教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「忠実なしもべ」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 19章12節〜27節」
19:12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。
19:13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』
19:14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。
19:15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。
19:16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
19:18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』
19:19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』
19:20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。
19:21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』
19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。
19:23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』
19:24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』
19:25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。
19:26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。
19:27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」




神様は、世の中から神様に忠実な人を探し求めておられます。聖書「ルカの福音書 19章12節〜19節」には、『それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』』と記されています。

しかし、一ミナを預かったある人は、その一ミナを風呂敷に包んでしまって置いていたのですが、主人のところに来て、「あなたは計算の細かい、厳しい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」(ルカの福音書 19章21節)と言いました。そうすると、その主人は、『「悪いしもべだ。私はあなたの言葉によって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取る厳しい人間だと知っていた、と言うのか。だったら、何故私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来た時に、それを利息と一緒に受け取れた筈だ。」そして、そばに立っていた者たちに言った。「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。」』(ルカの福音書 19章22節〜24節)

ここで、主は任した仕事に忠実に働く人を祝福なさり、沢山のご褒美を与えられ、忠実に働いた人にはもっと大いなるお恵みをほどこして下さると言う事を知る事ができます。




第一、 東方の義人「ヨブ」の忠実

ヨブは、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている人で、神様は、彼を非常にほめられ、愛されました。

所が、ある日、神様の子らが主の前に来て立った時、サタンも来てその中にいました。主はサタンに仰せられました。『おまえは何処から来たのか。』サタンは主に答えて言いました。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」 すると主は、サタンに尋ねられました。『おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいないのだが。』(ヨブ記 1章 8節)と神様がヨブをほめられました。

しかしサタンは、「ヨブがいたずらに神様を恐れるのではありません。神様が、彼とその家とすべての持ち物との回りを守られ、彼の手のわざを祝福され、お金持ちにして上げたので、それで神様に忠実を尽くす真似をしているのです。」と訴えました。そして、「ヨブのすべての持ち物を打って下さい。彼はきっと神様を呪うに違いありません。」と告げました。

このように悪魔は、ヨブが神様に忠実を尽くすように見せかけているのは、純粋に神様に仕える動機からではなく、神様を利用して祝福を受けようとする貪欲の仕業であると訴えました。それで神様は、サタンの前にヨブが如何に忠実な人であるかを見せて上げるために、ヨブをサタンの手に任しました。

ヨブは、子供たちと所有物すべてを失いました。ヨブには七人の息子と、三人の娘がありました。子供たちは、集まって食事をしたりぶとう酒を飲んだりしていましたが、その最中に大風が吹いて家屋が倒れ、その下敷きになって皆死にました。そして、羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべがありましたが、一日の内にこのすべてを失いました。こうなれば、ヨブが神様を呪うに違いないと思いましたが、ヨブはそうではありませんでした。

ヨブは、上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して神様に礼拝しました。そして言いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記 1章21節)と、ヨブは神様を怨む罪を犯しませんでした。

そうするやサタンは神様に、ヨブが健康を失ったら確かに主を怨み、背くでしょう、と相次いで訴えました。神様が再び、サタンにヨブを任せました。サタンはヨブを打って、ヨブの足裏から頭の頂まで、悪性の腫物が生じるようにしました。ヨブは、灰の中に座って土器のかけらで自分の身をかく、悲惨な存在になりました。

そんなに甚だしい肉体の苦痛の中でも、ヨブは口を開いて神様を怨むような事を絶対にせず、神様に感謝し、賛美しました。彼の妻までもが、「神を呪って死になさい。」と言い残して去って行きました。それでも、神様に対するヨブの忠誠心は少しも変わりませんでした。

その後、ヨブの3人の友達がヨブを慰めようとして訪ねて来ました。しかし、彼ら3人の友人は、ヨブの現在の苦難は罪を犯した結果だとして、ヨブを詰(なじ)りました。「ヨブ記 23章10節〜12節」を見ますと、『しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。』と記されています。このすべての試みにも、ヨブの神様に対する信頼と忠実さは決して変わることがありませんでした。




第二、イエス様の忠実と試み

神様は、ひとり子イエス様までも、ご使役を始める前に忠実さを試(ため)されました。イエス様は、人として来られたまことの神様です。イエス様は30歳の時に、ヨルダン川でバプテスマを受けられ、聖霊さまに導かれて荒野に行かれて、悪魔の試みを受けられました。イエス様は、御霊に導かれて荒野に行かれました。

イエス様は、40日の間断食した後なので、空腹を覚えておられました。悪魔が「試みる者」になって近づいて来て、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイの福音書 4章 3節)と言いました。空腹を覚えておられたイエス様は、『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。』(マタイの福音書 4章 4節)と答えられました。

神様の御子であられるイエス様は、何事でも出来る創造的「権能」を持っておられます。それにも拘わらずイエス様は、ご自身の腹を満たす事にその御力をご使用なさいませんでした。腹を先ず満たしてから、それから神様に仕えるのでなく、腹は空いていても神様の御言葉を先ず守る事が御父の心である、と知っておられたからです。イエス様は、神様に対する忠実に少しもひびが生じないようになさいました。

すると、悪魔はイエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたを支えさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」(マタイの福音書 4章 6節)と試しました。悪魔は、名誉欲のために神様への忠実を捨てて、神様の権力を貪欲のために使用せよ、と誘惑したのです。そうするやイエス様は、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイの福音書 4章 7節)と断固として対抗なさいました。

今度は悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せながら、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイの福音書 4章 9節)と誘惑しました。これに対してイエス様は、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と言われて、サタンに強力に対抗なさいました。

神様は、その御子でさえもどれほど忠実なのか、試みられました。イエス・キリストは、十字架のその形容できない苦痛に会われながらも神様への忠実を捨てず、十字架で死なれるまで従順に従い通されました。

「ピリピ人への手紙 2章 5節〜11節」に、『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』と記されています。

イエス様が死なれた「十字架の死」は、もっとも恥辱的「死」であり、残虐な極刑でありました。ご自分の弟子たちの前で、敵たちの前で、着物をみな剥がされて、神の子とも言われるその方が、力なく十字架に釘付けられ、刺され、侮辱されて、凄惨に死なれました。それで、イエス様を大いに愛された神様は、キリストを高く上げて、すべての名に勝る名をお与えになり、万物がキリストの前に膝を屈めるようになさったのです。




第三、私たちの心の中の忠実の要素

神様に忠実であるためには、神様に対する熱い心からの愛がなければなりません。愛さないのでは、忠実に仕えることができません。国に忠実を尽くす、と口では言いながら国を愛さない人は、国に忠実な人ではありません。従って、私たちが神様に対する熱い愛がある時、神様に忠実を尽くすことができるのです。

どうして、私たちが神様を愛することができるでしょうか? 神様は私たちを造られ、贖われたお方ですので、私たちは神様を愛することができます。神様は私たちを生みました。そして、神様は私たちを救うが為にその御子を遣わされ、体を裂き、血を流させる代価を支払って、私たちを懐(ふところ)に抱いて下さいました。このような大きな愛を体験しましたので、私たちは神様を愛することができるのです。

私たちが先に、神様を愛したのではなく、神様が先に、私たちを愛して下さいました。また、神様はいつも私たちの「羊飼い」となって下さって、今も神様の聖霊が共におられ、私たちを導いておられます。そして私たちの未来を保障して下さいます。私たちが、たとえ肉の幕屋を離れる日があるとしても、主は責任を負って天に私たちの住まいを備えて下さいます。「詩篇 100篇 3節〜4節」は、『知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。』と記しています。

また忠実は、神様に対する尊敬心と恐れる心がある時、生じます。神様の御名をみだりに唱え、神様を恐れず、神様を無視する人は、絶対に神様に忠実に仕えることができません。私たちは神様の御名を心から畏敬し、神様に真心を尽くして礼拝を捧げる、そのような信仰を持たなければなりません。

何故、神様を畏敬しなければならないのでしょうか? 何故、神様に真心を尽くして礼拝を捧げなければならないのでしょうか? 神様は創造主であられるからです。宇宙と万物が、神様によって造られました。造られたもので、何一つ神様によらないものがありません。この世のすべてを造られた神様は、絶対的権力を持っておられます。私たちは当然のこととして神様を畏敬しなければならず、心から礼拝しなければならないのです。

また神様は、万物を支配する絶対主権者であられます。私たちの神様は、私たち人間の生死禍福を主管なさり、国と民族と世界を主管なさる神様です。この絶対主権者に私たちが礼拝を捧げるのは当然なことです。

また神様は、審判の主人であられます。人たちの中には、神様を畏敬し、礼拝することをせず、神様を嘲笑う人もいます。神様に抵抗する人もいます。しかし、このような人たちの無礼な行動は長続きしません。「やがて我ら、きよい向こう岸で」、主の審判台の前に立つようになります。人は、いつかは肉の幕屋を離れて行かなければなりません。肉体の中で暮らしていた時のすべてを持って、神様の審判台の前に立たなければならないのです。この峻厳な審きを行われる神様であられることを思う時、私たちは畏敬し、礼拝しなければなりません。このような神様であられますから、私たちが忠実なしもべとなって仕えなければならないのです。

そしてまた、忠実の要素は、神様に対する絶対的信仰を持ち、従順に聞き従うことです。神様に忠実な人は、神様の御心に従って、専心・全力を尽くします。「一ミナ」ずづ分け与えられたしもべたちの中で、一人は「十ミナ」を儲け、また他の一人は「五ミナ」を儲けました。この人たちは、主人が与えた仕事に忠実に働いたのです。私たちが人生を暮らしながら神様に仕えるにしても、それこそ忠実に仕えなければなりません。

次に、忠実の要素は自分の利害関係を超越した献身をすることです。悪魔は、ヨブを利害関係でもって試みました。イエス様にも利害関係を通して、イエス様の忠実を揺り動かして見ました。サタンはいつも、私たちを利害関係を通して試します。神様に仕える時、自分に損害が生じ、苦痛が押し迫り、死が襲って来ても、忠実を失ったり、忘れたりしてはいけません。

「ガラテヤ人への手紙 2章20節」には、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と記されています。自分に、どのような大きい損害が及ぼうとも、イエス様に忠実でなければなりません。

ダニエルの3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、神様への忠実を守り通す為に、彼らがバビロンの捕虜でありながら素晴らしい高官生活をしていたにも関わらず、その地位と名誉と権勢を弊履の如く捨てて、「偶像を拝め」と言う王の命令に逆らいました。王が彼らを捕らえて再度、「私が造った金の像をもし拝まないなら、七倍も熱くした火の炉に投げ込む。」と言った時、彼らは、「神様は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル書 3章17節〜18節)とはっきり答えました。

彼らの忠実は、いのちを賭けた忠実でありました。それで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが縛られて火の燃える炉に投げ込まれた時、神様の御子イエス様が来られて、火の燃える炉の中で彼らと手をつないで楽しく歩き回られました。火が彼らを害する事ができませんでした。利害関係を超越した献身があってこそ、忠実に仕える事になるのです。

その次に、すべての栄光を神様に帰して、自分を自慢しない謙遜があってこそ、忠実に仕えることになります。少し努力してから、「私を見て下さい。私がどんなに偉大な事を成し遂げたか、私を見て下さい。」と自分を自慢する、このような事では何の栄光にもなりません。神様の栄光のために自分が努力したのであれば、右手のしたことを左手が知らないようにしなければならないのです。自分の自慢をしてはいけません。

「ルカの福音書 17章 7節〜10節」は、『ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」』と記しています。

仕事をすべて終えた後に、私たちは当然すべき事をした、と言う価値観を持たなければなりません。このような謙遜な心で神様の前に出なければなりません。神様が、人間に究極的に求められるのが忠実です。神様は忠実を試みられることなく、人たちに重要な仕事を任して下さるとか、祝福して下さることはなさいません。神様の前に良いしもべとなり、忠実なしもべとなる事より、もっと貴重で幸いな事はこの世にありません。

私たちがイエス様を信じ、神様の子となったなら、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、主である神様を愛し、主に完全に忠実に仕えて神様のお喜びに与かり、主が十の町を支配する者にして下さる、そのような祝福された皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

聖く、栄光であられる、我が父なる神様。こんにち、人たちは皆貪欲に縛られて、自分の利害関係による尺度を持ってすべてを判断し、クリスチャンであると言う人たちまでもが、神様の御心に背く行いを平気でやってのける時代に私たちは暮らしております。

口では「主よ。主よ。」と呼ばわりながら、その心は神様から遠くに居る人がどんなに多い事かわかりません。神様が、祝福して上げようとしても祝福して上げる事が出来ない人が余りにもたくさんおります。私たちの間違った行いと間違った信仰を悔い改めるように助けて下さい。

完全に忠実なしもべとして神様の前に出て行く私たちとなって、生きようが、死のうが、栄えようが、滅ぼうが…、どうなろうとも、主にすべてをお委ねして献身し、忠実を尽くす私たちとなるように、助けて下さい。主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!