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「わたしはぶとうの木で、あなたがたは枝です」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 15章 1節〜8節」
15: 1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15: 2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15: 3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15: 4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15: 5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15: 6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15: 7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15: 8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。




私は今日、皆さんとご一緒に『わたしはぶとうの木で、あなたがたは枝です。』という題目で、御言葉を分かち合いたいと思います。

皆さん、ぶとう畑に行かれたことがあるでしょうか。農夫が木の幹から伸びているぶとうの木の枝を、長い棒とか鉄線で作った支え台とかに縛っておいたのを見ます。ぶとうの実はぶとうの木に結ばれるのではなく、木の幹から出ている枝がぶとうの実を結びます。それで農夫は、枝の手入れを怠らずにしきりにかえりみて上げながら、枝を支え台などに丁寧に縛り付けておいて、ぶとうの実が地上に落ちることなく、ふさふさと見事に結ばれるように誠意を尽くします。

イエス様は、神様がぶとうの木を育てる農夫であり、ご自分はぶとうの木で、私たちはその木についている枝であると言われました。ぶとうの木が枝に水分と栄養分を供給しますが、葉と花を咲かせ、実を結ばせるのはまさに枝なのです。即ち、聖徒さんたちがその枝なのです。主は、天国のぶとうの実を結ばせるのは実に聖徒さんたちの人生であると言われたのです。それで、枝がぶとうの木についていなければ自分自ら実を結ぶことができないのと同じく、私たちも主にくついていなければ、自らは葉も花も実も結ぶことができません。主はおん自ら永遠に居られますが、私たちは主に留まっていてこそ、いのちを維持することができ、実も結ぶことができるのです。




第一、枝がぶとうの木についている為には

第1番目に、私たちがぶとうの木にしっかりとついていなければならないのですが、どうしたらぶとうの木についている枝になることができるでしょうか。私たちが体ごとぶとうの木の枝にくっついていると言う確信を得ることができるのは、ぶとうの木である教会があるからです。主は、教会がご自分の御体であると言われました。「コロサイ人への手紙 1章18節」に、『また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。』と記録されているのです。

従って、私たちがぶとうの木にくっついている証拠として、御体である教会に登録をし、教会に入って来て聖徒となり、水のバプテスマを受け、聖餐礼拝に参加し、十分の一を捧げ、主日を聖く守る...、このような信仰生活をすることによって御体である教会内で交わりを持つとき、自分がぶとうの木であるイエス・キリストの御体にくっついている枝であると言う確信を持つことができるようになるのです。

教会の外では、イエス様とは何の関係も持つことができません。イエス様の御体が教会ですから、御体についているためには御体の中に入って来ていなければならないのです。多くの人達が、自分は教会に出席せず、一人で礼拝を捧げ、一人で天国に行くと言っていますが、間違った考えです。そうはできません。

イエス様の御体がまさに教会でありますから、教会に入って来てこそぶとうの木の本体である御体にくっついていることができ、また教会で洗礼を受け、そして聖餐にも参加するようになり、奉仕を通して仕え、十分の一も捧げ、主日を聖く守る...、このような行為を通して肉体的にぶとうの木である枝に私たちがくっついていることができるようになるのです。教会はキリストの御体であり、聖霊がおられるところです。教会に来てこそ、キリストの御体に私たちが入って来て留まることができるのです。

そして、肉の体だけ教会に入って来ているのではなく、心からイエス様の中に入って来てこそ、枝がぶとうの木にくっついている形状になれるのです。心がいかにイエス様の中に入って来ていることができるでしょうか。イエス様が言われることに不従順したら、イエス様の中に入って来ていると言うことはできません。

子供が親の言いつけを守らなかったら、一緒に同じ家庭で暮らすことができません。同様に、私たちがキリストの御体である教会に属しており、キリストの御体にくっついているためには、キリストの言われることに従順に聞き従わなければならないのです。

「コリント人への手紙 第二 10章 5節」に、『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、』なければならない、と記録されています。「ペテロの手紙 第一 1章 2節」にも、『父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。』と記録されています。ですから、私たちが服従と従順を通して主の御体の中に入って来ており、それで主の恵みをいただくことができるのです。

アメリカの西部開拓時代に、東部の住民たちが「西部には金鉱がたくさんあり、金を手にするのはたやすい。」と聞いて、金を手に入れたい欲から馬車を走らせて、夜昼なく西部に向かって駆け付けました。誰よりも早く行ってこそ、金をそれだけ多く手に入れることができると思ったので、彼らは寝もせず、休みもせずに急いで行きました。

東部から西部までは、実に遠い道のりです。途中で馬が倒れて死に、人達も疲れて病にかかっては死に、または西部に到着してからも途中の過酷な過労で病気を得たので死ぬ人がたくさん居りました。しかし、途中で死なずに西部に到着してからも元気で、金をたくさん手に入れた人達がいました。彼らは徹底的な清教徒であり、あつい信仰の信者たちでありました。

彼らは、東部を出発して、熱心に夜昼西部に向かって駆け付けて行きましたが、主日には旅をせず、馬も休ませ、家族たちが一つ所に集まって御言葉を読み、祈り、賛美しながら、礼拝を捧げました。聖書に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と記録されている御言葉を、その通りに守ったのです。

それで彼らは、土曜日までは誰にも負けずに熱心に馬を走らせましたが、主の日には休み、安息したので、体も休息し、霊的にも立派な糧を得、身も心も健康なので、西部に到着してからも信仰を失わず、彼らは多くの黄金も発見して、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康である祝福をいただくようになったのです。ですから皆さん、主に従順に聞き従ったら、その従順を通して神様から大いに恵まれるようになるのです。

また、御言葉を心から信じ、拠り頼んでこそ、イエス様の中に留まることができます。従順するだけでなく、心から信じなければなりません。はっきりと信じずに、しきりに疑い、不信仰になったら、主が私たちを守ってくださることができません。「ヘブル人への手紙 11章 6節」を見ますと、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記録されています。

人は、地位もあり、名誉も、お金も、権勢もあり、青春で、健康である時は、自信に満ちて自分を信じ、神様を信じなくなる時が多くあります。それで神様は、そういう人を弱くする時があります。それは、神様が、枝である私たちがぶとうの木であるイエス様に堅固にくっついているようにするために、たまに私たちを弱くするのです。事業に失敗するようにもなさり、気落ちするようにもなさり、病気に罹るようにもなさいます。

使徒パウロ先生は、自分の肉体にとげがあるので、いつも苦しみ悩みました。主に3回も、とげを無くしてくださいと祈ったところ、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。』(コリント人への手紙第二12:9参照)と言われました。そして、『わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われました。パウロ先生はとげの前で苦しく、弱かったのですが、しかし主のまことの恵みと御言葉の真理を悟って、『私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(コリント人への手紙第二12:9〜10参照)と告白するに至りました。

神様は、神様をはっきりと信じ、神様にもっと拠り頼むようにするために、ある時には私たちに弱さを与えられ、失敗と失望をも体験するようになさって、主に拠り頼まないことには耐えられないようになさるのです。子供たちを育てて見たら分かります。健康で立派に育った子どもたちは、父母の膝下を離れて独立して、積極的によい生活を営みます。

ところが、病弱な子どもはいつも父母の膝下、父母の傍におり、父からいつも助けて貰い、母の足手まといとなりながら独立しようとしません。病弱な子供はいつも父母の傍を離れようとせず、父母はそれが憐れに思われてあらゆる手段を講じて助けて上げるのです。病弱なので、その子供は父母から離れることができないのです。

私たちも神様の御前に出てくる時、大多数が困難で、弱く、病弱な時でありました。そうした時に人たちは神様を探し求め、祈り、拠り頼むようになるのです。そうして主のお恵みに与って、すべての困難、病気、苦難を克服するようになるのです。神様はいつも、どんな目に会っていようとも人たちが心から神様を信じ、拠り頼んで、主に留まるようにしたいと願っておられるのです。

それから、主に留まっているためには、主に仕える生活を営まなければなりません。私たちが、主から仕えていただこうとしてはならないのです。「主よ。私に仕えてください。」こうしたら、前後倒錯です。主は私たちのご主人であり、私たちは主のしもべです。主人がしもべに仕えるのではなく、しもべが主人に仕えるべきなのです。それにも拘わらず、主は来られて私たちの足を洗ってくださいます。

主は私たちに仕えるがために、身を裂き血を流してくださいました。こんなにも有り難い主に対して、私たちはその主に仕えようとせず、却って主の御前で勝手に振舞おうとします。そんな私たちが主に留まることはできません。「詩篇 103篇17節〜18節」に、『しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。』と記録されています。

「ヘブル人への手紙 12章28節」には、次のように記録されています。『こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。』

また、私たちが霊的にイエス様に留まるためには、絶えず祈り、聖霊で充満にならなければなりません。祈らずに、主に留まることはできません。私たちの祈りは、霊的な呼吸も同様です。私たちが4分間だけ呼吸をしなかったら、私たちの肉体は死にます。霊的にも、祈らなかったら死んでしまうのです。数多くの聖徒さんたちが主の日に教会に出席してからは、1週間の間祈りません。そして次の主日に教会に出席します。こうなので、信仰が形式的になり、儀式的になってしまうのです。

祈りを捧げることによって私たちの霊が生き、キリストの御体である教会に所属するようになり、キリストに留まっている枝になって実を結ぶことができるようになるのです。

そして聖霊充満である聖徒さんは、絶えず祈りを捧げるから聖霊充満なのです。1517年、マルチン・ルターは、ビテンベルグ教会の門に95ヵ条にのぼる改革宣言文を貼り付けて、カトリックに対して宗教改革を宣布しました。当時、一介の修道士に過ぎなかった彼が、キリスト教歴史の方向を変える偉大な革命を始めたのです。後日、彼は革命を推進することのできる原動力は祈りを捧げることにあったと、次のように告白しました。

「もしも私が、毎日夜明け前に2時間以上祈らなかったら、その日の勝利は悪魔に帰したであろう。私には余りにもすべき仕事が多かった。しかし、毎日2時間以上祈ること以上に重要なことはなかった。その祈りがすべてを支えてくれる力となってくれたからである...。」ルターは、枝がぶとうの木についているためには何よりも祈りが必要であることを知っていたのです。

私たちが毎朝、主に2時間祈ることによって主にぴったりとくっついていたら、主の恵みの御力が臨んで、その次からは主の恵みによってすべてに幸いを得、することすべてが成功に導かれるのです。私たちが枝となってぶとうの木である主に留まるためには、祈りに力を注がなければなりません。神様は、祈る聖徒さんを通して実を結ばれるのです。

祈ってこそ、聖霊が臨んでくださるのです。聖霊のパイプはまさに祈りなのです。祈らない人に聖霊充満はありません。聖霊充満になったら祈るようになり、祈ったら聖霊充満になって、枝がぶとうの木にくっついているように、私たちもイエス・キリストの御体に留まることができるようになるのです。




第二、枝がぶとうの木から折れる理由

第2番目に、枝がぶとうの木から折れる理由は何でしょうか?数多くの人たちが折れたぶとうの木の枝のように枯れて行きつつあります。教会が枯れて行き、個人の信仰生活が枯れて行きます。枯れてひん曲がった枝のような聖徒になった理由がどこにあるのでしょうか?枝がぶとうの木から折れる理由は、貪欲の故なのです。心の中に貪欲が入って来て神様中心に立たず、自分の欲望中心に立ったら、ぶとうの木の幹から折られてしまうのです。

「ヤコブの手紙 1章15節」に、『欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』と記録されてあり、「コロサイ人への手紙 3章 5節〜6節」には、『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。』と記録されているのです。

イエス・キリストから断ち切られたら、霊的生命を失ってしまい、枯れてしまうしかありません。開化初期の中国の教会の多数が犯した過ちの中の一つは、阿片商売をしてお金を儲けた人たちが教会の重要ポストを大部分占めていたことです。当時、中国でお金を稼ぐ近道は、大概が阿片取引商売であったのです。このような人たちの大半が教会の長老でありました。後ろからは人たちを滅ぼす阿片を売って金持ちになりました。表面では聖いふりをして教会の職分を受け持っていました。その結果、中国の教会は神様の懲らしめに逢って共産主義という暴風雨に吹き捲られ、窒息してしまったのです。

ロシアも同様です。ロシア帝国時代に、ロシアの教会は国家の財産3分の2を所有しておりました。それで当時、教会の聖職者になれるということは、聖なる人になることではなく、お金持ちになる道でありました。従って、物質的に貪欲に溺れて堕落するのがその当時の聖職者たちの生活でありました。結局、ロシアの教会も共産主義という渦巻きに巻き込まれて、無慮70年間も教会の門を閉めなければならない羽目に落ち入ってしまったのです。

中国とロシアの教会が貪欲に溺れるや、神様がその枝を折ってしまわれたのです。私たちが枝としてぶとうの木に立派にくっついているためには、何よりも貪欲を遠くしなければなりません。肉の欲、目の欲、この世の自慢など、貪欲に染まって神様から離れるようになったら、枝である私たちはイエス・キリストの御体であるぶとうの木から折られ、取り去られてしまうのです。

その次に、私たちがぶとうの木の枝として存在することができずに、キリストの御体から折られ、取り去られる理由は、高ぶるからなのです。「イザヤ書 13章11節」を通して、『わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。』と言われているのです。また「箴言 16章 5節と18節」には、『主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』と記録されています。

私たちは、神様に礼拝を捧げ、賛美し、仕えずに、自分に仕え、自分を賛美し、自分を拠り頼み、神様よりも自分を誇り、高ぶったら、破滅してしまいます。個人も社会も国家も、高ぶりながら長らく存在した例がありません。高ぶりは破滅に先立ち、高慢は倒れに先立つのです。信仰生活をするにあって高慢になり、教会での自分の地位を利用して聖徒さんたちの上に君臨しようとしたら、結局は神様から見捨てられてしまい、ぶとうの木からその枝は折り取られてしまいます。

いつも水は、高いところから低いところへと流れます。神様の恵みは、謙遜な人に注がれるのです。高慢な人には神様の恵みは臨みません。ですから、私たちの心が高ぶったら神様の恵みは流れ去り、私たちの心がへりくだって謙遜になり、神様の御前にひれ伏したら、神様の恵みは豊かに流れ込んで満たされるようになるのです。この真理を私たちは知らなければなりません。

また、私たちが不信仰の者になったら、神様から折られ、取り去られて、ぶとうの木に枝としてくっついていることができません。「ローマ人への手紙 11章20節〜21節」を通して言われました。『そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。』

「ヘブル人への手紙 4章 2節」に、『福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。』と記録されています。私たちは、主を信じなければなりません。

目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、主が仰せられたのですから、私たちはただ信じなければなりません。自分がそう感じるのだから信じるのではなく、自分が同感するから信じるのでもなく、自分が理性的に合理的であると思うから信じるのでもありません。主が仰せられたのですから、主の御言葉を信じるのです。

神様の御言葉は、天が崩れ地が消え去っても、一点一画も変わることがありません。その御言葉の通りに成されるのです。それで私たちが神様の御言葉を信じなければならないのです。この神様の御言葉を信じず、不信仰の者となったら、主からは離され、ぶとうの木からは折り取られ、取り除かれる枝となるのです。

そして、不従順の故に私たちは神様から折られ、取り去られる時が少なくありません。天使の頭であった美しいルシパー、アダムとエバ、カナンの地に入って来たイスラエルの民たちが皆、このような罪の故に追い出され、滅ぼされました。「ヘブル人への手紙 3章18節〜19節」に、『また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』と記録されているのです。

信じなかったり、不従順したら、神様の御前から追い出され、折られた枝になってしまうのです。神様が私たちに命令なさる時、私たちがそれを理解しようとしてはいけません。私たちの水準から、神様の水準を理解することはできないことなのです。自分が理解できないから信じられない、自分が理解することができないから従順に聞き従うことはできない...としたら、その人は神様を信じて従順することのできる資格を失い、ぶとうの木から折り取られた枝になってしまうのです。

殺人的に暑い夏、中央アフリカでの出来事です。ピリピと言う子供が、大きな木の下の陰で遊んでいましたが、突然、父親が大きな声で叫びました。「ピリピ、ピリピ!お父さんが言う通りにするんだぞ。今すぐ、腹ばいになって地に伏せろ。早くっ!」ピリピは何故なのか知らずに、急いで腹ばいになり、ピタリと地に伏せました。理由も知らずに、父がせわしく叫びながら指示するので、従順に聞き従ったのです。

すると今度は、「早く、父が居るところに腹ばいのまま、早く這って来いっ!」きれいな着物を着ていたピリピは、着物が汚れるので地上を這って行くことが嫌でありましたが、なぜなんだろう...?と、いぶかりながらも父の言いつけ通りに土の上を這って行きました。すると途中で、父がまた叫んで言いました。「立ち上がって、早く駆け付けて来い。早くっ!」それで急いで立ち上がって、力いっぱいに走って父の懐に駆け込みました。

父がピリピを抱き上げるや、「良かった。よくも言う通りにしてくれた。見なさい。あの木の枝があるところを!」と言いながら、ピリピが遊んでいた場所の木を指差しました。その木には、人を食い殺すと言われている、アフリカでも恐怖の的の巨大な蛇が、ピリピがいた場所まで頭を垂らして、舌をちょろちょろして見せながら舌なめずりしていました。父の指図に従順に聞き従わなかったら、今頃ピリピは巨大な蛇の餌食になったかも知れません。ピリピは驚いて、ものも言えずに父にしっかりと抱きつきました。父の命令に従順したことが、ピリピの命を救ったのです。

私たちは、神様のみわざを後になって知るようになるのです。なぜ、神様が私にこのことをせよ、と命令なさったのか。最初は訳がわかりません。しかし知らなくても、無条件に神様の命令に従い、神様の御言葉を信じたら、後になって「あー、これで神様がせよ、と言われたのだ!」と、後になって悟るようになるのです。

人たちは一応知ってから、それから信じ、実践しようとします。ところが聖書は、そうは言っていません。今はあなたがたにはわからないが、後で分かるようになる、と言われているのです。信じたら、分かるようになる...と、言われたのです。まず信じて従順に聞き従ったら、後で分かるようになるのであって、知ってから信じ、従順に聞き従うとしたら、時すでに遅しで、後の祭りになると言うのです。

それで皆さんが、「知らなくても、神様が仰せられたのだから無条件に信じて従順したら...。」後になって知るようになるのです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」のです。神様が聖霊を通して、後で私たちに知るようにしてくださるのです。

こんにち、数多くの聖徒さんたちが神様の栄光を見ることができず、体験することができないのは、「僕は知らんがー。私には理解できない。だから、なぜ従順しなければならないのか分からん。なぜ、主日を必ず守らなければならないのか。なぜ十分の一を差し上げなければならないのか。なぜ祈りなさいと言われるのか。なぜ伝道しなければならないのか。なぜ奉仕しなさいと言われるのか。分からん。理解することができない...。」と呟いているからです。

人間は、神様の御心を理解することができません。まず理解しようとしたら、その人は神様のみわざを体験することができないのです。理解することができなくても、神様が命令なさったら無条件に信じて、従順すべきです。そうしたら後になって、「あー、これで、神様が私に命令なさったのだ!」と悟るようになるのです。

ですから、知ってから信じようとせずに、信じた後に、知るようになる皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福し、お祈り申し上げます。




第三、枝がぶとうの木にしっかりとついていたら

第3番目に、枝がぶとうの木に堅固にくっついていたら、どのようなことが生じるでしょうか。皆さん、私たちが教会に来て登録し、水のバプテスマを受け、聖餐に与り、十分の一を捧げ、主日を聖く守り、キリストの御体である教会の一員になったら、心から主を信じるようになり、従順に聞き従い、忠誠を尽くし、霊的に祈り、聖霊に充満に満たされて、はっきりした教会の会員となれます。そうしたら、どのようなことが私たちに起こるでしょうか。主が私たちをしっかりと抱きしめて守ってくださいます。

「ヨハネの福音書 10章28節」に、『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。』と記録されています。一旦、主の御手の中に入って来たら、主が私たちを抱きしめて守ってくださるのです。そうなったら、主の御手から私たちを奪い去ることのできる勢力がこの世にはないのです。

「詩篇 55篇22節」にも、『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』と言われているのです。私たちが主に委ねたら、主が私たちを取り上げて守ってくださるのです。主は全知全能なるお方です。そのお方が私たちを抱きしめて守ってくださるのですから、私たちが揺り動かされることはありません。どんなことにも、びくともしなくなるのです。

イギリスの有名な説教の大家であったスパールジョン牧師先生に、若い神学生が一人訪ねてきて、このような質問をしました。「先生。先生も落胆したことがございましたでしょうか?」そう聞かれるや、先生は顔に微笑を浮かべながら、次のように答えました。「さぁー、どうでしょうか。実を言うと、私は過ぎし20年間、落胆したことがありませんよ。私はその間、一つの重要な原理を私の生活に適用して来たんです。その原理とは、継続して主を見つめることなのです。私は一日にただの10分間も、主の居られることを意識せずに過ごしたことがないんですよ。それで、それ以来、私は落胆するとか、失望するとか、したことがないんです....」

なぜ彼が、落胆することがなしに生きてくることができたでしょうか。それは、いつも主を心の中で見つめながら生きて来たからなのです。私たちの主は、絶対絶望から、絶対希望をもたらしてくださるお方です。人間のもっとも大きな絶望、落胆は、死です。疾病よりも、この世の悪霊の仕業よりも、罪や呪いよりも、死よりも、もっと強い方がどなたでしょうか?

それは、イエス様です。イエス様はこの世のすべてを克服なさって、三日目によみがえられました。それで、私たちがイエス・キリストにくっついて居り、いつもイエス・キリストを心の中で見つめていたら、絶対絶望から絶対希望をもたらしてくださるイエス様は、絶えず私たちの希望の根源となられますので、何の徴も見えず、何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、漆黒のように前途が真っ暗闇であっても、大丈夫です。

イエス様に拠り頼み、イエス様を心の中で見つめている以上、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のです。終局には、すべてが良くなるのです。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ33:3)主の御手には、私たちの理解を越えた大いなる御力があるのです。

どのようにして、主が私たちを助けてくださることができるだろうか?どのようにして、このようなことが起こり得るだろうか...?私たちは、しきりに質問します。しかし主は、あなたがたの知らない、あなたがたの理解を越えた大いなる事を、あなたがたにして上げましょう。わたしは、わたしのすべき事をします。心配しないで、わたしにしっかりとついていなさい、と言って居られるのです。

私たちが主のぶとうの木にしっかりとついていたら、ぶとうの木から私たちに絶え間なく恵みが注がれて、私たちは心配、懸念、思い煩いをせずに生きて行くことができるのです。主は、恵みを私たちに注いでくださるために準備して居られるのです。天から雨が降るように、主の恵みはひとえにぶとうの木を通して、枝である私たちに伝えられるのです。ぶとうの木以外には、神様の恵みを供給してくれるなにものも存在しないのです。

父なる神様がいくら恵みを施して上げると言われても、ぶとうの木であるイエス様を通して枝である私たちに恵みが注がれるのです。神様の恵みは、教会を通して注がれます。教会の外で神様の恵みが注がれることは絶対にありません。自分の心がイエス様に留まっており、自分の霊がイエス様に留まっている人に、神様の恵みが注がれます。主の外にいる人に、神様の恵みが注がれると言うことは絶対にあり得ません。

私たちが主にくっついていたら、イエス様は十字架を通して私たちのために備えられたお恵みを注いでくださいます。十字架の苦難を通して備えられた主のお恵みは、赦しと義と栄光です。主は継続して、私たちに赦しを与えてくださり、義と、栄光を与えてくださり、私たちを変化させてくださり、悪魔と世俗から私たちを解放させてくださり、私たちに聖と聖霊充満のお恵みを絶え間なく与えてくださいます。

主の御前で、主に仕えたら、主は癒しの光線を発してくださり、癒しのお恵みを注いでくださって、私たちの心身に癒しと健康を与えてくださるのです。主にあっては呪いから解放され、アブラハムへの祝福とすべてに幸いを得るお恵みが絶えず私たちに注がれるのです。そして、復活と永生と天国のお恵みが私たちにいつも注がれるのです。

キリストは、十字架を通してお恵みを製造なさいました。十字架はキリストのお恵みの製造工場です。主は十字架でだけ、お恵みを造り出されるのです。十字架で造り出されたお恵みを、枝である私たちに注いでくださって、私たちがそのお恵みの中で葉を出し、花を咲かせ、実を結ぶようにしてくださるのです。主のお恵みに与ったら、私たちは自然と実を結ぶしかないのです。その実とは、たましいがすべての点で幸いを得、霊肉共に健康で、いのちを豊かに得て伝道し、献身奉仕するようになる実なのです。

実が強制的に結ばれるものではありません。恵みをいただいてこそ、結ばれるようになるのです。恵みを受けないことには、儀式的に、形式的に実を結ぶしかありません。この頃は、プラスチックの偽の実が流行っています。それらは、外見は本当の実のように見えますけれども、実際には香りもなく、栄養分もなく、食べることもできません。私たちが本当に美味しい果実を得るためには、生きている木から実を取らなければなりません。

私たちがキリストにくっついていて、そして私たちのたましいが生きていたら、主は私たちにお恵みを注いでくださり、私たちはまことのお恵みの実を結ぶようになるのです。イエス・キリストにくっついていたら、実を結ばずには居られません。なぜなら、キリストは宇宙の中でも最高のぶとうの木であり、その最高のぶとうの木に留まっている枝となった私たちに、神様が実を結ぶことがないようになさる筈がないからです。父なる神様は、宇宙でもっとも偉大な農夫であられるからなのです。

もっとも偉大な農夫が管理して居られる、もっとも最高で素晴らしいぶとうの木にくっついている枝である私たちなのです。私たちが稚拙で愚鈍であっても、枝である私たちを通して葉が育ち、花が咲き、実が実るのです。私たちの力量で葉を出し、花を咲かせ、実を結ぶのではありません。また、私たちの神様は、枝である私たちを通さずに実を結ばれることはないのです。

イエス様はぶとうの木なので、実を結びません。木についている枝が実を結びます。従って神様は、聖徒である皆さんが実を結んでくれることを願って居られます。それで、神様は皆さんに恵みを注いで上げようと一生懸命なのです。お恵みが注がれたら、実を結ぶようになります。それで神様は、主の日にも恵みを施して上げようと願って居られ、水曜日にも恵みを注いで上げようと願って居られ、区域礼拝でも恵みを注いで上げよう…、個人的に聖書を読み、祈る時も恵みを施して上げようと願っておられるのです。

それで、「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」と言われた御言葉の如くに、皆さんが主に向かって心の門をいっぱいに開き、主を見つめながら待ち望んだら、主が恵みを満たしてくださって、私たちが実を結ぶようになるのです。主は、実を結ばないいちじくの木をご覧になって、呪われました。主は、実を結ばない聖徒さんから目を逸らされます。

クリスチャンは、実を結ぶことになっています。運命的に実を結ぶようになっているのです。実を結ばなかったら、主に留まっている枝ではないのです。プラスチックの信者たちです。実質的に聖霊と交わっているクリスチャンたちは、実を結ぶようになるのです。「詩篇 1篇 3節」に、『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』と記録されています。

ジェームス・ムアーが書いた「すべて失敗した時」という本に、事業家であるロバートさんに関するお話が記録されています。ロバートさんは、ボストンの住宅団地開発業者で、一時は3,200万ドル(当時の韓国のお金で、約416億ウオン)相当の資本金を運営していた大きな事業家でありました。途中、他の事業に手を出し、資金事情が悪化して破産してしまいました。

ロバートさんは、途方にくれてしまいました。それで、ある日、道端に車を止めておいて、目に見える教会に入っていきました。一番隅っこの座席に座って、彼は「主よ!私を助けてください。主よ!私は生きる術を失ってしまいました。どうしたら良いか、全く分かりません...。」と、涙を流しながら祈りました。彼が教会に出席しながら涙を流したのは、50歳になるまで、初めてのことでありました。

暫くしてから、牧師先生が登壇して説教を始められました。メッセージの内容は、会堂管理者ヤイロが、イエス様の足もとにひれ伏して一生懸命に祈り求めたところ、死んだ娘が生き返り、起き上がって歩いた、と言う内容でありました。そのメッセージが、ロバートさんの後頭部を強く打ちました。彼は、そこで悟りました。

「なぜ、僕は失敗したのか?イエス様と共に居なかったからなのだ!会堂管理者ヤイロが、イエス様と共に居たところ、死んだ娘が生き返ったのだ。僕がイエス様を離れて、形式的に教会に行ったり来たりしたので、僕の事業が死んだのだ...。」彼は、メッセージを聞きながら、自分の問題が何であるかを悟りました。彼の問題は資金でもなく、銀行の債務でもありませんでした。自分が枝として、ぶとうの木にくっついていなかったことでありました。

彼は悔い改めて、ぶとうの木である主だけに拠り頼んで生きることに決心しました。どんなことがあっても、教会から離れず、心から主を信じ、従順に聞き従い、絶えず祈り、聖霊に満たされた人生を生きることに覚悟を新しくしました。そのように信仰生活をしている内に、いつの間にか彼の会社は栄え、職員が50名を越えるほどに成長しました。

人は、真理を悟ってこそ主のもとに立ち返ることができます。悟らなかったら、立ち返ることができません。『人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。』(詩篇49:20)と記録されています。教会になぜ、出席しなければならないのでしょうか。御言葉を聞いて真理を悟り、自分の人生を立派なものに変化させるためなのです。

私たちの問題は、環境にあるのではありません。私たちと主との問題がもっとも根源的な問題なのです。私たちが枝であるのですから、ぶとうの木であられる主に拠り頼み、立派に木に留まっていてこそ、神様が恵みを注いでくださって、すべての点で幸いを得る人生を生きることができるようになるのです。

イエス様のぶとうの木は、誰の助けも必要がなく、御自らとこしえまで存在するぶとうの木なのです。しかし私たちは、イエス様のぶとうの木にいつも留まっていなければならず、ただの一時でも離れたら枯れて死んでしまいます。キリストのいのちから断ち切られたら、私たちは一瞬も生きていることができません。

ただ十字架を通してイエス様がくださるそのお恵みにいつも与っていてこそ、私たちは生きて行くことができるのです。それで、私たちはいつも主に従順に聞き従い、主を信じ、拠り頼みながら、仕える人生を生きなければなりません。そうする時、主は私たちの中に留まってくださり、お恵みを豊かに注いでくださり、たくさんの実を結ぶようにしてくださるのです。

聖書には、私たちが実を結び、たくさん結んだら、イエス様の弟子となり、父なる神様が私たちを益々愛してくださる、と記録しています。実を結ばない聖徒さんとならずに、キリストによって忠実な枝となり、数多い実を結んで、父なる神様に栄光をお帰しする皆さんとなられますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。






お祈り

全知全能であられる、われ等の父なる神様!  キリストはぶとうの木であり、私たちは神様の恵みによってそのぶとうの木に留まっている枝であることに心から感謝申し上げます。

枝となりましたからには、忠実に、そして従順に聞き従い、信じて、拠り頼みながら、神様のお恵みをいただいて大いに実を結ぶ私たちとなるように助けてください。私たちを通して、主である神様が栄光を受けられ、それによって天のお父様のお喜びに与る私たちとなるように導いてください。

 イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!