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「弓弦を離れた矢」
 






■聖書箇所

「へブル人への手紙 3章17節〜19節」
3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
3:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。




韓国は世界的洋弓(ア−チェリ−)の強国です。カナダで開催された世界ア−チェリ−大会で、我が韓国の男女選手たちが個人と団体戦を席巻して、全世界を驚かせました。弓の矢は弓弦を離れてしまうと、再び主人の所には帰って来ることがなく、目標に向かって飛んで行くだけです。

二千年前に私たちの神様は、ガルバリの十字架を弓とされ、イエス・キリストを弓弦にして、「五重の福音」の矢を放たれました。すでにキリストの矢弦を通して、「五重の福音」と言う神様の祝福の矢は放たれました。この矢は今、全人類に向かって飛んでいます。この矢が誰かの胸に突き立ったら、すぐに根を下ろし、葉を出して、そして実を結ぶようになります。

それでは、一体この矢は誰の胸に突き立つようになるのでしょうか?




第一、悔い改めた人の胸に向かって、五重の福音の矢は飛んで行きます

いくら"私が罪を犯しました。赦して下さい。"と叫んでも、心が変化しなければ何の役にもたちません。後悔する事と悔い改める事とは違います。後悔する事は、"私が罪を犯してしまった。"と言う告白だけであり、罪意識を感じるだけで、心に根本的変化をもたらしはしません。しかし悔い改めるとは、考え方が変わる事を言います。悔い改めた人は、心の中の無神論が変化して、神様の存在を認める有神論に革命的変化がもたらされなければなりません。不信仰から、完全な信仰に思想が変わるのが悔い改めです。

また、人本(人間本位)主義的暮らしから、完全に自分を神様の御前に投げ出して、神本(神様本位)主義に立ち返る、そのような思想的変化があってこそ、悔い改めたと言えます。「悔い改め」とは、イエス・キリストを救い主として迎え入れて、考え方が変化する事を言い、イエス・キリストを迎え入れる事により、聖霊様が臨まれて、暮らしが変化する事を言います。悔い改めたと言いながら、依然として罪に馴染んでいる人が多くいます。それは悔い改めたのではありません。悔い改めた人は、罪を憎むようになり、神様の前で義を愛するようになります。放蕩する人は、放蕩する事が嫌になります。このように心に変化がもたらされ、感情にも変化があってこそ、それが悔い改めです。この世を愛し、世俗に歩んでいた人が、今からは世俗に背を向けて神様を愛し、神様に礼拝を捧げ、神様を伏し拝む…、そのように変化するのです。

また悔い改めた人は、思い上がるとか、得意顔をしません。謙遜になり、柔和な心をもって暮らすようになります。悔い改めた人には、決断力が生じます。放蕩息子が決心して立ち上がり、父のところに「息子としてでなく、使用人になって仕えよう。」と覚悟して出発したのと同じ決断力が生ずるのです。あたかも豚小屋のようなところで暮らしながら、「ああ、神様の国はどんなに義と安息と喜びで満ち溢れ、信仰と希望と愛で満たされていることだろう。この豚小屋のような世俗を離れて、悔い改め、父の下に立ち返って、新しい人生を始めよう。」と言う決断を下ろして新しく出発するのが、悔い改める事です。

悔い改めた人の心の中には、五重の福音の矢が飛んで行って立ちます。悔い改めずにそのまま、宗教的に、儀式的に、行き来する暮らしをする、そのような人には神様の祝福の矢が来て立つ暇(いとま)がありません。矢が弓弦を離れたら又と再び返らないのと同じく、神様は十字架と言う弓の、イエス・キリストと言う弓弦から、祝福の矢を射て下さいました。この祝福の矢はすでに、人類に向かって今、的となるべき対象を探し回っているのです。心からまことに悔い改めたなら、私たちの胸にその矢が飛んで来て立つのです。そして、その矢を通して根が下ろされ、葉が伸び、花が咲いて、実を結ぶ、祝福の御業が起こるのです。




第二、従順に暮らす人の胸に向かって、五重の福音の矢は飛んで行きます

神様は、従順に聞き従う人を喜ばれます。聖書に、『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』と記されています。神様は、従順に聞き従う事を何よりも喜ばれます。

それでは、私たちがイエス様を信じてから、何を、どのように従順に聞き従わなければならないでしょうか? 神様は、『神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と言われました。私たちが、神様の国とその義とを先ず第一に求める、従順な暮らしをする時、祝福の矢はその人の胸に飛んで来て立つのです。

神様は、義を愛され、不義を憎まれます。神様が望んでおられるのは、私たちが義に従って暮らす事です。不正と腐敗から離れて、正義の道に歩む事を主は願っておられるのです。ですから私たちは、胸の中の不義・不正を捨てて、正義の道を歩むように努力する毎日を暮らさなければなりません。この世の中に罪を犯さない義人は一人もいません。私たちの毎日の暮らしに、いつも不正と腐敗が忍び寄って来て、私たちをつまずかせます。しかし、いつもそこから立ち返って、胸をたたき、悔い改めて、義の道に歩もうと努力する、そのような暮らしをするのが、神様に従順に聞き従う暮らしなのです。

また神様は、私たちが真実で偽りがない暮らしをするようにと願っておられます。今のこの世の中に真実が何処にあり、偽りでないものが何処にあるでしょうか? 全天下が不信と偽りでみなぎっています。それで、私たちクリスチャンも、その中で偽りに染まりもし、嘘を言う事もあり、また偽りに欺かれもしますが、しかし、決してその中に留まる事はありません。すぐに悔い改めて立ち返り、真実に、正しく生きようと努力します。このような努力をすることが、これが従順に聞き従う暮らしです。

また、従順に聞き従う暮らしをする人は忠実な人です。人は、何事にでも忠実です。自分の貪欲に、快楽に、世俗に…、何かに自分を投げ出して暮らしています。私たちクリスチャンは、父なる神様と、私たちの主イエス・キリストに完全に忠実な暮らしをするようにならなければなりません。従順に聞き従う暮らしは、世俗を離れて暮らす事を言います。

この世の中で私たちは暮らしますが、絶対にこの世の中に溺れ込んではいけません。船は水の上に浮かんでいなければなりません。水が船の中に入って来たら、船は沈んでしまいます。これと同じく、私たちは世の中から離れては暮らせませんが、世の中が私たちの中に入って来てはならないのです。世の中で暮らしていても、世の中が私たちの中に入って来ることがなく、私たちがこの世に背を向けて、ひたすら神様を仰ぎ見ながら生きようと、限りない努力をしながら暮らして行く、これがまさに従順に聞き従う暮らしなのです。

また、貪欲から抜け出た暮らしをしなければなりません。人は心に欲がはらむと、罪を犯すようになります。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むと言われました。アダムとエバが、その素晴らしいエデンの園から何故堕落したでしょうか? 悪魔から誘惑されて、自分たちも神様のようになろうと言う、その欲の為に神様に背き、堕落したのです。

人間の罪の根本は、貪欲です。これが最も恐ろしい事です。神様が、私たちおのおのに分け与えて下さった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなければなりません。即ち、分際をわきまえなければならないのです。むやみに欲を張ってはならないのです。そうするのが神様に従順に従う暮らしです。貪欲が入って来ると目が暗くなって、正義感も忘れてしまい、正直と、誠実と、勤勉と、忠実も失ってしまって、悪魔のしもべになって罪を犯し、破綻に至るようになるのです。

神様に従順な暮らしをしようとするなら、赦し、そして愛するようにならなければなりません。人生を暮らしながら、完璧に正しく暮らす人はいません。私たちは常に罪を犯しますので、いつも神様の赦しが必要です。主の祈りを通して、『我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ…。』と、私たちは祈っています。私たちの罪が赦されるように、私たちも他人の罪を赦さなければならないのです。

夫は、妻を赦さなければならず、妻は、夫を赦さなければなりません。父母は、子供を赦さなければならず、子供は、父母を赦さなければなりません。聖徒さんたちは、牧師を赦さなければならず、牧師は、聖徒さんたちを赦して上げなければならないのです。お隣り同士も、互いに赦し、愛し、和解しあわなければならないのです。

何故このように、世の中が分裂され、互いに噛み合い、争い、競い合うのでしょうか? それは自分だけが正しくて、ほかの人はみな間違っている、駄目だ、と思うからです。自分だけが正しいので、ほかの人はすべて批評の対象であり、貶(おとし)められなければならず、甚だしくは戦争の対象、即ち敵とするからです。それでは和解などは有りようがありません。私が赦された如く、他人を赦して上げるようにならなければなりません。

私たちは、イエス様を信じる事によって、すべて皆、神様の御前に「赦しの負債」を背負っているのです。ですから、私たちが神様から赦しを戴いているように、私たちも毎日、赦さなければなりません。今この時間から、夫を赦して上げて下さい。妻を赦して上げて下さい。子供たちを、父母を、お隣りを、赦して上げて下さい。そして愛して下さい。聖徒の皆さん、そうすれば、目に見えて、葛藤が去り、和解が近づいて来ます。

人間が世の中を暮らして行くに当たって、和解ほど重要な事がありません。私たちは皆、各々個性が異なり、教育が異なり、育って来た環境が違います。それなのに、どうして自分の気分、自分の思うままに暮らせるでしょうか? 私たちがイエス・キリストにあって、赦し、愛し、和解しながら暮らす事が、主に従順に聞き従う事です。

また、主に従順に従いながら暮らす道は、柔和と謙遜です。自分だけが正しいと威張っては、この世を生きて行く事ができません。柔和でなければなりません。心が優しく和やかであり、そして謙遜でなければなりません。他人を自分より優れたと思い、他人を尊敬し、他人の話に耳を傾けて上げ、それで互いに話し合うようになる、柔和で謙遜な生活、このような生活が即ち、私たちがこの世を暮らしながら実行しなければならない、主に従順に聞き従う事です。

聖書に何と記されていますか。『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』と言われました。イエス様を信じる暮らしとは、絶え間無く悲しむ暮らしです。自分では義によって生きようとしますが、できないので悲しみ、正直に生きようとしますが、できないので悲しみ、神様に忠実に暮らそうとしますが、できないのでまた悲しみ、聖く生きようとしますが、世俗が入って来るので悲しみ、欲を捨てようとしますが、欲望が猛り入り込んでくるので悲しみ、赦し、そして愛そうとしますが、そのようにできないので悲しみます。また柔和で謙遜に生きようとするのですが、それが思い通りにできません。それで悲しみます。悲しまない人は、神様から捨てられた人です。




第三、祝福の矢は、信じる人の胸に向かって飛んで行きます

人々は、"牧師先生、私は信仰がありません"とよく言います。それは間違った判断です。「ロ−マ人への手紙 12章 3節」は、『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えて下さった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』と記しています。神様は、私たちに量りに応じて信仰を与えて下さいました。私たち皆が信仰を持っているのです。信仰は選択です。信じるべきか、否かを選択する事が信仰なのです。

シモン・ペテロをご覧下さい。いくら網を降ろしても魚が取れませんでした。しかし、イエス様がその舟を暫く借りられてから、『深みに漕ぎ出して、網を降ろして魚を取りなさい。』と言われました。その時、ペテロはキリストの御言葉を聞いて、「信じるべきか?」「否か?」選択しなければなりませんでした。初めに、ペテロは「夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。」と否を選択しようとしました。しかし、彼はすぐに心を変えて、「でも御言葉通り網を降ろして見ましよう。」と言って、網を降ろしましたところ、たくさんの魚が入り、網が破れそうになりました。ペテロは、不信仰を捨てて信仰を選択したのです。信仰は、私たちの選択によるのです。私たちが信じる事にしたら、その時から、聖霊さまが私たちを助けて下さるのです。

イスラエルの民が、パランの荒野から乳と蜜が流れるカナンの地に向かって入って行く時、10人は不信仰を選び、2人は信仰を選びました。皆が同じイスラエルの民であり、皆が同じ12部族の頭(かしら)でありましたが、10人は逸早(いちはや)く不信仰を選択し、2人は信仰を選択しました。それで、不信仰を選んだ人たちは、彼らが行く所すべて、城壁は高く、谷は深く、住人たちは背が高く屈強で、自分たちはイナゴのよう見えました。しかし、ヨシュアとカレブは信仰を選択しましたので、そこには乳と蜜が流れており、住民は自分たちの餌食に見えました。

アブラハムをご覧下さい。アブラハムの年が100才になり、サラの年が90才になりました。アブラハムは、不信仰を選ぶしかない環境でした。それにも拘わらず、アブラハムは信じる事に決心しました。「ロ−マ人への手紙 4章18節〜22節」を見ますと、『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。』と記録されています。彼は、自分のからだが死んだも同然である事とサラの胎の死んでいる事とを認めながらも、不信仰を選ばず、信仰を選んだのです。信仰は選択です。信じることに心をきめさえすれば、良いのです。

そして、信仰は即ち、告白です。私たちが神様を信じるのであれば、目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何も無くても、無いものを有るがごとくに告白しなければなりません。「私は信じます」と言いながら、その口で「私はできない。やってもだめだ。仕方が無い。おしまいだ。」と言うなら、その信仰はみな取り消されます。心に満たされているものが、口を通して出てくるのです。それで、信じたならいつも口で告白しなければなりません。告白が、心の信仰を強く、しっかりと、支えてくれるのです。強く告白する人が、強い信仰を保つ事ができるのです。

また、信仰とは祈りなのです。「マルコの福音書 11章24節」に、『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』と記録されています。信仰の人は祈る人です。信じると言いながら、祈らないなら、何の益にもなりません。病気がいやされる事を信じる人は、癒されるために祈り、物質的祝福を与えて下さる事を信じる人は、祝福して下さいと祈り、平安を与えて下さると信じる人は、平安を与えて下さいと祈らなければなりません。信仰は、すなわち祈りなのです。従って、祈る人になると、信仰の人になれるのです。

そして、信仰とは感謝する生活です。アブラハムは、望み得ないときに望みを抱き、信じられない時に信じて、神様に栄光をお帰ししました。彼は神様に感謝しました。無いものを有るが如くに受け入れて感謝しました。こんにち誰かに、信仰が有るか無いか知りたかったら、その人の生活を見ればわかります。怨むとか不平を言うとか嘆くとかする人は、信仰がない人です。

神様の祝福の矢は、信仰の人の胸に飛んで来て立ちます。神様のお恵みの矢は、生きていて、力がある、神様の御言葉です。講壇で証しされる福音が、神様が射られた矢です。神様は私たちを愛しておられます。既に、二千年前に十字架を通して、神様は五重の福音の矢を射られました。心をすっかり開け放して、悔い改める心、従順に聞き従う心、信じる心を持って、「主よ。私はここにおります。主のすべての祝福の矢が私の心に突き立つようにして下さい。」と祈らなければなりません。

そうして、神様の御言葉が心に突き立てば、力があり、鋭いですので、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。お恵みに感動するようになります。信仰が湧き上がります。奇跡が起こります。良い事が現われます。神様の御業が現れるようになります。




お祈り

全能であられる、父なる神様!私たちの主イエス・キリストが、ガルバリの十字架の「弓弦」となられて、私たちに五重の福音の矢を射て下さって有難うございます。矢は既に放たれました。祝福の矢は既に、この世の中を飛び回っています。

父なる神様の御言葉の矢が、どうか私たちの心に突き立つようにして下さい。私たちにまことの悔い改めがあり、まことの従順があり、まことの信仰があるように助けて下さい。これがあれば、いつでも祝福の矢が飛んで来て私たちの心に突き立つ、と言うことを悟り知るようにして下さい。

 天のお父さま! すべての聖徒さんたちが主の御前で、たましいが幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、健康で、そして「いのち」を得るにしても豊かに得るように祝福して下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!