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「義なる罪人と汚れた罪人」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 18章 9節〜14節」
18: 9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」





今日は、皆さんと一緒に、『義なる罪人と汚れた罪人』と言う題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

「ルカの福音書 18章 9節〜14節」を通して、イエス様がこのような喩えを仰せられました。二人の人が祈るために、宮に上って行きました。祈るために行ったのですから、二人とも神様を信じ、礼拝を捧げる人たちです。ところが、一人はパリサイ人であり、もう一人は取税人でありました。

パリサイ教徒は、徹底的に律法を遵守する人です。それで彼は、自分を義なる人であると思い、自分の功績を自慢しました。「ルカの福音書 18章12節」に、『私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』と記録されている通りに、パリサイ人は自分を誇る祈りを捧げました。週に2度も断食し、十分の一は間違いなく捧げる人ですから、誰が見ても立派な信者です。

次には、「ルカの福音書 18章11節」を見ましょう。『パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」』・・・道徳的に、倫理的に、全く傷や咎がない生活を営んできたと言いました。彼は高ぶりました。自分の自慢と自分を偶像化することは、神様がもっとも嫌われる罪であることを知りませんでした。所謂、義なる罪人でありました。聖書に、『人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。』(箴言16:2)と言われているのです。

ところが、一緒に祈るために宮に上った取税人は、自分が罪人であることを率直に告白しました。取税人は、すべてのユダヤ人たちから憎まれている人です。なぜかと言えば、税金を搾取しては自分のふところに入れるだけでなく、少なくない搾取した税金をローマ人に捧げるので、民族反逆者と考えられていたのです。当時は、罪人の代表的代名詞として取税人を挙げていました。

「ルカの福音書 18章13節」に、『ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」』と記録されています。この取税人は、自分が何も立派なことをしていないことを告白しました。何の善行もしていない、それで自分が罪だらけの人間であることを率直に自白したのです。自分を低くし、自分を砕き、神様の憐れみだけを祈り求める、汚れた罪人でありました。

パリサイ人は義なる罪人であり、この取税人は汚れた罪人です。しかし、ご覧下さい。自分を高め、自分を偶像化した‘義なる罪人’よりも、自分を低くし、自分が罪人であることを告白し、砕かれて、神様の赦しを祈り求めた‘汚れた罪人’が、神様の前から義と認められて家に帰って行ったと、聖書は言っているのです。二人の人が全く同じく神様に仕え、神様に祈ったのですが、自分を自慢したパリサイ人からは神様が御顔を背けられました。しかし、自分の罪を告白し、汚れた罪人であることを自白した取税人はその罪が赦され、義と認められ、祝福していただいて帰ったのです。

聖書に、主がパリサイ人たちに向かって、『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。』(マタイの福音書21:31)と言われた、と記録されているのです。主が凄く憎むのは、自分を自ら高め、自分を義の人であると思い、他人を蔑視する‘義なる罪人’なのです。率直に砕かれて、自分が‘汚れた罪人’であることを自白し、両手を上げて主の前に出て来る、このような取税人を主は赦してくださり、洗いきよめてくださり、義と認められて救ってくださるのです。

私たちは、また、放蕩息子の喩えを通して、主の御心を知ることができます。ある人に、息子が二人ありました。ところが、その中の二番目の息子が実に、私たちがよく知っている放蕩息子なのです。




第一、次男(汚れた罪人)

第1番目に、次男であるこの二番目の息子は代表的な‘汚れた罪人’です。彼は、父親の下で働くのが嫌でありました。父親の権威が気に食わなかったのです。父親が、あれをせよ、これをせよ...と指示すること自体が彼には嫌だったのです。父親が主人顔しているその下で下男扱いされるのが嫌で堪りませんでした。それで、父親から離れて独立し、自分の人生の主人になろうと思い立ちました。彼は、自分自ら、自分の思うままに善悪を区別しながら暮らす主人になろうと心に決めたのです。

それで父親の前に出て行って、私に財産の分け前を分けてください、と願いました。「ルカの福音書 15章11節〜12節」に、『またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。」』と記録されています。

父親から自分の分け前を分けてもらった後、数日してから彼は何もかもまとめて、遠い国に旅立って行きました。父親の影響が及ばない、父親からどんなことにも小言を言われることがない遠い国に行って、彼は放蕩しまくりました。お金を持っていますから、友達が集まって来て彼にへつらいました。美しい女性達が彼を偶像のように崇めながら慕ってくれました。その中で彼は自由奔放、酒池肉林の中で暮らしました。

いつも、人が自由奔放に走り、放蕩にふけったら、飢饉が襲って来ます。今の世の中でも、酒池肉林の中で暮らす人には貧乏が襲うのです。今日の地球も同様です。アダムの後裔たちが地球の資産を浪費しています。自由奔放に地球の資産を浪費しているので、空気が汚染され、水が汚くなり、山林が荒廃し、資源が枯渇し、全世界が徐々に徐々に飢饉の中に入っておりつつあるのです。こんにち、石油資源が枯渇しかけているので石油の価格が高騰し始め、産業化に大きな衝撃を与えています。放蕩したら貧しくなります。個人も国家も国際社会も同様なのです。

放蕩しまくった結果、二番目の息子は凄い飢饉に襲われるようになりました。その国に大飢饉が起こり、彼自身も食べるに困り始めました。親しかった友達は、彼からお金がなくなるや皆離れて行きました。彼を偶像のように崇めながら慕っていた女性たちも皆離れ去り、彼はその日その日の食事にも事欠き、生活を維持することができなくなりました。それで就職をしましたが、人間扱いをされるところにはありつけず、彼は豚の世話をさせられました。

ユダヤ人のもっとも卑しい職業が豚の世話役です。彼は豚の世話をしながら、あまりにも腹が飢えていたので豚の食べるいなご豆を失敬しようとしてからは、豚から噛みつかれ、蹴られ、傷も負わされました。実に人間以下の生活でありました。人は疲労困憊し、飢え、よりどころがない時に、自省します。富貴・栄華・功名がある時には、自分を省みません。自由奔放に放蕩し、情欲と貪欲に捕らわれて思うがままに暮らしましたが、襤褸をまとうようになり、飢えに飢え、素寒貧になってその日その日が苦しく、悲しくなるや、彼は我に返りました。

『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』(ルカの福音書15:17〜19)

雇い人の一人にでもして貰って、食って行かなければならない...。そう思い立って、彼は故郷の父親のもとに帰りました。砕かれ、降伏して、全的に父親の心に従うことに決心して、彼は帰郷しました。汚れた罪人が家に帰って来るようになったのです。勝手に暮らし、放蕩しまくった挙句に、乞食の身の上になった彼は、醜悪で汚い罪人でありました。そんな彼が、砕かれて、両手を上げて父親のもとに戻るようになったのです。

苦しく、悲しく、腹は飢え、より所がなくなったら、人は我に返るのです。正気になるのです。人たちは、富んでおり、すべてに豊かで、不足するものがない時には、高ぶり、驕慢になって、自分のまことの境遇を悟ることができません。しかし、苦しくなり、悲惨な立場に置かれたらはじめて、自分の存在を自覚し、自分を眺め見るようになるのです。

70年代の或る人気歌手が、麻薬取締法にひっかかって刑務所に入れられました。彼はそこで3ヶ月間服役しました。その途中、彼は一人の死刑囚から伝道を受けました。その死刑囚がいかに温厚で、優しく、真摯に福音を伝えたのか、その態度に感動されて、この人気歌手も悔い改め、イエス・キリストを救い主として受け入れました。

いくらか過ぎて、人気歌手が刑期を終えて世の中に戻るようになりました。服を着替えている歌手に近寄って来たその死刑囚が、こう言いました。「外に出て行ったら、私が世の中でイエス様のために奉仕できなかった分まで、あなたがしてくださいね!」

この人気歌手は、刑務所に入ってくる前までは自ら自分が立派な人物であると思い、自分ぐらい正直で義の道に歩む人物があったら出て来い、と声を張り上げるほどに、自信に満ちていました。しかし刑務所に入れられ、死刑囚に出会って伝道を受け、死刑囚が伝える福音を聞きながら、だんだんと彼は自分が醜悪な罪人であることを悟りました。彼は自分自身に対して絶望してから、ようやく主のもとに立ち返ることができました。その後、その人気歌手は神学を学び、今はアメリカで牧師として用いられています。

皆さん、死刑囚がなぜ主のもとに立ち返ることがたやすいのか、ご存知でしょうか。死刑囚は自分自身に対して絶望しているので、救ってくださるイエス・キリストを捜し求めるようになるのです。自分自身に絶望しなかったら、自分を自慢し、自分に拠り頼み、傲慢で、従って自信満々なので主を捜し求めません。自分自身に絶望した人がはじめて、自分を助けてくださり、救ってくださることのできる方を捜し求めるようになるのです。

人間は、悲惨な状況に置かれ、砕かれて、すべてに降伏してこそはじめて自分の立場を悟るようになり、それで父なる神様のもとに立ち返るのです。汚れた罪人である二番目の放蕩息子も、農村で豚の世話役でもしなければ食っていけない悲惨な立場にまで成り下がってから、やっと正気に戻り、自分に失望して悔い改め、父親のところに戻りたいと思い直すようになったのです。「詩篇 34篇18節」に、『主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。』と記録されています。

「イザヤ書 55章 6節〜7節」には、『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』と記録されているのです。

罪をしきりに隠してはいけません。いつかは、それが白日の下にあらわにされるのです。しかし、罪を主の御前で悔い改め、自白したら、イエス様の血潮によって洗い清められ、永遠に消え去ってしまうのです。

父親の絶対的で、無条件的な愛をご覧ください。「ルカの福音書 15章20節」の御言葉です。『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。』

その父親に向かって、二番目の放蕩息子が何と言ったでしょうか。「ルカの福音書 15章21節」に、『息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」』と記録されています。そのように告白する息子に対して、父親は過ぎたことを指摘しながら繰り返して愚痴を言ったり、叱ったり、訓戒したりしませんでした。父親は無条件に放蕩息子を受け入れ、抱いて、彼を愛しながら、一方、しもべたちに言いました。

「ルカの福音書 15章22節〜24節」の御言葉です。『ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。』

過去を問わず、叱りもせず、絶対無条件に愛を示してくれる父親...。これがまさに、父なる私たちの神様なのです。汚れた罪人である私と皆さんが、悔い改め、率直にすべてを告白し、砕かれて立ち返ったら、神様は私たちの過去のことを一々問いただしたりなどなさいません。過去は神様がすべて清算してしまわれ、忘れてくださるのです。神様は、現在立ち返った皆さんを引き寄せて抱いてくださり、皆さんの過去の罪と咎をイエス・キリストの十字架の血潮で洗い清めてくださり、義の衣を着せてくださって、聖霊を通して変化させてくださり、祝福してくださるのです。

聖書「詩篇103篇12節〜13節」に、『東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。』と記録されているのです。

聖書「イザヤ書 49章15節」には、『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。』と記録されています。子どもが年を取っていても、父母にはいつも憐れに見えるのです。神様は、生んだ子どもを愛し憐れむ親以上に、聖徒さんたちを愛しておられ、憐れんでおられるのです。母親は、自分の乳飲み子をいつも愛し、憐れむので寸時も忘れることがありません。しかし神様は、女性が、たとい自分が産んだ子どもを忘れることはあっても、神様は私たちを忘れることはないと仰せられたのです。

私たちがよく賛美し、その時ごとに恵まれる賛美歌の中に、「驚くばかりの恵みなりき」(日本の聖歌229番)があります。皆さんもよくご存知のことと思います。この賛美歌は、John Newtonが作詞しました。Newtonは元来、奴隷商人でありました。彼の母親は篤実なクリスチャンで、神様に立派に仕えながら息子Newtonのために熱心に祈りましたが、Newtonは神様を信じようとしませんでした。却って彼は益々、アフリカの奴隷を生け捕りにしてはヨーロッパに運んで行って売り飛ばすことに熱中する、極悪無道な奴隷商人に成り下がるだけでありました。

航海中に、Newtonは奴隷たちを海の中に投げ込み、サメの群れが集まって来て海の中に投げ込まれた奴隷たちに食いつくのを見ながら、そしてその奴隷たちの悲鳴を聞きながら楽しむほどに凶悪で、全く情け知らずの人でありました。ところが或る日、茫々たる海の真ん中で船が巨大な暴風雨に遭いました。沈没直前の瞬間を迎えました。人は死に直面したら「まともな人間に立ち返る」と言われています。

このNewtonも、船が凄い暴風雨に遭って海の真ん中で沈没するしかない危機の瞬間に逢着するや、まともな人間に立ち返りました。彼は怖く、恐ろしくて堪りませんでした。彼は神様の前にひざまずき、ひれ伏しました。そして祈りました。「神よ!私の母が信じ、仕えていた神よ!私の母の祈りを聞いてくださり、私を助けてください。私がこの危機から救い出されたら、それからは神様に仕えます...。」

その祈りを聞かれた神様が、暴風雨も荒波も鎮まらせてくださいました。それで彼の船は沈没することなく、無事にフランスの或る海岸に着きました。それからNewtonは、いつの間にか伝道者に変身してしまいました。裸足で、食事も満足にできない身の上でありながらも、全国を歩き回りながらイエス・キリストを証しする福音の伝道者となったのです。

Newtonは、自分をもっとも無知な人間で、どの誰よりも卑賤で、見捨てられた奴隷の一人であると言いました。過去を問わず、叱りもしない神様の絶対的で、無条件的な愛に感謝しながら、感激の毎日を暮らしました。John Newtonのような人の過去を神様が問題視し、罪に定めるとしたら、神様の御前に立ち得る人は一人もいません。奴隷商人であり、極悪無道で凶悪な罪人の過去を問いただすとしたら、Newtonのような人が神様の御前に立つことはできません。

悔い改めて、主の許に立ち返った彼に対して、神様は過去を問われませんでした。過去のすべてを清算してくださり、東が西から遠く離れているように、彼のそむきの罪を彼から遠く離されて、彼を抱いてくださいました。その愛に、John Newtonはあまりにも感激し、感動して、この賛美を作詞したのです。「驚くばかりの、恵みなりき。この身の汚れを、しれる我に...。」

神様の愛は、どんな人の罪も赦してくださり、ふところに抱いてくださるのです。悔い改めて、主の許に立ち返ったら、主は、過去を問わずに、受け入れてくださる、驚くばかりの愛の神様であられるのです。この真理を皆さんに悟らせてくださいますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。




第二、長男(義なる罪人)

第2番目に、この父親が育てた長男をご覧ください。この長男は、外面的には本当に義とされる人でありました。「ルカの福音書 15章25節」を見ますと、『ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。』と記録されています。次男が放蕩しまくり、父親から分けてもらった財産を湯水のように使っていた間にも、長男は家で父親によく仕え、畑に出て行って熱心に働きました。

「ルカの福音書 15章29節」に、『しかし兄は父にこう言った。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」』と記されています。父親の傍を離れもせず、父親の言い付けは忠実に守り、放蕩することもなく、正しく生きてきた義なる息子です。誰が見ても、長男は心優しく、忠実で、正しく、立派な息子でありました。

それなのに、なぜ彼が義なる罪人でしょうか。肉体的に汚い罪を犯したことはありませんでしたけれども、精神的には罪を犯していたのです。それは、自分の功績に捕らわれていたことです。そして自分を自慢し、自分を高めていたのです。また長男は、悔い改めて帰って来た弟を非難し、敵愾心を持っていました。悔い改めて帰って来た弟を憎んでいたのです。

「ルカの福音書 15章28節」に、『すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。』と記録されています。帰って来た弟のために父親が宴会を開きましたが、それを怒って、家の中に入ろうとしなかったのです。「ルカの福音書 15章30節」を見ますと、『それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』彼は、嫉妬と敵愾心でいっぱいでありました。

「ローマ人への手紙 3章20節」の御言葉です。『なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。』いくら自分が正直で正しい生活をしてきたとしても、神様の律法の前に立たせて置いたら、罪人にならない人は誰一人ありません。自分が義の道に歩んで来たと主張したら、神様は律法でさばかれるのです。律法の前に義と認められる肉体はありません。

「イザヤ書 64章 6節」に、『私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。』と記録されています。私たちが、もしも神様の前で「私は義人です。私を見てください。私の義なる人生を認めてください。」と主張したとしましょう。そうしたら、神様は「いや〜、わたしの目にはあなたの義とは不潔な着物のようであり、枯れて腐った木の葉のようだよ...。」と仰せられる筈です。

神様の御前に義人はいません。あり得ないことなのです。この長男は、外面的には忠実で、献身的であり、立派な息子のようでありました。しかし彼の心、精神は放蕩者と変わりがありませんでした。なぜなら、彼は自分の功績を誇り、自分を自慢し、悔い改めて帰って来た弟に対して嫉妬と敵愾心を持っており、父親に反撥し、父親を恨み、反抗心でいっぱいであったからです。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(ヤコブ2:8)と言われました。弟が悔い改めて家に帰って来たのですから、喜ばなければなりません。ところが、弟を憎み、敵愾心を抱いていました。父親に従順に聞き従って来たのですが、今は心の中で父親を恨み、反抗心が燃え上がっていました。ですから、目には見えない義なる罪人であったのです。

結局、父親は、砕かれ悔い改めて、父親の言付け通りに生きますとして家に帰って来た汚れた罪人である次男を、自分を自慢し、自分の功績に対する自負心をもって、弟を非難し、敵愾心を抱き、父親を恨み、反抗する長男よりも愛しました。この事実を、私たちは心にいつも留めなければならないのです。

二人とも同じ父親の息子でありました。次男は汚れた罪人でありました。自由奔放に放蕩し、酒池肉林の中で遊びまくった汚れた罪人でありましたけれども、砕かれ悔い改めて、両手を上げて降伏し、戻って来たので父親が彼を愛して、彼のために祝宴を開いてくれました。ところが長男は、熱心に働き、父親の意思に逆らうこともせず、放蕩したこともなかったのですが、彼の心の中には、戻って来た弟に対する憎しみと敵愾心が燃えました。それで父親に対して憤怒と不満と反抗意識でいっぱいでありました。

長男は、外面的には義なる人でありましたが、内面的には精神的蕩児でありました。義なる罪人です。結局、弟は祝宴の主人公になりましたが、長男は自らその祝宴に参加せず、楽しみを一緒にしなかったのです。父親が、その長男からは目を逸らしてしまいました。次男はふところに抱き、楽しみ喜びました。ですから、私たちが記憶しなければならないことは、自分を誇り、自分を自慢し、自分の功績に自負心を持って、隣人を批評し、敵愾心を抱き、神様に対して内心、恨み、反抗する生き方をしたら、神様がその人からは目を逸らしてしまわれると言う事実です。

「あー、私は義の人だ。みんな教会に出席しているが、私は、あの人たちとは違うのだ。私は義の人なのだ。私は、罪も咎もなく、きれいなのだ...。」そして律法主義に立って、他人の咎を暴き、他人に傷をつけ、他人を踏み躙る...、そのようなことを口にし、そんな風に思う人は、神様が喜ばれません。このような義なる罪人を、神様は退けられるのです。

しかし、自分の罪を率直に告白し、砕かれ、悔い改めて、涙を流しながら神様のもとに立ち返る人に対して神様は、過去を問わず、暖かくふところに抱いてくださるのです。

20世紀の偉大な神学者の中の一人であるカール・バルトは、今までに悟ったもっとも偉大な神学の真髄は何でしょうか?と、質問された時、彼は次のように答えました。「私が悟ったのは、イエス様の愛です。」これが、神学のもっとも偉大な真髄である、と答えました。カール・バルトは、どんな偉大な知識よりも、聖書を通して神様の絶対的で無条件的な愛を悟ったことが、最高の偉大な発見であった、と言ったのです。この世の中で私たちが発見することのできるもっとも偉大な知識は、イエス様が私たちを愛しておられる、と言う事実です。




第三、私たちが生きる道

第3番目に、私たちが生きる道は何でしょうか。私たちは、自分自ら義なる人であり、色々な業績と功績があるとして自分を誇っては絶対にいけません。幾万の功績を立てたとしても、自分を自慢する言葉を一言でも口に出したら、その手柄とか功績とかは神様の御前で水泡に帰してしまいます。そうしたら、本文の長男のように義なる罪人となって、神様から目を逸らされてしまうのです。

私たち自身が、汚れた罪人であることを自白して自分を砕き、神様の御前に全幅的に降伏する時、神様は過去を一言も問わずに赦してくださり、私たちをふところに抱いてくださり、義の衣を着せてくださるのです。

私は、次のような寓話を読んで感心したことがあります。ある池に蛙たちが群がって遊んでいました。彼らは、空中を悠々と飛んでいるコウノトリ(鸛)が羨ましくてたまりませんでした。「わー、僕たちも空中を飛びながら、地上を眺め回したいなー...。」ところが或る日、その中で賢い一匹の蛙が素晴らしいアイデアを考え出しました。コウノトリを利用して空を飛ぶことです。

その蛙は、コウノトリを訪ねて行って頼みました。「コウノトリ様!私も空を飛んでみたいのですが、どうでしょうか。木の枝を一本、あなたが口にくわえて、その端を私が口にくわえますから、あなたが空を飛んだら私もあなたによって空を飛ぶことができます。あなたのお陰で私も空を飛んでみたいのですが...。」「おー、そうしてみようか!」彼らは木の枝を一本見付けて、一方はコウノトリが、もう一方は蛙がくわえて、コウノトリがさーっと空に飛び上がりました。蛙もつれられて空中に飛び上がりました。

素晴らしい気持ちです。全天下が目に入りました。同僚の蛙たちがそれを見上げて一斉に嘆声を上げました。一緒に小さな池の中を泳ぎ回っていた同僚が空を飛んでいるのです。「誰が、こんな素晴らしいアイデアを考え出したんだ〜?」蛙たちが大きく喚きました。それを聞くや、空中を飛んでいる蛙が、自分を誇りたくてたまらなくなりました。それで、「僕だよーっ!」と大声で答えました。その瞬間、くわえていた木の枝を口から離したその蛙は、地上にそのまま落下してしまい、即死してしまいました。

この蛙は、自分を自慢しなかったら最後まで空中旅行を楽しみ、そして無事に地上に帰還したでしょう。これは、凄く意味深長な寓話です。神様が私たちを高めてくださって、いくら空高く飛ぶといっても、自分を自慢し、驕慢になったら、その人はすぐに滅んでしまいます。高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つのです。

神様の前で自分を誇る人は、義なる罪人です。自分は義なる人間であると思っても、実際には中が腐った人なのです。このような義なる罪人は、神様が退けられます。しかし汚れた罪人は、最初から自分が砕かれて、神様に降伏し、主だけを見つめる人で、このような汚れた罪人は、神様がその罪を赦してくださり、義と認めてくださり、神様のふところに抱いてくださるのです。

「ヨハネの手紙 第一 1章 8節〜9節」に、『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』と言われているのです。

また「ペテロの手紙 第一 5章 5節〜6節」には、『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』と記録されています。

ですから、私たちがこの世を生きながら拠り頼むことのできるところは、神様の無条件的な愛だけです。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネの福音書3:16)と聖書に言われています。

神様の愛には、条件がありません。男女、老幼、貧富、貴賎を問わずにイエス様を信じたら、それだけで神様は過去を問いただすことなく、無条件に救って上げると言われているのです。これは神様の無条件的で、絶対的な愛なのです。「ローマ人への手紙 5章 8節」に、『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』と記録されています。

或る聖会で、黒人が神様の救いの恵みに関して証ししました。彼は、神様がどのようにして自分の心を動かしてくださり、罪の鎖と罪責感から解放させてくださったかに関して、証ししました。また、イエス・キリストが自分に施してくださった恵みを紹介しました。しかし、彼は自分が行った行動とか努力に関しては、何一つ話しませんでした。

それで、証しが終わった後、司会者が彼に尋ねました。「今、証ししてくださった兄弟よ。あなたは自分が受けた救いを通して、神様がなさったことだけを話してくださいました。私の経験からは、神様が救ってくださる前に、人間として行わなければならない努力があります。兄弟さん、あなたが救われるためにどういうことをなさったでしょうか?」そうするや、その黒人が立ち上がって答えました。

「あ、そうです。私がしたことを申し上げるべきでしたが、うっかり忘れていました。済みません。私は今年で32歳です。その間私がしたことは、神様を遠く離れてあちこちと彷徨い、罪を犯すことだけをして参りました。今まで私がしたこととは、神様が憎むことだけをしでかし、罪の中で暮らし、悪いことだけをしながら生きてきました。このような罪人である私を、イエス様が来られて何の条件もなしに罪を赦してくださり、救ってくださいました...。」

この黒人の証しは、真実です。皆さん、どんな良いことをしたとして神様が皆さんと私を救ってくださったでしょうか。良いことをしたことのある聖徒さんがおられましたら、一度、みんなの前に出して見せてください。どんなことをなさったでしょうか。神様はひとり子を私たちに与えてくださいました。天と地とその中のすべてのものを造られた創造主であられる神様が、ひとり子イエス・キリストを十字架にかけて身を裂き血を流してから死なれるようになさいました。その苦痛を私たちは想像もすることができません。

その尊い犠牲を、皆さんがどんな義なる行動と代価を払って買うことができたでしょうか。私たちは、お金で計算し、代価を支払って手に入れることのできないものは、お恵みとしていただくしかないのです。太陽の光を金銭で計算することはできません。あまりにもその価値が高いので、ただで受けるのです。空気も金銭でその代価を計算することができません。それでただでいただいて、吸い込むのです。

父母の愛を、金銭で計算することはできません。それで、無償で受けるのです。神様が救ってくださったその愛もあまりにも高価なので、金銭とか何かの行為で計算することはできません。代価を支払うことができないのです。信仰によって恵みとしていただくしか、ほかに道理がありません。

救われるために私たちがしたこととは、何一つありません。私たちがしたことは、罪を犯したこと以外には何もないのです。神様の無条件的な愛と、イエス様の恵みによって私たちが救いを受けた、と言うことを忘れてはならないのです。イエス様の限りない恵みを、私たちが忘れてはなりません。「エペソ人への手紙 2章 8節〜9節」に、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』と記録されています。

私たちがよく知っている聖フランシスコの逸話の中に、このようなお話があります。彼の弟子の一人が祈る中で、幻を通して天国を観ました。そこには大小様々な御座がずらりと並んでいましたが、その中でもっとも大きく素晴らしい一つの御座が目につきました。彼は、天使に「この御座は誰のものですか?」と尋ねました。すると天使は、「それは世の中で一番謙遜なフランシスコのものです。」と答えました。

その弟子は、聖フランシスコが自分の先生であると知っていながらも、あまりにも御座が素晴らしく美しかったので、嫉妬を起こしました。それで或る日、「先生、先生はご自分をどんな人だと思っていらっしゃいますか...?」と聞きました。それは、フランシスコがどれ位謙遜な人なのか、試してみたかったからです。するや意外にも、「私は、この世の中でもっとも悪い人間です。もっとも罪深い人間なのです。」と、聖フランシスコが答えました。

その弟子は驚いて、聞き返しました。「どうしてですか?先生、それは偽善です。偽りです。世の中にどんなに悪い人が多いのか、私は知っています。それなのに、そんな人達に比べて先生がもっとも悪い人、罪深い人である、と言われるのは、それは真実ではありません。そんな偽善的な嘘は言わないでください。」

すると、聖フランシスコはその弟子に向かって、厳粛に言いました。「あなたが、私をよく知らないからそう言うのです。私は本当に罪深い罪人です。もしも、神様が私にほどこしてくださった大きなお恵みを、他の人にほどこされたのなら、その人達は皆、私よりもずっと立派な人になっていたでしょう。こんにち私がここまで来ているのは、ひとえに天の神様と、イエス・キリストのお恵みによるのです...。」

その弟子は、驚いてしまいました。聖フランシスコが、自分は世の中でもっとも悪い人間であり、もっとも罪深い人間であるのだが、神様の愛と、イエス様のお恵みで変化され、それで現在の自分になっているのだ...と告白するのを聞いて、その弟子は言い返す言葉がなかったと言います。

皆さん、私たちも同様です。誇ってはいけません。皆さんと私が、こんにち救われて、神様の前に立っているのは、父なる神様の無条件的な愛と、イエス様の十字架の血潮の恵みのお陰なのです。私たちが自ら罪人であることを告白し、自分を完全に砕いて、神様に降伏して御前に出て行ったら、神様が私たちを聖くしてくださり、義なる人に変化させてくださるのです。

私たちがどのようにして、信仰生活をしているのでしょうか。私たちが神様の愛をいただき、イエス・キリストの恵みによって救われたのであっても、この世の中で私たちの力量によって信仰生活をしていくことはできません。神様が聖霊を遣わされて私たちを助けてくださるから私たちが信仰生活をしていくことができるのです。主が言われました。「ヨハネの福音書 14章18節」の御言葉です。『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。』

また、「ヨハネの福音書 14章16節」に記録されています。『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、共におられるためにです。』助け主とは、私たちを助けてくださるために神様から遣わされて、いつも私たちの傍におられる方を言うのです。

ある父親が、自分の書斎を1階から2階へ移すために、蔵書をいっぱい抱えて2階に上って行きました。ところが、階下で子供の悲鳴が聞こえてきました。驚いて階段を飛び降りて行って見たところ、まだ幼い末っ子が、父親を手伝うつもりで自分の体ほどもある辞典を抱いてから、立ち上がれずに辞典の下敷きになって大きく泣き声を上げていました。末っ子が可愛くてたまらなくなった父親は、末っ子と辞典とを一緒に軽々と抱え上げて、2階に上って行きました。

子供は辞典が重いので、辞典の下敷きになってしまいますが、父親は大人で力がありますので、子供と辞典をいっしょに抱え上げて行くことができるのです。神様の戒めを、私たちは力が弱いので背負い、守ることができません。神様の戒めの下敷きになり、この世の罪悪の下敷きになって、私たちは悲鳴をあげますが、聖霊は私たちを守ってくださり、私たちを抱えて天国に連れて行ってくださるのです。私たちの力では行けませんが、聖霊は私たちを軽々と抱え上げて連れて行ってくださるのです。

私たちクリスチャンは、自分の力で暮らすのではありません。助け主聖霊さまが来られて、私たちの弱さを助けてくださるのです。私たちの霊的生活、心的生活、肉体的健康、普段の社会的生活を、助け主聖霊さまがともにいてくださり、いつも助けてくださるので、私たちがイエス様を信じ、天国に行くことができるのです。

今日、皆さんが教会に来てくださることができたのも、聖霊が助けてくださったからです。この世の数多い悪霊の誘惑と数々の試練に打ち勝つことができるのも、聖霊が助けて下さるから可能なのです。「テトスへの手紙 3章 5節」に、『神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。』と記録されています。

神様の御霊であられる聖霊さまが、毎日のように私たちを新しくしてくださっているのです。父なる神様の愛と、イエス・キリストの恵みと、聖霊の新生のみわざを通して救われたのであって、このことに関する限り私たちは絶対に、自分の力量とか行為によるものであると自慢してはなりません。

本文のパリサイ人のように、「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と自慢したら、自分自身としては義人であると思うかも知れませんが、神様は直ちにその人から目を逸らしてしまわれ、重罪人と見做されます。このような義なる罪人は神様から見捨てられるのです。

しかし、主のたとえ話に出る取税人のように、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩きながら、「神さま。こんな罪人である私をあわれんでください。私はなにも功を立てたこともなく、自慢すべきこともなく、ただ私は死ぬべき罪人です。私の罪を赦してください。」と悔い改め、主の許に立ち返ったら、神様はその人のすべての罪を赦してくださり、義の人である、と認めてくださるのです。

私たちは、私たちの古い人の衣を脱ぎ捨てなければなりません。自分を偶像化したり、自分を誇ったり、自分を義なる罪人と見做して高ぶっては絶対にいけません。そうしたら教会に熱心に出席しても、その人から神様は目を逸らされ、見捨てられます。自分が汚れた罪人であることを認め、古い人は十字架に釘付けにしてしまい、神様の前に両手を上げて降伏し、ひとえに信仰、ひとえに御言葉に従順に聞き従いながら、神様の永遠なる愛と、イエス様の限りない恵みと、聖霊さまのみわざに感激、感謝しながら生きて行かなければならないのです。

私たちが誇るべきことは、神様の愛しかありません。イエス様の恵みしかありません。聖霊さまの感化、感動しかありません。皆さん、私たちは自ら誇るべき何事もないのです。皆さんが行ったすべての良いことは、神様の導きによるのです。少しでも自分の手柄であると自慢したら、絶対にいけません。「エレミヤ書 17章 7節」に、『主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。』と言われているのです。






お祈り

愛であられる、我らの父なる神様!

私たちが皆、義なる罪人とならずに、汚れた罪人となるように助けてください。精神的に自分が義の人であると思う人を、神様が重罪人と見做される、と言う事実を悟りました。聖徒さんたちが自分を義なる罪人であると思わずに、汚れた罪人であると告白するように導いてください。

今日の本文の長男のように、聖徒さんたちが皆、義なる罪人のように振舞って信仰的に放蕩者とならず、みんなが次男のように放蕩者ではあったが、砕かれて、心から悔い改め、主に立ち返る汚れた罪人となるように助けてください。

主である神様!

救いは神様によることを悟らせてくださって有り難うございます。私たちは自分の行いとか、善行によって救われるのではありません。神様の愛と、イエス・キリストの恵みと、聖霊さまの感化、感動によって変化され、救われるのであることを心から悟って、忘れることなく、いつも三位一体の神様に感謝し、賛美を捧げ、信じ、栄光をお帰しすることができるように助けてください。

聖き主・イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!