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「暮らしの限界」
 






■聖書箇所

「ローマ人への手紙 12章 3節」
12: 3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。




人間は神でありませんので、暮らしのすべての面に限界があります。昔、中国の秦の皇帝は、不老長寿の霊薬を得ようとしました。中国を統一した後、富貴・栄華・功名すべてを手に入れたところ、死にたくない、という欲が突き上げて来ました。そこで、臣下たちを動員して、不老草として知られた霊薬を探して来るように命令しました。しかし、彼らが求めて来た霊薬(不老草)を服用しましたけれども、皇帝は長生きできずに死にました。

聖書には、『誰でも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。神が各々に分け与えて下さった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』と記されています。神様は、私たち各々に、暮らしのいろいろな過程にあって信仰の量り、すなわち、能力の限界を与えて下さいました。その限界を飛び越えようとすれば、それが即ち、貪欲になり、貪欲に捕らえられたら罪を犯すようになり、罪が熟すれば破滅をもたらすようになります。




第一、人間の限界とアダム、そしてバベル塔

私たちは聖書を通して、アダムの破滅をよく知っています。アダムは、神様の形通りに造られ、霊的存在として、神様と話し合いながらエデンの園を一緒に歩く能力を与えられました。人が、神様と顔と顔を向かい合わせて話し合いながら、神様と共にエデンの園を散歩すると言うのですから、どんなに栄光な姿でしょうか。

神様が、アダムにすべての生き物の名前をつけさせ、それらを支配する力を与えられましたので、空を飛ぶ鳥、地をはう動物、水の中にいる魚など、すべてがアダムを恐れ、彼に従いました。アダムの知恵がどんなに素晴らしかったのか、すべての生き物に名前をつけることができました。そして神様は、アダムに地を従わせ、すべての生き物を支配する力を与えられて、地の王としてすべてを支配するようになさいました。しかし、そのようなアダムとエバにも限界がありました。

神様は、『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』(創世紀 2章16節〜17節)と言われました。善悪の知識と言うのは、「良し、悪し」を決定する能力を言います。「正しい」「正しくない」との決定は、主権者だけがする事ができます。宇宙の「善悪」の判断・決定は、主権者であられる神様だけがする事ができるのです。

神様だけがなさる事を、人が自分の判断によって「良し」「悪し」と決定してはいけません。そうすれば、この宇宙の主権者が二人になってしまいます。あってはならない事です。それで神様は、アダムとエバを、神様に仕える者として造られたのであって、人間が自ら主権者になって、神様と競争する事は許さなかったのです。それで、善悪の知識の木で試みられました。それは、アダムとエバの限界でありました。アダムとエバが神様に仕えながら、神様の下で、すべての生き物を支配する代理者として、王のように暮らす事は認めて下さいましたが、神様と同等になろうとする事は許しませんでした。これが人間の存在の限界であるのです。

ところが、悪魔が来て、アダムとエバにこの限界を飛び越えなさいと、執拗にそそのかしました。善悪の知識の木の実を取って食べて、善悪を分別し、そして神様と同等になりなさい。神様に仕えながら暮らす必要はない、と誘惑しました。サタンはいつも、人々に自分の限界を飛び越えなさいとそそのかし、誘惑しながら近寄って来るのです。ついに、アダムとエバはサタンの誘惑に陥ってしまい、神様に背いて、善悪の知識の木の実を取って食べました。そして自ら、神様の前で独立を宣布しました。人本主義になりました。その結果、神様から捨てられ、神様の審きを受けました。

人間は、神様が与えて下さった限界を飛び越えようとする時、必ず審かれます。限界を飛び越えようとしたアダムとエバは、エデンの園から追い出され、病気に罹って死ぬしかないように審きを受けてしまいました。彼らによって地は呪われ、いばらとあざみを生えさせました。そして、アダムとエバは互いに甚だしい葛藤と苦痛の中に生きながら、子供を生み、貧乏と悲しみの中で暮らし、そして死んで行くように、審きを受けてしまったのです。神様の主権を犯すとか、神様が定められた限界を飛び越えようとする時、必ず神様の審きがあると言う事実を、私たちは知らなければなりません。

私たちは、バベル塔の教訓を良く知っています。ノアの大洪水以後、ノアの子孫たちが成長して地に増えるや、彼らは神様に背く工作を企てました。ノアの子孫たちは、ニムロデを王として正面から神様の命令に挑戦し始めたのです。「創世記 11章 3節〜4節」を見ますと、『彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」』と記録されています。

神様は、全地に散って暮らしなさい、と仰せられましたが、ニムロデを王としたその子孫たちは集まって、全地に散らされるといけないと言って、神様が定めておかれた限界を飛び越えようとしたのです。その結果、どうなりましたか?

「創世記 11章 5節〜8節」に、『そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。』と記されています。

神様と対決して、勝てる者がどこにいるでしょうか? 「使徒の働き 17章26節〜27節」にも、『神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。』と記されています。




第二、神様の主権と境界

神様は、人類がこの地に住む時代をお定めになり、住まいの境界を定めておかれました。ところが、人類の歴史を通して見ますと、政治家や軍事専門家たちが立ち上がって、時代と境界を取り壊してしまい、自分勝手に帝国を築こうとしました。例をあげれば、1934年にドイツは、ロ−マ帝国を第一帝国、ドイツ帝国を第二帝国、ナチスの支配体制を第三帝国と規定して、戦争を起こしました。

ナチス一党独裁体制を通して、ヒットラ−が総統の座に着いて軍備を拡張、ヨ−ロッパと世界を制覇(せいは)しようとしたのです。それで世界第二次大戦を起こし、瞬く間に、ポ−ランド、ハンガリ−、ユ−ゴスラビア、チェコスロバキヤ、そしてイタリアなど手当たり次第に占領しました。神様が既に、各国の境界をお定めになり、時代を定めておかれたのに、それを無視して自分の帝国を建てようとしました。結局そのバベル塔の夢は、神様によって審かれました。

1945年、アメリカ、ヨ−ロッパ連合軍の攻撃を受けてドイツ帝国は崩壊し、ソ連がベルリンに侵攻する前に、ヒットラ−は自殺してしまいました。神様が備えられた限界点に挑戦したので、破滅してしまったのです。「日本帝国」も、天皇を神として崇拝し、戦争を引き起こして、東南アジア全域を属国にしようとしました。神様は、日本は日本として、韓国は韓国として、その他の国も国として存在するように境界を定めて置かれたのですが、それを無視して、東南アジア全域をを手中におさめようとしました。神様の境界設定に正面から挑戦したのです。その結果、1945年8月15日に「日本帝国」は白旗を上げました。

また、旧ソ連・共産主義の滅亡も同じ脈絡から見る事ができます。1917年、レ−ニンの革命を通して、1990年まで共産党の一党独裁政治が続きました。その間、過酷な強制政策で国境を広げ、東ヨ−ロッパを併呑し、甚だしくは北朝鮮まで衛星国にしてしまいました。神様の摂理に正面から挑戦したのです。神様が定められた境界を取り崩して、自分たちが神様のように全世界を手に入れようとしたのです。所が結局、旧ソ連・共産主義は70年目に崩壊してしまいました。ソ連の衛星国たちはすべてが自国の国境を回復し、国も取り戻して独立するようになりました。

神様が各国に与えられた時代があり、各国の境界が定められています。これを飛び越えようとしたら、神様の審きを避ける事ができません。私たちが今、北と南に分割されているのも、神様の摂理なのです。私たちの神様は、私たちが確かに十分悔い改め、砕かれて、神様中心に立つ時、神様はその境界を崩されるでしょう。この境界は、人為的にはいくら崩そうとしても崩されません。金日成が6・25朝鮮戦争を引き起こしてこの境界を崩そうとしましたが、却って、悽慘な苦痛の憂き目に遭い、この境界は今までもそのまま維持されています。

休戦ラインは神様だけが、崩す事ができるのです。人間の政治的努力や経済などによって、南北が統一されるのではありません。我が民族が悔い改め、神様を畏敬し、神様に仕え、神様に祈り、そして待ち望むしかないのです。神様の「時」が来たら、すぐに崩して下さる筈です。




第三、私たちに下さる実践的教訓

第1に、健康といのちの限界を知らなければなりません。「創世記 6章 3節」に、『そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。』と記されています。人間の最長年齢は120才と、神様が限定させておかれました。この頃は余りにも公害が甚だしく、過労し、また無秩序な食生活、それに有害な食べ物を食べているために、70才〜80才まで生きるのがきりぎりですが、人々が神様に良く仕え、過労せずに適当に運動し、良い飲食物を摂取すれば、120才までは生きる事ができるように、神様が定めておかれました。

それで、健康と生命の限界を私たちが知り、神様が与えて下さったこの健康を有難く受け入れて、神様が定められた限界を守らなければなりません。6日間働き、7日目はどんな仕事もしてはならない、と仰せられました。それが、神様が私たちに与えて下さった健康法則です。6日間は働き、7日目は教会に出席して、神様に仕えながら、神様に栄光をお帰しする暮らしをすれば、神様が私たちを健康に暮らせるようにすると仰せられたのです。

最近、私の最も親しい友人の一人である外国人牧師の一人が、主の側に行かれました。彼は私より一日先に生まれたので、いつも自分が兄さんだと主張する人でありました。ところが何日か前に、この世を去ってしまいました。彼はいつも私に、「私は余りにも健康であり、丈夫だから、100才まで生きられる。」と言っていました。韓国に来て食事をする時には、「赤味噌」(トウガラシ味噌)をお匙一杯、ご飯に混ぜて召し上がるほど健康な人でありました。そうした彼が、この世を去りました。

私たちは健康と生命の限界を知り、神様が与えて下さった法則を守りながら暮らさなければなりません。そうすれば、定められた限界まで生きる事ができるのです。無理をしながら、健康が続くだろうと思うのは大きな間違いです。人たちは、自分には死と言うのが無いかのように考え、自侭に行動しますが、そうしてはいけません。私たちは常に、いつかは死ぬのだと認めながら、敬虔に、神様に仕え、自分自身を顧みながら、暮らさなければなりません。

第2に、経済的にも限界がある事を知らなければなりません。お金を限りなく持っているのではありません。収入より支払いが多い家計は、破産を招きます。「箴言 24章27節」には、『外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。』と記しています。外で商売し、畑で収穫して、その後に家を建てなさい、と言う御教えです。収入は考えずに、意のまま無計画に支出すれば、滅ぶのです。

こんにち、お金を借りて豪華な贄沢生活をし、お金を借りて海外旅行をする人がいますが、このような愚かな行為が世界の何処にあるでしょうか? 自分の経済力の限界を知らずに、借金をして無理に事業を拡張したら、滅びます。多くの企業家たちが、好景気の時に起債してまで、自分の限界を無視した事業拡張をしておいて、不景気が襲って来ると、負債の重みを到底堪え切れずに、崩れるではありませんか。人が神様の御前で、慎み深く行動したなら、このような破滅に会う事はなかったでしょう。

神様がすべての人たちを、みなお金持ちになるように造られたのではありません。すべての人たちが皆、大統領になるように、すべての人がみな将軍になるように、すべての人たちが皆お医者や、弁護士になるように造られたのではありません。神様の御心によって、おのおのに分け与えて下さった信仰の量りがあるのです。その量りを知り、その量りに従って暮らしたら、神様は祝福して下さり、神様がその量りを更に増し加えて下さいます。神様が定められた限界を飛び越えて、自分勝手に、欲のままに行動する時に、神様の審きに会って惨たらしく滅亡してしまうのです。

第3に、権力には限界があります。「ヤコブの手紙 1章15節」は、『欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』と記しています。自分の限界点を知らずに欲をはらむと、不正・腐敗に向うようになり、不正・腐敗に向うと死を生むようになるのです。

私は、牧師生活を40年間して参りましたが、その間、大統領は何人も代わりました。李承晩大統領、尹譜善大統領、朴正煕大統領、全斗煥大統領、盧泰愚大統領、そして今は金泳三大統領…と、数人の大統領が次々と変わりました。思い知らされるものがあります。

第4番目に、私たちは自分自身を知りながら暮らさなければなりません。神様がおのおのに分け与えて下さった信仰の量りを知らなければならないのです。聖書は、『ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。』(コリント人への手紙 第一 7章17節)と記しているではありませんか。神様がおのおのに分け与えて下さった分に応じて、そして、お召しになった時のままの状態で暮らさなければなりません。

それを飛び越えようとする時に、問題が生じるのです。「エペソ人への手紙 4章 7節」にも、『私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。』と記されています。私たちには、神様が与えて下さったお恵みの量りがあります。それを飛び越えてはいけません。韓国人として生まれたのであったら、韓国人として生きて行かなければなりません。韓国人として生まれた私たちが、髪の毛を黄色く染め、鼻を高く整形したとしても、アメリカ人になれるのではありません。黒い髪の毛そのままで暮らさなければならず、低い鼻そのままで暮らさなければなりません。それが幸福なのです。

人間の歴史は、いつも限界を飛び越えようとして、破滅される王、政治家、軍人、財閥、権勢家たちの話で満たされています。私たちは、私たち自身が持っている暮らしの限界を認識して、それ以上の欲を抱かないように慎まなければなりません。

「エペソ人への手紙 5章15節〜17節」に見ますと、『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』と記されています。主が造られ、定められたそのまま、その限界に従って、熱心に祈り、神様に仕えながら暮らしたら、神様は私たちを祝福して下さるのです。

人間の限界点を知っている人は、イエス・キリストを信じるようになります。千年も万年も生きて行けるが如くに自分の力と環境にだけ拠り頼む人は、限界を知らず、結局は地獄に落ちてしまうのです。『神は、実に、そのひとり子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる事なく、永遠のいのちを持つ為である。』(ヨハネの福音書 3章16節)と言われました。これも、神様が与えて下さった私たちの限界なのです。

私たちがイエス様を信じれば、救われます。天国の永遠のいのちを得るようになります。死も恐ろしくありません。永遠なる天の御国に入る事ができるのです。これがまさしく、神様が与えて下さった永遠のいのちなのです。




お祈り

父なる神様! 我が国民に、限界を悟り知る事ができる知恵を与えて下さい。

国民所得は1万ドルに過ぎないのに、あたかも、4万ドル、5万ドルにもなる、日本やアメリカの高所得国民にでもなったように考えて、限界を飛び越えようとする私たちの欲望を赦して下さい。

主である神様。私たちの私生活にも限界があり、権力にも限界があり、物質の所有にも限界があるという事実を悟り知るように助けて下さい。神様が与えて下さった限界を知り、慎み深く考え、分際を弁えた行動をする私たちとなるように、助けて下さい。自ら破滅を招く事がないようにして下さい。私たち人間は、永遠に生きる事ができません。70〜80年を生きてから、一握りの土に戻って行きます。私たちが永遠に暮らせる道は、イエス様を信じる道しかない事を、私たちは認めます。

イエス様が私たちの代わりに、十字架の上で体を裂き、血を流して死なれた事によって、イエス様を通して罪を赦していただき、救いを得、永遠に生きるようにして下さった、我が父なる神様に、心から感謝申し上げます。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン。