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「神の義か 人の義か」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 2章 8節〜9節」
2: 8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2: 9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。




神様の御国に昇って行く二つの方法があります。

一番目の方法は、人たちが人類の歴史を通していつも使用した方法です。それは人間の力で天にとどく梯子(はしご)をつくることです。ノアの子孫たちがつくった「バベルの塔」もその中の一つです。人たちは今まで、血と汗の滲む努力で、宗教とか哲学とか修養とか道徳的訓練等を通してがんばってみましたが、天にとどく塔や梯子は完成できず、みな失敗してしまいました。

しかし神様は、天から地に梯子を降ろして下さいます。ヤコブが母の兄ラバンの家に行く途中、日が暮れたので、その所の石を一つ取り、それを枕にして寝る時でありました。ヤコブが夢を見ました。神様の御座がある天から、寝ている自分の頭の近くまで一つの梯子が降ろされてあり、天使たちがその梯子を上り下りしているのが見えました。

この梯子は、人間が努力して作った梯子ではなく、神様が造って降ろして下さったお恵みの梯子であります。私は今日、このお恵みの梯子に関して皆様にお話させて頂き、お恵みを分かち合おうと思います。




第一、恵みの故に、信仰によって救われるのです

「恵み」と言う言葉の意味は何でしょうか。恵みは、代価なくただで与える「祝福」を言うのです。私は、私の今までの人生を顧みるとき、この世でお恵みに与かったのが一度や二度ではありません。1958年、神学校を卒業してから行く所がありませんでした。どこに行って、どのように教会を開拓すれば良いものか、皆目見当がつかないまま、ぼやーっと空だけを見上げていました。

その時、崔子実牧師先生が私を「同役者」(協同牧会者)として呼んで下さいました。そこで3年の間「牧会」しながら、600余名の聖徒さんを得ました。それが、お恵みです。私の力量でできたのではありません。神様が値なく、祝福を施して下さったのです。

その次に、ジョン・ホストン牧師先生です。1961年度に、アメリカで募金したお金でソウルの西大門にある大きな建物を手に入れてから、私を「同役者」として招いて下さいました。その当時、西大門の大通りに建物を建てて牧会をすると言う事は、想像もつかない事です。びた一文もない素寒貧が、どのようにして西大門に進出する事が出来るでしょうか。私は、経済的に何等苦労する事もなく、立派に建てられた教会に入って牧会をし、1974年度までに約1万2〜3千名の聖徒が出席する教会に成長するようになりました。勿論、背後で神様が主管して下さったお陰ですが、ジョン・ホストン牧師先生が私に施して下さった恵みを忘れる事ができません。

このように恵みと言うのは、この地に暮らしながら自分の力では到底成すことができないのに、値なく祝福して頂いて、成就することができるのを言うのです。恵みと言うのをギリシヤ語では「カリス」と言います。ギリシヤ人たちは、美しい景色を見て感嘆するときに「カリス」と言います。又は、素晴らしい音楽を聴いて心に感動し、それで嬉しい時に「カリス」と言います。それだけでなく、とても立派な行為、社会に大いなる功徳をたてたので偉いと感激した時に「カリス」と言います。見る目にも麗しく、聞く耳にも慕わしく、一緒に居るだけで徳が高く人望があると感じられる、このような姿を見た時に「恵まれた」と言うのです。

主は十字架を通して、値なく私たちに救いを与えて下さいました。私たちは罪を犯し、不義を働き、醜悪ですので、捨てられてしかるべき存在です。私たちは、罪の中で自ら体を聖潔にする事ができず、罪のくびきから自分の力では絶対に抜け出ることができません。いくら律法を守ろうとしても、守られません。いくら倫理・道徳的な暮らしをしようとしても、いつも偽りでいっぱいです。罪を清算しようとしていくら努力しても、人間の力では罪を清算することができません。聖書は、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、』(ローマ人への手紙 3章23節)と記しています。

ところが、イエス様が私たちに代わって十字架に上られて、体を裂き、血を流して、苛酷極(きわ)まりない苦痛に会いながら、私たちの罪を清算して下さいました。このお恵みは、言葉では表現することができません。聖書を見ますと、『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(ローマ人への手紙 3章24節)と記しています。代価を払うことなく、素手であるそのまま、愚かであるそのまま、ただイエス様を救い主として受け入れる時、私たちの一生の罪が清算され、義とされて、神様の前に恥じらうことなく、悪魔の讒訴を全然受けたことがない、そのような資格を得るようになると言うことは、言葉では言い尽くせないお恵みなのです。

これは、老若男女、貧富貴賎…区別なく、信じる者には値も代価もなく、誰にでも主が与えて下さるお恵みです。お恵みは、私たちを変化させる偉大な力を持っています。それで、イエス様を信じてから、大酒飲みの酔っ払いが変化されて「聖潔な暮らし」をする、泥棒が変化されて汗を流して稼いだお金で「他人を助ける人」になる、麻薬中毒者が変化されて「伝道者」になる、放蕩しながら家庭を顧みなかった人が「立派な夫」「賢明な妻」に、放縦な者が戻ってきて「孝行者」になるのを私たちは多く見て参りました。イエス様を信じて恵みが臨んだら、私たちを変化させる偉大な奇跡が起こります。

ところが、この神様のお恵みは、ただ「信仰によって臨む」と聖書に記されています。「信仰」とは何でしょうか? 神様のお恵みを「そのまま」受け入れることを言うのです。皆さん、いくら信仰で受け入れようとしても、お恵みに無関心な人たちがいます。神様がお恵みを施して下さったのにも、お恵みに対して何の関心も傾けません。「コリント人への手紙 第二 6章 1節〜2節」に、『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』と記されています。

「ローマ人への手紙 5章 2節」には、『またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。』と記されています。お恵みを頂いた人は、神様の栄光を望んで大いに喜びます。お恵みを頂いた私たちは、希望を持って喜び、楽しく、期待感に満ち溢れた暮らしを営んで行くことができるのです。




第二、救いは、神様からの賜物です

この救いは、私たちが自分で努力し、働いて、自分の中から生産して所有するものではありません。「神からの賜物」であると言われました。人間は宗教と哲学をつくりましたけれども、救いは造ることができません。この賜物は、自分が「受ける価値がある」ので貰うのではありません。与える方が願われるので与えられるものです。聖書は、『神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』(ローマ人への手紙 9章15節〜16節)と記しています。

私は、神様の賜物によって変化を受けた偉大な人物を一人、いつも心の中に保っております。その人はイギリスの司祭であった「ジョン・ニュートン」です。彼は偉大な福音伝道者であり、讃美歌の作家でありました。彼の父は船長、母は敬虔な信者でありました。彼の母は、独り息子である「ジョン・ニュートン」を生むや、立派な主のしもべになるようにして下さい、と熱心に祈り、教え、そして夜昼祈祷を捧げました。

しかし、ニュートンが七歳の時に母が亡くなり、彼は我が侭に育ちました。3年後には学校もやめて、11歳の時、父親所有の奴隷船に乗り込んで船乗り生活を始め、とても性格が荒い船員になりました。ついにはイギリス海軍に入隊しましたが、脱営し、直ぐに捕らえられて、アフリカの奴隷狩りをするようになりました。

年22歳の時、イギリスに行く船の中で彼は、人生の高貴な体験をする機会に会いました。北大西洋で荒れ狂う暴風と怒涛に遭い、船がほとんど沈みかけた時でありました。ニュートンはその時、母の祈りを思い出しました。彼は、いつもポケットの中にしまい込んでいた聖書を取り出して、「私のお母さんの神様! 私のすべての罪を赦して下さい。そして私に一回、機会を与えて下さい。私をこの死の海から助けて下さったら、私の一生を主に捧げます…。」と一心に祈りました。しかし死の海から救われるや、神様に祈ったことを忘れてしまい、30歳の時まで奴隷狩りで捉えた奴隷をアメリカへ持って行って売る商売を続けました。

そうするうち、30歳になってから彼は良心の呵責と苦悩に堪えられなくなり、33歳にイギリスの司祭となりました。そして54歳になって、彼は一つの教区の牧師になり、末年に「奴隷売買制度廃止」を主張するキャンペーンの先導的役割をしました。一方、彼は数多い賛美の詩を作りました。その代表的なのが、「驚くばかりの恵みなりき、この身の汚れを知れる我に。恵みは我が身の恐れを消し、まかする心を起こさせたり。危険をもわなをも避け得たるは、恵みのみわざと言うほかなし。御国につくあさいよよ高く、恵みの御神をたたえまつらん…。」と言う恵みの詩です。

年老いてからニュートンは、「私の記憶力はもう衰退した。しかし、二つの事実だけは忘れることができない。一つは、私は大きな罪人であったこと。それからもう一つは、キリストの偉大なお恵みによって罪から救われたことである…。」と告白しました。

そして、彼は「天の御国に行けば、三つの驚くべき現象を見るようになるであろう。第1は、間違いなく来ていると思った人たちが、殆ど来ていないことに驚き、第2は、天の御国の玄関前にも行くことができないと思われた人たちが、神様のお恵みによって来ていることに驚く。そして第3番目には、私のような人間がここ天の御国に来ているとは…、と知って驚くようになる。」と言いました。

非情で残忍極まりない奴隷商人であったニュートンが悔い改めて立ち返った時、神様は彼に救いを賜物として与えられたのです。「エペソ人への手紙 2章 4節〜7節」に、『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。』と記されてあります。賜物を下さったら、「有難うございます!」と即座に受け入れなければなりません。

「詩篇 50篇23節」に、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と記されています。私たちが感謝する心で賜物を受け入れれば、神様は私たちに賜物とお恵みをもっとたくさん施して下さいます。




第三、救いは、行いによるのではありません

インド南部に、真珠を採る老人がおりました。真珠を採りながら生活し、息子を育てました。この息子は、老人のいのちのように貴重な存在でありました。息子は口癖のように、「私が世界で一番大きい真珠を採って、お父さんを幸福にして上げる…。」といつも言っていました。ある日、息子が多くの人たちが見ている中で深い海の中に飛び込みました。2分が過ぎ、5分が過ぎ、10分が過ぎても浮き上がって来ません。真珠の貝を採ろうとしてあまり深い所に入ったので、窒息してしまったのです。

長い時間が過ぎてから、死体となって浮かび上がってきたその青年は、口に大きな貝をくわえておりました。その貝から真珠を取り出したところ、それは世界で一番大きい真珠でありました。老人は泣きながら、その息子の死体を火葬しました。そしてその真珠は、絹に包み、いつも懐に保管して暮らしました。そのうち老人は、自分の生涯をヒマラヤ山に行って終えようと決心しました。

老人は、宣教師夫婦を訪ねて行きました。そして「今から、贖罪の為にヒマラヤ山に行きます。息子が採った真珠をどうしたものかと思い巡らしましたが、今まで愛を施して下さった貴方たち、宣教師様ご夫妻に贈り物として差し上げることに決めました。受け取って下さい…。」と言って、真珠を差し出しました。 宣教師が受け取って開いてみると、凄く大きな真珠がありました。宣教師夫妻は驚いたあまり、財布を取り出していくらかのお金を差し出そうとしました。ところがその老人が怒りました。「貴方たちは、私が息子のいのちをいくらかのお金で売るとでも思いますか? とんでもない。貴方が私に色々と恵んでくれたので、贈り物としてこの真珠を上げようと思っただけです…。」

その時、気がついた宣教師が言いました。「ご老人さん。私の言うことを聞いて下さい。貴方は救いを受けるが為に、地を這ってヒマラヤ山に上り、血を流したその代価として救いを受けようとしておられますが、神様が果たして救って下さると思いますか? お息子さんのいのちの代価が余りにも大きいから、贈り物としては上げることができても、売ることはできないと怒ったあなたのように、神様も、その御子イエス様が十字架に釘付けにされて体を裂き、血を流して、贖って下さった救いを、何らかの代価を貰って与えるようなことはなさいません…。」

老人は、その時になって悟りました。自分の息子のいのちも、お金を貰って売ることはできないのに、神様の御子の死を通して得る「救い」を、自分がどんなにして買うことができるだろうか…? 結局、老人はその場で涙を流し、イエス様を救い主と信じて、値なく救いを受けたと言います。

まさしく、ユダヤ人たちが大きく失敗した理由がそこにあります。神様がイエス様を遣わされて、私たちに代価なく救いを与えようと願っておられるのに、ユダヤ人たちは、自分たちが行ないによって、代価を払って買おうとするので、神様から見捨てられたのです。値なく与えて下さるものを、執拗に代価を払って買おうとするから、彼らを棄てて、値なく受け入れることに従順に聞き従う異邦人を、神様はその子として下さいました。

「ローマ人への手紙 10章 2節〜3節」を見ますと、『私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。』と記されてあります。まさしく、ユダヤ人たちの姿です。自分の義を立てようとして、神様の義を拒みました。その結果に依って捨てられたのです。

「テモテへの手紙 第二 1章 9節」は、『神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、』と記しています。人たちは神様のお考えよりは、自分の考えをもっと強く主張します。神様の知恵を、自分の知恵だと錯覚します。甚だしくは、神様のみわざに対して、人間の知識で敵対します。

しかし、人間のいかなる熱心も、神様の義、神様のお考え、神様の知恵、神様のみわざによらないことには、何事も成すことができません。

人とは何でしょう? 塵芥にも劣る人間がどんなにして、神様がなさることに対して、「こうせよ!」「ああせよ!」批評したり、あれこれと判断することができるでしょうか? 神様が下さる「義」の代わりに、自分の「義」をなぜ表に出そうとするのでしょうか? 「ヨハネの福音書 3章16節」に、『神は、実に、そのひとり子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ為である。』と記されています。老若男女・貧富貴賎…誰彼を問わずに、信じるだけで救われます。唯信じるだけで救われるのです。

「エペソ人への手紙 2章 8節〜9節」は、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』と記しています。私たちに救いを与えて下さった神様を誇り、私たちを救うがために、十字架で体を裂き、血を流されながら苦難に会われたイエス・キリストだけを誇り、人である自分は、誇ってはいけないのです。ただ謙虚に生きていきながら、イエス様を救い主として受け入れ、救われて、永遠に神様に感謝し、賛美しながら、神様と共に暮らして下さいますよう、祈願致します。




お祈り

聖く、栄光であられる天のお父さま! 神様が私たちに施して下さった、その大いなるお恵みと救いの賜物にただただ感謝申し上げます。

天のお父さま、私たちには、何かを遂行する力は全くありません。しかし、神様は、私たちをお叱りになることもなく、私たちに対して怒ることもなく、赦しと、愛と、救いを賜物として与えて下さいました。有難うございます。誰でも、主の御名を呼ばわる者は救われます。

この福音を、すべてのお隣りの人たちと全世界に伝えて、世界を福音化することができるように助けて下さい。人が、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人は一体何を差し出せばよいでしょうか。

神様が両手を差し伸べて、「あなたを救おう」と仰せられる時、信仰を持って主のふところに抱かれるように導いて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!