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「伝道者ピリポ」
 






■聖書箇所

「使徒の働き 8章 4節〜8節」
8: 4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
8: 5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
8: 6 群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8: 7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。
8: 8 それでその町に大きな喜びが起こった。




今日、私は、皆さんと共に「伝道者ピリポ」という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

人たちから、尊敬と感謝を受けようとするなら、その人たちの胸の中にある最大の関心事を知って、それを立派に成就することができるように助けて上げたら、自ずと、尊敬と愛を受けるようになります。子供が、父母の関心と愛を受けようとしたら、父母がもっとも関心を傾けていることを成就して上げることです。そうしたら自然と父母がその子供を愛するようになるのです。

そのように、神様から愛され、また祝福して頂くためには、神様の最大の関心事が何かを知り、それを成し遂げて差し上げるとき、愛と祝福をあふれるようにいただくことができるのです。それでは、こんにち、神様の最大の関心事は何でしょうか? それは、福音伝道と救霊事業なのです。




第一、ピリポの福音伝道

聖書「ヨハネの福音書 3章16節」に、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と記されています。神様がそのひとり子をこの世にお遣わしになられたほどに、深い関心をお持ちになられたのが救霊事業です。

また、イエス様はそのことのためにご自身の身をささげて、十字架の上で肉を裂き、血を流して下さいました。命を懸けてこのことを成就しようとする深い熱意を持って、関心を傾けておられることが救霊事業なのです。

そして聖霊様は天の御座を離れて、こんにち、教会の中に来ておられ、聖徒の中におられながら、力の限りを尽くしてこの宇宙的事業を引き起こそうとしておられるのです。ですから、神様の最大の"関心事"は正に救霊事業なのです。この事業に献身する時、私たちは神様から喜んでいただけることができ、神様から愛され、神様から祝福していただくことができるのです。それで、私たち人生の最大の関心事も、福音を宣べ伝えることと救霊事業にならなければならないのです。

それでは、今この時間、伝道者ピリポの生涯を通して、私たちがどのように神様の最大の関心事である「救霊事業」に献身することができるか、その例を勉強したいと思います。

聖書を見ますと、伝道者ピリポがエルサレムを離れて、サマリヤの町に下って行き、そこで人々にキリストを宣べ伝えたと記されています。伝道者ピリポは「使徒」でもありません。主の「しもべ」でもありません。平凡な平信徒であり、エルサレムで最初に7人の執事を選んで使徒たちが手を置いて祈ってやった時、その7人の中の一人の執事でありました。それにも関わらず、彼は聖霊と御言葉に満ちて、エルサレムで甚だしい迫害が起こり、多くの聖徒たちが散らされて行く時、彼はサマリヤの町に下って行って人々にキリストを宣べ伝えた、と言うのです。

私が、ここでもっとも深く感動されるのは、「ピリポが出て行って、宗教を宣べ伝えた。」とも言われておらず、「キリスト教を宣べ伝えた。」とも言われていません。彼は、ひとえに「イエス・キリストを宣べ伝えた。」と言われたことです。

私たちが、この世を暮らしながら伝道しなければならないことは、教団でも、教派でも、哲学でもありません。神の御子イエス・キリストを宣べ伝えなければならないのです。ところが、イエス・キリストを正しく知っておらなければ、イエス・キリストを宣べ伝えることができません。

こんにち、多くの人たちが、自分もイエス・キリストをよく知らないのに、誰にイエス・キリストを宣べ伝えることができるでしょうか? ピリポは、イエス・キリストを良く知っておりました。彼は、十字架の上に釘づけられて、身を裂き血を流して死なれてから、よみがえられたイエス・キリスト、そして、神の御座の右に着座されて、神様から聖霊を受けて、私たちに聖霊を注いで下さったイエス・キリストを、彼は体で体験しており、心からもはっきりと知っておりました。

従って、彼がサマリヤの町に下って行って宣べ伝えたキリストは、赦しと義を与えて下さるイエス・キリストでありました。イエス・キリストが十字架の上に釘づけられて、身を裂かれ、血を流されたのは、私たちの数限りない醜悪で汚い罪を代わりに担われ、私たちに赦しを与えて下さるためであり、私たちが義と認められるように恵みを施して下さるためであることを、ピリポはよく知っておりました。

彼は、サマリヤの町の人たちに、愛と聖霊を与えて下さるキリストを宣べ伝えました。彼は、『神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。』と、ペテロが言ったことをはっきりと心の中に記憶しておりました。それで、イエス・キリストを信じたら、神様が聖霊を注いで下さり、聖霊が神の愛を私たちの心に満たして下さり、神様の聖なるみわざを私たち人生に注いで下さると言う事実も、彼は知っていましたので、この事実を力強く宣べ伝えました。

ピリポは、イエス様がエルサレムに来られる前に、ナザレに行かれて宣べ伝えられた御言葉を良く知っておりました。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』(ルカの福音書 4章18節〜19節)

ピリポは、イエス・キリストのお働きは、人たちの罪を赦し、人たちから悪魔を追い出し、人たちの病気を癒すことであることを、良く知っておりました。

皆さん! 福音は、癒しの福音です。癒しは、キリストの福音の絶対的部分を占めており、キリストの福音と癒しは切り離すことができません。それで、使徒たちだけでなく、当時のイエスを信じる人たちは、キリストの福音を証しする時には必ず「癒し」の話しがなければなりませんでした。癒しの福音の証しをしなければならないことを深く悟っていましたので、ピリポも、彼らに癒しと解放を与えて下さるイエス・キリストを確かに伝えることができたのであります。

それだけではありません。彼は、人生に成功と祝福を与えて下さるキリストを伝えました。イエス・キリストがこの世に来られて、私たちのたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるようにと願っておられると言う事実を彼は知っておりました。なぜなら、「ヨハネの手紙 第三 1章 2節」に、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と記されているからです。

そればかりでなく、ピリポは、永遠のいのちと天の御国を与えて下さるキリストを宣べ伝えました。「ヨハネの福音書 14章 1節〜3節」に、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、場所を備えに行くのです。私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と主が言われたのです。

故に、私たちはこの世で永遠に生きるのではないと言うことです。この世は、旅人か寄留者のように通り過ぎながら暮らして、ある瞬間、先になったり後になったりしながらこの世を私たちが離れて、主が備えられた永遠なる天の御国に入って行くという事実を、ピリポは証ししたのです。それで、こんにちこの世に暮らしている人たちに希望があると言うことを見せてくれました。

このようにピリポは、イエス・キリストにあって私たちが永遠のいのちと天国を得るということを強く宣べ伝えました。聖書は、『群集はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、皆そろって、彼の語ることに耳を傾けた。』と記録しています。『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです。』

人が聞かないことには、絶対に信仰が生じません。人が御言葉を聞けば、御言葉に従って神の御霊がみわざを働かし始めるのです。世の人たちの言う言葉は、絶対に信仰を生み出しません。しかし神の御言葉は、聖霊の御言葉でもありますので、私たちが御言葉を聞いたら、御言葉に従って聖霊が心の中にみわざを働かせて下さり、信仰を心の中に注ぎ込んでくださるのです。

それで、心の中になかった信仰が生じ始めるのです。そして信仰が生じたら、神様が何と仰せられるかご存知ですか?『あなたの信仰通りになるように!』と仰せられるのです。信仰が神様と手を組むようにしてくれるのです。信仰のパイプを通して、神様の恵みと祝福が臨み始めるのです。

その故に、ピリポがサマリヤの人たちに神様の御言葉を宣べ伝え、彼らが信仰を得るや、彼らの中に神様の奇しきみわざと不思議なわざが起こり始めました。なぜかと言えば、キリストの福音には必ずしるしが伴うようになっているからです。

聖書「マルコの福音書 16章15節〜18節」に、次のように記されています。『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

これは、イエス様の福音を信じる人たちに、当然伴わなければならないしるしです。こう言うしるしがないのが、却っておかしいことなのです。

こんにち、余りにも長い間、キリスト教会が福音を証しして参りましたが、しるしが伴いませんでした。それで人たちは、しるしが伴わないのが正常な教会であると思っております。それは、教会がそれ程までに堕落して信仰を失ってしまい、聖霊のみわざを受け入れなかったので、しるしがない、形式的、儀式的、神学的、そして哲学的な教会にしたのであり、生きてみわざを働かす、しるしがある教会にし得なかったからです。これは、教会が非正常的に堕落したからなのです。




第二、復活したイエス様が与えて下さる恵み

私たちが、本当にピリポが証ししたイエス・キリストの福音をそのまま受け入れて信じたなら、こんにちも私たちの教会の中に、豊かなしるしが伴わなければならないのです。しるしと不思議なわざは、皆さん各々が福音を証しするとき現れるようになるのです。そしてこの福音を証ししたら、しるしが伴いますが、このしるしが、正によみがえられたイエス・キリストが下さる恵みなのです。

イエス様が、死なれてからよみがえられたのが、私たちとは関係がないように思っておりますが、皆さん! 教会が正に死なれてからよみがえられたイエス・キリストの神秘な御体です。こんにち、イエス様が私たちから離れて宇宙の向こうにおられるのではありません。この教会がまさに復活されたイエス様の神秘な御体なのです。皆さんは、今イエス・キリストの御体の中に入って来ているのです。生きておられるキリストの御体が、正にここなのです。キリストの御体の中に入って来ているので、キリストの躍動するみわざが聖霊を通して、今日、ここで働いているのです。

ピリポがキリストを宣べ伝えるや、よみがえられたキリストが直ちに彼と共に働かれて、みわざが現れ始めたのです。悪霊が追い出され始めました。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、汚れた霊が大声で叫びながら出て行きました。皆さん、聖書にはいろいろな悪霊たちのことが記録されています。

「使徒の働き 5章14節〜16節」を見ますと、『そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』と記されています。

汚れた霊につかれると、人たちの生活が非正常的な方向に導かれます。酒を飲み、博打をし、淫乱、放蕩、世俗、貪欲… 等、間違った人間になってしまいます。悪魔に化かされた人間になってしまうのです。こういう人たちがキリストの前に出て行ったら、汚れた霊は追い出され、神様が癒して下さって、正常的な心を持った、義と平和と喜びの人に変化されてしまうのです。ですから、キリストにあって変化されたと言うことは、キリストを信じるや、悪霊が追い出されたことを言うのです。

悪い霊があります。この悪い霊は人たちを苦しめます。不安、焦燥、苦しみ、憎しみに満ちるようにし、家族を仲違いさせ、兄弟同士で憎み合うようにし、隣人との間を分裂させ、人生の破壊をもたらします。この悪い霊は、キリスト・イエスの福音が宣べ伝えられるとき、追い出されます。

その次には、偽りの霊があります。これは人たちの中に入って来て、嘘を言い、騙します。『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』と聖書に記されています。

こんにち、全世界は悪魔の嘘に騙されています。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を追求させることで人たちの心を捕らえ、この世を暮らす間、富貴・栄華・功名だけ得たら最高なのだ。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかだけ考えながら暮らしなさい!あの世と言うのは無いのだ。考える必要もない… と騙します。

人たちは、唯物主義、人本主義、快楽主義、世俗主義に騙されて生きて行きます。これ等を悟り、真理に立ち返るようにするのが伝道です。真理を持って、この真っ暗闇の世の人たちの心を照らし、この有限の世が過ぎたら永遠なる新しい天と新しい地、新しいエルサレムがあり、また火と硫黄とが燃える審きがあると言う事実を、私たちが悟らせることが、偽りの霊に捕らわれている人たちに解放をもたらせて上げることです。

その次には、占いの霊があります。占いでもって人たちを欺くのです。神様に仕えさせず、神様の御言葉に従順に聞き従わないようにし、信仰を捨てて、占いを通して僥倖を憧れるようにする、このような凶悪な悪霊たちが、現在、韓国にいっぱい満ちています。この悪霊は、心身を虚弱にして、人たちが正常的な暮らしをすることができないようにします。心が病気にかかり、肉体が病むようにするのです。

このような悪霊に捕らわれている人たちに、キリスト・イエスを宣べ伝えますと、よみがえられたイエス様は、その人たちを悪霊から解放させて下さいます。聖書には、『汚れた霊に憑かれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行った。』と記されているのです。今、皆さんに取り付いている悪霊も、この礼拝を通して追い出されます。もう、皆さんに継続してつきまとうことができません。

よみがえられたイエス様は、光り輝く太陽と同じです。悪魔は、暗やみと同じです。暗やみに光りが照らされたら、暗やみが勝つことはできません。キリストが皆さんの生涯の中に入って来られますので、悪霊は継続取り付いていることができないのです。また、聖書には、『大勢の中風の者や足のきかない者は直った。』と記されています。

実際には、人たちが脳卒中や脳梗塞で、中風に罹ったり足のきかない者になったりするだけではありません。「精神的中風」に罹っている人が少なくありません。「憎悪」で正常的な生活ができない中風患者、「不平」の足のきかない者、「否定的な心」の故に人生が中風患者になり、足のきかない者になった人が、いくらでもあるのです。

このような人たちに、ナザレのイエス様の福音が入って来たら、愛が入って来ます。肯定的な信仰が入って来ます。平安が入って来ます。そうしたら、中風患者も足のきかない者も立ち上がるようになるのです。もちろん、実際に多くの中風患者や足のきかない者がイエスの御名により、神様の奇蹟によっていやされるのは事実なのです。




第三、「その町に大きな喜びが起こった。」

それで皆さん! 聖書に何と記されているでしょうか。『その町に大きな喜びが起こった。』と記されているのです。神様のみわざが現われたら、個人の胸にも、家庭にも大きな喜びが起こり、社会、国家、世界にも喜びが起こるのです。神様は、私たちを悲しむように造られたのではありません。なぜかと言えば、私たちは「神のかたちに創造された」からです。聖書には、『神は愛です。』とあり、また『神様の御前には喜びが満ち、神様の右には、楽しみがとこしえにあります。』と言われているのです。

ですから、神様のかたちに造られた私たちが、「喜び」で暮らすのは当然なことです。こんにち、人たちは余りにも喜びを失い、悲しみに満ちた生活をしております。それは即ち、神様を知らないから、そうなのです。イエス様が『あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。』と言われました。キリスト教の信仰は「喜び」です。キリストが来られたら、神の栄光により私たちの心には喜びがいっぱいに満たされるようになるのです。

しかし、この世には喜びを妨害する敵たちがどんなに多い事でしょう。「ルカの福音書 8章13節」に、『岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身をひいてしまうのです。』と記されています。

福音が入って来て喜びが起こっても、試みが入って来て直ぐにキリストに背いてしまったら、喜びが去ります。ですから、私たちは喜びを妨害する根源的なものたちをすべてみな、サマリヤの人たちのように悔い改めなければなりません。罪は喜びを妨害し、罪は神様と人との間を隔てさせ、神様と人の間に渡って行けない「隔ての壁」を築いてしまうのです。

それで、私たちが罪を悔い改めたら、『神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』ですから、罪の「隔て壁」を悔い改めることで、崩してしまわなければならないのです。そうすれば、敵悪魔は喜びの川水を阻(はば)むことができません。

それから、不従順を悔い改めなければなりません。私たちの神様が願っておられることに反対し、不従順な生活をしながら、神様の喜びの泉が私たちの中に湧き上がることを期待することはできません。ですから、私たちは「主の日」を聖く守り、「十分の一」を差し上げ、熱心に御言葉を読み、祈り、伝道する… このような生活をするようになるとき、なぜ神様が、私たちに喜びで満たしてくださらないことがあるでしょうか。

また、私たちは悪魔に敵対して立ち向かわなければなりません。悪魔は悲しみです。悪魔は絶望です。それで悪魔が入って来たら、人たちに悲しみと絶望をもたらすのです。しかし聖書は、『悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』と記しています。私たちは絶えず悪魔を退けて、私たちの喜びを失わないようにしなければなりません。

私たちの心の中に、憎しみが入って来たり、不平や否定的な考えが入って来たら、心の喜びを失ってしまいます。それで、憎しみとか不平、否定的な考えは、相手を傷つけるよりも自分をより多く傷つけます。ですから、私たちは悔い改めて、イエス様の御名によって不平も否定的な考えもすべて清算してしまい、キリストを仰ぎ見ながらその愛と平安と喜びを受け入れなければならないのです。

それから又、私たちは病を癒していただかなければなりません。心が痛んだり身体が病気に罹っていたりすると、喜びがありません。「箴言 17章22節」に、『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』と言われました。皆さん!心に心配があるとか、身体に病があると、喜びを奪って行くのです。それで、心の病、身体の病も癒していただいてこそ、心に喜びがあるのです。

『いつも喜んでいなさい。』と言われました。喜びが、生活の力となるのです。「ネヘミヤ記 8章10節」に、『あなたがたの力を主が喜ばれる。』と記されています。私たちが悲しむと、身体から力が抜け出てしまいます。喜ぶと、力が生じます。朝早く起き、夜おそく寝ても、疲れません。しかし悲しみがある人は、早く寝床につき、朝おそく起きても、心に不安と苦しみと悩みでいっぱいです。喜びが溢れる生活をしなければなりません。

喜びが、人生を若くします。喜びが私たちの中にエントロピンを生産して、すべての病から癒されるようにするのです。喜びが私たちを活気付けます。喜びが私たちを創造的、生産的にしてくれるのです。喜びのある人は、明日に希望を持ち、夢を持って生きて行きます。この喜びは、まことに神様が下さる偉大な人生の原動力なのです。人生の資本になるのです。大きな力となるのです。

この喜びを、私たちの主イエス・キリストを通して、神様は私たちの心の中に注いで上げようと望んでおられるのです。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』と言われているのです。

皆さん!私たちの主イエス・キリストは、今、この時間、皆さんを通してこの偉大なる福音を宣べ伝えようと望んでおられます。神様の究極的、最大の関心事は、キリストの福音を全世界に宣べ伝えて、この世でのご使役を終えることにあるのです。今は、この世の終わりのしるしが全天下に現われています。

ですから皆さん!今年一年は、私たちが心をつくして、私たちの周辺の人たちに伝道する年と定め、もっと熱心にキリストを宣べ伝えなければならないのです。『思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。』と、「ダニエル書 12章 3節」に言われています。

主のご再臨の日に、知恵と聡明と恵みと愛と栄光を滝水のように受けられる皆さんとなるために、ますます熱心に伝道しましょう。伝道が、私たちのすべての問題を解決する鍵になるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様! ピリポは平凡な平信徒でありましたが、サマリヤに行って、全市内を変化させてしまった偉大な伝道者の役割を果たしました。彼は、特別な手段や方法を用いる人ではありませんでした。

単純に、聖霊充満になって、イエス・キリストを宣べ伝えました。天のお父さま! 私たちもイエス・キリストを宣べ伝えることができるように助けて下さい。

 キリストを人たちに宣べ伝えたら、悪霊も追い出され、病人も癒され、喜びが満ち、神様の祝福の川水が溢れ出るようになります。全知全能であられる父なる神様! 私たちが皆、この世に生きている間、キリストの伝道者となるように助けて下さい。

私たちが神の御前に立つとき、「あなたは、立派な伝道者であった。」と神様からほめられる私たちとなるようにして下さい。私たちの主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!