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「すべてを越えて豊かに施すことのできる神様」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 3章20節〜21節」
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。




今日、この時間、私は皆さんたちとご一緒に、『すべてを越えて豊かに施すことのできる神様』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

「駝鳥」は、砂漠で猟師に追われてきわめて危険になったら、頭を砂の中に埋めます。そして自分の体が全部隠せられたと思います。こんにち、この世に属した人たちは、無神論を主張しているか、又は神様に関することを全く考えません。それで神様から離れて、いくらでも生きて行くことができると錯覚しています。

しかし、神様は時間と空間を超越して常に私たちと共におられます。神様は、無限と言う手のひらの上に人間の時間と空間とを置いておられるからです。それで神様を遠く避けて生きて行かれる人間は誰一人ありません。私たちはみな、例外なくいつかは神様の審判台の前に立つようになります。そのとき、私たちの生が審きを受けるようになるのです。




第一、私たちの中におられる神様

第1番目に、私たちがはっきりと知りたいのは、果して神様が私たちの中におられるるか、と言うことです。

悪魔がこんにち、聖徒さんたちの心をもっとも激烈に攻撃していることは、「神は人たちの中にはおられない。」と言うことと、「神がいるのは確かだが、人たちとは遠く離れている。」と言うことを認識させようとしていることです。悪魔は、神は宇宙の向こうの遠い所におられて、人たちに毎日起こることに関しては全く関心がない、と主張しているのです。

しかし聖書は、私たちの中に神様がおられ、私たちの中でみわざを働かせておられる、と言っています。私たちの中に神様が居られると言う事実を、私は今日、証しさせていただきます。

今日、皆さんは教会の中に来ておられます。ヨイド純福音教会と言うキリスト・イエスのからだの中に皆さんは来ておられるのです。教会はこの世の中にある、よみがえられたイエス様のからだです。イエス様は、ご自身のからだと共におられるしかないのです。今日、趙繩(チョー・ヨンギ)が、自分のからだの中にいるのと同じく、イエス・キリストはご自分のからだである教会の中におられるのです。

キリストは、至極高いお父さまの御座の右側に着座しておられると同時に、霊としてこんにち、ご自分のからだである教会の中、この場に来ておられるのです。それで、「マタイの福音書 18章20節」に、『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』と記録されています。

今、この場に、イエス様がおられるのです。この場におられて、私たちの礼拝を受け入れてくださっておられるのです。キリストのからだである教会が天に引き上げられる前には、イエス様はそのからだとご一緒におられながら、病気の人、貧しい人、疎外された人、泣く人、悲しむ人と共におられて、彼らを救うがためにみわざを働かせておられるのです。

また、助け主聖霊さまは、教会の中に臨在しておられる神様の御霊です。「ヨハネの福音書 14章16節〜17節」に、『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』と記録されています。

イエス様が仰せられた通りに、聖霊さまは私たちと共におられ、私たちの中に来ておられるのです。「コリント人への手紙 第一 3章16節」には、『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』と記録されているのです。

その次に、父なる神様は、私たちのところに来て私たちと共に住む、と言われました。「ヨハネの福音書 14章23節」に、『イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」』と記録されています。

今日、私たちがイエス様を愛し、キリストに礼拝を捧げたいのでこの場に集まりましたので、イエス様と共に父なる神様もこの場に来ておられるのです。「共に住む」と言うことは、私たちと共にここにおられると言うことです。

「ヨハネの福音書 14章20節」には、『その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。』と記録されています。ですから、私たちは神様から遠く離れているのではありません。私たちはイエス様の中に、イエス様は神様の中に、神様は私たちの中に共におられるのです。

それで、「ピリピ人への手紙 2章13節〜14節」に、『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』と言われたのです。三位一体の神様は、こんにち、私たちを離れておられるのではありません。

悪魔は来て、「神様は、あなたに関心がないよ。」「イエスは、すでに復活して天に昇ってしまったんだ。」「聖霊は、あなたには何のみわざも施さないよ。」と、嘘を言います。しかし、天が焼き崩れ、地が消え去っても、一点一画も変ずることのない神様の御言葉が、確かに、イエス様はご自分のからだである教会の中におられ、聖霊はその中に共におられながら私たちの中にもおられ、神様はイエス様と聖霊さまと共に私たちと一緒に住まわれる、と言われたのです。ですから皆さん、こんにち、この時間、三位一体の神様は、今ここに共におられて私たちのためにみわざを働かせておられるのです。

こんにち、主を知らない人たちは、目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができず、心があっても悟ることができません。それで彼らは、神様を見ることも知ることもできませんので、受け入れることもできません。しかし私たちは、イエス・キリストにあって主が私たちと共におられ、神様が私たちと共に住んでくださり、聖霊さまが私たちと共に居てくださることを知っています。

天と地とその中のすべてのものを造られ、宇宙と万物を支配しておられる三位一体の神様は、ご自分が選ばれ、救うことに予定なさった民たちと24時間共におられるのです。ですから私たちは、孤児のように捨てられることはありません。私たちは、神様がいない民ではないのです。私たちは神様と共にいるのです。神様がここに、私たちと共に飲み食いなさりながら私たちと共におられるのです。従って私たちは、心の中で強く、雄雄しく、大胆に、神様に拠り頼みながら、神様と共に生きて行くことができるのです。




第二、私たちの中でみわざを働かせる神様

第2番目に、聖書は、私たちの中でみわざを働かせる神様であると記録しています。神様はただ、私たちの中に来られて礼拝を受けられ、静かに黙っておられる神様ではありません。私たちに対して無関心な神様ではないのです。神様の関心のすべては皆さんに向けられています。もしも万が一、皆さんに関心がなかったとしたら、何故、イエス様に皆さんの罪を代わりに負うようになさり、神であり、人であられるイエス様が何故、恐ろしい十字架を背負って、両手と両足が釘付けられ、腰を槍で突かれて血と水を流される苦しみに会われたでしょうか。

神様がいかに私たちを愛され、私たちに関心を傾けられて、私たちを救うために御子イエス様を通して苦難に会われた、と言うことは、その愛の高さと深さと広さを私たち人間の頭では想像することができません。このような大きな愛を持って神様は私たちの中にみわざを働かせておられるのです。

それでは、私たちの中でみわざを働かせる神様は、一体どのような神様でしょうか? どのようなみわざを働かせるがために私たちの中に来ておられるのでしょうか?

私たちの中でみわざを働かせる神様は、「備えてくださる」神様としてみわざを働かせておられるのです。「コリント人への手紙 第一 2章 9節」に、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』と記録されています。

私たちの中でみわざを働かせる神様は、皆さんと私の過去と現在と未来をすべて知っておられるのです。私たちが母の胎の中に生じる前から私たちを知っておられ、私たちがこの世に生まれ出る前に既に私たちの一生を神様の書物に記録しておかれた、その神様は、私たちの生涯のためにすべてのことを備えて置かれたのです。

従って、私たちの未来は神様の手の上に置かれているのです。すべてを備えられた神様は、今、私たちの中でみわざを働かせておられるのです。

その次に、私たちの中におられる神様は、癒してくださる神様としてみわざを働かせておられます。「ヤコブの手紙 5章14節〜16節」に、『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』と記録されています。

私たちの中に臨在しておられる父、御子、聖霊の三位一体の神様は、癒しの神様として、私たちの霊と心とからだを癒してくださるがために今、袖を巻き上げて私たちの中でみわざを働かせておられるのです。

次に、私たちの神様は、敵に勝つようにしてくださる神様として、私たちの中でみわざを働かせておられるのです。私たちがこの世を生きて行くには、私たちを盗み、殺し、滅亡させようとする敵たちに数限りなく会います。ところが聖書には、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」と主が言われたと記録しています。また、私たちには、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。」「渇いたなら、飲ませなさい。」と聖書は記録しています。

「ローマ人への手紙 8章33節〜39節」に、『神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』と記録されています。

神様の私たちに対する愛は、あまりにも強く、粘りっこく、限りがありませんので、イエス・キリストを通して私たちを愛する、その神様の愛からどのような力も私たちを引き離すことができないのです。神様は、私たちが生きていても共にいてくださり、死ぬときも共にいてくださり、向こう側の永遠な天国でも私たちと共にいてくださるのです。

神様は、私たちと共にいてくださって、私たちが敵に勝つためにみわざを働かせておられるのです。私たちの最後の敵は死です。ところが、イエス・キリストは神様であられるのに直接人となって来られて、十字架に架けられて釘付けにされて死ぬ、死の中でももっとも苦しく痛ましい、その苦痛を通して死を経験なさってからよみがえられましたので、こんにち、死者の傍に来られて死を克服し、死に勝って、永遠の天国に入って行くまで手を取って導いてくださることがおできになるのです。

イエス・キリストに勝つことのできる敵はありません。すべての敵に勝たれたイエス様は、私たちの人生のあらゆる過程に共にいてくださって、敵に勝ち、キリストにあって栄光の天国に到達するときまで導いてくださるために、私たちの中に共にいてくださるのです。

その次に、私たちの中におられる神様は、平和の神様として共にいてくださいます。「ヨハネの福音書 14章27節」に、『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』と記録されています。

世が与えてくれるものは、今日与えてから明日は奪って行くことができます。今日はあったが、明日は消え去りもするのです。この世は変化無双なのです。しかしイエス・キリストにあって神様が私たちに与えてくださる平安は限りがないのです。永遠に私たちは心の中に神様の平安を持って、物騒で暴風雨が吹きまくるこの世を私たちは生きて行くことができるのです。

「ヨハネの福音書 14章 1節」に、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』と記録されています。一回、信じて見なさい。あなたがたの心配と懸念を一切主に委ねなさい。そうしたら、神様があなたがたを顧みてくださいます、と言うのです。

従って、私たちの疲れ、重荷をイエス様にすべてお委ねしたら、主が責任を負ってくださるのです。このように、私たちの荷を負ってくださり、私たちに平安を与えてくださるために、私たちの中で主がみわざを働かせておられるのです。

また神様は、祝福の神様として私たちの中に今臨在しておられ、みわざを働かせておられます。「コリント人への手紙 第二 8章 9節」で言われたように、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記録されています。

「コリント人への手紙 第二 9章 8節」には、『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』と記されています。神様は来られて、私たちの中でただ私たちを観望なさる神様ではありません。私たちを貧乏と呪いから解放させてくださり、私たちが良いわざを溢れるまでにすることができるように助けてくださるために、私たちの中に来ておられるのです。

そして神様はまた、私たちの中に救いの神様として来ておられます。皆さん、私たちの中に来ておられる神様は、両手をいっぱいに差し出して、皆さんと私の心の窓を開いてイエス様を救い主として迎え入れ、救いを受けるようにと願っておられるのです。

「ヨハネの福音書 3章16節」に、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と記録されています。男女老幼、貧富貴賎、誰彼を問わずに心の窓を開いたら、イエス様が入って来られて私たちと共に食事をし、私たちを救って永遠の天国の民としてくださるのです。まさに救いの神様として、三位一体の神様は私たちの中に来られて、共にいてくださるのです。

その次に、私たちの中に来ておられる神様は、慰めの神様として私たちの中に来ておられます。「コリント人への手紙 第二 1章 3節〜4節」を見ますと、『私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』と記録されています。

神様の慰めは、人の慰めとは比較することができません。私たちが苦しく、悲しみに会っているとき、父母兄弟が来て温かい言葉で慰めてくれ、背を叩いてくれたら凄く慰められます。親友が来て慰めの言葉をかけてくれる、力を与えてくれる、勇気を与えてくれて再び立ち上がれるように激励してくれたら、私たちは嬉しくなって感謝するようになります。

人の慰めも私たちに再出発することができる慰めとなります。尚更のこと、三位一体の神様が慰めの神様として来られて、皆さんと私の胸の中に慰めを注いでくださるとき、私たちには落胆から立ち上がることができる勇気と力が生じるのです。私たちは慰めがない人生ではありません。砂漠の炸裂する太陽の下をひとりで歩いて行く人生ではないのです。全知全能なる神様の驚くべき慰めの御手がいつも私たちと共におられるのです。神様が私たちを慰めてくださり、喜びを与えてくださり、傷ついた心を癒してくださるために、神様はいつも私たちの中に来ておられるのです。

それからまた、私たちの中に来ておられる神様は、私たちを聖くするために来ておられる神様です。「ペテロの手紙 第一 1章16節」に、『それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。』と記録されています。

私たちの神様は、罪と咎をみな剥ぎ捨てられ、死と罪悪の勢力を滅ぼされ、神様の聖なる品性に参与することができるように、世俗と妥協せず、世俗に浮き流されることがないように、また、この世に暮らしながら世の事に染まらないように、そしてこの世の捕虜とならず、神様に従って暮らすことができる聖い生活を営んで行くようにするがために、絶え間なく私たちに聖霊を注いでくださり、神様の御言葉と御力によって私たちを聖くなさるみわざを施してくださるために、今、私たちの中に来ておられるのです。




第三、神様のお恵みをいただく為に

第3番目に、神様のお恵みをいただくためには、私たちは祈り求め、正しく考えなければなりません。私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すために、神様は私たちの中に来ておられるのです。

「コリント人への手紙 第二 6章 1節〜2節」を見ますと、『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』と記録されています。

私たちの神様が、その御力をもって私たちの中にいてくださり、救いとお恵みを施してあげようとなさっても、私たちが神様に祈り求めず、私たちの考えが正しく立ち返らなかったら、神様のお恵みを無駄に受けてしまうのです。それで聖書は、神様のお恵みを無駄に受けないようにしなさいと、切に願っているのです。恵みのときに、神様は私たちの祈りを聞きたいと願っておられ、救いの日に、神様は私たちを助けてあげたいと願っておられる、と言うのです。

私たちは神様から助けていただくために、何事でもすべて心を尽くして祈り、求めなければなりません。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」と言われているのです。

「ヨハネの福音書 14章13節」に、『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。』と記録されています。また「ヤコブの手紙 4章 3節」には、『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』と記録されているのです。私たちは心を尽くし、思いを尽くし、まことを尽くして切に祈り求めなければなりません。

イエス様がエリコを通られるとき、バルテマイが叫び立てるのをご覧ください。盲人の乞食バルテマイが、道ばたにすわって物乞いをしているところを既に通り過ぎてしまいました。通り過ぎてしまった後に、イエス様が通り過ぎられたことを知った盲人の乞食バルテマイは、立ち上がって「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」と叫び始めました。人たちは彼を黙らせようとして、押さえつけ、口をふさぎましたが、彼はますますいきりたつが如くに叫び、喚きました。「ダビデの子よ。私をあわれんでください…!」

すると、イエス様は立ち止まられて、「あの人を呼んで来なさい。」と言われました。バルテマイが呼ばわり叫ぶ前には、イエス様は彼の前を通り過ぎてしまわれました。しかし彼が呼ばわり喚くや、イエス様は歩みを止められて、「彼を呼んで来なさい。」と言われたのです。

こんにちも、主は私たちの中におられますが、私たちが呼ばわり祈らなかったら、答えてくださいません。これが天の御国の法則です。神様は、この法則を絶対に守られます。春が来たら、夏が来る、その次に秋が来て、そして冬が来るのが法則であるように、私たちが神様に呼ばわってこそ、神様は歩みを止められて、私たちの祈りに耳を傾けてくださるのです。

盲人バルテマイは、イエス様の御前に呼ばれて来ました。「マルコの福音書 10章50節〜52節」に、『すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。』と記録されています。

スロ・フェニキヤの女をご覧ください。イエス様がツロの地方へ行かれたとき、スロ・フェニキヤの女がイエス様の足もとにひれ伏して願い叫びました。「ダビデの子イエスよ。私をあわれんでください。私の娘が汚れた霊に憑かれて苦しんでいます…。」その女は願い続けました。イエス様は何とも答えずに黙っておられました。

この女は弟子たちのところに来て頼みました。「イエス様にお願いして、私の娘を直してください。」弟子たちがイエス様のもとに来て、「主よ。この女がしきりに願い叫んでおります。帰るように何とか言ってください。」とお願いしました。すると、イエス様が言われました。「わたしは、イスラエルの失った幼い羊たち以外には遣わされていません。」

すると、この女がイエス様の前に出て来て叫びました。「私をあわれんでください。私の娘が悪霊に憑かれているのです…。」イエス様が彼女を見て、言われました。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」それこそ侮辱的な言葉でありました。それでも、女は落胆せずに叫んで答えました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

イエス様は感嘆してしまわれました。そこでイエス様が言われました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」女が急いで家に帰って見ました。すると、娘は床の上に伏せっており、悪霊はもう出て行っていました。

このように、スロ・フェニキヤの女のように落胆せずに、不退転の祈りを捧げなければならないのです。

それだけではありません。「ルカの福音書 18章 6節〜7節」に、『主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。』と記録されています。祈るときには、不正な裁判官とやもめのお話しのように、集中的な祈りをしなければならないのです。散漫な祈りは、してはなりません。このやもめは集中的に、「私の相手をさばいて、私を守ってください。」と願いながら、ひっきりなしに叫び呼ばわって、裁判官がうるさくて仕方がないようにしました。

私たちが神様に祈るとき、ひっきりなしに主の前に出て来て呼ばわり、祈って、主の御心が煩わしくなるほどにまで祈りなさい、と教えているのです。このように祈ってこそ、神様のみわざが起こるのです。私たちの中に神様がおられますけれども、祈らない人の生活を助けて上げることはできません。それは、天の御国の法則です。

祈りを通して、神様の御手が私たちに及ぶのであり、祈るとき、神様が私たちの傍に現われてくださるのです。

そして聖書は、「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる神様」であると記録しています。祈るだけで、私たちの思いが古いままであってはならないのです。あまりにも多くの人たちが、自分は罪人である、と思っています。自分は不潔であると思い、自分は病人、自分は失敗者、貧しい者、敗北者であると思っています。心の中に間違った思いを持っていたら、器の中に汚い滓がいっぱいに残っているのと同じです。そのような器に飲み水を入れることはできません。先ず、その器をきれいに洗い出して清潔にしなければなりません。

それで私たちは、私たちの思いを新しくするために悔い改めなければならないのです。私たちの心の中にある否定的で、破壊的で、頽廃的な思いをすべて悔い改めて、私たちの心から洗い流し、私たちの心の中に神様の御言葉で満たさなければならないのです。私たちの心が神様の御心と一致して、心の思いが合わなければならないのです。一緒に暮らす夫婦の間でも、夫が右と言ったら妻は左と言い、夫が前へと言うとき妻が後ろへと言って、思いが一致しなかったら、夫婦は互いに争い合い、心が合わず、一緒に暮らすことができません。

こんにち、神様と人とが心が合わないので衝突するようになったら、神様は私たちの中でみわざを働かすことができないのです。ですから私たちは、自分の心を砕いて、謙遜になり、神様の御心と私たちの心とが一つとなるように努力しなければなりません。

私たちは、「ローマ人への手紙 4章18節〜21節」に記録されている、アブラハムの信仰を模範としなければなりません。アブラハムは、彼の年およそ100歳になり、彼の妻の年が90歳になって、自分のからだが死んだも同然であり、妻の胎も死んでいることを認めていました。そのような状態なので、アブラハムは絶対に子を産むことはあり得ない、と思いました。子どもを得ると言うことは全く望み得ないことでありました。

しかし神様は、彼に子どもを与えると言われたのです。アブラハムは、彼の年100歳になり、自分と妻の胎が死んだも同然であることを認めているのに、神様は「あなたの子孫は空の星のように、海辺の砂のようになる。」と言われたのです。人の思いと神様の思いは、このように違います。人には限定があり、神様は無限定なのです。人は能力が有限であり、神様は能力が無限なのです。従って、人の思いと神様の思いが一致することはできないのです。

それで人は、当然のことながら自分の考えは捨て、神様の考えを受け入れなければなりません。「イザヤ書 55章 8節〜9節」に、『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』と記録されているのです。

それで、アブラハムは心に決断を下しました。心が弱くならず、信仰がなくて神様を疑うようなことをせず、信仰に堅く立って神様に栄光をお帰しし、約束されたことは成就する力が神様にはあることを堅く信じました。人間的な知識と感覚に拠り頼まず、神様の約束を疑わず、神様が言われたことは必ず成就すると確信しました。そして神様に栄光をお帰ししました。

目には何の証拠も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、また、自分の思いでは前途が真っ暗闇であっても、彼は神様だけを見つめました。地を見下ろすようなことはしませんでした。そして、神様の御言葉通りに彼は思い、神様の御言葉通りに口で是認するようになりました。

神様は、「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」と言われたのです。その偉大な栄光で、父なる神様とその御子イエス様と聖霊の三位一体の神様は、今、ここに来ておられるのです。私たちの中に来ておられるのです。私たちは、至極大きな御力の神様が私たちと共におられることを信じて、熱い祈りと変化された心と思いで、運命と環境に挑戦して行かなければなりません。そうするとき、すべてを超えて豊かに施すことのできる神様の応答が私たちの生活の中に奇跡的に現われるようになるのです。

イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも同じなのです。主である神様は変わることがありません。聖霊さまは私たちを助けるためにいつも私たちの中におられるのです。私たちは、孤児のように見捨てられているのではありません。私たちは神様の民たちなのです。私たちは神様と共にいるのです。

私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる神様が、私たちの教会と、イエス・キリストを通して、世々長く、永遠に、栄光と賛美と尊敬を受けられるようにならなければならないのです。




お祈り

全能であられ、聖き、三位一体の神様! 私たちの中にいてくださることを感謝します。

主の御体である教会の中におられるイエス様! 教会の中におられる聖霊さま! 私たちと共におられる父なる神様! 今日、主が選ばれ、神様の子どもとしてくださった主の民たちを、ここに呼び集めてくださって有り難うございます。

愛であられる天のお父さま! これからは、私たちにもっと祈ることができる力を与えてください。

聖霊さまが助けてくださって、すべての聖徒さんたちが心の中から、否定的な思い、世俗的な思いをきれいに洗い出すことができるようにしてください。そして、求めること、思うことが神様の思いと一致するように助けてください。

私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる神様のみわざが、私たちの中に現われるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!