたので、人たちは生きて居られる神様がみわざを働かせる栄光を体験することができたのです。従がって、苦しい目に会ったことが却って大きな有益となったのです。






お祈り

愛が豊かであられる、我らの父なる神様!

人がこの世を暮らしながら、苦難に会わない人は誰もおりません。大小様々な苦難に会う時、神様が居られますから、私たちは感謝し、賛美し、待ち望むことができるのです。神様が共に居てくださらない人は、挫折し、絶望し、落胆するしかありませんが、神様が共に居てくださり、天と地とその中の万物を造られた神様が私たちを愛してくださり、私たちの傍に居られますので、私たちはすべてを働かせて益としてくださる神様であられることを信じて、大胆に生きることができます。

全知全能で、憐れみと慈しみ深い、父なる神様!
 私たちの聖徒さんの中には、苦難に会っている人が少なくありません。様々な苦難に会う時、神様の前にひれ伏して祈るように助けてください。気落ちせずに、信仰にあって祈り、神様を待ち望むように導いてください。そして、遂には神様の栄光を体験するように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!