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「わたしは良い牧者」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 10章10節〜16節」
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。




私たちは、TVを通してアフリカ草原の「動物の世界」から、彼らの弱肉強食の非情さを見る事ができます。獰猛な動物の鋭い牙(きば)がいつ襲いかかって来るかわからない、不安の中で動物たちは暮らして行きます。牧者がいない動物の群れが餌を探して大移動をする時、弱く、病気に罹った動物は死に、健康で丈夫な動物だけが生き残ります。

しかし、牧者がいる羊の群れはそうでありません。羊の群れの生活のすべてを、牧者が責任を負って顧みているからです。人間の生活も同様です。私たちは毎日、生きて行くために渾身の力を尽くして、お互いに競争しなければなりません。こんにち、私たちの生存競争は隣近所とだけに限定されているものではありません。地球全体を相手に暮らしの競争をしなければなりません。従って、私たちの生活は疲労困憊、そしていつも不安と焦燥の中で、ストレスに悩まされながら暮らしています。

しかし、イエス様を「牧者」として暮らす生活は、その内容が全く違います。外見は一般の人と別に違った所がないように見えますが、根本が違うのです。




第一、良い牧者を迎えて暮らす生

私たちの主イエス様は、天と地を造られた創造主であられます。『すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。』(ヨハネの福音書 1章 3節) 『イエス様こそ、まことの神様です。』(ヨハネの手紙 第一 5章20節) まことの神様が人となられて、私たち人間の中に「牧者」として来られた事を思って見て下さい。天と地のすべての権威をみな握っておられる、その完全な神様が、完全な人として私たちの間に来られて、私たちの牧者となられる事を自ら請われたのですから、これは私たちには無限なる栄光であり、大きな喜びです。

イエス様は「愛の牧者」です。イエス様は、私たちを律法の鞭で打つ為に来られたのではありません。主が、私たちのすべての罪と咎を暴き出すとすれば、主の前に恥じる事なく立つことができる人は一人もいません。私たちの主は、永遠なる「アガペの愛」を持って来られました。私たちのすべての罪と咎を親しく肩に担われて、私たちを大いなる愛の御手で胸に深く抱いて下さる「愛の牧者」として来られたのです。

「ヨハネの福音書 10章11節〜15節」を見ますと、『わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。』と記しています。

皆さん、私たちの為にいのちを捨てると言われたイエス様は、実際に十字架に上られて、私たちを救う為に体を裂き、血を流して、自らあらゆる苦難に会われました。「良い牧者」は、羊と運命を共にします。「雇い人」は、狼が襲って来たら自分の羊でないので置き去りにして逃げて行きますが、牧者は、自分の羊ですから、羊と共に運命を共にし、いのちを賭けて狼の襲撃を防御します。

私たちの主イエス・キリストは良い牧者ですので、私たちといのちを共にして下さいます。嬉しく、良い時だけ私たちと共に居られるのではなく、私たちが死の陰の谷を歩く時も私たちの手を取って歩いて下さり、永遠の天国まで私たちの牧者となられて、私たちを導いて下さるのです。

「マタイの福音書 11章28節〜30節」は、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』と記しています。

イエス様は、心が優しく、柔和な方ですので、子供でも、病人でも、咎(とが)があり罪がある人でも、その前に出て行く事ができるのです。主はもっとも謙遜なお方ですので、身分がいくら低い人であっても共に手を取って歩いて下さり、導いて下さるのです。

私たちは生活して行きながら疲れもし、重荷を背負うこともあります。個人問題、家庭問題、子供の問題、事業問題…等々、問題がいくらでもあります。韓国の経済が難しくなるや、職場を失ってしまった人、事業が倒れる人、不渡りを出して経営困難に陥った人…がどんなにたくさんいるでしょうか? それで苦痛の重荷を背負って足掻き、身悶えするしかなくなります。ところが、イエス様が『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。』と招いておられます。

多くの人たちがイエスを信じれば、貧しく暮らさなければならず、襤褸をまとい、餓えてこそ、立派な信者になれる、と考えています。天と地と世界とその中のすべてのものを造られた神様は、万物を所有しておられる神様です。万物の主人は神様です。自分の子がパンを下さいと言うのに石を与え、魚を下さいと言うのに蛇を与える親がどこにあるでしょうか? 悪い人ではあっても、自分の子どもには良いものを与えます。ましてや、天のお父さまが、求める者たちに良いものを下さらない事があるでしょうか。

神様は、良き神様です。『私たちがたましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であるようにと祈っておられる』(ヨハネの手紙 第三 1章 2節)お方です。イエス様は、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(ヨハネの福音書 10章10節)と言われました。自分の羊を立派に飼って、丸々とよく太らせ、健康にするのが、良い牧者です。




第二、牧者は羊を導きます

羊は牧者の所有物であり、財産です。人たちは所有物や財産を大事にし、保存し、増やしたがります。共産主義が滅んだ理由がどこにあるか、ご存知だと思います。共産主義は個人の私有財産を認めません。共産主義社会では、自分の家もなく、自分の所有物もありません。すべてが「党」と「国家」の所有なのです。従っていくら汗を流して働いても、自分のものはありません。それで共産主義社会では、人たちが働く意欲を失ってしまい、熱心に働きません。働く真似だけします。そして定められた時間を過ごせば、国家が食糧等を配給してくれる…、そうして暮らすので、意欲がありません。

しかし資本主義体制では、すべての人たちに自分の所有物が認められ、自分の財産を持つことができます。それで、国民は自分の所有物と自分の財産を大事にする、保護する、ますます増やそうとする、従って熱心に働くようになります。一方、資本主義社会ではそれで競争が熾烈になりますが、すべての産業が成長し、発展し、経済が向上します。

私たちの神様は、私たちをご自分の所有物、ご自分の財産であると考えておられますので、私たちを大事にして下さり、保護して下さり、ますます良くなるようにして下さいます。「詩篇 100篇 3節」は、『知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。』と記しています。聖徒さんたちは、この世の中に所有者がなく、捨てられてさ迷っている、そのような羊ではありません。

牧者であられるイエス様が、羊である私たちを導かれるのは当然の理です。「ヨハネの福音書 10章 3節」は、『門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。』と記しています。私たちの主は、ご自分の羊として私たちの名を知っておられ、私たちの名を呼んで導いて下さるのです。私たちは、神様が私たちを導いて下さると信じなければなりません。聖書を見ますと、神様はアブラハムを、彼の年が75歳のときに召されて、カルデヤ人のウルからカナンまで導かれ、彼を一生の間導いて下さいました。

イスラエルの民が、エジプトで430年間奴隷生活をしている時、主がモーセを通して彼らを導き出され、広野を過ぎて乳と蜜が流れるカナンまで「雲の柱」と「火の柱」で導いて下さいました。こんにち、イエス様を信じる人には、イエス様を信じるや神様の聖霊がその人の中に臨みます。聖霊さまが「雲の柱」「火の柱」のように私たちの中に臨まれて導いて下さるのです。それで聖書は、聖霊さまにより導かれた人たちは、神様の子であると言われました。

私たちの中に臨まれた聖霊さまが、私たちを導いて行きます。私たちが祈る時、「雲の柱」「火の柱」のように聖霊さまが私たちの心の中に希望を持たせて下さり、知恵と知識と聡明と才能を私たちに注ぎ込んで下さるのです。私たちは、牧者がいない羊のようにさ迷いません。私たちが祈る時、私たちの中に居られる聖霊、雲の柱と火の柱が、私たちに道を見せて下さり、導いて下さるのです。

「民数記 15章41節」を見ますと、『わたしはあなたがたの神、主であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしは、あなたがたの神、主である。』と記録されています。私たちは羊であります。羊は自分の考えや自分の行きたい道に勝手に行ってはいけません。羊は牧者の導きを待たなければならないのです。「牧者」が私たちを導いて行くのですから、私たちの牧者であられる神様の御前に私たちは祈り、主を仰ぎ見ながら、待ち望まなければなりません。性急に自分の思うままに歩んではいけません。

「ヨハネの福音書 10章27節」には、『わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。』と記されています。私たちが牧者の声を聞き分けることができなければ、私たちは主の羊ではありません。牧者の声を聞き分け、牧者に従えば、私たちの主イエス・キリストは私たちの牧者となられて、私たちを導いて下さいます。ですから、導かれる神様の御前に全面的に、私たちの人生をお委ねして、神様が導いて下さるよう、待ち望まなければなりません。絶対に、神様は私たちを間違った道に導かれることはありません。




第三、牧者は羊を養育します

「詩篇 23篇 1節〜2節」に、『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。』と記されています。神様がイエス様を遣わされたのは、私たちを緑の牧場に導くためであります。イエス様が体を裂き、血を流して緑の牧場を掘り起こしておかれました。それが、ガルバリの十字架の下にある主の緑の牧場です。

主が、私たちを導いて伏させるところは、赦しと義の牧場です。その血潮で私たちの罪を赦し、信仰によって私たちを義とされて、神様の御前に立つことができる「赦しと義」の牧場を造っておかれました。主は、神様と私たちの間の「隔ての壁」を取り壊して、神様と私たちを和解させ、愛と聖霊充満の緑の牧場を造っておかれました。

主はまた、自ら私たちの痛みを担い、病を負って下さることによって、癒しの牧場を造っておかれました。私たちのすべての呪いを取り除き、茨(いばら)と薊(あざみ)、貧乏、絶望を取り除いて、アブラハムへの祝福で私たちを養育なさる祝福の緑の牧場を造っておかれました。そして主は、死と陰府(よみ)を取り除き、天国と永遠のいのちを与える牧場を造られて、私たちをそこに導いて行かれるのです。

十字架の下にある、主が造っておかれた「五重の福音」の緑の牧場で、私たちは暮らすようになるのです。ですから私たちは、いつも十字架の下で、主が備えられた五重の福音を口ずさみ、信じ、感謝すれば、これが主の緑の牧場の草を食(は)むことになります。

そして又、その十字架の下、いこいの水のほとりで水を飲むことができます。イエス様は、『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネの福音書 7章37節〜38節)と約束なさいました。これは、後になってから受ける聖霊さまのことを言われたのです。

口ずさむ事は、食べることであり、祈ることは、飲むことです。従って、私たちが御言葉を口ずさんで食べ、祈って聖霊の水を飲めば、私たちは神様の糧を豊かに食べ、神様の水を飲んで、私たちのたましいが生き返り、勢いよく立ち上がるようになるのです。

私たちが、この世の熱い太陽に萎れ、熱気に力を失って倒れるしかない時でも、十字架の下に出て行って五重の福音を食べ、聖霊さまの充満なるお恵みに与かったら、私たちのたましいが生き返ります。喜びが、平和が、幸福が生き返ります。生きて行く力と勇気が生き返るようになるのです。




第四、牧者は羊を保護します

私たちが暮らしているこの世には、目には見えない悪霊と言う存在があります。この悪霊が人の中に入って行き、環境に入って行ってあらゆる紛争を起こします。『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(ヨハネの福音書 10章10節)と言われました。この悪霊の勢力が私たちの心の中に、家族に、お隣りに、社会に入ってきて、これが私たちに、盗んだり、殺したり、滅亡させたりする働きをするのです。私たちの牧者であられるイエス様は、この悪霊から私たちを保護して下さいます。

汚れた霊、悪い霊、偽りの霊、占いの霊、弱くする霊、各種の病気の霊…、あらゆる悪霊たちが群がり蠢(うごめ)いていますが、これらが来て、私たちにくっつき、私たちを苦しめようとする時、私たちの主イエス様は来られて、この悪霊の仕業から私たちを守って下さり、解放して下さるのです。

ダビデが、その父の為に羊の群れを飼っている時、羊を取って食べようと獅子や熊が襲って来ました。その時ダビデが、逃げ出さずに獅子や熊に立ち向かい、あるいはその後を追って出て、獅子や熊の口から羊を救い出し、保護しました。羊は私たちのことであり、ダビデはイエス様を象徴します。

イエス様は私たちを守るだけでなく、私たちがサタンに捕らわれるとか、憑かれた時には、それらから私たちを救い出して下さり、解放させて下さいます。羊の為に、私たちの主は戦われます。敵が襲ってきたといって、捨てて逃げるのでなく、敵の前で、私たちの為にご馳走をととのえて下さり、私たちに力を増し加えて下さいます。私たちが悪霊から攻撃を受け、試みられ、苦しめられる時、主が来られて、私たちに御言葉を与えて下さり、聖霊を与えて下さり、お恵みと、勇気と、力を与えて下さって、私たちを強い者にして下さるのです。

そして私たちの牧者は、私たちの為におん自ら戦って下さいます。イスラエルの民たちが紅海の海辺に来て、進退両難に陥りました。後ろからはエジプトの軍隊が攻め寄せて、目の前は紅海で行く道がありません。彼らは、挫折と絶望に瀕して身悶えしました。その時、モーセは言いました。『恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。』(出エジプト記 14章13節) 神様がおん自ら戦われました。神様が紅海の海水を分けられて、イスラエルを渡って行くようにし、エジプトの軍隊には海水がもとに戻るようにして、全軍勢が溺死するようになさいました。主はこんにちも、私たちの為に戦われる神様です。

「ヨハネの福音書 10章28節〜29節」は、『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、又、誰もわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。誰もわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。』と記しています。

私たちが自ら、主に背かない限り、主は絶対に私たちを奪われたりはしません。そして、私たちを憐れんで下さり、いつも私たちの荷を代わりに担って下さる主は、従順と信仰と献身のくびきの下に入って来なさい、と言っておられるのです。

私たちが、主に従順に聞き従い、信じ、そして献身して仕えれば、主が毎日、私たちの重荷を負って下さるのです。「詩篇 55篇22節」には、『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』 「箴言 3章 5節〜6節」には、『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』と記されています。

主を信じる人も一般の人と同じく、暮らしながらすべての試練と苦難の過程を通り過ぎますが、違うことは、主が牧者としていつも共に居られるという事実です。主は、全能であられる牧者、愛であられる牧者、良い牧者として、羊である私たちを責任を持って顧みて下さる牧者なのです。ただ、私たちがしなければならないことは、いつも、私たちの牧者であられる主イエス様に仕え、待ち望み、従順に聞き従い、御言葉を実践しながら暮らして行くことです。




お祈り

全能であられる我が神様! 私たちは牧者がいない野の獣ではありません。神様が親しく私たちを召されて、キリストの緑の牧場に入るようにして下さって有り難うございます。尊い血潮で証印を押して下さり、聖霊で満たして下さって有り難うございます。

私たちの全能なる牧者、良い牧者、無限なる力を持っておられる牧者…。私たちを食べさせて下さり、養育して下さり、顧みられ、守り、導いて下さる、牧者であられる主に感謝します。

世の中が気忙しく、慌ただしく、社会が無秩序であり、生活が貧しく、疲労困憊する時、私たちは荒野に投げ出されているように感じます。冷たい風が吹きまくり、不正腐敗が天を衝き、汚い粉塵が飛び散り…、それでどこに避難場所があるのか、知らない時が多いです。

このような時、牧者であられるイエス様のふところに抱かれるように助けて下さい。イエス様のお助けを待ち望むようにして下さい。イエス様にだけ、拠り頼むように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン!